第23話「視」
夢を見た。
三日連続だった。毎晩見る。目を閉じると、あの世界が来る。
一日目は断片的だった。赤黒い地面。灰色の空。匂い。輪郭だけで、細部がぼやけていた。
二日目は少し鮮明になった。柱みたいな木の群れが見えた。脈動する幹。地面の網目状の筋が動いている。風がある。生温かい風。でもまだ映像だけだった。
三日目。
全部が来た。
映像だけじゃない。匂い。音。温度。湿度。足の裏の感触。全部が来た。まるであの世界に立っているみたいだった。でも体はベッドの中にある。目は閉じている。寝ている。
違う。寝ていない。意識がある。目を閉じているのに意識がある。体は動かない。でも見えている。聞こえている。嗅いでいる。
金縛りに似ていた。体が動かなくて、意識だけがある。ただし金縛りは自分の部屋が見える。俺に見えているのは、あの世界だった。
赤黒い大地が広がっていた。開けた場所。遠くに木の群れ。前に来たことがある。前に何度か来た場所に似ている。
視点が動いた。俺が動かしたんじゃない。勝手に動いた。右を向いた。左を向いた。上を見た。灰色の空。何もいない。
視点が下がった。地面を見た。赤黒い泥。網目の筋。光がないのに見えている。LEDライトはない。でも見えている。暗いはずなのに。
地脈の目で見ている。
その考えが、唐突に浮かんだ。俺の目で見ているんじゃない。あの世界の地脈——地面を走るあの網目の筋——を通じて、あの世界が「感じている」ものを俺の脳が受け取っている。あの筋は光を見ない。匂いを感じる。振動を感じる。温度を感じる。それを俺の脳が「映像」に変換している。
だから暗くても見える。地脈に明暗はない。
視点が動いた。地面を這うように移動していく。速い。自分の足で歩いているのではない。地脈の上を何かが走っている。その何かを俺が追いかけている。
森の中に入った。柱みたいな木の群れ。脈動する幹。暗い。でも見える。全部見える。木の表面の粘液が色として見えている。温かいものは赤く、冷たいものは青く。この世界を地脈の感覚で見ると、こういう風に見えるのか。
視点が止まった。
木の根元に何かがあった。
温かいもの。赤い。周囲の地面より明らかに温度が高い。体温。何かの体温。生き物がいる。
近づいた。信号が近づいた。
人間だった。
防護服を着た人間が、木の根元にうずくまっていた。膝を抱えている。マスクは外れている。ゴーグルも。顔が見える。
日下部だった。
生きていた。
目を閉じている。眠っているのか。気を失っているのか。呼吸はしている。胸が上下している。ゆっくりと。遅い。
日下部の左足が見えた。靴がない方の足。素足。赤黒い泥で汚れていて、足裏に——俺と同じ痕があった。網目状の筋。あの地脈が体に食い込んでいる。俺よりも広い。足裏だけでなく、足の甲、足首、脛まで。赤い筋が皮膚の上を走っている。
日下部の体も瘴気に蝕まれている。俺より速く。防護なしで何日もいたから。
「日下部さん」
声を出した。出したつもりだった。でも声は出ていない。俺の体はベッドの中にある。口は動いていない。
地脈に音はない。匂いと振動しかない。
日下部に届かない。見えるのに届かない。
視点がぶれた。像が崩れ始めた。接続が切れる。朝が来ている。体が目覚めようとしている。脳が現実に戻ろうとしている。
最後に見えたのは、日下部の胸ポケットから覗いているメモ帳の切れ端。まだ書いている。まだ記録している。
目が覚めた。
午前五時。薄明。枕元のメモ帳を掴んだ。鉛筆を握った。手が震えていた。
書いた。見えたものを全部。
「開けた場所から森に入って約300m(体感)。大きい木の根元。日下部さん。生存。防護服着用。マスクなし。左足に菌糸定着。足首から脛まで広がっている。呼吸は遅い。眠っているか意識不明」
それから。
「視点は菌糸ネットワーク経由。化学信号を脳が映像に変換している。光がなくても見える。温度が色として見える。菌糸の感覚で世界を見ている」
書き終わって、鉛筆を置いた。
手の甲を見た。水ぶくれの周りの筋が、昨日より太くなっていた。
園田に電話した。午前五時半。出た。この人はいつ寝ているんだ。
「日下部さんを見ました」
「夢で?」
「夢じゃない。園田さんが言った通り。あの地脈を通じて見えた。日下部さんは生きてます。森の中の木の根元にいる。左足に俺と同じ痕がある。俺より広がってる」
園田が黙った。五秒くらい。
「……佐倉さん。今の話、もう少し詳しく聞いていいですか」
「いいです」
「菌糸の感覚で見えた、と言いましたよね。光がなくても。温度が色として」
「はい」
「それは——佐倉さんの認知が、あちら側のネットワークの認知モードに切り替わっている可能性がある」
「認知モード?」
「人間は可視光で世界を見ます。あちら側の菌糸ネットワークは化学信号と振動と温度で世界を感知している。佐倉さんの脳が、菌糸から送られてくるその感覚データを処理できるようになっている。——人間にはない感覚器を、菌糸が代わりに提供している」
「それって——」
「佐倉さんの脳が、二つの知覚システムを持ち始めている。人間の目と、菌糸の目。両方使えるようになりつつある」
二つの目。人間の目で見る世界と、地脈の目で見る世界。
「園田さん。それが進んだら、俺はどうなるんですか」
「……わかりません」
今度は嘘じゃなかった。本当にわからないのだ。前例がない。誰もなったことがない。
「一つだけわかることがあります」
「何ですか」
「日下部さんにも同じことが起きている可能性がある。菌糸が定着して、ネットワークに接続されて、あちら側の感覚を獲得し始めている。——だとしたら、日下部さんは人間の感覚では生きていけない環境で、別の感覚を使って生き延びているのかもしれない」
別の感覚で生き延びている。
マスクがない。あの瘴気を直接吸っている。でもあの筋が体に根づいているなら、瘴気の中の何かを濾し取ってくれているのかもしれない。あの世界が日下部の体を守っている。蝕んでいるのか、守っているのか。両方か。
「園田さん。次に転移が来たら、あの森に出られるかもしれない」
「根拠は」
「夢で見えた場所は、前に行ったことがある場所に近い。あの地脈を通じて場所が見えるなら、同じ地脈を通じて転移先を誘導できるかもしれない」
「それは——仮説ですらないですよ。願望です」
「願望です。でも試す価値はある」
園田が少し黙った。
「……佐倉さん」
「はい」
「データを取らせてください。佐倉さんの睡眠中の脳波を。あちら側との接続が起きている瞬間の脳の活動を記録したい」
「どうやって」
「簡易脳波計があります。先生の研究室に。菌類の電位を測るのに使っていたものですが、人間にも使えます。——佐倉さんが寝ている間に装着して、データを取る」
「園田さんが俺の部屋に来て、俺の寝てる横で脳波を測る」
「そうなります」
「……それ、かなり変な絵面ですね」
「自覚はあります」
研究室で同じ会話をしたのはいつだったか。森塚と手を繋いで床に座ったとき。園田の「絵面がすごいですね」。あのときと同じやり取り。
違うのは、今回は寝ている間だということ。もっと無防備。もっと近い。
「いつですか」
「今夜でもいいですか」
「……いいですよ」
電話を切った。
高梨にも連絡した。日下部の生存を伝えた。夢で見たと言ったら、高梨は三秒黙った。
「夢、ですか」
「正確には菌糸ネットワーク経由の知覚です。園田さんが今夜データを取ります」
「……信じます。信じますが、佐倉さん、正直に言って、普通の報告ではないことは理解しています」
普通じゃない。全部普通じゃない。最初から。
「日下部は生きている。それだけは確かです」
「それだけで十分です。——次の転移で、あの森に出られる可能性は」
「わかりません。試します」
高梨が一拍置いた。
「試してください。俺も行きます」
夜。園田が来た。
リュックに脳波計の機材を詰めて、俺の部屋のドアの前に立っていた。白いブラウスにジーンズ。いつもの格好。ただしリュックがいつもよりさらにぱんぱんだった。
「入ってください」
園田が部屋に入った。テーブルの上の遺品を見て、一瞬目を止めて、何も言わなかった。
脳波計を準備した。電極を頭皮に貼る。ジェルが冷たかった。園田の指が髪の間に入ってきて、正確な位置に電極を固定していく。
「ここと、ここと、ここ。——前頭葉と側頭葉と後頭葉。三点でまず取ります」
「くすぐったいです」
「我慢してください」
ベッドに横になった。電極のケーブルが枕元のノートパソコンに繋がっている。園田がパソコンの前に座った。椅子を持ってきて、ベッドの横に。
「佐倉さん。普通に寝てください。何も意識しなくていいです。来たら来たで。来なかったら来なかったで」
「園田さんはずっと起きてるんですか」
「はい」
「寝不足になりますよ」
「慣れてます。論文の締め切り前は三日寝ないこともあります」
目を閉じた。電極が額を引っ張る感覚。パソコンのファンの微かな音。園田が椅子に座っている気配。
眠れるだろうか。こんな状態で。
足の裏がじんじんしていた。いつもの感覚。あの筋が動いている。
三十分くらい経った。眠れなかった。
「園田さん」
「はい」
「眠れないです」
「大丈夫です。そのうち来ます」
また黙った。目を閉じたまま。暗い。
「園田さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「……何がですか」
「全部」
園田が何か言おうとして、やめた。パソコンのキーを一つ叩いた。何のキーかわからなかった。
いつの間にか、眠っていた。
あの世界が来た。




