第19話「陣」
六日後に来た。
夜の十一時。自分の部屋。風呂上がり。髪を拭いているときに、足の裏がずきんと脈打った。
携帯を掴んだ。楠木に発信。二コールで出た。
「来ます」
「何分持ちますか」
「わからない。急いでください」
「日下部と向かいます。十二分」
ウエストポーチを巻いた。防護服に着替えた。ボンベを背負った。十五キロ。重い。でも慣れた。
八分後。インターホン。楠木と日下部。バッグから装備を出して着替えた。二分かからなかった。
三人で立った。俺が真ん中。右手に楠木。左手に日下部。ワイヤーロープで三人の腰を繋いだ。マスク。ゴーグル。手袋。
足の裏がずきんずきんと脈打っている。
「手を握ります」
楠木の手。硬い。日下部の手。もっと硬い。
「痛いです、日下部さん」
「すみません。癖で」
三分後。足元がぶよぶよした。
白かった。
着いた瞬間に、全員が黙った。
地面が白い。足元が白い。硬くて、滑らかで、わずかに温かい。光を反射して、灰色の空がいつもより明るく見える。白い大地が地平線まで続いている。起伏がない。植物がない。蟲がいない。あの網目の筋がない。
今まで行ったどの場所とも違った。
そして、匂いがなかった。フィルター越しだが、いつもの甘い瘴気が来ない。何もない。無臭。あの世界はいつも匂いに満ちていた。それがない。
「状況確認」と楠木が言った。声が硬かった。
「右方——何もないです。平坦で、白い。どこまでも」と日下部。
「左方、同じ。——佐倉さん、ここは」
「知らない。来たことない」
「不気味だな」と楠木が言った。
同感だった。何もない。何もないのに、全身の産毛が逆立っている。
「サンプル採りましょう。この白い地面を」
しゃがんだ。三人同時に。楠木がスコップを白い地面に当てた。
刺さらなかった。
「硬い。石以上だ」
スコップの角を当てて、力を入れた。がりっ、と音がした。白い粉が少し削れた。
日下部が粉をサンプル管に掻き入れた。手袋越しにつまんで、質感を確かめた。
「佐倉さん。これ、骨みたいな質感です」
骨。
白い大地の全部が骨。何の骨が、こんな広さの大地を作る。何億年分の死が堆積したら、こうなるのか。
「もう一箇所——」
地面が鳴った。
低い音。白い大地の下から。足の裏に音が伝わってくる。骨の大地全体が共鳴している。
足の裏の痕がずきんと痛んだ。鋭い。今までと違う。足裏の筋が引っ張られている。この大地が俺の体に作用している。
「何だ今の」と楠木が立ち上がった。
音が止まった。
静寂。
白い大地の表面に、ひびが走った。俺たちの足元から三メートルほど先。ひびは細くて、最初はただの亀裂に見えた。
亀裂が広がった。音もなく。白い表面がぱりぱりと剥がれていく。その下から、黒いものが見えた。
蟲の魔物だった。
最初にあの世界に行ったとき見た、腕くらいの太さの蟲の魔物とは違った。桁が違った。
白い大地の亀裂から、胴体が這い出してきた。太さが人間の胴体くらいある。黒くて、艶があって、体節がある。何節あるのか数えられない。地面の下に体の大部分がまだ埋まっていて、出てきたのは先端の一部だけ。その一部だけで、三メートル以上あった。
楠木が拳銃を抜いた。
速かった。俺の手を離さずに、左手一本でホルスターから引き抜いて、構えた。
蟲の魔物の先端が持ち上がった。頭があるのかないのかわからない。先端の体節が割れて、中から何本もの——脚なのか触肢なのか顎なのかわからないものが広がった。黒くて、鎌みたいに曲がっていて、表面が濡れていた。
楠木が撃った。
乾いた音が白い大地に反響した。一発。二発。三発。九ミリ弾が蟲の魔物の胴体に当たった。当たったのが見えた。黒い体表に白い傷がついた。
傷だけだった。
弾丸が弾かれたんじゃない。刺さった。刺さったけど、何の反応もない。蟲の魔物は止まらなかった。痛がる素振りもなかった。弾丸は蟲の魔物にとって何でもなかった。
「効かない——」
楠木が言いかけた。
蟲の魔物が動いた。
速かった。あの胴体の太さで、あの速度は反則だった。先端の体節から広がった鎌状の何かが、横薙ぎに振られた。
楠木が俺の手を引いて後ろに下がった。俺を庇おうとした。
鎌が楠木の右脇腹に入った。
ケブラーの防護服が裂けた。力で。引き裂くのではなく、刺し貫いた。鎌の先端が防護服を突き破って、楠木の体に入った。
音が聞こえた。肉に何かが刺さる音。ぐちゅ、という音。
楠木の体が持ち上がった。鎌に刺さったまま。蟲の魔物が楠木を持ち上げて、地面の亀裂の方に引きずっていく。
楠木が俺の手を握ったままだった。
引きずられる。俺ごと。日下部ごと。三人がワイヤーで繋がっている。蟲の魔物の力が、三人分の体重をものともせずに引っ張っている。白い大地の上を、ずるずると。
楠木の右手が俺の手の中にあった。握っていた。でも力が弱くなっていた。
楠木が俺を見た。ゴーグルの向こうの目。
「離せ」
声が小さかった。マスクの中から血が漏れていた。
「離さない」
「離せ。佐倉さん」
楠木の右手が動いた。一本ずつ、指を開いていく。自分から。
「やめろ——」
「怖がれる人間は、生きて帰れる」
楠木の指が全部開いた。俺の手から抜けた。同時に、楠木の左手が腰のカラビナを外した。ワイヤーが弛んだ。
楠木の体が蟲の魔物に引きずられていく。白い大地の亀裂に向かって。鎌に刺さったまま。ケブラーの防護服が赤く染まっていた。
亀裂に引きずり込まれた。頭から。体が白い地面の下に消えていく。最後にブーツの底が見えて、それも消えた。
亀裂が閉じた。白い表面が元に戻った。
楠木がいた場所に、血の跡だけが残っていた。白い大地の上の赤。
「——楠木さん!」
日下部が叫んだ。俺の左手を握ったまま。
「楠木さん! 楠木! くすの——」
日下部が走り出した。楠木が消えた亀裂に向かって。俺を引きずって。
「日下部さん! 止まれ!」
止まらなかった。日下部が走っている。俺の手を離さずに。ワイヤーが張って、俺の腰が引っ張られる。
白い大地の別の場所にも亀裂が走り始めていた。ぱりぱりと。一箇所じゃない。三箇所。四箇所。下にもっといる。
「日下部さん! 足元!」
日下部の左足が亀裂を踏んだ。白い大地が崩れて、足首まで沈んだ。日下部が転んだ。膝をついた。
足元がぶよぶよした。
帰還が来た。
日下部の手を握っている。握っている。日下部の手袋が泥で濡れていて、滑る。
「握れ! 手を握れ!」
日下部が立ち上がろうとした。左足が亀裂に嵌まっている。抜けない。体が引っ張られている。下に。
「佐倉さん——手、届かな——」
日下部の指が滑った。手袋の表面が泥でぬるぬるしていて、指が一本ずつ抜けていく。
「握れ!」
指先。指先だけ。手袋の指先だけが俺の手の中にあった。
地面が消えた。
手袋が抜けた。中身のない手袋だけが俺の手に残った。
部屋の床。
一人だった。
左手に日下部の手袋。右手は空。
二人いなくなった。十分もかからなかった。
マスクを外した。鼻血が出ていた。マスクの中に溜まっていた。顎まで垂れた。
手の甲を見た。水ぶくれが十一から十五に増えていた。斑点が肘を越えて二の腕まで来ていた。
携帯が鳴った。高梨からだった。
出た。
「高梨さん」
「佐倉さん。転移がありましたか」
「ありました」
「楠木と日下部は」
「楠木さんは死にました。日下部さんは——向こうに取り残されました」
電話の向こうが黙った。
長い沈黙の後、高梨が言った。
「……状況を聞かせてください」
「蟲の魔物です。地面の下から出てきた。でかいやつ。楠木さんが撃ちました。三発当たりました。効きませんでした。——楠木さんは、俺を庇って刺されました」
また黙った。
「日下部は」
「帰還のタイミングで手が滑りました。泥で。——手袋だけ残りました」
「……わかりました。明日、直接会えますか」
「会えます」
電話を切った。
床に座ったまま、日下部の手袋を見た。中身がない。指が五本、だらんと垂れている。
テーブルの上に持っていった。拓海の財布。森塚の手袋。その隣に、日下部の手袋を置いた。
三つ。
楠木のものは何もない。血の跡すら、向こうに残してきた。この部屋にあるのは、楠木の言葉だけだ。
「怖がれる人間は生きて帰れる」
嘘だ。楠木は怖がっていた。ちゃんと怖がっていた。それでも死んだ。
怖がっても死ぬ。怖がらなくても死ぬ。装備があっても死ぬ。訓練があっても死ぬ。拳銃を撃っても効かない。ケブラーを着ても貫かれる。
何を持って行っても、何も変わらない。
あの世界は変わらない。
変わったのは、テーブルの上の遺品が三つになったことだけだった。




