第32話「離」
ベースキャンプ第一次投下は、真鍋の偵察から五日後に来た。
深夜二時。足裏が脈打った。
施設の準備室に全員が集まった。真鍋、町田、岸本。赤城。園田。椎名はモニター越し。
今回は真鍋と町田の二人を降ろす。両手で連れて行けるのは二人まで。岸本は次の転移で送る。同じ場所に出る保証はないが、やるしかなかった。
装備はコンテナ二つにまとめてあった。食料三日分、水十八リットル、ボンベ予備二本、テント、発煙筒十二本、ナイフ、拳銃と弾。真鍋と町田がそれぞれ一つずつ持つ。
「最終確認」と赤城が言った。「二人を降ろして装備を展開。安全なら佐倉さんが手を離す。危険なら全員帰還。判断は佐倉さんに一任」
町田が敬礼した。二十代後半。顔が角張っていて、目が細い。
「町田です。よろしくお願いします」
声が低かった。緊張しているのに、声が震えていなかった。
真鍋は敬礼しなかった。壁に寄りかかったまま、コンテナの蓋を開けて中身を確認していた。
「まあ何とかなるやろ」
「行きます」
真鍋の右手を俺の左手で握った。町田の左手を俺の右手で握った。真鍋の手は乾いていて硬い。町田の手は汗ばんでいた。
足元がぶよぶよした。
開けた場所だった。
森ではなかった。赤黒い大地が広がっていて、遠くに木の群れが見える。空は灰色。紫の筋がうっすらと脈打っている。異変は続いていた。
足裏に意識を集中した。地脈の筋。方向が揃ったまま。脅威は——近くにない。遠くにも、今は大きなものの気配がない。蟲もいない。
「安全です。今のところ」
「了解」と真鍋が言った。すぐにコンテナを地面に降ろした。町田も降ろした。二人とも手袋をしたまま、手際よく中身を確認し始めた。
「テントは後でいい。まず周囲を確認する。町田、十メートル先まで見てこい。——佐倉くん、足裏はどう?」
「変わりなし。ただ、いつ帰還になるかわかりません。数分かもしれない」
「わかった。急ごう」
真鍋が動いた。町田が動いた。二人が装備を展開している間、俺は立ったまま足裏に集中していた。地脈が動いている。方向は揃ったまま。蟲はいない。大きな脅威もない。でもこの静けさが逆に不安だった。蟲がいないのは、何かがいるからだ。
三分が経った。テントの支柱が立った。発煙筒が配置された。ボンベの予備がテントの中に入った。
「最低限はできた」と真鍋が言った。「あとは俺らでやる」
その瞬間が来た。
手を離す瞬間が。
真鍋が俺の前に立った。
「佐倉くん。離していいよ」
俺は真鍋の右手を握ったままだった。左手は町田を離してコンテナを降ろしたときに空いていた。右手だけ。真鍋の手だけ。
離せばいい。指を開けばいい。それだけのことだ。
拓海の手は、拓海が離した。楠木の手は、楠木が離した。いつも向こうから離された。今度は俺が離す。自分から。意図的に。作戦として。
「佐倉くん?」
真鍋が俺の顔を見ていた。
「……気をつけてください」
「おう」
指を開いた。
真鍋の手が離れた。乾いた硬い手が、俺の指の間からすり抜けていった。
真鍋はもう振り返っていた。町田と一緒にテントの方に歩いていく。背中が見えた。大きな背中。あの世界の灰色の空の下で、二人の人間が小さく見えた。
足裏がずきんと痛んだ。帰還の兆候。もう返される。
「真鍋さん!」
真鍋が振り返った。三十メートルくらい離れていた。
「次に来ます! 必ず!」
真鍋が手を振った。
足元がぶよぶよした。
部屋の床。一人。
一人だった。
右手がまだ真鍋の手の感触を覚えていた。乾いた手。硬い指。あの手がもう、あちら側にある。三十メートル先で手を振った真鍋の背中が、まだ目の裏に残っていた。
赤城が来た。
「佐倉さん。状況は」
「安全な場所でした。開けた場所。森の近く。脅威なし。テントまで立てられた」
「装備は」
「全部降ろしました。真鍋さんと町田さんは活動を開始してます」
赤城が頷いた。
「次の転移で岸本を送ります。同じ場所に出るとは限りませんが」
「はい」
赤城が出ていった。
園田が残っていた。モニターの前。俺を見ていた。
「佐倉さん」
「はい」
「手、離せましたね」
「……はい」
園田はそれ以上何も言わなかった。モニターに戻った。日下部のデータが画面に映っていた。
俺は自分の右手を見た。何もない。真鍋の手の感触が消えかけている。体温が抜けていく。数分前まで人の手を握っていた手が、もう空だった。
テーブルの上を見た。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。日下部の手袋。
真鍋のものは、まだない。まだ生きている。あちら側で、今この瞬間、真鍋は町田と二人であの灰色の空の下にいる。
次の転移がいつ来るかわからない。明日かもしれない。三日後かもしれない。一週間後かもしれない。
その間、二人はあの世界にいる。ボンベが切れたらあの大気を吸う。防護服が破れたらあの泥に触れる。蟲が戻ってきたら——。
考えるのをやめた。考えても何もできない。次の転移を待つしかない。
ベッドに横になった。目を閉じた。足裏がじんじんしていた。あの世界の気配がまだ残っている。
地脈の目を使おうとした。真鍋と町田がいる場所が見えないかと。
見えなかった。夢の中では遠くまで見えるのに、起きているときはまだ駄目だった。
もどかしかった。あの世界に二人を残してきた。俺の手で。俺が離して。今この瞬間、二人がどうなっているか、俺にはわからない。
眠れなかった。




