第34話「痕」
次の転移は四日後だった。真鍋と町田を降ろしてから一週間。
岸本と二人で行く。今度こそ合流する——とは思っていなかった。園田が言った通り、同じ場所に出る確率はゼロに近い。でも行くしかなかった。岸本が補給物資のコンテナを持っている。食料と水。真鍋たちに届けなければ。
足裏が脈打った。深夜一時。岸本の手を握った。冷たい手。前回と同じ。この人はいつも手が冷たいのかもしれない。
足元がぶよぶよした。
水の音がした。
目を開ける前に、耳が先に反応した。ざあ、という低い持続音。水が流れている。近い。
目を開けた。
川だった。
幅は三十メートルくらい。赤黒い水がゆっくり流れている。底が見えない。水面に灰色の空が映っていたが、波紋がなかった。流れているのに波紋がない。水面が膜を張ったように平坦で、何かが表面を覆っている。紫の筋がその膜に映り込んで、川全体が脈打っているように見えた。
岸辺に立っていた。足元は泥。赤黒い泥で、粘つく。靴の底が吸われる感覚。地面というより、生き物の舌の上に立っている感じだった。
足裏に意識を集中した。地脈の筋が動いている。方向は揃ったまま——異変は続いている。脅威は——
近くにいる。
水の中に。大きなものが。動いていない。底に沈んでいる。でもいる。足裏が「そこに何かがいる」と訴えていた。
「岸本さん。川に近づかないでください。水の中に何かいます」
岸本が川から一歩下がった。大きな目が川面を見ている。
「大きいですか」
「大きいです。でも動いてない。今は」
前回と違う場所だった。でも見なければわからない。
川沿いに歩いた。上流に向かって。手を繋いだまま。泥が靴を吸う。歩きにくい。
岸辺の植生が森とは違っていた。柱みたいな木の群れではなく、根が水面に張り出した背の低い木が密生していた。根の表面がぬるぬる光っていて、根の間から粘液が垂れている。触ったら何が起きるかわからない。
「触らないでください。何にも」
「了解です」
岸本は寡黙だった。必要なこと以外喋らない。でもこの状況で寡黙でいられるのは、たぶん強さだった。
五十メートルほど歩いたとき、足裏が別の情報を拾った。
地面に、人間の重みの痕跡があった。足裏に伝わってくる。泥の圧縮パターン。人間が歩いた跡。古い。数日前。泥が半分戻りかけている。
「誰かがここを歩いてます。数日前に」
「真鍋さんたちですか」
「わかりません。でも人間の足跡です」
足跡を追った。川沿いに上流へ。二つの足跡。二人。真鍋と町田だ。二人で歩いている。足跡の間隔は一定で、走っていない。追われていたわけじゃない。移動している。何かを探して、もしくは何かから離れて。
百メートル先で、足跡が川から離れて内陸に向かっていた。背の低い木の間を抜けて、少し高い地面に上がっている。
そこに、テントの跡があった。
テントそのものはなかった。支柱を差した穴が四つ。地面に四角い跡。コンテナを置いた凹み。発煙筒の燃え殻が三本。
ここにベースキャンプがあった。そして撤去された。自分たちで。
「生きてます」
声が震えていた。
「真鍋さんと町田さんが、ここにテントを張って、それから移動してます。自分たちの意志で。発煙筒を三本使ってる。何かを追い払ってる。でも逃げ出したんじゃない。テントを畳んで、コンテナを持って、移動してる」
岸本が跡を見ていた。両膝をついて、丁寧に。泥の中の凹みを手袋越しに触った。
「支柱の穴が丁寧に埋め戻されてます。急いでいない」
急いでいない。追い詰められて逃げたんじゃない。判断して移動した。真鍋の判断だ。
あるいは、水の中の何かに気づいて離れた。
足裏が再び川の方向に注意を向けた。水中の大きなもの。まだ動いていない。底に沈んだまま。
「この場所は水辺に近すぎる。真鍋さんもそう判断したんだと思います。川の中に何かいる。だからここを離れた」
岸本がコンテナを地面に降ろそうとした。
「ここに置いていきますか? 真鍋さんたちが戻ってくるかもしれない」
コンテナをここに置いていこうとした。真鍋たちが戻るかもしれない。
「置いていきます。ただし——」
足裏がずきんと鳴った。
水中の何かが、動いた。
「離れてください。今すぐ。川から離れて」
岸本の手を引いた。コンテナはそのまま。川岸から内陸へ。走った。泥が靴を吸う。走りにくい。
背後で水が爆発した。
振り返った。
川の水面が割れていた。あの膜ごと。赤黒い水が左右に吹き飛んで、その中心から何かが突き出ていた。
顎だった。
顎だけだった。巨大な顎が、泥の底から飛び出して、岸辺の空気を噛んでいた。俺たちがさっきまで立っていた場所を。
顎の幅が二メートル以上あった。歯ではなかった。歯という形ではなかった。顎の縁が刃のようになっていて、噛むというより切断する構造。色は泥と同じ赤黒で、目がどこにあるのかわからなかった。顎の上面にこぶのような隆起がいくつかあって、それが目なのか鼻なのか別の器官なのか、見当もつかなかった。
顎が閉じた。コンテナがなくなっていた。
コンテナごと噛み砕いた。水と食料が赤黒い水に散った。プラスチックの破片が、膜のような水面の上に浮かんで、ゆっくり沈んでいった。
顎が沈んだ。水面が戻った。膜が張り直された。何もなかったみたいに。
岸本が俺の手を強く握っていた。冷たい手が、初めて汗ばんでいた。
「……佐倉さん」
「はい」
「あれは何ですか」
「わかりません。泥の下にいた。ずっと。俺たちがいる間ずっと。動かなかったのは——たぶん、待ってたんです。もっと近づくのを」
水面は静かだった。さっきの顎が嘘みたいに。赤黒い水がゆっくり流れている。紫の筋が映り込んでいる。何もいないように見える。
でも足裏は知っている。まだいる。底に沈んでいる。まだそこにいる。
補給物資が消えた。
真鍋と町田に届けるはずだった水と食料が、あの顎に消えた。
「帰ります」
岸本の手を握り直した。足元がぶよぶよして、帰還した。
部屋の床。二人。
赤城に報告した。真鍋と町田の生存の痕跡。テントの撤去跡。発煙筒の燃え殻。自発的な移動。そして補給物資の喪失。
「コンテナは」
「水の中の魔物にやられました」
赤城が目を閉じた。三秒。
「補給が届かなかった。これで二回目です」
二回目。一回目は場所が違って降ろせなかった。二回目は場所は合っていたかもしれないが、物資が食われた。
「真鍋さんたちの食料と水は、最初に降ろした三日分だけです。もう一週間経っています」
一週間。三日分の食料と水で一週間。ボンベの予備は二本。もう切れている。あの大気を直接吸っている。日下部と同じだ。
でも真鍋たちは移動していた。テントを畳んで、自分たちの判断で。生きている。少なくとも数日前までは。
園田が研究室から顔を出した。
「水辺に大きな魔物。顎だけが見えたと」
「はい。幅二メートル以上。泥の下に完全に隠れていて、近づいた獲物を一瞬で噛む。待ち伏せ型です」
「興味深い。あの世界の水辺にも頂点の魔物がいるんですね」
園田はこういうときに「興味深い」と言う。コンテナが食われて補給が届かなかったのに。科学者の目で見ている。俺には真似できない。
「佐倉さん。次は水辺を避けてください。川沿いは危険です」
「選べません。転移先は」
「わかっています。——でも着地したら、まず川から離れてください」
岸本が準備室を出ていくとき、手を見ていた。自分の手を。さっきまで俺の手を握っていた手。汗が乾いていた。
「岸本さん」
「はい」
「怖かったですか」
岸本が少し考えた。大きな目がまっすぐ俺を見た。
「怖かったです。でも、佐倉さんが手を引いてくれたから、生きてます」
手を引いた。手を離さなかった。今回は。
テーブルの上を見た。遺品はまだ増えていない。真鍋たちは生きている。数日前まで生きていた。
でも補給は届かなかった。水がない。食料がない。ボンベが切れている。あの大気を吸っている。そして川には、泥の下に隠れた巨大な顎がいる。
次の転移が来るまで、俺にできることは何もなかった。




