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魔界世界  作者: 彗
組織

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第29話「兆」


 赤城との三回目だった。


 前回と前々回は、誰も死ななかった。サンプルを持ち帰り、センサー装置を避け、発煙筒で脅威を退けた。赤城との連携が噛み合い始めていて、俺は少しだけ——本当に少しだけ、あの世界に慣れつつある自分に気がついていた。


 夜中に足裏が脈打った。転移の兆候だ。赤城に連絡すると四分で来た。前より速い。近くに引っ越したのかと聞いたら「走ってます」と言った。


 防護服を着て、ボンベを背負って、スリングを確認した。発煙筒は六本に増やしてある。前回効いたから数を足した。赤城と手を繋いで、足元がぶよぶよした。


 森だった。暗くて、柱みたいな木の群れが周囲にそびえている。何度か来たことがある種類の場所だった。


 「状況確認。暗所。森林内。地面は硬い。——佐倉さん、足裏は」


 「いつもの感覚です。脅威なし。でも——」


 何かが違った。いつもと同じ森で、同じ暗さで、同じ瘴気の匂いがする。なのに足裏の感覚が微妙にずれている。痛みではないし、脅威でもない。地面がいつもより忙しいとしか言いようがなかった。


 「地面が変です」


 「変とは」


 「うまく言えないんですけど、いつもはゆっくり動いてるんです、地脈の筋が。今日は速い。全部が速い」


 赤城がしゃがんで地面にLEDライトを当てた。網目の筋が光から逃げる。いつもの反応だが、逃げる速度が倍くらい速かったし、筋の動く方向も揃っていた。普段はばらばらに散るのに、今日は全部が同じ方向に流れている。


 「全部同じ方向に動いてます。北——じゃない、方角はわからないけど、あっちに向かって全部が流れてる」


 赤城が流れの方向に目をやった。暗い森の奥で、何も見えない。


 「行きますか」


 「……少しだけ」


 流れに沿って歩いた。手を繋いだまま。五十歩。百歩。


 木の脈動が変わっていた。いつもはゆっくりした拍動で、どくん、どくん、と間隔が長い。今日は速かった。どくどくどくどく。心臓が速く打っているみたいに粘液が明滅して、森全体が興奮している感じだった。


 蟲がいなかった。いつもなら地面を腕くらいの太さの蟲が横切るのに、今日は一匹もいない。地面にも木の上にも。


 「蟲がいません」


 「逃げたんですか」


 「わからない。でも一匹もいなくなってる」


 赤城の目が暗がりの中で動いた。


 「地震の前に動物が逃げるのと同じ構造ですね」


 何かが来るから蟲が逃げた。地脈が速くなって、木が騒いでいる。そう考えると辻褄が合った。


 足裏がずきんと痛んだ。脅威の痛みとは違う、もっと深いところに響く痛みだった。足裏のあの筋が震えていて、地面と共振しているのが自分でもわかった。


 「佐倉さん、顔色が悪い。大丈夫ですか」


 「大丈夫です。ただ、足裏が地面と一緒に震えてるんです。遠くからすごくでかい何かが来てる気がする」


 空を見上げた。枝葉の隙間から灰色の空が見えた。


 いつもの灰色ではなかった。灰色の中にうっすらと紫がかった筋が走っていて、オーロラに似ているけどもっと不規則で、脈打っていた。空が脈打っている。地面と同じリズムで。


 「赤城さん、空」


 赤城が見上げた。


 「……何ですかあれ」


 「わかりません。初めて見ます」


 紫の筋が空に広がっていく。枝葉の隙間から見える範囲だけでも空全体を覆いつつあるように見えた。空と地面が同じリズムで震えている。この世界全体が何かに反応している。


 足裏が限界だった。震えが止まらなくて膝に来ていた。


 「撤退します」


 「了解」


 サンプルを採る余裕はなかった。来た方向に走った。赤城が前、俺が後ろ、手を繋いだまま。走りながらも足裏がずっと訴えてくる——この世界がざわついている。蟲が消え、地脈が走り、木が騒ぎ、空が脈打って、全部が同時に何かを待っている。


 足元がぶよぶよして、帰還した。


 部屋の床に二人で立っていた。マスクを外すと汗だくだった。赤城も汗をかいている。この人が汗をかくのは二回目だ。


 「佐倉さん。あれは何でしたか」


 「わかりません。あの世界全体がおかしくなってました。蟲が逃げて、地脈の筋が速くなって方向が揃って、木が興奮して、空の色まで変わった。——あの世界にとってとんでもないことが起きかけてる」


 赤城が三秒ほど黙って、それから言った。


 「園田さんに報告してください。私は椎名さんに」


 赤城が出ていった後、園田に電話した。午前二時だったが出た。


 あの世界で見たことを全部伝えた。地脈の流れ、蟲の消失、木の脈動、空の紫の筋。園田は長い間黙っていた。


 「……佐倉さん。日下部さんの首の痕の活動が、今夜急に変化しました」


 「え?」


 「今まで不規則だったのが、二時間前から規則的になったんです。一定のリズムで。私、ずっとモニターしてたんですけど、普段は不規則なのに今夜だけ規則的になった」


 園田が少し間を置いた。


 「佐倉さんが転移した時間と、日下部さんの痕が変化した時間。一致してます。佐倉さんがあちら側にいた時間帯だけ、日下部さんの痕が規則的に活動していた。あちら側の何かが、こちら側の日下部さんの体に届いてる」


 背筋が冷えた。あちら側で起きていることが、日下部の体を通じてこちらに届いている。


 「園田さん、何が起きてるんですか」


 「わかりません。でも規模が今までと違います。佐倉さんの個人的な変容とか、日下部さんの個別の症状とか、そういうレベルじゃない。蟲が一斉に消えて、地脈の方向が揃って、空の色まで変わったなら——」


 電話の向こうで園田が息を吸う音がした。


 「生態系全体が同時に反応してる。地球で言えば——大地震の前兆くらいの規模です」


 「次に行ったとき、同じ異変が続いてるか確認しないと」


 「はい。お願いします」


 あの世界の異変が頭から離れないまま、翌日、別の話が来た。高梨からだった。


 施設に行くと、高梨はベッドの上にいた。胸にバンドを巻いたまま、まだ走れない体で、ファイルを片手で差し出してきた。右手は肋骨が痛くて上がらない。


 「佐倉さん。赤城から報告は受けました。——それとは別に、話がある」


 ベースキャンプ構想、と高梨は言った。


 「今のオペレーションは限界です。数分行って帰るだけでは何もわからない。あちら側に人と装備を降ろして、佐倉さんだけ帰る。次に転移したとき合流する。それだけです」


 日下部のことが頭をよぎった。行方不明になって二週間、あの世界に取り残されて、光がまぶしくなって水が飲めなくなって、首に痣をつけられて帰ってきた日下部。


 「日下部さんと同じことを、意図的にやるってことですよね」


 「装備が違います。ボンベの予備、食料、テント、武器。——ただ、転移先が選べない以上、合流できる保証はない」


 「人が死にます」


 「死にます」


 高梨は否定しなかった。


 「あの蟲の魔物一匹で楠木が死んで、私が肋骨三本折られた。守りきれるかと言われれば正直厳しい。——ただ、やらなければ進まない。やって死ぬか、やらずに死ぬかの違いです」


 高梨が俺を見た。


 「それと、アメリカが来る前に実績がいる」


 「漏れたんですか」


 「閣僚から。時間の問題です」


 俺の体が政治の道具になりつつある。頭ではわかってたつもりだったけど、高梨の口からはっきり聞くと、腹の底が冷たくなった。


 「高梨さん。俺がやると言ったら、志願者は集まりますか」


 「集めます。楠木と日下部の件は全員に伝えた上で、志願した者だけを」


 楠木の名前と日下部の名前を、また新しい誰かが聞くことになる。それを聞いた上で手を挙げる人間がいて、その人間をあの世界に連れて行って、俺が手を離して、置いてくる。


 「……考えさせてください」


 「はい。ただ、あまり時間はありません」


 帰り道の電車で、テーブルの上に並んでいるものを思い出していた。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。日下部の手袋。


 ベースキャンプを作れって言われた。人を置いてこいって。俺の手を離して、あっちに残してこいって。


 今まで俺は一度も自分から手を離したことがない。拓海が離してくれた。楠木さんが離してくれた。いつも向こうから離された。今度は俺から離す。


 拓海の財布を思い浮かべた。拓海が手を離したのは俺を守るためだった。俺が手を離すのは——何のためだ。


 進むためだ。


 それ以上の言葉が出てこなかった。


 目を閉じた。電車の振動が足裏に伝わっていて、あの世界の振動とは全然違う、ただの鉄路の振動だった。


 でもその下に、かすかに、あの脈動が混じっている気がした。

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