第20話「報」
翌朝、高梨に会った。
地下の会議室。窓のない部屋。高梨と椎名と園田と俺。四人。前回この部屋にいたとき、楠木と日下部もいた。二つの椅子が空いていた。
高梨の顔を見るのが怖かった。部下を二人預けて、二人とも失った。一人は死に、一人は行方不明。責任者に何と言えばいい。
高梨は立っていた。座らなかった。
「報告してください」
声が硬かった。いつもの低い声だが、温度がなかった。
話した。白い骨の大地のこと。何もない場所だったこと。サンプルを採ろうとしたこと。地面の下から蟲の魔物が出てきたこと。楠木が撃ったこと。三発当たったこと。効かなかったこと。
「楠木は——楠木さんは、蟲の魔物の鎌に刺されました。ケブラーを貫通しました。俺を庇って」
高梨の喉が動いた。
「それから楠木さんは、自分で手を離しました。ワイヤーのカラビナも自分で外しました。俺が死んだら全員帰れないから、と」
高梨が目を閉じた。三秒くらい。それから開けた。
「日下部は」
「帰還の直前に、地面の亀裂に足を取られました。手袋が泥で濡れていて、手が滑って——指先だけ残って、離れました。行方不明です」
「遺体は」
「楠木さんは蟲の魔物に引きずり込まれました。日下部さんは向こうに取り残されています。生死不明です」
高梨が椅子の背に手をかけた。握った。指が白くなっていた。
椎名が口を開いた。
「高梨二佐。佐倉さんのお話を聞く限り、装備と人員の見直しが必要です」
「九ミリが効かなかった」と高梨が言った。声が低かった。「ケブラーが貫通された」
「はい」
「想定していました。想定していましたが——想定と現実は違う」
高梨が俺を見た。
「佐倉さん。あの蟲は、どのくらいの大きさでしたか」
「胴体が人間の胴体くらいの太さです。地面から出てきた部分だけで三メートル以上。全長はわかりません。地面の下にもっと——」
「装甲車両が要りますね」
園田が声を上げた。「装甲車両は転移できるんですか」
俺を見た。全員が俺を見た。
「……わかりません。人間しか試したことがない。物は——拓海がビール缶を持っていたとき、缶は行きませんでした。でも防護服やボンベは行った。身につけているものは行く。手に持っているだけのものは行かない。かもしれない」
「車両は無理でしょう」と椎名が言った。「であれば、個人携行で対処可能な火力。——高梨二佐、何がありますか」
「対物ライフル。12.7ミリ。ただし重量が十二キロ。ボンベの十五キロと合わせて二十七キロを背負って行動することになる。現実的ではない」
「軽量の代替は」
「ショットガン。スラッグ弾。近距離なら九ミリより遥かに威力がある。ただし、あの蟲の体表を貫通できるかは未知です」
未知。全部が未知。何が効くかわからない。何を持って行けばいいかわからない。
「もう一つ」と俺が言った。
全員が俺を見た。
「日下部さんがまだ向こうにいます。次に行ったとき、日下部さんを探したい」
高梨の目が変わった。
「佐倉さん。日下部が生きている可能性は」
「わかりません。あの世界で防護服なしの人間がどれくらい持つか、データがない。ボンベは背負ったまま行ったので、空気はある程度持つ。ただしボンベが切れたら——」
「あの大気を直接吸うことになる」と園田が言った。「短時間なら鼻血と粘膜の損傷。長時間は——わかりません。先生のデータにもない」
高梨が決断した。顔に出た。
「次のチームを編成します。今度は志願ではなく、私が直接指名します。——そして、私も行きます」
「高梨さん」
「佐倉さんの両手で二人。一人は私です」
「高梨さんが行ったら、この案件の軍事側の責任者がいなくなる」
「いなくなりません。副官に引き継ぎます。——それに」
高梨が空いている二つの椅子を見た。楠木と日下部が座っていた椅子。
「部下を送り出して、自分は安全な場所にいた。それで二人失った。次は俺が行きます」
拓海と同じことを言っている。筋が通るかどうか。
会議が終わった。
廊下で園田が追いかけてきた。
「佐倉さん」
「はい」
「手、見せてください」
右手を出した。水ぶくれが十五。斑点が二の腕まで。昨日の転移で一気に進行した。
園田が俺の手を取った。小さい手で。手袋越しじゃなくて、素手で。
「広がってる。——佐倉さん、体の中で何が起きてるかわかりますか」
「あの痕が広がってるんだと思います。森塚先生が言ってた。俺の体の一部になりつつあるって」
「あの白い大地に行ったとき、何か感じましたか」
「足の裏の筋が引っ張られた。あの大地が俺の体に作用した」
園田が俺の手を離さなかった。指で水ぶくれの周りをなぞっていた。
「佐倉さん。先生のデータを改めて分析したんですが、菌糸の定着パターンに方向性があるんです。足裏から始まって、上に広がっている。手の甲にも出た。肘を越えた。——これ、末端から中心に向かってます。末梢神経に沿って」
「神経に沿って」
「菌糸が神経系をたどっている可能性があります。皮膚の角質層だけじゃなくて、もっと深くに入り込んでるかもしれない」
背筋が冷たくなった。
「最終的にどこまで行くんですか」
園田が俺の手を離した。目を逸らした。
「……わかりません」
嘘だ。この人は何か仮説を持っている。言わなかっただけだ。
聞かなかった。聞きたくなかった。
家に帰った。テーブルの上に三つ。拓海の財布。森塚の手袋。日下部の手袋。
楠木のものは何もない。言葉だけ。
「怖がれる人間は生きて帰れる」
嘘だった。楠木は怖がっていた。それでも死んだ。
でも、楠木のおかげで俺は帰れた。楠木が手を離してくれたから。カラビナを外してくれたから。
拓海が手を離してくれたから、俺は帰れた。楠木が手を離してくれたから、俺は帰れた。俺が帰れたのは、いつも誰かが手を離してくれたから。
俺は一度も、自分から手を離したことがない。
いつも誰かに離されて、帰ってくる。残されて、帰ってくる。
テーブルの遺品を見ていたら、聞かなきゃいけない気がしてきた。
園田に電話した。
「園田さん。さっきの話。菌糸が神経に沿ってるって話」
「はい」
「最後まで言ってください。仮説でいいから」
園田が少し黙った。
「……菌糸が中枢神経系に到達したら、佐倉さんの認知が変わるかもしれません。あちら側の世界の感覚が、こちらにいても感じられるようになるかもしれない。先生の報告書に書いてあったんです。あちら側の菌糸ネットワークは化学信号で情報を伝達している。佐倉さんの神経系がそのネットワークに接続されたら——」
「俺の頭があっちに繋がる」
「……はい」
「それは——俺が人間じゃなくなるってことですか」
長い沈黙。
「わかりません。わかりませんが——佐倉さんの体は、今までどの転移でも適応してきた。最初は瘴気で吐いていたのに、今はマスクなしでも短時間なら耐えられる。体が変わっている。あちら側に近づいている」
あちら側に近づいている。
「……佐倉さん」
園田の声が変わった。
「だから私は行きたいんです。あの世界に。佐倉さんの体に何が起きているか、現地で観察したい。先生のデータだけじゃ限界がある」
「園田さん——」
「今は約束してます。行かないって。でも、佐倉さんの体がこのまま変わり続けるなら、いつか私が行かなきゃいけなくなる。佐倉さんを理解できるのは、先生の研究を引き継いだ私しかいない」
二回目だった。「今は約束してます」の「今は」が、また来た。
「……おやすみなさい、園田さん」
「おやすみなさい」
電話を切った。
テーブルの三つの遺品を見た。
「高梨さんが行くって。自分も行くって。——あの人も、死ぬかもしれない」
返事はなかった。
「園田さんも行きたがってる。俺の体が変わってきてるから。神経に沿ってあの筋が広がってるって」
返事はなかった。
「俺、どうなるんだろうな」
返事はなかった。
窓の外で救急車のサイレンが鳴っていた。誰かが誰かを助けに行く音。普通の世界の、普通の音。
足の裏がじんじんしていた。痛みではない。何かが動いている感覚。ゆっくりと、ゆっくりと、上に向かって。




