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魔界世界  作者: 彗
組織

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21/21

第21話「跡」


 高梨が選んだもう一人は、高梨自身だった。


 「もう一人は後日指名します。今回は私と佐倉さんの二人で行きます」


 「二人ですか」


 「はい。目的はサンプル採取ではなく、日下部の捜索です。戦闘要員は私一人で十分」


 十分かどうかはわからない。楠木が一人で戦って、三発撃って、効かなくて死んだ。高梨一人で何が変わるのか。


 ただ、高梨は楠木より大きかった。体も、階級も。それが何の役に立つかはわからないが。


 装備が変わっていた。


 ショットガン。ベネリM4。高梨が持ってきた。スラッグ弾。薬室に一発、マガジンに六発。「九ミリが効かないなら、これを試します」と高梨は言った。


 それから、発煙筒。四本。「視界を遮る目的です。あちら側の魔物が可視光で獲物を探しているなら、煙で目くらましになるかもしれない。ならないかもしれない」


 「効くかわからないものばかりですね」


 「現場で試すしかありません。楠木ならそう言います」


 楠木の名前を出した。高梨の声は揺れなかった。


 俺の部屋。夜。二人で装備を着けた。防護服。ボンベ。マスク。ゴーグル。手袋。ワイヤーロープ。高梨のショットガンが背中に斜めにかかっている。


 「高梨さん」


 「はい」


 「一つだけ。何があっても手を離さないでください。楠木さんは自分から離しました。——あなたはそれをしないでください」


 高梨が俺を見た。


 「状況次第です」


 「状況次第じゃなくて約束してください」


 「……約束します」


 間があった。高梨は嘘をつかない人間だ。でも約束できないことを約束するのは嘘になる。その葛藤が間に出ていた。


 左手で高梨の右手を握った。高梨の手は楠木より大きかった。指が太くて、掌が厚い。


 待った。十一分。


 足の裏がずきんと脈打った。


 「来ます」


 高梨の手を握り直した。高梨が握り返した。


 足元がぶよぶよした。


 赤黒い大地だった。


 白い骨の大地ではなかった。開けた場所。灰色の空。遠くに柱みたいな木の群れ。前に何度か来た場所に似ている。


 「日下部がいた場所と違う」


 「……はい。転移先は選べません」


 高梨がショットガンを構えた。片手で。もう片方の手は俺を握ったまま。重い銃を片手で構えている。


 「周囲確認。敵性なし。地面は安定。——佐倉さん、ここは以前来た場所ですか」


 「似てる。でも同じかどうかはわからない。目印がない」


 赤黒い地面。背の低い草の群生。地面の網目状の筋が光から逃げている。いつもの光景。


 「日下部の痕跡を探します。移動しましょう」


 歩いた。二人で。手を繋いだまま。高梨が半歩前に出て、俺を背中で庇うような位置取りをしていた。楠木と同じだ。俺を中心にして、脅威側に立つ。


 百歩。二百歩。赤黒い大地が続いている。変化がない。


 「高梨さん。日下部さんは白い骨の大地にいたんです。ここは赤黒い。場所が違う」


 「こちら側の世界は広いんですか」


 「わかりません。毎回違う場所に出る。同じ場所に出たこともある。法則がわからない」


 「では日下部がこの近くにいる可能性は」


 「低いと思います。でもゼロじゃない。日下部さんが歩いて移動していたら——」


 足を止めた。


 地面に何かがあった。


 赤黒い大地の上に、白いものが落ちていた。小さい。十センチくらい。


 しゃがんだ。高梨も一緒にしゃがんだ。


 手袋だった。


 ゴム手袋。防護服に付属する手袋と同じもの。右手用。汚れていた。赤黒い泥がこびりついて、一部が破れていた。


 日下部は左手の手袋を俺の手に残して消えた。右手の手袋は——日下部がはめたまま行ったはず。


 これは日下部のものか。


 手袋を裏返した。内側に、マジックで小さく名前が書いてあった。


 「日下部」


 高梨の呼吸がマスクの中で止まった。


 「日下部のものです」


 「……はい」


 日下部はここにいた。ここを通った。白い骨の大地からここまで移動してきた。手袋を落とした、あるいは置いた。


 手袋の周りを見た。地面に引きずった跡があった。赤黒い泥の上に、何かが這った痕。手袋から、柱みたいな木の群れの方向に向かって。


 「這ってる」と俺が言った。「日下部さん、這って移動してる」


 「足を怪我していた可能性がある。靴が片方なかったと報告がありました」


 靴がない。素足で赤黒い地面を歩いたら——あの泥に足が触れたら——俺の足裏と同じことが起きる。あの筋が食い込む。水ぶくれができる。歩けなくなる。


 「ボンベはとっくに切れているはずだ」と高梨が言った。「あの空気を直接吸って何日も生きている。——日下部の体にも、佐倉さんと同じことが起きている可能性がある」


 同じこと。あの筋が体に食い込む。体が変わる。あちら側に近づくこと。


 這った痕を追った。二人で。手を繋いだまま。痕は途中で消えていた。地面の筋——あの網目——が痕を覆い隠していた。地面が痕跡を吸収している。時間が経つと消える。


 「ここで途切れてます」


 高梨が周りを見回した。ショットガンを構えたまま。


 「木の群れまで三百メートルほどだ。あの中に逃げ込んだ可能性がある」


 木の群れに行くか。暗い。視界が悪い。蟲の魔物が潜んでいるかもしれない。飛翔する魔物が上にいるかもしれない。


 「行きましょう」


 高梨は反論しなかった。


 木の群れに入った。柱みたいな幹。脈動する表面。鈍く明滅する粘液。頭上を覆う枝葉。光がほとんど届かない。


 LEDライトを点けた。二つの光が暗がりを照らした。地面の筋が光から逃げていく。


 五十歩。百歩。木の間を縫って歩いた。


 高梨が足を止めた。


 「佐倉さん。あれ」


 木の根元に何かがあった。白い。赤黒い世界の中で、白いものは目立つ。


 近づいた。


 防護服の切れ端。ケブラー。日下部のものだ。防護服を破いて、何かに使ったのか。


 切れ端の下に、紙が挟まっていた。


 メモ帳の紙。折り畳まれていた。防護服の切れ端で包んで、雨か泥から守っていた。


 俺のメモ帳じゃない。日下部は自分のメモ帳を持っていたのか。楠木はメモを取るタイプだった。日下部は取らないタイプだと思っていた。


 紙を開いた。手が震えた。


 字が書いてあった。鉛筆じゃない。何か別のもので——地面の泥を指につけて書いたのか。茶色い、かすれた文字。読めるぎりぎりの。


 「さくらさんへ くすのきは死にました わたしはまだ生きてます あしがうごきません きのしたにいます てがとどくなら」


 最後が途切れていた。


 高梨がメモを覗き込んだ。マスク越しの呼吸が荒くなっていた。


 「生きている。——生きていた。これを書いた時点では」


 「いつ書いたかわかりません。あの地面の筋が痕を消すのにどれくらいかかるか——」


 「木の下にいると書いてある。探しましょう」


 周りの木を見た。どの木だ。どの木の下だ。この森には木が無数にある。


 「日下部!」


 高梨が叫んだ。マスク越しの声が木々の間に響いた。


 「日下部! 高梨だ! 聞こえるか!」


 返事はなかった。


 「日下部!」


 返事はなかった。木の脈動の音だけが、低く、ゆっくりと、繰り返されていた。


 足の裏がずきんと脈打った。帰還の兆候。


 「……高梨さん。帰還が来ます」


 高梨の手が強く握られた。


 「もう少し——」


 「選べません。勝手に帰されます」


 高梨が歯を食いしばっているのがマスク越しにわかった。顎の筋肉が動いていた。


 日下部のメモを胸ポケットにねじ込んだ。手袋も拾った。防護服の切れ端も。全部持って帰る。


 足元がぶよぶよした。


 「手を握っています。大丈夫です」


 「……了解」


 地面が消えた。


 部屋の床。二人。


 高梨がマスクを外した。汗だくだった。髪が額に張り付いていた。


 「日下部は生きていた」


 「メモを書いた時点では」


 「足が動かない。木の下にいる。——次に行けば見つかる可能性がある」


 「あの場所に出る保証はありません。前回は白い骨の大地。今回はここ。次はまた別の場所かもしれない」


 高梨が拳で床を叩いた。小さく。一回だけ。


 「……わかっています」


 日下部のメモを取り出した。テーブルの上に広げた。茶色い文字。防護服の切れ端に包まれていた紙。


 「さくらさんへ」。俺宛だ。日下部は俺に向けてこれを書いた。帰ってくると信じて。俺が次に来て、これを見つけると信じて。


 「てがとどくなら」の先に何を書こうとしたのか。連れて帰ってほしい。助けてほしい。それとも別の何か。


 高梨がメモを見ていた。長い間。


 「次に行くとき、必ずあの森に着く方法は」


 「ありません」


 「佐倉さんが意識的に場所を選ぶことは」


 「できたことがない。——でも」


 足の裏がじんじんしていた。あの筋が動いている。園田が言った。神経に沿って広がっている。あちら側に近づいている。


 「俺の体が変わってきています。あちら側に近づいてる。もしかしたら——もしかしたらいつか、場所を選べるようになるかもしれない」


 根拠はなかった。ただの希望。ただの願望。でも高梨はそれを聞いて、少しだけ顔の力を抜いた。


 「待ちましょう。次の機会を」


 高梨が帰った後、俺はテーブルの前に座っていた。


 拓海の財布。森塚の手袋。日下部の手袋——左手の。


 その隣に、今日見つけた右手の手袋を置いた。日下部の手袋が両方揃った。


 そしてメモ。


 「さくらさんへ くすのきは死にました わたしはまだ生きてます」


 日下部はあの世界で一人で書いた。泥を指につけて。足が動かない状態で。防護服を破いて紙を包んで、見つけてもらえる場所に置いた。


 俺が初めてあの世界に行ったとき、メモ帳に震える手で「地面。赤黒い。硬い場所と柔らかい場所がある」と書いた。あのときと同じだ。何もできない場所で、記録だけが唯一できること。


 日下部は記録するタイプじゃないと思っていた。楠木がメモを取り、日下部は取らなかった。でも一人になったとき、日下部は書いた。


 一人になったら、人は書く。


 「日下部さんは生きてた。メモがあった。——次は見つける」


 拓海の財布と森塚の手袋と、揃った日下部の手袋に向かって言った。


 返事はなかった。でも今夜は、返事がない沈黙が、少しだけ温かかった。

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