湾口の対話
翌朝 湾口
夜が明けた。
湾口の海は、依然として静かだった。本国艦隊も亡命艦隊も、互いに位置を変えないまま、そこにあった。だが、その静けさの質が、昨日までとは違っていた。
昨日までの静けさは、緊張の上に張られた、薄い氷のようなものだった。いつ、何が起きてもおかしくない。そういう静けさだった。だが、今朝の静けさには僅かながら別の色が混じっていた。
見張りに立つ兵たちも、その違いに、気づいていた。昨夜、艦隊全体に伝えられた報せは、まだ全員の中で消化しきれてはいなかった。だが、少なくとも今朝を迎えた誰の顔にも、これまでとは違う僅かな緩みがあった。
ドラフォは、自らの艦の甲板に立ち、亡命艦隊の方角を見つめていた。昨夜、艦隊の全員に本国の決定を伝えて以来、ドラフォはほとんど眠っていなかった。それでも、頭の芯だけは、これまでになく澄んでいた。
「隊長」副官が言った。「アルセナ殿下の艦から、通信要請です」
ドラフォは、しばらくその言葉を受け止めた。この半年、アルセナから直接の通信を受けたことは一度もなかった。互いに砲を向け合う関係になってからは、通信すら交わす理由がなかった。
「繋げ」ドラフォは言った。
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通信が繋がった。アルセナの声だった。
「ドラフォ」アルセナは言った。「久しぶりだな」
その声を聞いて、ドラフォは、しばらく言葉が出なかった。半年前まで、毎日のように、聞いていた声だった。その声が、いまこうして届いている。それだけのことに、ドラフォの胸の奥が、締め付けられるようだった。
副官が、その様子を、傍らで見ていた。隊長がこれほど動揺する姿を見るのは初めてだった。
「隊長」副官は、小さく、声をかけた。
ドラフォは、それに軽く頷き、通信機に向き直った。
「殿下」ドラフォは、やがて言った。「お久しぶりです」
「ミゼンから聞いた」アルセナは言った。「艦隊の全員に、報せを伝えたそうだな」
「はい」ドラフォは言った。「命令にはなかったことです。処罰されても仕方ありません」
「処罰などしない」アルセナは言った。「それどころか、感謝している。お前が部下たちに誠実であったことを」
ドラフォは、その言葉に何も返せなかった。感謝という言葉を、この半年誰かから向けられたことは一度もなかった。
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「殿下」ドラフォは、ようやく言った。「私は、この半年、あなたに砲を向ける側にいました。命令とはいえ——謝りたいのです」
しばらく、通信の向こうから返答はなかった。
「謝る必要はない」アルセナは、やがて言った。「お前は、軍人としての務めを果たしただけだ。それを責める権利は、私にはない」
「ですが」
「ドラフォ」アルセナは遮るように言った。「私が知りたいのは、謝罪ではない。——お前が、いま何を考えているかだ」
ドラフォは、しばらく黙った。海風が、甲板を、静かに吹き抜けていった。
「私は」ドラフォは言った。「この対峙が、これ以上続くことを、望んでいません。だが、命令が変わらない限り、私は、ここに留まらなければならない」
「その命令が」アルセナは言った。「変わろうとしている。評議会は、接触の可能性を検討し始めた」
「知っています」ドラフォは言った。「ですが、正式な召還命令は、まだ届いていません」
「命令が届くまで、あとどれくらいかかる」アルセナが聞いた。
「分かりません」ドラフォは言った。「本国の評議会が正式な文書を出し、それがここまで届くには、早くて数週間はかかるでしょう」
「その間、ずっと、こうして睨み合ったままか」アルセナは言った。
「命令がなければ、艦隊を、動かすわけにはいきません」ドラフォは言った。「軍人として、それが、私の立場です」
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「では」アルセナは言った。「一つ、提案がある」
「伺います」
「正式な命令が届くまでの間、湾口での無用な緊張を避けたい」アルセナは言った。「双方が、これ以上睨み合うだけの状況を続ける必要はないはずだ」
「具体的には」ドラフォが聞いた。
「一時的な休戦協定を結びたい」アルセナは言った。「正式な決定が届くまで、互いに攻撃行動を取らない。それだけの、簡単な取り決めだ」
ドラフォは、しばらく考えた。この半年、両艦隊は互いを敵と見做し、常に臨戦態勢を維持してきた。その態勢を、いま、崩す。それがどれほどの意味を持つか、ドラフォには、痛いほど分かっていた。
「私に、その権限があるかどうか」ドラフォは言った。「本国からの命令なしに、休戦を決めることは——」
「権限の話ではない」アルセナは言った。「必要性の話だ。お前の艦隊にも、私の艦隊にも、これ以上緊張を続ける意味はない。既に増援は来ないと決まっている。ならば、この対峙をこれ以上危険なものにする理由があるか」
「理由が、ないとは言い切れません」ドラフォは言った。「本国には、まだ強硬な意見を持つ評議員も少なくないと聞いています。休戦が、後になって、覆される可能性も——」
「それでも」アルセナは言った。「いま、この瞬間、無為に緊張を続けることに何の意味がある。もし、決定が覆されるなら、その時また備えればいい。だが、いま目の前にある機会を逃す理由にはならない」
ドラフォは、その言葉に、しばらく黙った。アルセナの論理は、常に、明快だった。かつても、そうだった。判断に迷うとき、アルセナの一言が道筋を示してくれることが何度もあった。
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ドラフォは、水平線を見つめた。朝日が、海面を、金色に染め始めていた。
「一つ、確認させてください」ドラフォは言った。「殿下は、この休戦を、本国への裏切りとはお考えにならないのですか」
「裏切りとは思わない」アルセナは言った。「これは、双方の命を無駄にしないための判断だ。——本国の評議会も、これ以上の拡大を望んでいない。ならば、現場がそれに先んじて動くことに、何の問題がある」
「評議会が、この判断を良しとしなかったら」
「その時は」アルセナは言った。「私が責任を負う。お前は、私からの要請に応じただけだ、と」
ドラフォは、その言葉にしばらく目を閉じた。半年前と、何も変わらない、まっすぐな声だった。
「殿下は」ドラフォは言った。「変わりませんね。あの頃と」
「変わったつもりはない」アルセナは言った。「ただ、あの頃より多くのものを見てきただけだ」
「それは」ドラフォは言った。「私も、同じかもしれません」
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ドラフォは、しばらく副官と相談した。
「隊長」副官が言った。「この提案、受けるのですか」
「受ける」ドラフォは言った。「これ以上、部下たちを緊張の中に置いておく理由がない」
「本国が、何と言うか」
「本国が何を言おうと」ドラフォは言った。「私は、この場にいる者たちの命を預かっている。それを優先する」
副官は、しばらくドラフォを見た。それから、静かに頷いた。
「分かりました」副官は言った。「私は、隊長に従います」
副官は、そう言ってから少し間を置いた。
「隊長」副官は、続けた。「正直に申し上げれば、私もこの緊張がいつまで続くのか不安でした。休戦は、部隊の誰もが望んでいたことだと思います」
ドラフォは、その言葉に小さく頷いた。
「私も、同じだ」ドラフォは言った。
「それに」副官は、続けた。「昨日、あの二人が艦に上がってきてから、部隊の空気が明らかに変わりました。皆、口には出しませんが、この対峙が終わることを望んでいるのだと思います」
「終わってほしいのは、私も同じだ」ドラフォは言った。「だが、終わり方には、慎重にならなければならない。急ぎすぎて何かを見誤ることがあってはならない」
副官は、頷いた。
「その通りです」副官は言った。「ですが、隊長の判断を私は信じます」
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通信が、再び繋がった。
「殿下」ドラフォは言った。「提案を受け入れます。休戦協定を結びましょう」
「感謝する」アルセナは言った。「詳細は、後ほど書面で取り交わそう」
「休戦の範囲について」ドラフォが言った。「具体的な、取り決めが必要だと思います。攻撃行動の定義、艦の接近をどこまで許すか」
「もっともだ」アルセナは言った。「レナに、文書を作らせよう。互いの艦隊が、了承できる内容に、まとめさせる」
「感謝します」ドラフォは言った。「一つ、こちらからも提案してよろしいですか」
「聞こう」
「双方の艦隊の間に緩衝となる距離を、明確に定めたい」ドラフォは言った。「不測の接近が、無用な誤解を招くことを、避けたいのです」
「賛成だ」アルセナは言った。「その提案も文書に盛り込ませよう」
「一つ、よろしいですか」ドラフォは言った。
「なんだ」
「ミゼンと、ナサに礼を伝えていただけますか」ドラフォは言った。「二人が、この場に来なければ、この対話はなかった」
「伝えよう」アルセナは言った。「二人にも、お前の言葉をそのまま伝える」
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その日の午後 湾口
正式な休戦協定の書面が、双方の艦隊の間を行き来した。
協定の内容は、簡潔だった。正式な決定が届くまでの間、互いに攻撃行動を取らないこと。一定の距離を保ち、不必要な接近を避けること。そして、緊急時には休戦の白い旗を掲げた船で通信を行うこと。
この文書を、レナが艦隊全体に伝達した。
「これより、休戦協定が発効します」レナの声が艦隊中に響いた。「各艦は、攻撃態勢を、解除してください。ただし、警戒は緩めないように」
亡命艦隊の兵たちの間に、安堵の声が、広がった。半年にわたる緊張の連続が、ようやく一区切りを迎えようとしていた。
同じ頃、本国艦隊でも、ドラフォが同様の指示を伝えていた。
「休戦協定が、発効した」ドラフォは、艦隊に向けて言った。「攻撃態勢を、解除する。だが、油断はするな。これは、あくまで一時的な取り決めだ」
兵たちは、それぞれに、頷いた。誰の顔にも、これまでとは違う僅かな安堵が浮かんでいた。
この簡素な取り決めが、半年にわたる湾口の対峙に初めて変化をもたらした。
湾口の海に、変化が訪れた。これまで、互いに砲門を向け合っていた艦隊が、その構えを緩めた。完全な信頼ではない。だが、少なくとも、この瞬間、両者は攻撃を意図していなかった。
両艦隊の兵たちの間にも、それぞれ、変化が起きていた。長く続いた緊張から僅かに解放された者たちの表情には、これまでにない安堵が浮かんでいた。
ミゼンとナサは、その光景を、亡命艦隊の甲板から見つめていた。
「終わった、わけじゃない」ミゼンが言った。「でも——」
「一歩」ナサが言った。「また。一歩」
「ドラフォの奴、あんな決断ができる男だったんだな」ミゼンが言った。「昔は、堅物すぎて、融通が利かないと思ってた」
「変わった。ドラフォ。私たち。同じ」ナサが言った。
「そうだな」ミゼンは言った。「あの朝が、みんなを、変えた。ドラフォも俺もお前も」
ナサは、水平線に浮かぶ本国艦隊の輪郭を見つめた。
「あの艦隊。兵たち。みんな。ほっとした。顔。していた」ナサが言った。
「戦いたくて、戦ってる奴なんて、そういないさ」ミゼンは言った。「命令だから、戦ってただけだ。それが少しでも緩んだんだから、安心もするだろう」
アルセナが、二人の傍らに近づいてきた。
「二人とも」アルセナは言った。「ドラフォから、礼の言葉を、預かっている。お前たちが、この対話のきっかけを作ってくれたことに感謝すると」
ミゼンは、少し照れたように笑った。
「礼を言われるようなことじゃない」ミゼンは言った。「俺たちは、ただ、報せを届けただけだ」
「それでも」アルセナは言った。「その報せが、半年続いた対峙を、動かした。十分に、誇っていいことだと思う」
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その頃 東京 経済安全保障統括室
遠野は、ダーウィンからの報告書を読んでいた。
湾口での一時休戦。証言外交の進展。それらの報せは、東京にも届いていた。
だが、遠野の机には、もう一つの問題が残っていた。
「これで、戦争は終わるのか」隣の席の桧山が聞いた。
「終わりません」遠野は言った。「休戦は、あくまで一時的なものです。正式な和平には、まだ程遠い」
桧山は、腕を組んだ。
「楽観できない、ということですね」桧山が言った。
「その通りです」遠野は言った。「休戦は、現場の判断によるものです。本国の評議会が正式に、これを追認するかどうかは、まだ分かりません。強硬派が巻き返しを図る可能性も十分にあります」
「では、我々は」
「弾薬の国産化を進めます」遠野は言った。「休戦が続くとは限らない。備えは続けなければ」
桧山は、机の上の資料を、手に取った。
桧山は、頷いた。
「小銃と一部の弾薬は、国産化の目処が立っています」桧山は言った。「ですが、精密誘導兵器は——」
「単独では不可能です」遠野は言った。「それは変わりません。だからこそ、この休戦を無駄にはできない。武力ではなく対話で、この状況を乗り切る道を探さなければ」
「精密誘導兵器の、代替案は」桧山が聞いた。
「いまのところ、ありません」遠野は言った。「電子部品も精密加工の技術も、単独で確立するには何年もかかります。それまでの間、我々は既存の在庫だけで持ちこたえなければならない」
「その在庫も有限です」桧山は言った。
「分かっています」遠野は言った。「だからこそ、対話の芽を絶対に潰してはいけない。武力で、時間を稼ぎながら、国産化を進める。それが、最も現実的な道です」
桧山は、しばらく資料に目を落とした。
「休戦が、正式な和平に、繋がる可能性は」桧山が聞いた。
「分かりません」遠野は言った。「ですが、少なくとも、これまでの武力一辺倒の状況からは抜け出しつつあります。証言が評議会を動かし、現場が休戦を選んだ。——この流れを絶やさないことが我々の役目です」
「国産化と、対話。両方を、並行して進める、ということですね」桧山は言った。
「そうです」遠野は言った。「対話がうまくいけば、国産化は、保険になる。対話が決裂すれば、国産化は生命線になる。——どちらに転んでも備えは無駄にはなりません」
桧山は、しばらく窓の外を見た。
「不思議なものですね」桧山は言った。「地球にいた頃は、国防といえば同盟国との連携と装備の更新が全てでした。ここでは、対話の可能性まで国防政策の一部として考えなければならない」
「それが、この世界の現実です」遠野は言った。「アメリカもヨーロッパも見つからない。頼れる同盟国は、いまのところ、豪州だけ。ならば、武力に頼らない選択肢も真剣に検討する必要があります」
「証言外交、というやつですか」桧山が言った。
「そうです」遠野は言った。「あの二人の証言が、これほどの結果を生むとは正直、思っていませんでした。だが、これが、この世界で我々が持ちうる、もう一つの武器なのかもしれません」
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窓の外には、東京のいつもの景色が広がっていた。
行き交う人々。変わらない日常。この国の多くの人々は、遠い海でいま何が起きているのか、詳しくは知らない。ただ、政府が静かに、この状況に対応していることだけを信じていた。
だが、その景色の向こうに、いま遠い海で初めて武力ではない糸が確かに伸びつつあることを遠野は知っていた。
遠野は、報告書を、そっと閉じた。この一枚の報告書が、これから先どれほどの意味を持つことになるのか、まだ正確には分からない。だが、少なくとも半年間変わらなかった状況に、確かな変化が生まれ始めていた。
桧山が、席を立ちながら、言った。
「この流れが、続くことを、願っています」
「私もです」遠野は言った。
二人は、それぞれの仕事に、戻っていった。
その糸がこの先どこまで伸びていくのか、まだ誰にも分からなかった。




