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魔界世界  作者: 彗
作戦

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35/49

第35話「合」


 転移は二日後に来た。真鍋と町田を降ろしてから十二日。


 岸本と手を繋いだ。補給物資の三つ目のコンテナ。もう三つ目だ。一つ目は場所が違って降ろせなかった。二つ目は顎に食われた。三つ目は届くのか。


 足元がぶよぶよした。


 開けた場所だった。


 赤黒い大地が広がっていて、遠くに木の群れが見える。最初に真鍋たちを降ろしたときと似た場所だった。空は灰色。紫の筋が薄く脈打っている。


 足裏に意識を集中した。地脈の筋。方向は揃ったまま。脅威は——遠くにいる。中くらいのものが複数。方角はばらばら。すぐには来ない。


 そして、足裏がもう一つ拾った。


 人間がいる。


 近い。二百メートルくらい先。二人。地面を踏んでいる重みが、あの世界の魔物とは違う。軽い。靴を履いている。人間だ。


 「岸本さん。人がいます。二百メートル先。二人」


 岸本の目が開いた。


 「真鍋さんたちですか」


 「たぶん」


 走った。コンテナを岸本が抱えたまま。泥ではなく硬い地面だった。走れた。


 百メートル。五十メートル。


 見えた。


 テントがあった。一回目に降ろしたテント。支柱が少し曲がっていて、布に赤黒い泥が染みていた。テントの周囲に発煙筒の燃え殻が散らばっている。四本。五本。六本。最初に渡した十二本のうち、半分以上を使っている。


 テントの前に人間が二人いた。


 一人は立っていた。大きな体。黒いTシャツはもう原型を留めていない。防護服の上半分が破れて、腕が露出していた。日に焼けたような——いや、あの世界の空気に焼けたような赤い肌。


 真鍋だった。


 「おう。来たね」


 声は変わっていなかった。博多弁も消えていなかった。十二日間、あの世界にいて、ボンベが切れてあの大気を吸い続けて、それでもこの人の声は変わっていなかった。


 「真鍋さん。生きてたんですか」


 「見りゃわかるやろ」


 真鍋が笑った。痩せていた。頬がこけて、顎の線が鋭くなっていた。水が足りていない。食料も。


 「水と食料、持ってきました」


 岸本がコンテナを降ろした。真鍋がコンテナを開けた。水のボトルを取って、蓋を開けて、三口飲んだ。四口目で止めた。


 「町田に先やらんと」


 町田はテントの中にいた。


 テントの入口を開けたとき、匂いがした。瘴気とは別の匂い。甘くて酸っぱい、人間の体が壊れかけているときの匂い。日下部の病室と同じだった。


 町田は横になっていた。目を閉じている。呼吸はしている。防護マスクはもうつけていなかった。ボンベが切れたのだろう。素顔が見えた。角張った顔が、痩せてさらに角張っていた。唇が割れている。


 「町田さん」


 町田の目が開いた。焦点が合うまで数秒かかった。


 「……佐倉さん」


 声がかすれていた。でも出ていた。日下部は声が出なくなった。町田はまだ出る。まだ。


 「水です。飲んでください」


 水のボトルを渡した。町田が両手で受け取って、ゆっくり飲んだ。手が震えていた。


 「町田さん。体はどうですか」


 「……足が、痺れます。三日前から。あと、目が。光が強いと痛い」


 足の痺れ。光過敏。日下部の初期症状と同じだった。


 真鍋がテントの外で腕を組んで立っていた。俺がテントから出ると、真鍋が低い声で言った。


 「三日前から歩けんくなった。それまでは二人で移動しとったけど、町田が歩けんくなって、ここに落ち着いた。水が昨日切れた。食料は三日前に切れた。木の根元に溜まる水みたいなもんを舐めて凌いどったけど、限界やね」


 三日間、まともな水なし。食料は六日間なし。


 「真鍋さんは」


 「俺は平気。足も痺れんし、目も見える」


 なぜ真鍋が平気なのかはわからなかった。同じ空気を吸っているのに。


 「真鍋さん。町田さんを連れて帰ります。俺が帰還するとき手を握っていれば一緒に帰れます」


 「頼む。ただ——」


 真鍋が言いかけて、口を閉じた。何かを聞いている。耳ではない。体全体で。


 「佐倉くん。足裏」


 足裏に意識を戻した。


 変わっていた。さっきまで遠くにいた「中くらいのもの複数」が、近づいている。方角が揃い始めていた。ばらばらだったのが、同じ方向から——こっちに向かっている。


 「何か来ます。複数。中くらいの。こっちに向かってる」


 「来たか」


 真鍋の声が変わった。軽さが消えていた。


 「佐倉くん。こいつらがこの十二日間で一番やばかった。蟲じゃない。もっとやばい。賢い」


 「賢い?」


 「群れで来る。最初は四匹やった。発煙筒で追い払えた。次に来たときは六匹で、発煙筒を避けて回り込んできた。三回目は八匹で、テントの紐を狙って切ろうとした。毎回やり方が変わる。学習しとう」


 学習する魔物。


 足裏の感覚が鮮明になっていった。地面を踏む複数の足。軽い。速い。二本足。体重は人間より少し軽い。数は——六。七。八。数え切れない。十以上。扇状に広がりながら近づいてくる。


 「包囲しようとしてます」


 「いつもそう。扇形に広がって、逃げ道を塞ぐ。——発煙筒は残り何本ある?」


 「持ってきたのが六本。ここに残ってるのは」


 「ゼロ。全部使った」


 六本。十以上を相手に。


 「岸本さん。発煙筒を三本、コンテナから出してください」


 岸本が動いた。速かった。コンテナを開けて、発煙筒を三本抜き出した。


 見えた。


 開けた場所の向こう、百メートル先の木の群れの際に、何かが動いていた。低い姿勢。二本足。地面すれすれを滑るように移動している。色が地面とほぼ同じで、動いていなければ見えなかった。


 一匹ではなかった。左にも、右にも。等間隔で並んでいる。動きが揃っている。統率されている。


 「見えるか」と真鍋が言った。


 「見えます」


 「あいつらの顔は見んほうがいい。見たら夢に出る」


 六十メートル。輪郭がわかり始めた。体長は二メートルほど。前傾姿勢で、尾を後方に伸ばしてバランスを取っている。前肢が体に沿って畳まれていた。先端に何かがついている。湾曲した、長い何か。


 体表の色が変わった。地面と同じ赤黒から、少し明るい色に。動き始めると擬態を解くのか。縞模様が浮かび上がった。体全体に、不規則な縞。


 四十メートル。足裏が複数のリズムを拾っている。足音が揃っている。一匹一匹がばらばらに動いているように見えて、全体のリズムが同期している。


 「発煙筒、点火してください。三方向に。俺の左と右と正面」


 岸本が一本目を点火して左に投げた。赤い煙が吹き上がった。二本目を右に。三本目を俺が受け取って正面に投げた。


 赤い煙の壁ができた。


 群れが止まった。


 四十メートル先で、全個体が同時に止まった。煙を見ている。動かない。


 三秒。五秒。


 一匹が動いた。群れの右端の個体が、煙の壁の切れ目を探すように横に移動した。


 「回り込もうとしてます」


 「わかっとう。いつもこうする。煙を正面から突っ切らんで、端を回る。——次は煙が消えるのを待つようになる」


 発煙筒の持続時間は二分。二分後に煙が消えたら、こいつらが来る。


 「町田さんを連れてきてください。今すぐ。帰ります」


 岸本がテントに走った。町田を肩に担いで出てきた。町田は意識があったが、自分では立てなかった。


 「真鍋さん。帰れます。俺の手に触れてください」


 「俺は残る」


 息が止まった。


 「——駄目です」


 「町田を連れて帰ってくれ。岸本くんも。俺は残る。次の補給を待つ」


 「真鍋さん。発煙筒がなくなったら——」


 「何とかする」


 また、その言葉だった。何とかする。


 「何とかなりません。あいつらは学習するんでしょう。発煙筒なしで——」


 「佐倉くん」


 真鍋の目が、あの偵察のときと同じ目になった。博多弁が消えた目。


 「あんたの両手は二人分しかない。町田は自分で手を握れん。岸本くんが担いで、あんたが岸本くんの手を握る。それで二人帰せる。——俺が手を離す番やね」


 手を離す番。


 拓海が離した。楠木が離した。今度は真鍋が自分から離す。


 煙が薄くなり始めていた。一分半。


 「次に必ず来ます」


 「おう」


 「発煙筒を三本残します。コンテナの食料と水は——」


 「コンテナ置いてけ。全部。俺が使う」


 岸本が町田を担いでいた。右手が空いている。俺は岸本の右手を握った。左手にコンテナから抜いた発煙筒を三本持っていた。地面に置いた。真鍋の足元に。


 「真鍋さん」


 「うん?」


 「死なないでください」


 真鍋が笑った。痩せた顔で。頬がこけた顔で。十二日間あの世界にいて、水が切れて、食料が切れて、学習する魔物に囲まれて、それでもこの人は笑っていた。


 「おもしろかね、この世界」


 足元がぶよぶよした。


 最後に見えたのは、薄れていく煙の向こうで発煙筒を拾い上げる真鍋の背中だった。

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