第41話「呼」
二回目の接触は、タイムリミットの八日目に来た。
転移先は森林。密度の高い木の群れ。前回の岩場ではなかった。でも足裏の感覚は前回より鮮明だった。訓練の成果なのか、体の変容が進んでいるのか、あるいはその両方か。
岸本と二人。手を繋いだまま森に入った。
木の根元で靴を脱いだ。裸足を地面につけた。泥だった。岩のときとは感触が違う。泥は信号を吸収する。ノイズが多い。でも前回で感覚の広げ方を覚えていた。
範囲を広げた。一キロ。三キロ。五キロ。泥越しでも五キロまで届くようになっていた。
あの信号を探した。
あった。前回と同じ方向。複数のリズムが交互に鳴っている。今日は三つ。前回は四つだった。数が変わっている。別の個体が入れ替わったのか。
足裏に力を込めた。「ここにいる」を送った。
前回と同じことが起きた。三つのリズムが同時に止まった。沈黙。三秒。五秒。
返事が来た。
前回とは違った。前回は短いパターンの繰り返しだった。今回は長かった。複雑だった。リズムの中に変化があって、強弱があって、途中で間が入った。
何かを伝えようとしている。
意味はわからなかった。でも「前回と違う返事をしてきた」ということ自体が情報だった。向こうも学習している。俺の信号に対する応答を変えてきた。
鼻血が右から出た。左はまだ。前回より少し持つようになっている。
靴を履き直して、帰還した。
三回目の接触は、タイムリミットの十五日目。
転移先は平原。開けた場所。赤黒い大地に、遠くの木の群れが霞んで見える。灰色の空。紫の筋が前より濃くなっている気がした。あの異変がさらに進んでいる。
岸本と二人。今回は岸本が周囲を警戒し、俺は接触に集中する分担にした。
靴を脱いだ。裸足を大地につけた。平原の土は森の泥よりましだったが、岩ほどクリアではなかった。
範囲を広げた。一キロ。三キロ。五キロ。七キロ。
七キロ。前回より二キロ伸びた。
あの信号。今日は五つのリズムが重なっていた。三つ、四つ、五つ。毎回数が違う。でも場所は同じ方向だった。
足裏に力を込めた。「ここにいる」を送った。
三回目ともなると、向こうの反応が速かった。
五つのリズムが止まるまで一秒もなかった。すぐに返事が来た。前回より長い。前回より複雑。リズムの中にパターンの繰り返しがあって、そのパターンが少しずつ変化していく。
そして——返事の中に、方向があった。
足裏に、引力が来た。
あの夢で感じた感覚と同じだった。地脈の奥から引っ張られる感覚。「来い」。声ではない。言葉でもない。でも方向がある。そっちに来い、と地面が言っている。
夢ではなかった。覚醒時に、はっきりと、方向が示された。
北東——ではない。あの世界に方角はない。でも足裏にはわかった。あっちだ。振動パターンが来る方向。五つのリズムがいる場所。そこに来い、と。
頭が痛くなった。鼻血が両方から出た。限界が近い。
でも一つだけ試した。
「行く」を送った。
「ここにいる」ではなく、「行く」。方向がわかった。そっちに向かう意志がある。それを足裏から地面に押し込んだ。
向こうが応答した。
短いパターン。一回だけ。繰り返さなかった。
了解なのか、待っているのか。意味はわからなかった。でも、応答があった。
「佐倉さん。鼻血がひどいです。戻りましょう」
岸本の手が俺の肩にあった。冷たい手。いつも冷たいのに、今は温かく感じた。頭が朦朧としている。
靴を履いた。岸本の手を握った。足元がぶよぶよした。
園田に報告した。三回の接触の変化。一回目は短い返事。二回目は長く複雑な返事。三回目は方向の提示と「来い」の引力。そして俺が「行く」を送ったこと。
園田が長い間黙っていた。
「佐倉さん。向こうはあなたを招いています」
「招いている」
「一回目は確認。二回目は調査。三回目は招待。段階を踏んでいます。——向こうにも手順がある。こちらを調べて、判断して、呼んでいる」
「罠じゃないですか」
「罠かもしれません。でも罠なら、もっと早く攻撃が来ているはずです。三回も確認するのは——慎重な存在です。慎重で、手順がある。それは知性の証拠です」
園田がホワイトボードの地図に矢印を描き加えた。悠が感じた「方向」。岩場から見て、森の向こう、平原を越えた先。
「ここに、魔族がいます。佐倉さんを呼んでいる」
その翌日、椎名から連絡が来た。
今度は電話ではなかった。施設に直接来た。スーツではなく、コートを着ていた。顔が疲れていた。椎名の顔に疲れが出るのを見たのは初めてだった。
「名前が割れました」
椎名の声は平坦だった。でも目が違っていた。
「佐倉悠。二十三歳。元会社員。現在は防衛省特別職。——ここまでアメリカが掴んでいます」
「どこから」
「在日米軍の情報部が、S案件関係者の人事異動を追った。民間人から特別職への異例の任官。そこから芋づる式に。——AIが人事データベースを解析したんでしょう。人間なら気づかない異常値をAIは拾う」
俺の名前。俺の年齢。俺の経歴。全部知られた。
「椎名さん。まだ抑えられますか」
「名前が割れた時点で、抑えるフェーズは終わりです。ここからは交渉のフェーズです」
椎名が俺を見た。あの目。何を見ても顔色を変えないはずの目が、今日は少しだけ濁っていた。
「佐倉さん。そろそろ決断が必要です」
高梨の部屋。高梨と赤城と園田と俺。椎名はモニター越し。
「状況を整理します」と椎名が言った。「アメリカは佐倉さんの名前と経歴を特定しました。正式照会の回答期限まで十五日。ただし回答を待たずに非公式な接触が始まっています。在日米軍から私に対して、直接の面会要請が来ました」
「面会要請の内容は」
「『S案件について情報交換をしたい。佐倉悠氏との面談を希望する』」
部屋が静かになった。
高梨が口を開いた。
「このまま日本単独で続けるか、アメリカを受け入れるか。——どちらにしても痛みがある。単独なら時間切れで押し切られる。受け入れれば佐倉さんの立場が危うくなる」
赤城が言いかけた。「現状の戦力では——」
「わかっています」と園田が遮った。珍しかった。園田が人の言葉を遮るのは。「日本単独では足りない。ベースキャンプが証明した。でも佐倉さんがあちら側の魔族と接触を始めている。これを進めるには、もっと長い滞在時間が必要です。今の数分間の転移では限界がある」
岸本が部屋の隅に立っていた。何も言わなかった。ただ俺を見ていた。
全員が俺を見た。
「俺の意見を聞いてるんですか」
「はい」と高梨が言った。「あなたは当事者であり、S案件の中心であり、今は自衛官です。意見を述べてください」
自衛官。三等陸尉。佐倉悠。半年前にはただの会社員だった人間が、国際交渉の条件を出す立場にいる。
テーブルの上の真鍋の靴が目に入った。今の戦力では足りない。真鍋が死んだ。町田が壊れた。これ以上同じことを繰り返すわけにはいかない。
「アメリカを入れます」
全員が黙った。
「ただし条件があります」
高梨の目が細くなった。
「俺が主導します。あの世界との窓口は俺です。魔族と接触できるのは俺だけです。アメリカが物資と人員を出すなら受け入れる。でもあちら側での判断は俺がする。俺を通さない限り、あの世界には一歩も入れない」
部屋が静かだった。
椎名がモニターの向こうで言った。
「佐倉さん。それは、アメリカに対して『俺がいないと何もできない』と突きつけるということです」
「はい」
「通るかどうかはわかりません。でも——交渉の出発点としては悪くない」
高梨が頷いた。赤城が頷いた。園田がメガネを拭いた。岸本は部屋の隅で、小さく頷いた。
「進めましょう」と椎名が言った。「回答期限まで十五日。その間に、佐倉さんは魔族との接触をもう一段階進めてください。アメリカとの交渉の席で、実績が最大の武器になります」
実績。あの世界の魔族と通信できた。方向を示された。「行く」と送った。向こうが応答した。これが実績。
十五日。あと十五日で、俺はどこまで行けるだろう。
テーブルの上を見た。四つの遺品。
真鍋の靴が、窓から差し込む光の中にあった。
真鍋が言った。俺自身を強くしろと。強くなった。少しだけ。でもまだ足りない。
あの世界の魔族が呼んでいる。アメリカが来る。時間がない。
足裏がじんじんしていた。あっちに行け、と。




