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魔界世界  作者: 彗
組織

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第22話「日」


 転移が来ない日が続いた。


 一週間。十日。十二日。今までで最長だった。前は最長で十日だった。間隔が延びているのか、たまたまなのか。


 十二日間、普通に暮らした。普通に、というのが自分でもおかしかった。何が普通なのか。政府に生活を保障されて、大学の研究室に通って、テーブルの上に死者の遺品を並べている。これが俺の普通になっていた。


 園田の研究室で毎日過ごした。園田がデータを分析している横で、俺は報告書の整理や、転移の記録の清書をしていた。園田が教えてくれた。データの読み方。グラフの見方。基本的な統計の考え方。俺は文系だが、必要に迫られれば人は学ぶ。


 「佐倉さん、ここの有意差検定の結果、読めますか」


 「p値が0.05以下だから有意」


 「正解。半年前にp値も知らなかった人とは思えない」


 「半年前は靴紐の結び方しか知らなかった」


 園田が笑った。声を出して笑った。この人の笑い声を聞くのは、実は数えるほどしかない。


 昼飯を一緒に食うようになっていた。学食。園田はいつもカレーを食う。


 「飽きないんですか」


 「飽きません。カレーは完全食です」


 「嘘でしょ」


 「先生もそう言ってました。毎日カレー。師弟で味覚が似るんですかね」


 森塚の名前が自然に出た。前は森塚の名前が出ると空気が固まった。今は出ても大丈夫になっていた。


 拓海もそうだ。たまに拓海のことを考える。考えても、もう胸が潰れるような痛みではなくなっていた。鈍い痛みに変わっていた。慣れたのか。癒えたのか。わからない。ただ痛い場所が変わった。


 園田と並んで歩くとき、歩幅を合わせるのが習慣になっていた。百五十センチの歩幅に合わせて、ゆっくり歩く。前は気を使って合わせていた。今は自然にそうなる。


 ある日、椎名から連絡が来た。


 「佐倉さん。お会いしたいのですが」


 霞が関ではなく、あの地下の会議室。園田も呼ばれた。


 椎名が書類を持っていた。


 「S案件の体制を拡充します。佐倉さんには正式な肩書きをお渡しします」


 「肩書き」


 「内閣官房付き特別調査員。非公開の肩書きですが、省庁間の調整や予算の執行に必要な権限が付与されます。——簡単に言えば、S案件に関する意思決定に佐倉さんの同意が必要になる、ということです」


 意思決定に同意が必要。三ヶ月前まで会社員だった人間が。


 「園田さんにも肩書きをお渡しします。S案件科学顧問。森塚教授のポジションを正式に引き継いでいただきます」


 園田が目を見開いた。「私が、ですか」


 「森塚教授のデータと分析を引き継げるのはあなただけです。——報酬も出ます。博士課程の学費免除と、研究費の支給」


 園田がちらっと俺を見た。俺は頷いた。受けるべきだ。


 「お受けします」と園田が言った。


 書類にサインした。二人とも。ペンを持つ右手の水ぶくれが、書類の上に影を落としていた。


 帰り道、園田と並んで歩いた。


 「特別調査員って何するんですかね」


 「さあ。でも会議で偉い人と対等に話せるようになるんじゃないですか」


 「俺が偉い人と対等に話す。想像つかない」


 「もうやってますよ。椎名さんとも高梨さんとも、佐倉さん対等に話してるじゃないですか」


 そうだろうか。対等に話しているつもりはなかった。ただ、あの世界に行ったことがあるのは俺だけだから、俺の言葉に重みがあるだけだ。


 「園田さん」


 「はい」


 「俺、半年前はエクセル叩いてただけの人間ですよ」


 「知ってます」


 「今、内閣官房の肩書きもらった」


 「はい」


 「おかしくないですか」


 園田が立ち止まった。俺を見上げた。


 「おかしいですよ。全部おかしい。でも佐倉さん以外にできる人がいない。あの世界に行けるのは佐倉さんだけ。それが全部の理由です。佐倉さんが優秀だからじゃない。佐倉さんしかいないからです」


 容赦がなかった。でもこの人はいつもそうだ。嘘をつかない。


 「……ありがとうございます」


 「褒めてませんよ」


 「わかってます」


 その夜、夢を見た。


 あの世界の夢。前にも見たことはあった。転移の後に、断片的に。でも今回は違った。


 鮮明だった。


 赤黒い大地が見えた。灰色の空。柱みたいな木の群れ。地面の網目状の筋が動いている。全部見えた。目を閉じているのに。寝ているのに。


 匂いがした。あの甘い腐臭。瘴気。ベッドの中で、部屋の空気を吸っているはずなのに、あの匂いがした。


 足の裏がじんじんしていた。脈動ではない。もっと持続的な感覚。あの筋が動いている。何かを受信している。あの世界からの信号を、俺の足裏が拾っている。


 目が覚めた。午前三時。汗だくだった。


 匂いが残っていた。夢の匂い。あの甘い腐臭。鼻の奥に。数秒で消えた。でも確かにあった。


 足裏を見た。暗い部屋。スマホのライトで照らした。痕が広がっていた。足裏だけだったのが、足の甲にも来ている。赤い網目状の筋。あの世界の地面の模様と同じ。


 手の甲を見た。水ぶくれの周りに、同じ筋が見え始めていた。微かに。光の角度を変えないと見えないくらい。でもある。


 園田が言っていた。末梢神経に沿って中枢に向かっている。足から手に。手から——


 スマホを置いた。暗い部屋。エアコンの音。窓の外を車が通った。普通の夜。


 でも鼻の奥に、まだあの匂いが残っている気がした。


 翌朝、園田に電話した。


 「夢を見ました。あの世界の。鮮明な。匂いつきの」


 園田が少し黙った。


 「……それ、夢じゃないかもしれません」


 「え?」


 「菌糸が神経系に到達し始めているなら、あちら側のネットワークからの信号を、睡眠中に脳が処理している可能性がある。意識のフィルターが弱まる睡眠中に、あちら側の情報が流れ込んでくる」


 夢じゃない。あちら側を見ている。眠っている間に。


 「佐倉さん。次にその夢を見たとき、何が見えるか記録してください。場所の特徴。匂い。音。全部」


 「……日下部さんが見えるかもしれない?」


 園田が息を呑んだ。


 「……可能性は、あります」


 その夜、ベッドに入る前にメモ帳と鉛筆を枕元に置いた。


 あの世界を見るために、眠る。あの世界に行くために、ではなく、見るために。


 目を閉じた。


 足の裏がじんじんしていた。

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