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魔界世界  作者: 彗
作戦

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31/42

第31話「異」


 真鍋との初転移は、三日後に来た。


 ベースキャンプ作戦の本番の前に、まず真鍋にあの世界を見せておく必要があった。赤城は作戦の準備で別行動。悠と真鍋の二人。


 足裏が脈打った。深夜一時。真鍋に連絡すると、二分で来た。赤城より速い。施設の中に泊まり込んでいたらしい。


 「来たね」


 真鍋は笑っていた。防護服を着て、ボンベを背負って、装備を確認する間もずっと笑っていた。遠足の前の子供みたいだった。


 「真鍋さん。いくつか確認します」


 「うん」


 「俺が撤退と言ったら、理由は聞かずに即座に撤退してください。俺の足裏がセンサーです。脅威を感じたら、迷わず引き返します」


 「了解」


 「手を離さないでください。離したら帰れません」


 「了解了解」


 軽かった。赤城なら「了解」の一言で、その一言に全てが詰まっていた。楠木なら頷いて、目が据わった。真鍋は「了解了解」と二回言って、まだ笑っていた。


 手を繋いだ。真鍋の手は大きくて硬くて乾いていた。握力が強い。握られているというより、掴まれている感覚だった。


 足元がぶよぶよした。


 森だった。


 暗い。瘴気の匂い。甘い腐臭が防護マスクの隙間から微かに漏れてくる。柱みたいな木の群れが周囲にそびえていて、表面の粘液が鈍く脈動していた。


 真鍋が最初にやったのは、マスクの縁を指で押さえて密着を確認することだった。それから周囲を見回した。上。下。左。右。後ろ。五秒で全方位を確認した。動きに無駄がなかった。


 「……なるほどね」


 それだけだった。


 楠木は初めてあの世界に来たとき、三秒間動かなかった。呼吸を整えて、それから動き始めた。赤城は「状況確認」から入った。真鍋は「なるほどね」と言って、もう歩き出そうとしていた。


 「待ってください。足裏の確認をします」


 足裏に意識を集中した。地面の感触。地脈の筋が動いている。方向はまだ揃ったまま。脅威は——近くにはいない。遠くに、大きなものが動いている気配はあるが、すぐには来ない。


 「脅威なし。ただし遠くに大型のものがいます。近づいてきたら撤退します」


 「大型ってどんくらい?」


 「わかりません。でかいとしか。足裏の振動でわかるのは距離と大きさだけで、形は見えません」


 「あんたの足が俺のレーダーってことやね。了解。信じるけん」


 信じる、と真鍋は簡単に言った。楠木も赤城も、信じるまでに時間がかかったのに。


 歩き始めた。手を繋いだまま。


 真鍋は地面を見ていた。網目の筋が動いているのを見て、しゃがんだ。LEDライトを当てた。筋が光から逃げる。


 「生きとうね、地面が」


 「はい。この筋が地脈で——」


 「触っていい?」


 「駄目です。素手で触ると定着します。俺の足裏みたいに」


 真鍋がライトを消した。立ち上がった。


 「佐倉くん。あんたの足、この地面と繋がっとうと?」


 「はい」


 「それで危険がわかると」


 「はい」


 「おもしろかね」


 また、その言葉だった。


 木の群れの中を進んだ。真鍋は歩きながら、ずっと木を見ていた。脈動する幹。垂れる粘液。木の根元を這う蟲の抜け殻。


 「蟲はおらんね」


 「最近いなくなりました。前の転移のときから。何かの異変で」


 「異変?」


 「地脈の流れが変わって、蟲が消えて、空の色が変わった。何かが近づいてるんじゃないかって、園田さんが」


 真鍋は蟲の抜け殻を靴の先でつついた。殻が崩れた。乾いていた。


 「蟲がおらんのは楽やね。資料だと、蟲が一番やばかったっちゃろ」


 楠木を殺した蟲。真鍋は「やばかった」と過去形で言った。


 足裏がずきんと痛んだ。


 脅威。近い。急に来た。


 「止まってください」


 真鍋が止まった。ここは速かった。


 「何か来ます。大きい。近い」


 地面が震え始めた。足裏だけじゃない。体全体で感じる振動。一定の間隔。何かが歩いている。重い。すごく重い。


 木の向こうで、何かが動いた。暗くて見えない。見えないのに、気配だけで巨大だとわかった。空気が動いている。そいつが一歩進むたびに、風が来る。


 低い音がした。音というより圧力。胸郭が共鳴する。呼吸。何かの呼吸。


 「撤退します」


 「ちょい待って」


 真鍋が動かなかった。木の陰から、暗がりの向こうを見ようとしていた。


 「真鍋さん。撤退です」


 「もうちょい見たか。せっかく——」


 俺は真鍋の手を引っ張った。全力で。真鍋の体が大きくて重くて、一瞬引けなかった。でも引いた。


 「今すぐ撤退します」


 声が出ていた。自分でも驚くくらい低い声。怒りだった。怒っていた。この人が死んだら、俺のテーブルの上にまた何かが増える。この人の遺品が。この人の名前が。


 真鍋が俺を見た。暗がりの中で、目だけが光っていた。


 三秒。


 「……了解」


 走った。来た方向に。手を繋いだまま。背後で地面が震えていた。あの巨大な何かが、俺たちがいた場所に近づいてくる振動が足裏に伝わっていた。


 足元がぶよぶよして、帰還した。


 部屋の床。二人。


 マスクを外した。汗だくだった。真鍋は汗をかいていなかった。心拍が上がっていないのか、この人は。


 「真鍋さん」


 「うん?」


 「俺が撤退と言ったら撤退です。理由は聞かなくていいです。でも従ってください。あの世界では俺の足裏が唯一の情報源です。俺が危ないと言ったら、危ないんです」


 真鍋が俺を見た。さっきまでの軽い目じゃなかった。初めて見る目だった。値踏みでも品定めでもない。


 「怒っとうね、佐倉くん」


 「怒ってます」


 「なんで?」


 「あなたが死んだら俺のせいだからです。俺が連れて行ったから。俺の手を握っていたから。あの世界で死んだ人は全員、俺の手を握っていた人です」


 真鍋が黙った。初めてだった。この人が黙るのは。


 五秒。十秒。


 「……わかった。次からは従う。約束する」


 真鍋の声から、博多弁が消えていた。


 「ただ、一個だけ言っていい?」


 「何ですか」


 「あれ、見たかった。あんだけでかいもんが動いとうのを、俺は見たことがない。生まれて初めてやった。——怖くなかったと言うたら嘘になる。でも見たかった。それだけ」


 怖くなかったと言ったら嘘になる。


 初めてだった。この人の口から「怖い」に近い言葉が出たのは。


 「……次に見られるかもしれません。ベースキャンプが成功したら、もっと長くいられる。もっと近くで見られます」


 「そうやね」


 真鍋が笑った。さっきまでとは違う笑い方だった。少しだけ、楠木に似ていた。


 「佐倉くん。あんた、いい隊長になるよ」


 俺は隊長じゃない、と言おうとして、やめた。


 もう半年前のエクセルを叩いていた人間ではなかった。それだけは、わかっていた。

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