第36話「綻」
町田は自分で歩けなかった。
帰還した部屋の床に、岸本が町田を降ろした。町田の足が床に着いたとき、膝が折れた。俺と岸本で両脇を支えた。
「町田さん。ここは日本です。帰ってきました」
町田の目が部屋の蛍光灯を見て、顔をしかめた。光が痛い。日下部と同じだった。
医療班が来た。ストレッチャーに乗せて、地下の医務室に運んだ。園田が走ってきた。白衣の裾を握りながら。この人が走るのを見たのは初めてだった。
「町田さんの曝露期間は」
「十二日間です。ボンベが切れたのは四日目か五日目だと思います。それ以降はずっとあの大気を直接吸っていた」
「日下部さんより短い。日下部さんは十四日。でも——」
園田が町田の足を見た。靴を脱がせた。靴下を脱がせた。
足裏に痕があった。
日下部の首の痕と同じ模様。網目状の、赤黒い筋。ただし日下部は首だった。町田は足裏。足裏から足首にかけて、網目が広がっていた。
「足裏から来てる」
園田が呟いた。
「日下部さんは首から。町田さんは足裏から。侵入経路が違う。日下部さんは首に直接つけられた。町田さんは——地面から。歩いているうちに足裏から入った」
悠の足裏の痕と同じ侵入経路。ただし悠の場合は共生に向かった。町田の場合は——。
「園田さん。町田さんは日下部さんと同じになりますか」
「わかりません。侵入経路が違うので、進行パターンも違うかもしれない。ただ——」
園田がメガネを外した。また拭いた。
「進行が速いです。日下部さんは十四日で声が出なくなった。町田さんは十二日で歩けなくなっている。曝露期間が短いのに症状が重い」
「なぜですか」
「足裏からの侵入の方が、全身に回るのが速いのかもしれない。足裏は血管が多い。あるいは——あの世界の異変が関係している可能性がある。地脈の活動が活発になっている時期に、地面を踏み続けた。通常より強い信号を十二日間浴び続けた」
あの異変。地脈の方向が揃い、蟲が消え、空が紫に脈打つ。あの異変の最中に十二日間地面を歩いた。町田の足裏は、あの異変を全身で受け止めていた。
「町田さんを日下部さんと同じ部屋に」
「すでに手配しました」
園田が走っていった。白衣の裾が角を曲がって消えた。
日下部の部屋に行った。
遮光カーテンの向こう、暗い部屋に二つのベッドが並んでいた。日下部と町田。二人とも目を閉じている。心拍モニターが二つ、微かに違うリズムで鳴っていた。
日下部の首の痕が光っていた。赤みを帯びた、脈打つ光。町田の足裏の痕は——まだ光っていなかった。でも時間の問題だと思った。
二人の間に立った。
この二人を、俺があの世界に連れて行った。日下部は手が滑って残された。町田は俺が意図的に降ろした。方法は違う。でも結果は同じだ。あの世界に置いてきた人間の体が壊れていく。
日下部の指が動いた。メモ帳を探している。俺がメモ帳とペンを手の下に滑り込ませた。
日下部が書いた。ゆっくり。
「となりだれ」
「町田さんです。あちら側にいた隊員です」
日下部がしばらく動かなかった。それからまた書いた。
「おなじ」
同じ。日下部は自分と同じだとわかっている。自分の体に起きたことが、隣のベッドの人間にも起きている。
「すみません」
日下部がペンを止めた。長い間。それからまた書いた。
「あやまらないで」
部屋を出た。廊下の蛍光灯がちかちかしていた。前にもここで立ち止まった。日下部に嘘をついた日。「手を離さないで」と言われて「約束します」と答えた日。
あの嘘の結果が、隣のベッドに横たわっている。
赤城と高梨の部屋で作戦会議。高梨はまだベッドの上だが、上半身は起こせるようになっていた。
「真鍋さんがあちら側に残っています。発煙筒が三本。食料と水はコンテナ一つ分。学習する魔物の群れが周囲にいます」
高梨が目を閉じた。ベッドの上で腕を組んでいる。肋骨はもう痛まないらしい。
「次の転移で回収できますか」
「転移先が同じ場所になる保証はありません。前回は偶然合流できた。次も偶然に賭けるしかない」
「偶然に賭ける。作戦とは言えませんね」
「言えません」
赤城が壁に寄りかかったまま口を開いた。
「真鍋さんは自力で生存を維持できる人間です。偵察で確認しています。——ただし、あの魔物の群れが学習を続けているなら、発煙筒三本では長くは持ちません」
高梨が目を開けた。
「佐倉さん。あなたの足裏で、真鍋さんの位置を特定できませんか」
「夢の中で試しました。あの世界が広すぎて見つけられませんでした」
「夢ではなく、覚醒時に」
「覚醒時は夢のときより範囲が狭いです。転移しているときでさえ、数百メートルが限界です」
高梨が黙った。赤城も黙った。打つ手がなかった。次の転移を待って、偶然に賭ける。それしかない。
「今は真鍋さんの救出だけを考えます。次の転移が来たら、必ず行きます」
高梨が頷いた。
沈黙が落ちた。会議が終わるかと思ったとき、赤城が言った。
「もう一つ、報告があります」
赤城の声が変わっていた。いつもの淡々とした報告の声ではなく、少し低い。
「椎名さんから連絡がありました。閣僚の一人——副大臣クラスが、日米同盟の文脈でアメリカ側に接触した形跡があると」
部屋が静かになった。
「何を話したんですか」
「詳細は不明です。ただ、『日本が異世界への門を持っている。門を開けられる人間がいる』という情報が、非公式なルートでワシントンに届いた可能性がある、と」
「椎名さんは」
「全力で抑えています。ただ、時間の問題だと。一度外に出た情報は回収できない」
高梨の顔が変わった。軍人の顔になっていた。
「アメリカが動いたら、次元が変わります。佐倉さんを確保しようとする。門を自分たちのものにしようとする」
「俺を渡すんですか」
「渡しません。椎名さんがそうさせない。——ただ、圧力はかかります。日本単独で続けるか、アメリカを入れるか。いずれ選ばされる」
腹の底が冷たくなった。
「今の話、真鍋さんの救出とどう関係するんですか」
「直接は関係しません。ただ——」赤城が言った。「アメリカが介入してくれば、物資も人員も桁違いに増えます。ベースキャンプの維持も可能になるかもしれない」
アメリカが来れば真鍋を救えるかもしれない。でも俺がどうなるかはわからなかった。
答えが出なかった。
高梨が言った。
「今は真鍋さんだけを考えろ。アメリカの話は椎名さんに任せろ。——それでいい。今は」
夜。ベッドの中。
テーブルの上を見た。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。日下部の手袋。
町田のものはない。町田は帰ってきた。体は壊れかけているが、帰ってきた。
真鍋のものもない。真鍋はまだあちら側にいる。
目を閉じた。足裏がじんじんしている。
あの世界のどこかで、真鍋が発煙筒を握っている。学習する魔物が、煙の消えるのを待っている。
そして太平洋の向こうから、別の種類の魔物が近づいてきている。
どちらの魔物の方が怖いか、まだわからなかった。




