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魔界世界  作者: 彗
作戦

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40/57

第40話「触」


 訓練は三週目に入っていた。


 朝五時の五キロ走が、止まらずに走り切れるようになった。赤城が初めて口を開いた。「ペースを上げます」と。翌日から七キロになった。


 射撃は五発中四発。高梨が「まあまあですね」と言った。高梨の「まあまあ」は褒め言葉だった。


 岸本のロープワークは体に染みつき始めていた。もやい結びが三秒で結べる。岸本が「合格です」と言った。初めて岸本が合否を言った。


 園田の講義は魔物の行動パターンから、あの世界の地形の推測に移っていた。


 「佐倉さんが足裏で感じた情報を総合すると、あの世界の地形はこうなります」


 園田がホワイトボードに描いた。森林帯、平原、河川、岩場。悠が転移するたびに感じた地脈の方向と地形の断片を繋ぎ合わせて、粗い地図ができ始めていた。


 「地脈の筋が全部同じ方向に流れているのは、あの異変が始まってからです。流れの先に何かがある。そしてその方向に、前回の岩場で佐倉さんが感じた振動パターンがある」


 「魔族の通信」


 「そう呼んでいいと思います。地面を使って意図的に信号を送っている存在がいる。次の転移では、その信号にもっと近づいてみてください。——それと」


 園田がペンを置いた。


 「試してほしいことがあります。こちらから信号を送ってみてください」


 「俺から?」


 「佐倉さんは前に、地面を止めたことがありますよね。足裏で地脈に働きかけて、動きを止めた。あれは受信ではなく発信です。あなたの足裏は双方向に繋がっている」


 日下部を救出したときのことだった。地面が罠みたいに動いて、俺が足裏に力を込めて止めた。あのときは必死だった。意図的にやったのではなく、体が勝手に動いた。


 「あれを意図的にやれと」


 「はい。地面に信号を送る。あの世界の魔族がやっているのと同じことを、佐倉さんがやる。——向こうがどう反応するかはわかりません。でもやってみる価値はあります」


 「危険じゃないですか」


 「危険です。向こうがこちらに気づく可能性がある。でも——」


 園田がメガネを押し上げた。


 「気づかれずに済む段階はもう過ぎていると思います。佐倉さんが前回あの信号を感じたとき、向こうも佐倉さんの存在を感じている可能性がある。地脈は双方向ですから。——それなら、こちらから動いた方がいい」


 転移は翌日来た。訓練開始から十七日目。


 岸本と二人。手を繋いだ。足元がぶよぶよした。


 岩場だった。前回と似た場所。赤黒い岩、蒸気、鋭い匂い。


 足裏に意識を集中した。地脈の筋。方向は揃ったまま。脅威は近くにいない。岩の隙間に小さなものがいるが、前回と同じで攻撃してこない。


 前回はここから感覚を広げて、数キロ先の振動パターンを感じた。今回はもっと先に行く。


 「岸本さん。少し時間をください。足裏に集中します。動かないでください」


 「了解です」


 岩の上に座った。靴を脱いだ。靴下も。あの世界の岩に、足裏を直接つけた。


 冷たかった。岩は冷たいはずなのに、足裏の痕に触れた瞬間、熱が走った。痕が反応している。岩の亀裂を通じて、地脈の信号がダイレクトに入ってくる。靴越しとは桁が違った。


 範囲を広げた。一キロ。二キロ。五キロ。前回より遠くまで感じられた。岩場の向こうの森、平原、川。前回と同じ地形が広がっている。


 あの振動パターンを探した。


 あった。


 前回と同じ方向。同じリズム。ただし前回より情報量が多い。裸足で岩に直接触れているから、ノイズが少ない。パターンの細部が見え始めた。


 一つのリズムではなかった。複数のリズムが重なっていた。二つ。三つ。四つ。それぞれが微妙に違うパターンで、交互に鳴っている。


 会話だった。


 何者かが複数いて、地面を通じて会話している。


 心臓が速くなった。鼻の奥がつんとした。前回の鼻血の前兆で、あまり長くはもたない。


 やるなら今だった。


 園田が言った通りにやってみた。足裏に意識を集中して、地面に力を込めた。日下部を救出したときの感覚を思い出した。あのとき、地面を「止めた」。地脈の動きに干渉した。


 今度は止めるのではなく、送る。


 何を送ればいいかわからなかった。言葉はない。意味もない。ただ、「ここにいる」ということだけを、足裏から地面に押し込んだ。


 一瞬の沈黙。


 振動パターンが止まった。


 あちら側の会話が、止まった。


 四つのリズムが全部同時に止まった。何キロも先で、複数の何者かが同時に黙った。


 三秒。五秒。


 新しいパターンが来た。


 今までの会話とは違った。一つのリズムだけ。短い。繰り返し。こちらに向かって。


 足裏が震えた。あの夜の夢で感じた「呼ばれている」感覚と同じだった。でも夢よりずっと強い。ずっとはっきりしている。


 向こうが俺に気づいた。


 俺が信号を送って、向こうの会話が止まって、向こうが俺の方に向けて信号を返してきた。


 その信号に意味があるのかどうかはわからなかった。言葉なのか、警告なのか、ただの反応なのか。でも一つだけわかったことがあった。


 向こうは俺を認識した。


 「佐倉さん!」


 岸本の声。遠い。耳が遠くなっている。集中しすぎた。


 鼻血が出ていた。今度は両方の鼻から。岩の上にぽたぽた落ちた。


 「大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。頭が割れそうに痛かった。でも目は開いていた。


 「岸本さん。向こうが返事をしました」


 「返事?」


 「俺が地面に信号を送ったら、向こうの会話が止まって、俺に向けて信号を返してきた。向こうは俺を認識した」


 岸本が俺を見ていた。大きな目が、いつもより大きく開いていた。


 「佐倉さん。それは——」


 「わかりません。でも、あの世界に俺たちのことを認識できる何かがいます。考えて、会話して、こちらの信号に反応する何かが」


 靴を履き直した。手が震えていた。鼻血が止まらない。岸本がポケットからティッシュを出してくれた。丁寧に。この人はいつも丁寧だった。


 足裏がずきんと痛んだ。帰還の兆候。


 岸本の手を握った。足元がぶよぶよした。


 部屋の床。二人。


 園田に報告した。裸足で岩に触れたこと。感知範囲がさらに広がったこと。振動パターンが複数で、会話だったこと。信号を送ったこと。向こうが止まったこと。返事が来たこと。


 園田は報告を聞いている間、一度もメモを取らなかった。ただ聞いていた。


 報告が終わったとき、園田が言った。


 「佐倉さん。あなたは今、あの世界の魔族と、最初の接触をした可能性があります」


 最初の接触。


 「構造物を見つけたのが痕跡の発見。夢で何かに見られたのが一方的な検知。今回は、あなたから信号を送って、向こうが応答した。これは接触です。人類史上初めてかもしれない」


 園田の声が震えていた。この人の声が震えるのを聞いたのは初めてだった。


 「次に行ったとき、もう一度やってください。今度はもっと長く。もっと複雑な信号を。向こうがどう反応するかを記録したい」


 「園田さん。向こうが敵対的だったらどうするんですか」


 「わかりません。でも——敵対的なら、もう攻撃が来ているはずです。返事を返してきたということは、少なくとも拒絶ではない」


 拒絶ではないと園田は言った。攻撃でもないと。何なのかは、まだ誰にもわからなかった。


 その夜、椎名から電話が来た。


 「佐倉さん。状況が動きました」


 椎名の声がいつもより硬かった。


 「アメリカの専門チームから、日本政府に正式な照会が来ました。外交ルートです。非公式ではなく、公式の照会です」


 「何て」


 「『日本政府が管理する異次元接続事案について、安全保障上の観点から情報共有を求める』。——外交文書の形式です。これに対して日本政府は回答しなければならない」


 「回答って。認めるんですか」


 「否定も肯定もしない回答を準備しています。ただ、照会が来た時点で、向こうはほぼ確信している。AIの分析精度が高い。断片的な情報から全体像を組み上げている」


 「時間はどれくらいありますか」


 「回答期限は三十日。ただし、回答を待たずに動いてくる可能性がある。在日米軍の動きが変わっています。横田基地に分析チームが入った形跡がある」


 三十日。もしくはそれ以下。


 「椎名さん。俺、今日あの世界で魔族と接触しました」


 椎名が黙った。この人が黙るのは珍しかった。


 「接触。それは——直接会ったということですか」


 「会ってはいない。地面を通じて信号を送ったら、向こうが返事をした。俺を認識した」


 「……佐倉さん。それをアメリカに知られたら、あなたの価値が跳ね上がります。門を開けるだけの人間ではなく、あちら側の魔族と通信できる人間。——アメリカは何としてでもあなたを手に入れようとする」


 「だから急ぐんです。アメリカが来る前に、俺があの世界ともっと繋がる必要がある。俺が先に関係を作れば、アメリカが来ても俺を外せなくなる」


 椎名が三秒黙った。


 「佐倉さん。半年前とは別人ですね」


 高梨が同じことを言った。真鍋が同じことを言った。今度は椎名が。


 「別人じゃないです。ただ——もう増やしたくないだけです」


 「増やす?」


 「テーブルの上のものを」


 椎名はそれ以上聞かなかった。


 「三十日以内に、できることを全部やりましょう。私は外交を抑えます。あなたはあの世界を」


 電話が切れた。


 テーブルの上を見た。四つの遺品。


 三十日。


 その間に、俺はあの世界の魔族と話せるようになれるだろうか。地面を通じて。足裏で。人間の言葉ではない何かで。


 できるかどうかはわからなかった。でもやるしかなかった。


 足裏がじんじんしていた。あちら側が、まだこっちを見ている気がした。

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