第27話「対」
赤城との事前打ち合わせは三十分で終わった。
俺の部屋。赤城はテーブルの前に座って、拓海の財布と森塚の手袋をちらっと見て、何も言わなかった。
「装備の確認をさせてください」
赤城は高梨と違った。ショットガンを持ってこなかった。
「銃は」
「持ちません」
「……効かないから?」
「効かないものを持つ重量が無駄です。その分、動ける」
代わりに持ってきたのは、小型のナイフ。発煙筒三本。LEDライト。笛。そしてカラビナ付きのスリング——布製の幅広いベルト。
「このスリングで佐倉さんと繋ぎます。ワイヤーは硬くて動きにくい。布なら体に沿って動ける。絡まない」
ワイヤーは高梨のときに使った。確かに硬くて、走ると腰に食い込んだ。
「切れませんか」
「切れます。ワイヤーだって切れました。どうせ切れるなら、動きやすい方がいい」
合理的だ。でも楠木や高梨の合理性とは方向が違う。楠木は「ないよりまし」で装備を足した。赤城は「無駄を削る」で装備を減らしている。
「それから、約束事を一つ」
「はい」
「あちらに着いたら、私が先に動きます。佐倉さんは私の後ろについてきてください。手は繋いだまま。私が止まったら止まる。走ったら走る。しゃがんだらしゃがむ。——余計なことは考えなくていい。私の動きだけ見ていてください」
「俺が何もしなくていいのは前と同じですね」
「違います。楠木三曹と高梨二佐は、佐倉さんに何もさせなかった。守られている人は判断しなくていいから。——私は佐倉さんに判断してほしい。ただし、体は私に合わせてほしい。頭は佐倉さん、体は私。そういう分担です」
頭は俺。体は赤城。
「わかりました」
「もう一つ。あちら側で佐倉さんの体に何か起きたら——痛みでも、めまいでも、感覚の変化でも——すぐに教えてください。隠さないでください」
「なぜ」
「佐倉さんの体の変化が、あちら側の状況を読む手がかりになるからです。報告書を読みました。佐倉さんの足裏の反応が、脅威の接近を教えてくれる。地面が沈む前に予兆がある。魔物が来る前に匂いが変わる。——佐倉さんの体は、あちら側のセンサーです」
センサー。俺の体が。
「私には何も感じられない。あの世界を感じ取れるのは佐倉さんだけです。だから佐倉さんが感じたことを、全部私に伝えてください。それが私たち二人の生存率を上げます」
楠木は俺を守った。高梨は俺を守った。赤城は俺を使う。俺の体を、あの世界を読むための道具として。
冷たいようで、これが一番正しいのかもしれなかった。
四日後。夜。足裏が脈打った。
赤城に連絡した。五分で来た。高梨の七分より速い。近くに住んでいるのか、それとも寝ずに待機していたのか。
装備を着けた。防護服。ボンベ。マスク。ゴーグル。手袋。スリングで腰を繋いだ。布が体に沿う。ワイヤーより遥かに楽だった。
右手で赤城の左手を握った。
赤城の手は乾いていた。小さくはなかった。指が長くて、手首が細くて、でも掌に硬い部分があった。タコ。何のタコか。格闘のか。銃のか。
「行きます」
足元がぶよぶよした。
森だった。
柱みたいな木の群れの中。暗い。灰色の光がほとんど届かない。
赤城が動いた。着地して一秒で。
膝を曲げて、重心を落として、右手で地面に触れた。左手は俺を握ったまま。動きに音がなかった。防護服が擦れる音すらしなかった。
「暗い。上方は枝。地面は硬い。匂いは——」
赤城がマスク越しに空気を吸った。
「甘い。腐ったような。これが瘴気ですか」
「はい」
「行動可能です。——佐倉さん、足裏は」
足裏。集中した。あの筋がじんじんしている。いつもの感覚。それ以外は——
「普通です。脅威の兆候なし」
「了解。移動します」
赤城が立ち上がった。音がなかった。膝を伸ばして立ち上がるまでの動きが、一つの流れだった。
歩き始めた。赤城が前。俺が後ろ。手を繋いだまま。スリングが二人の間で軽く揺れている。
赤城の歩き方が違った。楠木は警戒しながら歩いた。銃を構えて、周囲を見回して。赤城は警戒していない——ように見えた。でも違う。首が動かないのに、目だけが動いている。視線が左右に振れている。瞬きが少ない。全部見ている。見ていないように見えて、全部見ている。
足音がしない。防護服を着ているのに。ブーツで地面を踏んでいるのに。体重の乗せ方が違うのか。
百歩。二百歩。
赤城が止まった。
「佐倉さん。あの木の幹に何かあります。十時の方向。七メートル」
見た。暗い。LEDライトを——
「ライトはつけないでください」
「見えません」
「目が慣れます。三十秒待ってください」
待った。目が暗さに慣れていく。灰色の光が、少しずつ輪郭を浮かび上がらせる。
見えた。木の幹の表面に、何かがあった。傷ではない。粘液とも違う。幹の表面が一部だけ色が変わっている。灰色。あの構造物と同じ灰色。
「前に見た構造物と同じ色です。あの灰色の円盤と棒があった場所。あの世界の何者かが作ったもの」
赤城がゆっくり近づいた。俺も一緒に。
灰色の部分は掌くらいの大きさだった。幹の表面に埋め込まれている。中心に小さな穴がある。穴の周りに溝。前にあの開けた場所で見つけた構造物に似ている。でもあれは地面にあった。これは木の幹に。
「佐倉さん。これは人工物ですか」
「……自然物ではないと思います。形が整いすぎてる。前にも似たものを見ました」
「触りますか」
「触らないでください。何が起きるかわからない」
赤城が頷いた。ポケットからナイフを出した。ナイフの先端で、灰色の表面の端をなぞった。
灰色の部分が反応した。
穴の中から何かが出てきた。透明な液。球形に膨らんで、穴の上で震えている。シャボン玉みたいだ。
赤城が手を引いた。液が空気に触れて、色が変わった。赤黒く。そして——匂いが来た。マスク越しに。甘い匂いとは違う。もっと鋭い。金属的な。
足裏が反応した。ずきん。
「何か来てます」
「方角は」
「——後ろ。後ろから」
赤城が振り返った。同時に俺も振り返った。スリングが二人の動きに沿って回った。ワイヤーなら絡まっていた。布だから回れた。
暗い森の中。何も見えない。でも足裏が脈打っている。何かが近づいている。大きい。重い。地面の振動が足裏に伝わってくる。
「距離は」
「わからない。でも近い。速い」
赤城が発煙筒を出した。
「走ります。私についてきてください。手は離さない。呼吸を整えて」
赤城が走り出した。音がなかった。嘘だろ。走っているのに足音がしない。俺は走った。足音がした。でたらめな足音。赤城の背中だけを見て走った。
後ろから振動が来ている。追いかけてきている。木の間を。何かが。
赤城が発煙筒を抜いて、後方に投げた。煙が広がった。白い煙が暗い森に充満した。
振動が止まった。
一秒。二秒。三秒。
追いかけてこなかった。煙が効いたのか。それとも——
「止まりました」と俺が言った。「振動が消えた」
赤城が速度を落とした。走りから歩きに。呼吸が乱れていなかった。俺は肩で息をしていた。
「発煙筒が効いたんですか」
「わかりません。効いたのか、興味を失ったのか。——佐倉さん、さっきの装置に触れたとき、あれが信号を出したんだと思います。何かを呼んだ。警報みたいに」
警報。あの装置はセンサーか。触れたものを検知して、何かに知らせる。
「佐倉さん。足裏は」
「静かです。もう振動がない」
「サンプルは採りますか」
「……採りましょう。ここまで来たから」
赤城が周囲を確認した。膝をついて、地面を触った。
「ここ。地面が硬い。しゃがみましょう」
しゃがんだ。二人同時に。スリングが弛んだ。俺がポケットからサンプルキットを出した。スコップで赤黒い地面を掘った。管に入れた。蓋を閉めた。
「二本目。少し離れた場所から」
一歩移動した。二本目を採った。
赤城はサンプルを採らなかった。俺が採っている間、周囲を見ていた。目だけで。首を動かさずに。
三本採ったところで足裏が脈打った。帰還。
「帰還来ます。手を握っていてください」
「握っています」
赤城の手が締まった。強すぎず、弱すぎず。離れない力。潰さない力。この力加減を、赤城は一回目で合わせてきた。
足元がぶよぶよした。
地面が消えた。
部屋の床。二人。
赤城がマスクを外した。汗をかいていなかった。
「全員帰還。負傷者なし」
俺もマスクを外した。汗だくだった。呼吸が荒かった。
「佐倉さん。走ったとき、ボンベの空気残量を確認しましたか」
「……してないです」
「次からしてください。走ると消費が倍になります。残量が三分の一を切ったら教えてください」
「わかりました」
「それから、さっきの装置。ナイフで触れた直後に何かが来た。あれはセンサーと考えていいですか」
「たぶん。前に見た構造物と似てる。あの世界の何者かが作ったもの。触れると反応する」
「今後は触れないようにしましょう。——それと」
赤城が俺を見た。あの瞬きの少ない目で。
「発煙筒で追跡が止まった。あちらの魔物が可視光に依存しているなら、煙が視界を遮った。あるいは煙の化学成分が何かの反応を起こした。どちらにしても、発煙筒は使える。もっと持っていきましょう」
淡々と。分析。報告。改善提案。
「赤城さん」
「はい」
「怖くなかったですか」
「怖かったです」
即答だった。楠木みたいに考えなかった。高梨みたいに間を置かなかった。即答で怖かったと言った。
「走っているとき心拍が上がりました。百八十くらいまで。恐怖反応です。ただ、恐怖で動けなくなるタイプではないので、行動には影響しませんでした」
怖い。でも動ける。怖いと恐怖は別物。恐怖は感情。動くのは技術。赤城は技術で恐怖を処理している。
「次も行けますか」
「行けます。——佐倉さん、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「走っているとき、後ろの何かが急に止まりました。発煙筒の前に、一瞬速度が落ちた気がしました。佐倉さん、何かしましたか」
何かしたか。
走っていた。赤城の背中を見ていた。必死で走っていた。足裏がずきずき痛んでいた。あの筋が脈打っていた。来るな、と思った。追いかけてくるな、と。
「……わかりません。何もしてないと思います。でも——」
「でも?」
「来るな、と思いました。足裏で」
赤城が黙った。三秒。
「それは——前にもありましたか」
「一回だけ。高梨さんが泥に沈んだとき、地面にやめろと思ったら、沈む速度が遅くなった。——偶然かもしれない」
「偶然かもしれない。でも二回目なら、パターンかもしれない」
赤城が立ち上がった。
「園田さんに報告してください。佐倉さんの足裏の反応と、あちら側の生物や地面の挙動に相関があるかどうか。データが要ります」
「わかりました」
赤城が帰り支度をした。スリングを外し、防護服を脱ぎ、元の私服に着替えた。黒いTシャツにジーンズ。動きに無駄がなかった。着替えにも。
玄関で靴を履いた。
「佐倉さん」
「はい」
「今日、誰も死にませんでした」
「はい」
「明日も死にません。明後日も。——そのつもりでやります」
赤城が出ていった。
一人になった。テーブルの前に座った。拓海の財布。森塚の手袋。
「新しい人と行ってきた。赤城さんって人。全然違う。楠木さんとも高梨さんとも。——守ってくれない。でも、一緒に生き延びてくれる」
返事はなかった。
今日、誰も死ななかった。
森塚先生と初めて二人で帰ってきたとき以来、この言葉が意味を持つ。誰も死なない転移。それが当たり前になる日が来るかもしれない。
来てほしい。
足裏がじんじんしていた。あの筋が動いている。追跡者を止めた——かもしれない——感覚の残滓が、まだ残っていた。
俺の体は、あの世界の一部になりつつある。
でも今日は、その体で人を守れたかもしれない。
かもしれない。まだわからない。でも悪い気分じゃなかった。
翌朝、椎名から短いメッセージが来た。
「昨夜の件、上に報告しました。総理から一言だけありました。『死者なし、か。続けてくれ』。——以上です」
総理。この国の最上位の人間が、俺の転移を知っている。そして一言だけ返した。
続けてくれ。
続ける。続けるしかない。




