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魔界世界  作者: 彗
組織

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28/29

第28話「繋」


 園田に呼ばれた。


 研究室ではなく、日下部がいる施設だった。地下。非常灯のオレンジの光。園田が廊下で待っていた。目の下にくまがあった。


 「佐倉さん。二つ話があります。一つは良い話。もう一つは——悪い話」


 「良い方から」


 「佐倉さんの足裏の反応と、あちら側の事象に相関がありました。赤城さんから報告をもらって、過去の転移記録と照合したんです」


 園田がノートパソコンを開いた。グラフが表示されていた。横軸が時間、縦軸が足裏の痛みの強度——俺が転移ごとに記録していたメモから、園田が数値化したもの。


 「佐倉さんが足裏に痛みを感じたタイミングと、あちら側で脅威が接近したタイミング。完全に一致しています。誤差ゼロ。偶然じゃないです」


 「それはずっと感じてたことです。足裏がずきんとしたら何か来る」


 「感覚的にはそうでした。でも今回データで裏付けられた。そしてもう一つ。佐倉さんが『やめろ』と意識した二回——高梨さんが泥に沈んだときと、赤城さんとの転移で追跡者が来たとき——どちらも、足裏の痛みのパターンに変化が出ています」


 園田がグラフの別の部分を指した。


 「通常、脅威接近時の足裏の反応は受信です。あちら側から情報が来て、佐倉さんが受け取る。でもこの二回だけ、波形が逆になっている。佐倉さんから地面に向かって信号が出ている。受信ではなく送信」


 送信。俺から地面に。


 「それがあちら側の地面に影響を与えた。泥の沈み方が遅くなった。追跡者が速度を落とした。——佐倉さん、あなたはあちら側の地脈を通じて、干渉できるようになりつつある」


 「命令を送れる、ってことですか」


 「命令という言い方は正確じゃないかもしれません。もっと原始的な——叫びに近い。強い感情が足裏のあの筋を通じて地脈に流れ込んで、地脈が反応する。意図的な制御ではなく、パニック時の叫び。でも叫びが届いている」


 叫びが届いている。あの世界の地面に。


 「これが良い話です。佐倉さんの体の変容は、一方的な侵食ではない。双方向の接続です。あちら側から情報を受け取るだけでなく、あちら側に影響を与えることもできる」


 双方向。俺の体はあの世界のセンサーであると同時に、あの世界への発信機でもある。


 「で、悪い話は」


 園田がパソコンを閉じた。立ち上がった。


 「日下部さんに会ってください」


 廊下を歩いた。日下部の部屋の前。園田がドアをノックした。返事がなかった。園田がドアを開けた。


 暗かった。調光式の照明が消されていた。非常灯のオレンジすら消されていた。完全な暗闇。


 「日下部さん」


 園田の声。


 返事がなかった。


 「日下部さん」


 三秒。五秒。


 「……ん」


 声ではなかった。唸り。言葉になっていない音。


 目が慣れるまで待った。暗闇の中に、ベッドの輪郭が見えてきた。日下部が座っていた。ベッドの上に。膝を抱えて。壁に額をつけて。こっちを向いていなかった。


 点滴のチューブが腕から伸びていた。それだけが日下部を生かしている。


 「日下部さん。佐倉です」


 日下部の頭がゆっくり動いた。こっちを向くまでに五秒かかった。


 目が見えた。暗闇の中で。


 変わっていた。


 虹彩が赤みを帯びていた。前は普通の茶色だった。今は暗闘の中でかすかに赤い。瞳孔が開ききっていた。光を集めようとしている。


 でもそれは「よく見えるようになった」のではない。園田が小声で言った。


 「光過敏が悪化しています。もう調光式の最低でもまぶしいと言って、全部消しました。暗闘の中でなら瞳孔が最大に開いて少し見える。でも日中の光の下では——もう何も見えません」


 光の下で見えない。暗闇でしか見えない。人間の世界は光の世界だ。その世界で日下部は目が見えなくなりつつある。


 「日下部さん。体は」


 「…………」


 返事が来なかった。口が動いた。でも声にならなかった。


 園田が言った。「三日前から、発話が難しくなっています。喉の筋肉が——変化しています。声帯の周囲の組織があの筋に侵食されて、声を出す機構が変わりつつある」


 声が出なくなっている。


 日下部が手を動かした。ゆっくりと。ベッドの横にあったメモ帳を取った。鉛筆を握った。左手で。右手は点滴があるから。


 書いた。時間がかかった。一文字ずつ。鉛筆が震えていた。


 メモ帳を俺に差し出した。


 「からだがおもい。てあしがつめたい。みずがのめない。ひかりがいたい。こえがでない」


 ひらがなだった。あの世界で泥の指で書いたメモと同じ。漢字が書けなくなっている。


 「あたまはまだだいじょうぶ。かんがえることはできる。でもからだがいうことをきかない」


 頭は大丈夫。体が言うことを聞かない。人間の意識が、人間でなくなっていく体に閉じ込められている。


 日下部が次のページに書いた。もっとゆっくり。


 「くびのうしろがあつい。ずっとあつい。なにかがうごいてる。なにをされてるかわからない」


 首の後ろの痕。あの刻印。中で何かが動いている。何をされているかわからない。目的不明。何をしているのか不明。ただ日下部の体が変わっていく。


 日下部がもう一行書いた。


 「わたしどうなるの」


 俺は答えられなかった。


 園田も答えられなかった。


 暗闇の中で、日下部の赤みを帯びた目が俺を見ていた。見えているのかいないのか。


 日下部が最後に一行書いた。字が大きくなっていた。力が入らなくなっている。


 「こわい」


 メモ帳を受け取った。ひらがなの、震える字。前回のメモは「さくらさんへ」で始まっていた。あの世界で、一人で、帰りたいと書いた。今度はこちらの世界で、帰ってきたのに、体が帰ってきていない。


 「日下部さん。園田さんがずっと見ています。データを取って、何が起きているか調べています。——止める方法を探しています」


 嘘ではなかった。園田は調べている。でも止める方法があるかは——


 日下部がメモ帳を取り返した。書いた。


 「うそじゃなくていい。いてくれるだけでいい」


 部屋を出た。廊下。園田と二人。


 「園田さん。止められるんですか」


 園田が壁にもたれた。目を閉じた。


 「わかりません。首の痕から何が入り込んでいるのか、それが何をしているのか、根本がわからない。わからないものは止められない。——MRIを撮りたいんですが、日下部さんは機械の音に耐えられない。聴覚も過敏になっています。検査自体が日下部さんの体に負担をかける」


 「このまま進行したら」


 園田が目を開けた。俺を見た。


 「……人間の臓器が、一つずつ機能を変えていきます。目はもう変わった。声帯が変わりつつある。次は消化器かもしれない。点滴で栄養を入れていますが、血管自体が変化したら点滴も入らなくなる。そうなったら——」


 言わなかった。言わなくてもわかった。


 「どれくらい持ちますか」


 「わかりません。進行速度が一定じゃない。加速している日もあれば、止まっている日もある。パターンがない」


 「パターンがないのは——あの首の痕が何かしてるからですか」


 「可能性はあります。でもあの痕が何をしているのか、それ自体がわからない。観察しているのか。実験しているのか。培養しているのか。まったく別の目的があるのか」


 目的不明。あの世界の知的な存在が、日下部の体に何かをしている。何を。なぜ。聞けない。聞く手段がない。


 「園田さん。俺の体には同じことは起きないんですか」


 「起きています。でも速度と経路が違う。佐倉さんは足裏から自然に、徐々に接続された。双方向。体の機能は維持されている。日下部さんは首から強制的に、一方的に接続された。体の機能が壊れていっている。——同じ菌糸の定着でも、接続のされ方が全然違う」


 俺はハイブリッド。日下部は——


 「日下部さんは、変容しているんです。人間から、何か別のものに。でもその『何か』が何なのか、誰にもわからない。完成する前に——体が持たないかもしれない」


 完成する前に。完成とは何だ。何に完成するんだ。


 施設を出た。外の空気を吸った。夜だった。街灯の光が目に入った。普通の光。日下部にはもう見えない光。


 帰りの電車。窓に映る自分の顔。


 俺と日下部は、同じ世界に行って、同じ地面を踏んだ。でも結果が違う。俺は足裏から徐々に変わって、まだ人間として暮らせている。日下部は首から一気に変えられて、人間として壊れていっている。


 差は何だ。俺の体が特別なのか。接続のされ方が違うからか。それとも、あの首の痕——あの刻印——が、日下部に別のことをしているのか。


 家に帰った。テーブルの上に拓海の財布と森塚の手袋。


 「日下部さんが壊れていってる。声が出なくなった。目が見えなくなってきてる。——首の痣が何かしてるんだと思う。でも何をしてるかわからない。止め方もわからない」


 返事はなかった。


 「俺は大丈夫。俺の変容は違う。双方向だって園田さんが言ってた。地脈に叫びを送れる。——でも日下部さんは一方通行だ。入ってくるだけで、何も送れない。何も抵抗できない」


 返事はなかった。


 足の裏がじんじんしていた。あの筋が動いている。俺のは双方向。日下部のは一方通行。


 同じ世界に行って、片方は力を得て、片方は壊れていく。


 公平じゃない。でもあの世界に公平なんてものはない。最初からなかった。

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