第25話「還」
転移が来たのは三日後だった。
夜。部屋にいた。足裏が脈打った。高梨に電話した。七分で来た。装備を着けて、手を繋いだ。
目を閉じた。あの森を思い浮かべた。日下部がいた木の根元。足裏のあの筋に意志を流した。
足元がぶよぶよした。
違う場所だった。
森じゃなかった。開けた赤黒い大地。遠くに柱みたいな木の群れが見えるが、かなりの距離がある。
選べなかった。
「場所が違います。日下部さんがいた森じゃない」
高梨がショットガンを構えた。片手で。
「近くを探索しましょう」
歩いた。二人で。赤黒い大地。背の低い草の群生。地面の網目の筋が光から逃げていく。
百歩。二百歩。三百歩。何もない。
四百歩目で、高梨が足を止めた。
「佐倉さん。前方」
五十メートルほど先。赤黒い大地の上に、白いものがあった。
近づいた。
人間だった。
防護服を着た人間が、仰向けに横たえられていた。両手を体の横に。足を揃えて。棺に寝かせるみたいに、丁寧に置かれていた。
日下部だった。
「なんでここに」
ここは森じゃない。日下部がいた場所から何キロも離れている。足が動かなかった日下部が、自力で来られるわけがない。
誰かが運んだ。俺たちが来る場所に。見つけられるように。丁寧に。棺みたいに。
日下部は生きていた。目が閉じている。呼吸はしている。
「日下部さん」
しゃがんだ。日下部の目が薄く開いた。虚ろだった。
「……さくら、さん?」
生きている。声が出る。
「迎えに来ました。帰——」
高梨が叫んだ。
「伏せろ!」
高梨が俺の手を引いて、体を倒した。俺が地面に叩きつけられた瞬間、頭の上を何かが通過した。風圧で防護服がばたついた。
遅れて音が来た。地面を踏み砕く音。重い。ずん。地面が揺れた。
頭を上げた。
いた。
日下部の向こう側に。さっきまで何もなかった場所に。赤黒い大地の上に、四本の脚で立っていた。
大きかった。肩の高さだけで人間の背丈を越えている。横幅は——車よりでかい。体の表面が赤黒い。大地と同じ色。保護色。さっきまで見えなかった。地面に伏せていたら、ただの地面の隆起にしか見えない。
頭。長い頭。横に平たくて、前方に突き出ている。目がどこにあるかわからない。頭の左右に膨らみがあるが、目なのか別の器官なのか。口は見えなかった。
こいつは日下部の向こう側にいた。俺たちが日下部に近づくのを、地面に伏せて、保護色で隠れて、待っていた。
罠だ。
日下部が餌。こいつが待ち伏せ。俺たちが日下部に気を取られて足を止める瞬間を狙っていた。
高梨がショットガンを構えた。片手で。もう片方の手は——
俺の手がなかった。倒れたときに離れていた。ワイヤーはまだ繋がっている。でも手が離れている。
「高梨さん! 手——」
魔物が動いた。
一歩目で地面が割れた。二歩目で空気が揺れた。突進。俺たちに向かってではなかった。高梨に。高梨だけに向かって。
高梨が撃った。スラッグ弾。至近距離。轟音が大地に反響した。
当たった。魔物の頭の横に。肉が弾けた。赤黒い飛沫。
魔物は止まらなかった。
頭を振った。一度だけ。被弾した場所を振り払うように。それだけ。それだけで走り続けた。
高梨が二発目を撃った。三発目。四発目。全部当たった。全部効かなかった。
魔物の頭が高梨の胴体に入った。
ぐしゃ、という音がした。
高梨の体が浮いた。五メートル。十メートル。放物線を描いて、赤黒い大地に落ちた。転がった。防護服がめくれて、中のケブラーが見えた。ケブラーが裂けていた。
高梨が動かなかった。
魔物が高梨の方を向いた。ゆっくりと。頭を下げて、高梨が落ちた場所に向かって歩き始めた。一歩ずつ。急いでいない。獲物が逃げないことを知っている。
そして高梨が落ちた場所の地面が、沈み始めた。
拓海のときと同じ。赤黒い大地がぐにゃりと波打って、高梨の体が傾いて、足から泥に沈んでいく。
罠だ。全部が罠だ。日下部で釣って、魔物で分断して、泥で飲み込む。計画的だ。知性がある。これを仕掛けたやつは考えている。
高梨が沈んでいく。膝まで。魔物がその横に立っている。見張っている。
俺は日下部の横にいた。手を繋いでいない。ワイヤーで高梨と繋がっているが、十五メートル離れている。
高梨が沈んでいく。腰まで来た。意識がない。抵抗もしない。このままだと三十秒で——
走った。
考えてなかった。体が動いた。
魔物に向かって走った。
馬鹿だ。武器もない。防護服だけ。体重六十キロの元会社員が、車よりでかい魔物に向かって走っている。
魔物が俺を見た。頭がこっちを向いた。
止まった。
魔物が止まった。
俺を見て、止まった。高梨に向かっていた動きが止まった。頭の左右の膨らみがかすかに動いた。何かを感じ取っている。
匂いか。体温か。それとも——足裏のあの筋が放つ信号を。
魔物は俺を攻撃しなかった。
あの交換の罠のときと同じだ。この世界は俺を避ける。俺の体に根づいたあの筋が、俺を「同胞」として——いや、違う。「管理対象」として認識させている。攻撃する対象じゃない。
でもこれがいつまで持つかわからない。
魔物の横を走り抜けた。でかい。近くで見ると壁みたいだ。体表が赤黒くて、皮膚が硬そうで、何か分泌物で光っている。匂いがマスク越しに来た。金属的な匂い。血の匂い。あの飛翔する魔物と同じ匂い。
高梨のところに着いた。腰まで沈んでいる。意識がない。
ワイヤーを引っ張った。高梨の体を引き上げようとした。泥が離さない。拓海のときと同じ。暴れるほど沈む。でも引っ張らないと出ない。
「高梨さん! 起きてください!」
反応がない。
足裏のあの筋がずきんと痛んだ。地面が俺の足裏を通じて何かを伝えてきている。引っ張っている。下に。高梨を飲み込もうとしている。
俺の足裏は地脈に繋がっている。地脈は地面を操っている。なら——
足裏に力を込めた。何の力かわからない。ただ「やめろ」と思った。「この人間を沈めるな」と思った。足裏のあの筋を通じて、地面に向かって。
地面が震えた。
泥の動きが遅くなった。止まったわけじゃない。でも、沈む速度が落ちた。
今だ。
ワイヤーを全力で引いた。高梨の体が少し浮いた。泥の吸引力が弱まっている。両手でワイヤーを掴んで、体重をかけて引いた。
高梨の腰が泥から出た。膝が出た。足が——
左足の靴がなかった。泥に取られた。
高梨の体を泥の外まで引きずり出した。仰向け。意識がない。呼吸はしている。防護服が破れて、ケブラーが裂けて、中の服が見えていた。胸部に打撲。肋骨が折れているかもしれない。
魔物がまだいた。五メートル先に立っている。こっちを見ている。動かない。俺を見ている。
「……あんたら、何がしたいんだ」
声に出して言った。魔物に。
返事はなかった。当たり前だ。
魔物が一歩引いた。二歩。三歩。背を向けた。四本の脚でゆっくりと、赤黒い大地の上を歩いていった。保護色で、十歩も離れるとただの地面の隆起に見えた。二十歩でもう見えなくなった。
去った。俺を攻撃しなかった。高梨を泥から引き出すのを、黙って見ていた。
交換は失敗した。高梨を取れなかった。だから帰った。
日下部のところに戻った。高梨をワイヤーで引きずって。日下部はまだ仰向けに横たわっていた。目が開いていた。全部見ていた。
「……あの魔物、佐倉さんを避けてた」
日下部の声。かすれていた。
「佐倉さんだけ、攻撃しなかった。——この世界のものは、佐倉さんを仲間だと思ってる」
仲間。
高梨の右手を握った。意識がないが、手は握れる。俺が握ればいい。日下部の左手を反対の手で握った。力がない手。俺が包み込んだ。
三人。俺の両手に一人ずつ。
足裏がぶよぶよした。帰還。
「帰ります。三人で」
地面が消えた。
部屋の床。三人。
高梨が仰向けに倒れていた。意識がない。呼吸はしている。
日下部が横たわっていた。目が開いていた。天井を見ていた。
「……ひかり」
日下部が言った。
「まぶしい」
蛍光灯の光。あの世界の灰色の薄暗さに慣れた目には強すぎる。電気を消した。
高梨のマスクを外した。顔が青白い。防護服を開けた。ケブラーの下の胸部が変色していた。赤黒い打撲痕。呼吸のたびに胸が不自然に動く。肋骨が折れている。
それから左足。靴がない。靴下を脱がせた。
足首に、赤い筋が一本走っていた。泥に触れた場所。防護服のケブラーが破れた箇所から、泥が皮膚に直接触れていた。
始まっている。高梨にも。
園田に電話した。
「連れて帰りました。二人とも。高梨さんは意識不明。肋骨が折れてるかもしれない。足に——あの筋が出てます。日下部さんは意識あり。でも状態が悪い。光がまぶしくて水が飲めない」
「行きます」
日下部の横に座った。日下部の手をまだ持っていた。離していなかった。
「日下部さん」
「……はい」
「首の後ろに、痕があります。丸い。誰がつけたんですか」
日下部が目を閉じた。
「寝てたら。目が覚めたら、首が痛くて。何かに触られた。冷たくて、硬い何かに。暗くて見えなかった。でも——いた。すぐそばに。何かがいて、私の首に何かをした」
「それから、頭の中が変になった。聞こえる。地面の音が。目を閉じても見える。赤いのと青いの。温かいのと冷たいの。ずっと流れてくる。止まらない」
日下部が俺の手を握った。初めて自分から。弱い力だった。
「……てがとどくなら、って書いたんです。手が届くなら、連れて帰ってほしいって」
「届きました」
「途中で力が入らなくなって。でも佐倉さんが来てくれると思って」
「来ました」
日下部の目から涙が出た。声は出さなかった。
テーブルの上に拓海の財布。森塚の手袋。日下部の手袋が両方。
手袋は返せる。持ち主が帰ってきたから。
でもその持ち主の首には刻印があり、体は赤い筋に覆われ、光がまぶしくて水が飲めない。
高梨は床で意識なく横たわっていて、左足の足首に赤い筋が一本走っている。
高梨さんはあの胸ではもう走れない。日下部さんは立つこともできない。次に行くとき、俺の手を握れる人間が、また誰もいなくなる。
そして魔物は俺を避けた。攻撃しなかった。仲間だと思った。
仲間。
魔物。
俺はどっちの側の人間なんだ。




