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魔界世界  作者: 彗
作戦

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39/56

第39話「鍛」


 任官の手続きは三日で終わった。


 椎名が動いた。防衛省の人事に話を通し、S案件に関わる特別職として悠を自衛隊に任官させる枠を作った。階級は三等陸尉。幹部の最下級。形式上は高梨の指揮下に入る。


 制服が届いた。着た。鏡を見た。


 半年前にエクセルを叩いていた人間が、制服を着ている。似合っているかどうかはわからなかった。でもこれは仮装ではなかった。真鍋が死にかけながら考えたことの結果だった。


 制服を着たまま、高梨の部屋に行った。高梨はもう車椅子ではなく、杖で歩いていた。


 「高梨さん。お願いがあります」


 「何ですか」


 テーブルの上にノートを置いた。昨夜一晩かけて書いたもの。


 高梨がノートを開いた。眉が動いた。


 「これは」


 「俺に足りないものの一覧です。身につけたいことを全部書きました」


 ノートには悠の字で、項目が並んでいた。体力。射撃。ロープワーク。応急手当。サバイバル全般。あの世界の知識。英語。安全保障の基礎。——まだ続いていた。


 最後の行に、こう書いてあった。


 「足裏の能力の限界を知る。限界を超える」


 高梨がノートを閉じた。


 「全部やるんですか」


 「全部やります。真鍋さんが言ったんです。俺自身を強くしろと。人を送り込んで死なせるんじゃなくて。——だから全部やります。どんなにきつくても」


 高梨が俺を見た。長い間。


 「佐倉さん。自衛隊の訓練は、あなたが想像しているよりきついですよ」


 「知ってます」


 「知らないと思います。——でもいい。やりましょう」


 高梨が杖をテーブルに立てかけた。


 「身体訓練は赤城さんが担当します。赤城さんは元教育隊の教官です。容赦がない人間ですが、あなたはもう知っていますね」


 赤城が教官。あの赤城が。容赦がないのは知っている。


 「射撃と装備は私が見ます。肋骨はもう動ける。——ロープワークとサバイバルは、岸本が適任です。あの子は山岳レンジャー課程を修了しています」


 岸本が。あの寡黙で丁寧な岸本が、山岳レンジャーだったのか。


 「科学的な知識と、足裏の訓練は——」


 「園田さんにお願いします。もう話してあります」


 高梨が少し驚いた顔をした。


 「園田さんに先に話したんですか」


 「はい。昨夜、ノートを書く前に」


 園田には昨夜のうちに電話していた。朝の三時。園田は起きていた。日下部のデータを見ていた。


 「園田さん。俺の体に起きていることを、全部教えてください。足裏の能力を伸ばすために何をすればいいか、一緒に考えてほしいんです」


 園田は五秒黙った。それから言った。


 「待ってました」


 待ってました。園田はずっと待っていた。悠が自分から言い出すのを。科学者は押しつけない。対象が自ら動くまで待つ。園田はそういう人間だった。


 訓練が始まった。


 朝五時。起床。走る。施設の周囲を五キロ。赤城が隣を走った。最初の日は三キロで膝が笑った。赤城は何も言わなかった。ただ隣を走り続けた。


 走った後に筋力トレーニング。腕立て、腹筋、スクワット、背筋、体幹。全部が足りなかった。全部が弱かった。赤城のメニューは容赦がなかったが、壊れるほどではなかった。ぎりぎり壊れない線を赤城は知っていた。


 午前中は園田の講義だった。


 「瘴気の正体は三つあります」と園田は言った。「あの世界の空気は酸素が濃くて、吸うと最初は頭がすっきりする。でも長時間吸うと肺が炎症を起こす。二つ目に、空気中に未知の胞子が充満している。これが肺に入って体を蝕む。日下部さんの首の痕も、町田さんの足裏の痕も、この胞子が引き起こしたものです。三つ目は——佐倉さん、あなたの場合だけ違う」


 「違う」


 「あなたの足裏の痕は、侵食ではなく共生の方向に進んでいる。なぜあなただけが共生方向に進むのかは、まだわかりません。でもこの共生があなたの能力の源です」


 園田がホワイトボードに図を描いた。悠の足裏から広がる網目。あの世界の地面の網目。二つが繋がっている。


 「あなたの足裏はあの世界の地面と接続しています。この接続をもっと広げられれば、感じ取れる範囲が広がる。もっと深く繋がれば、精度が上がる。それを意図的にできるかどうかが、訓練の核心です」


 午後は射撃訓練。高梨が立って見ていた。杖なしで。


 拳銃の構え方。引き金の引き方。呼吸の止め方。的に当たらなかった。五メートル先の的に、五発中一発しか当たらなかった。


 「センスはないですね」と高梨が言った。


 「ないです」


 「でも練習すれば当たるようになります。センスがなくても、反復すれば体が覚えます。——あの世界で拳銃が役に立つかはわかりません。装甲の魔物には効かなかった。でも、撃てるという選択肢があるのとないのとでは違う」


 夕方は岸本とロープワーク。


 岸本の手は相変わらず冷たかった。でもロープを結ぶとき、指が異常に速く動いた。もやい結び、自在結び、プルージック。岸本が一回見せて、悠がやる。できない。もう一回。できない。三回目。少しできた。


 「岸本さん、山岳レンジャーだったんですか」


 「はい」


 「なんで言わなかったんですか」


 「聞かれなかったので」


 岸本はそういう人間だった。聞かれないと言わない。でも聞けば何でも教えてくれた。シェルターの作り方。水の濾過の原理。火の起こし方。あの世界は空気に酸素が濃いから火がよく燃える、燃えすぎる、制御が難しい。


 夜は英語。


 椎名が教材を送ってきた。軍事英語のリスト。briefing、asset、containment、extraction、perimeter。アメリカの軍人と会ったときに最低限必要な単語。


 教材の最後に椎名の手書きのメモがあった。「発音は不問。意思伝達ができれば十分。ただし”No”は必須」


 Noと言えるように。アメリカに。


 訓練が二週間続いた。


 体が変わり始めていた。五キロ走が楽になった。腕立ての回数が倍になった。射撃は五発中三発当たるようになった。ロープの結び目が手を見なくても結べるようになった。


 園田の講義は毎日続いた。あの世界の魔物の行動パターン。泥の下に隠れて待つやつ、追いかけてくるやつ、群れで囲んでくるやつ。それぞれの対処が違う。


 「群れで囲んでくるやつが一番厄介です。あの魔物はおそらく三回から五回の遭遇で人間の行動パターンを完全に学習します。発煙筒が効かなくなるのに三回。テントの構造を理解するのに二回。——つまり、同じ場所に五回以上いたら対処不能になる」


 「真鍋さんは十二日間いて、何回遭遇しましたか」


 「町田さんの証言では少なくとも四回。四回目でテントの紐を切ろうとしている。五回目があったかは——」


 五回目が、あの血痕だったのかもしれなかった。


 転移は訓練開始から十六日目に来た。


 深夜。足裏が脈打った。今回は岸本と二人で行く。偵察と訓練を兼ねて。岸本の手を握った。冷たい手。


 足元がぶよぶよした。


 岩場だった。


 初めての地形。赤黒い岩が折り重なるように突き出ていて、隙間から蒸気が上がっている。硫黄に似た匂い。瘴気の匂いに混じって、もっと鋭い匂い。地面は硬い。泥ではなく岩。


 足裏に意識を集中した。


 岩越しでも地脈の筋が感じられた。岩の亀裂を通って、信号が伝わってくる。泥地や森とは伝わり方が違う。硬い。シャープ。ノイズが少ない。


 脅威は——近くにいない。岩場は魔物が少ない。隠れる場所が多いが、餌も少ない。大きなやつはここには来ない。


 ただし、岩の隙間に何かが潜んでいる気配はあった。小さいもの。複数。岩場に棲む何か。


 「小さいものがいます。岩の隙間に。大きな脅威はなし」


 「了解です」


 岸本と岩場を歩いた。岸本が慣れた足取りで岩を登った。山岳レンジャーの足だった。悠は何度かつまずいた。でも二週間前より体が動いた。


 園田が言っていた。「岩場に出たら、足裏の感覚を広げてみてください。岩は振動の伝わりが良い。泥より遠くまで感じられるはずです」


 やってみた。


 足裏に意識を集中して、範囲を広げようとした。いつもは数百メートルが限界。その先はぼやける。


 岩の表面に裸足の部分——靴の中で靴下越しだが、足裏の痕がある部分を押しつけた。意識を遠くに飛ばした。


 広がった。


 数百メートルの壁を超えた。一キロ。二キロ。岩場の向こうに森がある。森の向こうに平原がある。平原の奥に——


 川があった。大きな川。前に行った川とは別の。もっと大きい。


 さらに奥。


 振動のパターンが変わる場所があった。


 自然の振動ではなかった。一定のリズム。繰り返されるパターン。地面を通じて、何者かが意図的に信号を送っている。足裏で「聞こえた」。遠くから。何キロも先から。


 意味はわからなかった。でもそれが自然現象ではないことだけはわかった。


 誰かが、地面を使って、何かを伝えている。


 「佐倉さん? 顔色が悪いです」


 岸本の声で意識が戻った。鼻血が出ていた。やりすぎた。


 「大丈夫です。——岸本さん。遠くに何かがあります。何キロも先に。地面を通じて信号を出している何かが」


 「信号?」


 「自然の振動じゃない。パターンがある。繰り返している。——誰かが地面を使って話している」


 岸本が黙った。大きな目が俺を見ていた。


 「魔物ですか」


 「わかりません。でも、考えて信号を出している。意図がある」


 あの群れの魔物とは違う。あいつらは知能で狩りをする。でもこれは狩りの信号じゃなかった。もっと複雑で、もっと長い。何かを伝え合っている。


 足裏がずきんと痛んだ。帰還の兆候。


 岸本の手を握り直した。足元がぶよぶよした。


 部屋の床。二人。


 園田に報告した。岩場での感知範囲の拡大。数キロ先の振動パターン。意図的な信号。


 園田がメガネを外した。拭かなかった。そのまま俺を見ていた。


 「佐倉さん。それは——あの世界の魔族かもしれません」


 「魔族」


 「地面を通じた振動で情報を伝えている知的な存在がいる。その信号をあなたの足裏が拾った。——これは、あの世界の構造物を見つけたときより大きな発見です」


 園田の目が光っていた。この人がこういう目をするのは、本当に重要なことがわかったときだけだった。


 「佐倉さん。あなたの能力は伸びています。訓練の成果です。——次に行ったとき、もう一度あの信号を探してください。方向と距離を特定できれば、あの世界の地図が描ける」


 地図。あの世界の地図。今まで、転移するたびにランダムな場所に落とされるだけだった。地図がなかった。地図があれば、作戦が変わる。


 「やります」


 テーブルの上を見た。四つの遺品。真鍋の靴が一番端にある。


 もう増やさない。そう決めた。


 増やさないために、俺は変わる。変わり始めている。

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