第26話「陣(二)」
園田が来てから三時間で、椎名が動いた。
深夜二時。椎名に電話したのは園田だった。俺にはできなかった。高梨の横で座っているだけで精一杯だった。
午前五時に黒いバンが二台来た。医療チームが四人。担架。点滴。酸素。俺の部屋が一瞬で野戦病院になった。
高梨が担架に乗せられた。まだ意識がない。園田が付き添って、バイタルを報告していた。
「肋骨、最低三本。左第五、六、七。フレイルチェストの可能性。肺が潰れていなければ奇跡です。——左足首に未知の生体物質の侵入痕。経過観察が必要」
医療チームの人間が園田を見た。「未知の生体物質」という言葉に反応していた。でも質問はしなかった。椎名から事前に何か言われているのだろう。
高梨が運ばれていった。
日下部はもっと時間がかかった。
担架に乗せようとしたとき、日下部がライトを見て叫んだ。医療チームのヘッドライトだった。
「消して! 消してください!」
消した。暗がりの中で日下部を担架に乗せた。
俺が付き添った。バンの中。窓のない後部座席。暗い。日下部が横たわっていた。目が開いていた。暗がりの中で。
「どこに行くんですか」
「椎名さんが手配した施設です。医療チームがいます」
「……病院じゃなくて」
「病院では対応できない状態だから」
日下部が黙った。
バンが走った。二十分くらい。着いたのは都内の、外から見たらただの雑居ビルにしか見えない建物だった。地下に降りた。廊下を通った。白い壁。蛍光灯——が消されていた。誰かが先に消しておいてくれたのか。非常灯のオレンジの光だけ。
部屋に通された。個室。ベッドと椅子とテーブル。窓がない。照明は調光式。最低にしてあった。
日下部をベッドに寝かせた。医療チームが点滴を繋いだ。水が飲めない体に、静脈から水分と栄養を入れるしかなかった。
「日下部さん。ここにいてください。園田さんが毎日来ます。俺も来ます」
日下部が俺の手を握っていた。弱い力で。
「佐倉さん」
「はい」
「ここ、出られますか」
出られるか。出られるだろうか。椎名が手配した施設。窓がない。地下。照明が調光式。日下部の体に起きていることを考えれば——
「出られます。回復したら」
嘘だった。嘘だとわかっていた。日下部の体はあちら側に変わりつつある。回復の方向が元に戻ることなら、たぶん戻らない。
日下部が手を離した。
「……嘘つくの、うまくなりましたね。佐倉さん」
見抜かれていた。
「すみません」
「いいです。嘘でも、来てくれるなら」
部屋を出た。廊下で園田が待っていた。
「園田さん。日下部さんは——」
「経過観察します。バイタル、血液、脳波、皮膚の変化。全部記録します。——正直に言うと、日下部さんの体は今、世界で最も貴重なデータの塊です」
データの塊。人間を。
「園田さん」
「……言い方が悪かったです。すみません」
「いえ。事実だから。——でも、日下部さんは実験対象じゃない」
「わかっています。でも、佐倉さん。日下部さんの体に起きていることを理解しないと、佐倉さんの体に起きることも理解できない。日下部さんを助けることが、佐倉さんを助けることに繋がるんです」
返す言葉がなかった。
翌日。高梨の病室に行った。椎名の手配した医療施設。日下部とは別の階。
高梨は意識が戻っていた。ベッドの上で上体を起こしていた。胸にバンドが巻かれていた。呼吸が浅い。
「高梨さん」
「佐倉さん。——日下部は」
「生きてます。別の階にいます」
「状態は」
「良くないです。光がまぶしくて水が飲めない。体中にあの筋が広がってる。首の後ろに何かの痕がある」
高梨が目を閉じた。
「俺の足は」
「足首に一本。赤い筋。泥が触れた場所から」
「……始まったか。俺にも」
高梨が自分の左足を見た。包帯の下に、かすかに赤い線が透けて見えた。
「高梨さん。現場は——」
「無理だ。肋骨が三本折れてる。肺に達していないのは奇跡だと言われた。全治二ヶ月。走れない。銃も構えられない」
わかっていた。
「でも案件からは降りない」と高梨が言った。「現場には行けない。でもチームの編成と装備の手配は続ける。——それから」
高梨が俺を見た。
「もう一人、連れてきたい人間がいる。俺の部下じゃない。椎名さんのルートで。——佐倉さん、椎名さんに聞いてください」
椎名に連絡した。翌日、地下の会議室で会った。園田も一緒だった。
「佐倉さん。高梨二佐から提案がありました」と椎名が言った。
「新しい同行者ですか」
「はい。ただし今回は自衛隊からではありません」
椎名が書類を出した。
「警察庁警備局から一名。特殊急襲部隊——SATの出身です」
SAT。
「名前は赤城凛。三十一歳。女性。SATを退官後、現在は内閣官房の特別チームに所属しています。——私の部下です」
椎名の部下。
「高梨二佐は軍の論理で動く方です。赤城は違います。小規模チームでの潜入と生存に特化しています。戦闘ではなく、生き延びることが専門」
戦闘ではなく生存。楠木は戦闘のプロだった。拳銃を構えて撃って、効かなくて死んだ。高梨はショットガンを持って行って、撃って、効かなくて吹き飛ばされた。
火力では勝てない。戦闘では勝てない。なら、生き延びることに特化した人間がいる。
「会えますか」と俺が言った。
「今日会えます。——実は外で待っています」
椎名がドアを開けた。
廊下に女が立っていた。目が大きくて、黒くて、瞬きが少なかった。こっちを見ている。品定めではなく、状況を読んでいる。部屋の中の人数、配置、出口の位置、全部を一秒で読んでいる。楠木と同じ癖。でも楠木より速い。
背は中くらい。百六十五くらい。髪を短く切っている。体は細い。筋肉質には見えない。でも動きに無駄がなかった。ドアから入って椅子に座るまでの動作に、一切の無駄がなかった。
「赤城凛です」
声が低かった。女の声としては。落ち着いている。
名刺は出さなかった。
「佐倉悠です」
「知っています。報告書を読みました」
「全部ですか」
「全部です。転移の記録も、死亡者の詳細も、あなたの体の変容も。——質問が三つあります」
園田がちらっと俺を見た。
「どうぞ」
「一つ。あちらの世界の魔物は、あなたを攻撃しなかった。今後もそうだと確信できますか」
「確信はできません。前回たまたまそうだっただけかもしれない」
「二つ。あなたの手を握っている人間だけが帰れる。あなたが意図的に手を離すことで、同行者を向こうに残すことは可能ですか」
全員が黙った。
「……理論上は可能です。でもやりません」
「やらないと言い切れる根拠は」
「やらないからです」
赤城の目が一瞬細くなった。笑ったのか、評価したのか、わからなかった。
「三つ。楠木三曹と高梨二佐は、あなたを守ろうとして負傷または死亡しています。私はあなたを守りません」
「……は?」
「あなたを守ると、守る側が死にます。構造的にそうなっている。あなたの周囲で人が死ぬのは、あなたを守ろうとするからです。——私はあなたを守りません。あなたと一緒に生き延びます。対等に」
高梨が言っていた。「戦闘ではなく生存」。この人はそういう人間か。
「私の手を握るのはあなたです。私があなたの手を握るのではなく、あなたが私の手を握る。主導権はあなたにある。私はついていくだけです。その代わり、私を守ろうとしないでください。私は自分で生き延びます」
園田が何か言おうとした。やめた。
俺は赤城を見ていた。目が合った。瞬きが少ない。
「いつから来れますか」
「今日からです」
椎名が口を開いた。「赤城は佐倉さんの住居の近くに配置します。転移の兆候があったら、楠木三曹と同じように連絡してください」
楠木の名前が出た。楠木と同じポジション。楠木が死んだポジション。
「赤城さん」
「はい」
「報告書を読んだなら知っていると思いますが、今まで俺と一緒に行った人間は、全員死んだか重傷を負っています。全員です。例外なく」
「読みました」
「それでも来るんですか」
「来ます。——ただし、死にに行くつもりはありません」
楠木は「怖がれる人間は生きて帰れる」と言った。高梨は「状況次第です」と言った。赤城は「死にに行くつもりはありません」と言った。
三者三様だ。でも全員、死ぬかもしれない場所に行く。
会議室を出た。廊下で園田が追いかけてきた。
「佐倉さん。あの人、怖くないですか」
「怖い」
「質問の二つ目。あなたが意図的に手を離すことは可能か、って。——あれ、佐倉さんを試してます」
「わかってます」
「何を試してるんですか」
「俺が信用できる人間かどうか」
園田が黙った。
「佐倉さん。一つだけ」
「はい」
「あの人は佐倉さんを守らないと言いました。でも私は佐倉さんを守りたい。——立場が違うのはわかってます。私は現場に行かない。でも、データで。分析で。佐倉さんの体に何が起きているか理解することで」
「園田さん——」
「言わせてください。——私はあの人みたいに強くない。銃も撃てないし、走っても遅い。でも佐倉さんの体の変化を一番理解しているのは私です。それだけは誰にも負けません」
園田が俺を見上げた。百五十センチ。眼鏡の奥の目が真っ直ぐだった。
「ありがとうございます」
「褒めてませんよ」
「わかってます」
帰り道。一人で電車に乗った。窓に映る自分の顔を見た。
拓海。森塚。楠木。三人死んだ。日下部は隔離された。高梨は現場を離れた。
そして新しい人間が来た。赤城凛。守らない人。対等に生き延びる人。
テーブルの上に拓海の財布。森塚の手袋。日下部の手袋は——返した。持ち主が帰ってきたから。
二つに戻った。財布と手袋。
でも楠木の言葉がまだある。何も残さなかった楠木の、声だけの遺品。
「怖がれる人間は生きて帰れる」
赤城凛は怖がるタイプじゃなさそうだ。
それが不安だった。




