第30話「境」
高梨に返事をする前に、日下部に会いに行った。
施設の地下二階。照明を落とした個室。日下部は暗い部屋のベッドの上にいて、点滴のチューブが二本、左腕に刺さっていた。遮光カーテンが全部閉まっていて、唯一の光源は心拍モニターの画面だった。
入ったとき、日下部の目が動いた気がした。気がしただけかもしれない。目はもうほとんど見えていないと園田が言っていた。光の明暗がわかる程度。でも俺が近づくと、日下部の首の痕がかすかに脈打った。俺の足裏が反応を返す。二人のあの筋が、互いの存在を知らせ合っているみたいだった。
パイプ椅子を引いて座った。
「日下部さん。佐倉です」
日下部の指が動いた。右手。枕元のメモ帳に手を伸ばそうとして、届かなかった。俺がメモ帳を手の下に滑り込ませた。ペンを指に添えた。
日下部がゆっくり書いた。ひらがなで。
「さくらさん」
「はい。います」
日下部がまた書いた。時間がかかった。指に力が入りにくいのがわかった。前に来たときはもう少し速く書けていた。
「きょうはなにしにきた」
「会いに来ただけです」
日下部の首の痕が、薄暗い部屋の中でわずかに発光していた。赤みを帯びた光。前は光らなかった。園田が言うには、あの紫の空を見た夜以降、痕の活動がずっと規則的に続いているらしい。あちら側の何かと同期したまま、止まらなくなっている。
日下部が書いた。
「またいくんでしょ」
また行く。あの世界に。
「はい」
「きをつけて」
日下部がペンを止めた。しばらく動かなかった。それから、もう一行書いた。
「てをはなさないで」
息が詰まった。日下部は知らないはずだ。ベースキャンプ構想のことも、俺が自分の手を離す決断を迫られていることも。知らないはずなのに。
いや、違う。日下部は自分の経験から言っている。手が滑った。俺の手から離れた。あの世界に取り残された。二週間。あの暗い場所で一人で。
手を離すな。手を離したら、ああなる。
「……約束します」
日下部がメモ帳にもう一文字書いた。
「うん」
俺は立ち上がって部屋を出た。廊下で少し立ち止まった。壁に背中をつけて天井を見た。蛍光灯がちかちかしていた。
約束します、と俺は言った。でもベースキャンプを作るには、手を離さなきゃいけない。人を置いてこなきゃいけない。日下部に起きたことを、次は俺が作り出す側になる。
嘘だった。さっき俺が言ったのは、嘘だった。
日下部のメモ帳の文字が頭にこびりついていた。ひらがなの「てをはなさないで」。力の入らない指で書いた、あの丸っこい文字が。
翌日、園田の研究室に行った。
園田はモニターの前にいた。日下部の首の痕の活動データをずっと追いかけている。このところ園田はほとんど家に帰っていない。研究室のソファで仮眠をとって、起きたらデータを見る。その繰り返し。
「園田さん。聞きたいことがあります」
「何ですか」
「ベースキャンプの話、聞きましたか」
園田がモニターから目を離した。
「高梨さんから概要だけ。あちら側に人を置いてくる計画ですよね」
「はい。俺が手を離して、装備と人員を向こうに残す。俺だけ帰る。次の転移で合流する——合流できれば」
園田が黙った。五秒くらい。それから言った。
「科学的に言えば、長時間のデータが欲しいです。数分の転移では全体像が見えない。あの異変の正体を知るには、連続したデータが必要です」
「でも日下部さんみたいになる」
「なります。確実に。ボンベが切れた時点であの大気を吸うことになる。防護服があっても、長時間いれば皮膚から浸透する。日下部さんの二の舞になるリスクは高い」
園田の声は平坦だった。感情を排して事実を並べている。この人はいつもそうだ。感情で判断を曇らせない。
「それでも必要だと思いますか」
「必要です」
園田がまっすぐ俺を見た。
「あの異変は今までと規模が違います。生態系全体が同期的に反応していて、日下部さんの首の痕がこちら側で連動している。これが何を意味するのか、数分の観測ではわからない。わからないまま放置したら、次に何が起きるか予測もできない」
園田が息を吐いた。小さな体の、小さな息だった。
「佐倉さん。私は科学者です。知りたいから調べる。それだけです。でも今回は、知らないことが人の命に直結する。知らないまま次の転移をしたら、佐倉さんが死ぬかもしれない。赤城さんが死ぬかもしれない。だから知る必要がある。そのために人を送る必要がある。——私がこんなことを言う立場じゃないのはわかっています」
「いいえ。園田さんが言うから意味があるんです」
園田がまた黙った。メガネを外して拭いた。レンズが汚れていたわけじゃないと思う。
「佐倉さん。一つだけ」
「何ですか」
「ベースキャンプに行く人は、志願者だけにしてください。命令で行かせないでください」
「高梨さんも同じことを言ってました。志願した者だけを、と」
「ならいいです」
園田がメガネをかけ直した。
「あと、私もいずれ行きます」
「え?」
「今は行きません。今は約束します。でもいつか、データを自分の目で見る必要が出てくる。そのときは行きます」
前にもこの人は同じことを言った。「今は約束します」と。あのときは行かないという約束だった。今は——まだ行かないと言っている。でも「いつか」がついた。
「園田さん。そのときは俺が連れて行きます」
「はい」
それだけだった。約束とも覚悟とも言えない、小さなやりとりだった。
その足で高梨のところに行った。
「やります」
高梨が頷いた。表情は変わらなかった。
「志願者を集めます。一週間で編成します。作戦の詳細は赤城さんと詰めます」
「高梨さん」
「何ですか」
「高梨さんは行けないですよね。まだ体が」
「行けません。今回は後方です」
高梨がベッドの上で姿勢を正した。肋骨が痛むのか、少し顔をしかめた。
「佐倉さん。半年前とは別人ですね」
「……自分ではよくわかりません」
「ただし、あちら側ではそれは何の意味もない。人間がどれだけ変わっても、あの蟲の魔物一匹の前では無力です。忘れないでください」
楠木の名前は出なかった。でも二人とも、同じ人間のことを考えていた。怖がれる人間は生きて帰れる。あの蟲に刺されて死んだ人間の言葉。
「忘れません」
その夜、夢を見た。
いつもの夢だった。地脈の目で見るあの世界。赤黒い大地、灰色の空、紫の筋。網目が全部同じ方向に流れている。あの異変は続いていた。
ただ今夜は、その先があった。地脈の奥の奥から、引力みたいなものが来た。匂いみたいな、でも匂いじゃない何かが、方向を持ってこっちに流れてくる。来い、と。
視点が引っ張られて、見たことのない場所に辿り着いた。森の奥の奥に、地面から発している光があった。色じゃないのに色として見えている何か。脳が処理しきれていなかった。光の中に、何かが立っていた。地面から盛り上がるようにして、巨大な何かが。
それが、こっちを見ていた。構造物じゃない。その向こうにいる何かが、地脈を通じて、こっちを覗いていた。この森も、あの蟲も、脈打つ空も、全部がこいつの下にあるような気がした。
胸の真ん中を内側から叩かれて、目が覚めた。午前三時。汗でシーツが濡れていた。呼んでいたのは地面じゃなかった。地面の向こうにいる何かだった。
その夢の意味を考える暇もなかった。
一週間後。
施設の会議室に、志願者が集まった。高梨が椅子に座ったまま——まだ立てない——経緯を説明した。楠木の死、日下部の行方不明と救出、現在の日下部の状態。全部話した。その上で、ベースキャンプ作戦の概要を伝えた。
志願者は四人だった。あの世界に行って死ぬかもしれないと聞いた上で手を挙げた人間が、四人。
三人は陸自の隊員で、高梨の推薦だった。装備の扱いも体力も問題ない。経歴書を見たが、名前と顔が一致しなかった。これから一致するようになる。覚える前にいなくなるかもしれない。
四人目が、違った。
会議室に最後に入ってきた男は、他の三人と空気が違っていた。陸自の制服を着ていない。私服。黒いTシャツにカーゴパンツ。体格は楠木より一回り大きいのに、歩き方が妙に軽かった。猫みたいな、というより、大型の肉食獣みたいな軽さ。音がしない。
椅子に座らなかった。壁に背中を預けて、腕を組んで、部屋を見回した。
「真鍋涼介。椎名さんから話は聞いとう?」
高梨が頷いた。「聞いています。元海自特警隊。現在は民間」
「まあそんなとこ。堅い経歴はどうでもよかけど」
真鍋が俺を見た。目が合った。値踏みする目だった。赤城の目とも高梨の目とも違う。赤城は観察する。高梨は評価する。真鍋は——品定めしていた。獲物を見る目に近かった。
「あんたが佐倉くん? 門を開ける人」
「はい」
「あっちの世界、どがんやった?」
「人が死にます」
「そりゃそうやろ」
真鍋が笑った。笑い方が軽かった。人が死ぬという話を聞いて、この軽さで笑える人間を俺は初めて見た。
「楠木って人と日下部って人がやられたっちゃろ? 椎名さんから渡された資料は読んだ。蟲に刺されて一人死亡、一人行方不明の後に救出されたけど体がおかしくなっとう。——で、今度はベースキャンプば作って人を置いてくると」
「はい」
「おもしろかね」
部屋の空気が固まった。
高梨が真鍋を見た。赤城がいたら、たぶん同じ顔をしていた。
「真鍋さん。この作戦は——」
「わかっとうよ。死ぬかもしれん。つまらん死に方するかもしれん。蟲に刺されるとか、訳わからん空気吸うて体がおかしくなるとか、そういう死に方。戦場の死に方じゃなくて、実験動物の死に方やね」
真鍋が壁から背中を離した。立ち上がると、部屋の中で一番でかかった。
「でもよ、誰も行ったことがない場所に行けるっちゃろ? 人間が見たことがないもんが見れるっちゃろ? そんなん、おもしろいに決まっとうやん」
俺は何も言えなかった。
楠木は怖がる人間だった。怖がって、それでも行った。だから信頼できた。
真鍋は怖がっていなかった。怖がっていないのに行く人間を、俺はどう信頼すればいいのかわからなかった。
真鍋が俺に手を差し出した。握手を求めている。
「よろしく、佐倉くん。俺をあっちに連れてってくれんね」
俺はその手を握った。大きくて、硬くて、乾いた手だった。楠木の手を思い出した。楠木の手はもっと細かった。でもばねがあった。
この手を、いつか俺は離すことになる。
テーブルの上の遺品が増えないことを祈った。祈っても無駄だと、もう知っていた。




