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魔界世界  作者: 彗
作戦

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38/56

第38話「遺」


 転移は三日後に来た。真鍋を降ろしてから二十日。


 一人で行くと決めていた。岸本が「一緒に行きます」と言った。断った。


 「見つけたら手を握って帰ります。見つからなかったら、一人で帰ります。岸本さんを連れて行く意味がない」


 「でも——」


 「お願いします」


 岸本が黙った。大きな目が俺を見ていた。何か言いたそうだったが、頷いた。


 深夜二時。足裏が脈打った。


 誰の手も握らずに立った。右手が空だった。いつも誰かの手を握っていた右手が、何も持っていなかった。


 足元がぶよぶよした。


 開けた場所だった。


 赤黒い大地。灰色の空。紫の筋。前に真鍋と合流したときと似た風景だった。


 似た、ではなかった。


 足裏に意識を集中した。この地面を知っている。前に来た。真鍋がいた場所。同じ場所に出た。


 走った。テントがあるはずの方向に。一人で。手を繋ぐ相手がいないから、両手が振れた。走るのが速かった。こんなに速く走れたのは初めてだった。


 三百メートル。二百メートル。


 見えてきた。


 テントはなかった。


 支柱が折れて地面に倒れていた。布が引き裂かれていた。長い裂け目が何本も走っていて、爪で引っ掻いたような痕だった。コンテナが横倒しになっていて、中身が散乱していた。水のボトルが割れている。食料のパッケージが噛みちぎられていた。


 地面に爪痕があった。複数。深い溝が放射状に走っている。湾曲した何かで地面を抉った痕。あの群れの魔物。町田が証言した、学習する魔物の前肢の先端。あの湾曲した長い何か。


 足裏が周囲を探った。魔物の気配は遠い。今は来ない。でもここにいた痕跡が地面に残っている。複数の足跡。軽くて速い二本足の足跡が、テントの周囲を取り囲むように残っていた。


 血痕があった。


 テントの残骸から五メートルほど離れた場所。赤黒い大地に、もっと赤い染みが広がっていた。乾きかけている。数日前のものだった。


 量が多かった。


 俺はその場にしゃがんだ。膝をついて、血の染みを見た。赤黒い大地の赤と、血の赤は、微妙に色が違った。血の方が少し明るかった。人間の血。あの世界の泥ではなく、人間の体から出た血。


 真鍋の靴があった。


 片方だけ。右足。血痕から二メートルほど離れた場所に転がっていた。泥だらけで、紐がちぎれていた。


 拾い上げた。重かった。靴の中に血が溜まっていた。


 発煙筒の燃え殻が三本。地面に散らばっていた。三本とも使い切っている。最後の一本は、血痕のすぐ横にあった。


 真鍋は三本の発煙筒を全部使った。最後の一本は、自分が倒れた場所で焚いた。倒れてもまだ、発煙筒を焚いた。煙が消えるまでの二分間を稼ごうとした。


 その二分間が終わった後、何が起きたのかは——地面の痕跡が語っていた。血痕から引きずった跡が、十メートルほど続いて、赤黒い大地の向こうに消えていた。


 持っていかれた。


 真鍋の体が、あの群れに引きずられて、どこかに運ばれた。


 足裏が震えた。地面の振動ではなかった。俺の足が震えていた。


 靴を両手で持った。片方だけの靴。右足。煙の向こうで手を振った真鍋を最後に見たとき、この靴が右足に履かれていた。


 「おもしろかね、この世界」


 真鍋の声が聞こえた気がした。聞こえるわけがなかった。真鍋はここにいない。ここには血と靴と、発煙筒の燃え殻しかない。


 立ち上がった。足裏がまだ震えていた。


 真鍋の痕跡をもう一度見た。引きずった跡。血の道。その先に真鍋がいるのか。もう生きていないのか。


 あの量の血を流して、引きずられて、生きているとは思えなかった。


 でも確認はできなかった。追いかけたら、群れの魔物のところに行くことになる。一人で。武器なしで。


 帰らなければいけなかった。


 靴をしっかり握った。これだけは持って帰る。


 最後にもう一度、テントの残骸を見た。真鍋と町田が十二日間ここで生き延びた場所。発煙筒の燃え殻が散らばった地面。引き裂かれたテントの布。


 真鍋は最後まで戦った。発煙筒が尽きるまで。倒れても手を動かして、最後の一本に火をつけた。二分間の猶予を自分に与えた。


 その二分間で何を考えたのだろう。


 おもしろかね、と思っただろうか。


 足裏がずきんと痛んだ。帰還の兆候。


 靴を握ったまま、足元がぶよぶよした。


 部屋の床。一人。


 右手に真鍋の靴を握っていた。


 しばらく立ったまま動けなかった。靴が重かった。片方だけの靴が、こんなに重いとは思わなかった。


 赤城が来た。ドアを開けて、俺を見て、靴を見て、止まった。


 「……報告をお願いします」


 「テントの残骸を見つけました。引き裂かれていました。学習する魔物の群れの爪痕がありました。血痕がありました。量が多かった。靴が片方残っていました。発煙筒は三本使い切っていました。引きずった跡がありました」


 赤城が黙って聞いていた。


 「真鍋さんの生存は——」


 声が詰まった。


 赤城が待った。


 「——確認できませんでした」


 赤城が目を閉じた。五秒。十秒。


 「報告は以上ですか」


 「以上です」


 「わかりました。——佐倉さん。今日は休んでください」


 赤城が出ていった。ドアが閉まった。


 テーブルの前に立った。


 拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。日下部の手袋。


 靴を置いた。四つ目。


 拓海の財布はもう色が褪せていた。半年以上ここにある。森塚の手袋の切れ端は小さくて、財布の横に寄り添うように置いてある。日下部の手袋は一番新しかったが、それでも数ヶ月経っている。


 真鍋の靴は泥だらけで、血が乾いていて、紐がちぎれていた。テーブルの上で一番大きかった。真鍋のものだけが、妙に存在感があった。片方だけなのに。


 楠木のものはない。楠木は何も残さなかった。言葉だけ。怖がれる人間は生きて帰れる。


 真鍋は怖がらなかった。怖がらなかった人間が、死んだ。


 楠木は怖がった。怖がった人間も、死んだ。


 怖がっても怖がらなくても、あの世界では死ぬ。


 椅子に座った。テーブルの上の四つの遺品を見た。


 拓海。森塚。日下部の手袋は日下部が生きているから遺品ではない。でもここにある。日下部の手袋が帰る場所は、もうないのかもしれない。


 真鍋。


 真鍋涼介は、あの世界を面白いと思った唯一の人間だった。「おもしろかね」と笑いながら、最初の偵察から十二日間のサバイバルまで、あの世界の未知に目を輝かせていた。怖くなかったと言ったら嘘になる、と一度だけ言った。あのときだけ博多弁が消えた。


 俺が連れて行った。俺が手を離した。俺が残してきた。そして俺は、靴だけ持って帰ってきた。


 テーブルの上の靴に手を伸ばした。泥と血が乾いた靴の表面に、指先が触れた。冷たかった。あの乾いた硬い手の感触はもう残っていなかった。


 「……ごめん」


 テーブルの上の遺品は答えなかった。いつもそうだ。拓海の財布も、森塚の手袋も、何も答えない。


 真鍋の靴も、何も答えなかった。


 窓の外が白み始めていた。夜が明ける。普通の朝が来る。電車が走り、人が歩き、仕事が始まる。


 あの世界では、真鍋の血が赤黒い大地に染み込んでいる。


 俺は明日も生きている。真鍋が死んで、俺は生きている。あの世界に人を送って、人が死んで、俺だけが毎回帰ってくる。


 帰ってくる人間。それが俺だ。


 足裏がじんじんしていた。あの世界が呼んでいる。また来い、と。


 行く。行かなければいけない。真鍋が死んだから行かないとは言えない。真鍋が死んだからこそ、次に何をするかを考えなければいけない。


 でも今日だけは、何も考えたくなかった。


 靴を見ながら、朝が来るのを待った。


 朝が来た。


 蛍光灯を消したまま、窓から入る光の中で、テーブルの上の靴を見ていた。


 真鍋の言葉が頭に浮かんだ。町田を通じて聞いた、あの言葉。


 「佐倉くんを自衛隊に入れろ」


 あの世界で、死にかけていた夜に、真鍋は俺のことを考えていた。俺をどう守るか。俺をどう強くするか。人を送り込んで死なせるんじゃなくて、俺自身を強くしろ。そっちの方が人が死なん。


 真鍋は正しかった。


 今まで俺は門だった。開くだけの人間。真鍋はそれを変えろと言った。俺自身が変われと。


 靴に触れた。泥と血で固まった靴。真鍋がこの靴であの赤黒い大地を歩き、学習する魔物の群れから町田を守った。


 高梨に電話した。朝の六時だった。


 「高梨さん。入隊します」


 高梨は三秒黙った。


 「……理由を聞いてもいいですか」


 「真鍋さんが言ったからです。あの人が死ぬ前に考えたことを、無駄にしたくない」


 高梨がまた黙った。長い沈黙だった。


 「わかりました。手続きを始めます」


 電話を切った。


 テーブルの上の遺品を見た。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。日下部の手袋。真鍋の靴。


 もう増やさない。


 増やさないために、俺が変わる。

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