第35話「合」
転移は二日後に来た。真鍋と町田を降ろしてから十二日。
岸本と手を繋いだ。補給物資の三つ目のコンテナ。もう三つ目だ。一つ目は場所が違って降ろせなかった。二つ目は顎に食われた。三つ目は届くのか。
足元がぶよぶよした。
開けた場所だった。
赤黒い大地が広がっていて、遠くに木の群れが見える。最初に真鍋たちを降ろしたときと似た場所だった。空は灰色。紫の筋が薄く脈打っている。
足裏に意識を集中した。地脈の筋。方向は揃ったまま。脅威は——遠くにいる。中くらいのものが複数。方角はばらばら。すぐには来ない。
そして、足裏がもう一つ拾った。
人間がいる。
近い。二百メートルくらい先。二人。地面を踏んでいる重みが、あの世界の魔物とは違う。軽い。靴を履いている。人間だ。
「岸本さん。人がいます。二百メートル先。二人」
岸本の目が開いた。
「真鍋さんたちですか」
「たぶん」
走った。コンテナを岸本が抱えたまま。泥ではなく硬い地面だった。走れた。
百メートル。五十メートル。
見えた。
テントがあった。一回目に降ろしたテント。支柱が少し曲がっていて、布に赤黒い泥が染みていた。テントの周囲に発煙筒の燃え殻が散らばっている。四本。五本。六本。最初に渡した十二本のうち、半分以上を使っている。
テントの前に人間が二人いた。
一人は立っていた。大きな体。黒いTシャツはもう原型を留めていない。防護服の上半分が破れて、腕が露出していた。日に焼けたような——いや、あの世界の空気に焼けたような赤い肌。
真鍋だった。
「おう。来たね」
声は変わっていなかった。博多弁も消えていなかった。十二日間、あの世界にいて、ボンベが切れてあの大気を吸い続けて、それでもこの人の声は変わっていなかった。
「真鍋さん。生きてたんですか」
「見りゃわかるやろ」
真鍋が笑った。痩せていた。頬がこけて、顎の線が鋭くなっていた。水が足りていない。食料も。
「水と食料、持ってきました」
岸本がコンテナを降ろした。真鍋がコンテナを開けた。水のボトルを取って、蓋を開けて、三口飲んだ。四口目で止めた。
「町田に先やらんと」
町田はテントの中にいた。
テントの入口を開けたとき、匂いがした。瘴気とは別の匂い。甘くて酸っぱい、人間の体が壊れかけているときの匂い。日下部の病室と同じだった。
町田は横になっていた。目を閉じている。呼吸はしている。防護マスクはもうつけていなかった。ボンベが切れたのだろう。素顔が見えた。角張った顔が、痩せてさらに角張っていた。唇が割れている。
「町田さん」
町田の目が開いた。焦点が合うまで数秒かかった。
「……佐倉さん」
声がかすれていた。でも出ていた。日下部は声が出なくなった。町田はまだ出る。まだ。
「水です。飲んでください」
水のボトルを渡した。町田が両手で受け取って、ゆっくり飲んだ。手が震えていた。
「町田さん。体はどうですか」
「……足が、痺れます。三日前から。あと、目が。光が強いと痛い」
足の痺れ。光過敏。日下部の初期症状と同じだった。
真鍋がテントの外で腕を組んで立っていた。俺がテントから出ると、真鍋が低い声で言った。
「三日前から歩けんくなった。それまでは二人で移動しとったけど、町田が歩けんくなって、ここに落ち着いた。水が昨日切れた。食料は三日前に切れた。木の根元に溜まる水みたいなもんを舐めて凌いどったけど、限界やね」
三日間、まともな水なし。食料は六日間なし。
「真鍋さんは」
「俺は平気。足も痺れんし、目も見える」
なぜ真鍋が平気なのかはわからなかった。同じ空気を吸っているのに。
「真鍋さん。町田さんを連れて帰ります。俺が帰還するとき手を握っていれば一緒に帰れます」
「頼む。ただ——」
真鍋が言いかけて、口を閉じた。何かを聞いている。耳ではない。体全体で。
「佐倉くん。足裏」
足裏に意識を戻した。
変わっていた。さっきまで遠くにいた「中くらいのもの複数」が、近づいている。方角が揃い始めていた。ばらばらだったのが、同じ方向から——こっちに向かっている。
「何か来ます。複数。中くらいの。こっちに向かってる」
「来たか」
真鍋の声が変わった。軽さが消えていた。
「佐倉くん。こいつらがこの十二日間で一番やばかった。蟲じゃない。もっとやばい。賢い」
「賢い?」
「群れで来る。最初は四匹やった。発煙筒で追い払えた。次に来たときは六匹で、発煙筒を避けて回り込んできた。三回目は八匹で、テントの紐を狙って切ろうとした。毎回やり方が変わる。学習しとう」
学習する魔物。
足裏の感覚が鮮明になっていった。地面を踏む複数の足。軽い。速い。二本足。体重は人間より少し軽い。数は——六。七。八。数え切れない。十以上。扇状に広がりながら近づいてくる。
「包囲しようとしてます」
「いつもそう。扇形に広がって、逃げ道を塞ぐ。——発煙筒は残り何本ある?」
「持ってきたのが六本。ここに残ってるのは」
「ゼロ。全部使った」
六本。十以上を相手に。
「岸本さん。発煙筒を三本、コンテナから出してください」
岸本が動いた。速かった。コンテナを開けて、発煙筒を三本抜き出した。
見えた。
開けた場所の向こう、百メートル先の木の群れの際に、何かが動いていた。低い姿勢。二本足。地面すれすれを滑るように移動している。色が地面とほぼ同じで、動いていなければ見えなかった。
一匹ではなかった。左にも、右にも。等間隔で並んでいる。動きが揃っている。統率されている。
「見えるか」と真鍋が言った。
「見えます」
「あいつらの顔は見んほうがいい。見たら夢に出る」
六十メートル。輪郭がわかり始めた。体長は二メートルほど。前傾姿勢で、尾を後方に伸ばしてバランスを取っている。前肢が体に沿って畳まれていた。先端に何かがついている。湾曲した、長い何か。
体表の色が変わった。地面と同じ赤黒から、少し明るい色に。動き始めると擬態を解くのか。縞模様が浮かび上がった。体全体に、不規則な縞。
四十メートル。足裏が複数のリズムを拾っている。足音が揃っている。一匹一匹がばらばらに動いているように見えて、全体のリズムが同期している。
「発煙筒、点火してください。三方向に。俺の左と右と正面」
岸本が一本目を点火して左に投げた。赤い煙が吹き上がった。二本目を右に。三本目を俺が受け取って正面に投げた。
赤い煙の壁ができた。
群れが止まった。
四十メートル先で、全個体が同時に止まった。煙を見ている。動かない。
三秒。五秒。
一匹が動いた。群れの右端の個体が、煙の壁の切れ目を探すように横に移動した。
「回り込もうとしてます」
「わかっとう。いつもこうする。煙を正面から突っ切らんで、端を回る。——次は煙が消えるのを待つようになる」
発煙筒の持続時間は二分。二分後に煙が消えたら、こいつらが来る。
「町田さんを連れてきてください。今すぐ。帰ります」
岸本がテントに走った。町田を肩に担いで出てきた。町田は意識があったが、自分では立てなかった。
「真鍋さん。帰れます。俺の手に触れてください」
「俺は残る」
息が止まった。
「——駄目です」
「町田を連れて帰ってくれ。岸本くんも。俺は残る。次の補給を待つ」
「真鍋さん。発煙筒がなくなったら——」
「何とかする」
また、その言葉だった。何とかする。
「何とかなりません。あいつらは学習するんでしょう。発煙筒なしで——」
「佐倉くん」
真鍋の目が、あの偵察のときと同じ目になった。博多弁が消えた目。
「あんたの両手は二人分しかない。町田は自分で手を握れん。岸本くんが担いで、あんたが岸本くんの手を握る。それで二人帰せる。——俺が手を離す番やね」
手を離す番。
拓海が離した。楠木が離した。今度は真鍋が自分から離す。
煙が薄くなり始めていた。一分半。
「次に必ず来ます」
「おう」
「発煙筒を三本残します。コンテナの食料と水は——」
「コンテナ置いてけ。全部。俺が使う」
岸本が町田を担いでいた。右手が空いている。俺は岸本の右手を握った。左手にコンテナから抜いた発煙筒を三本持っていた。地面に置いた。真鍋の足元に。
「真鍋さん」
「うん?」
「死なないでください」
真鍋が笑った。痩せた顔で。頬がこけた顔で。十二日間あの世界にいて、水が切れて、食料が切れて、学習する魔物に囲まれて、それでもこの人は笑っていた。
「おもしろかね、この世界」
足元がぶよぶよした。
最後に見えたのは、薄れていく煙の向こうで発煙筒を拾い上げる真鍋の背中だった。




