板挟みの男
本国艦隊 旗艦付近
伝令船が近づくにつれ、本国艦隊の緊張が高まっていった。
見張りの声が、艦隊全体に響いた。
「休戦の旗を掲げた船、接近中!」
本国艦隊の甲板に、兵たちが集まり始めた。誰もが、この不審な船の接近に警戒の目を向けていた。
半年にわたる湾口での対峙の中で、こうした不意の接近は、初めてのことだった。兵たちの間には、緊張と僅かな戸惑いが同時に広がっていた。
「亡命艦隊の罠かもしれません」若い見張りが言った。「油断は禁物です」
「そうかもしれない」別の兵が言った。「だが、あれほど小さな船で罠を仕掛けるとは思えない」
甲板のあちこちで、そうした囁きが交わされていた。誰もが、この不可解な状況に、答えを見出そうとしていた。
ドラフォは、自らの艦の甲板に立ち、双眼鏡でその船を見つめていた。小さな伝令船だった。武装らしきものは見当たらない。ただ、白い旗だけがマストの先端ではためいていた。
「亡命艦隊からの使者か」ドラフォの副官が言った。
「分からない」ドラフォは言った。「だが、様子を見よう。攻撃はするな」
副官は頷き、周囲の兵たちに指示を伝えた。槍を構えていた兵たちが、僅かに、その構えを緩めた。だが、警戒は解かれなかった。
────
伝令船は、本国艦隊の間近まで近づいた。
甲板から、二つの人影が見えた。ドラフォは、双眼鏡をその人影に向けた。
一人は、見覚えのある顔だった。かつて自分の艦に乗っていた少年。海に落ち、あの海の民に拾われたと聞いていた男。
「ミゼン」ドラフォが思わず呟いた。
副官が、ドラフォを見た。
「ご存知の者ですか」副官が聞いた。
「かつて、私の艦に乗っていた」ドラフォは言った。「海に落ちて行方不明になったと聞いていたが——生きていたのか」
ドラフォは、双眼鏡を下ろすことなく、その姿を確かめ続けた。記憶にある痩せた少年の面影は、もうそこにはなかった。だが、確かに、あの時の目をしている。
「隣にいるのは」副官が言った。
「分からない」ドラフォは言った。「見覚えのない顔だ」
ドラフォは、しばらく双眼鏡越しに、その姿を見つめ続けた。本国の顔立ちをしているが、あの海の民の身なりに、どこか通じるものがある。ドラフォには、その男の正体がまだ掴めなかった。
「攻撃の準備は、怠るな」ドラフォは、副官に言った。「だが、今は様子を見る」
────
伝令船が、旗艦の脇に着けられた。ミゼンとナサが、縄梯子を使って旗艦の甲板に上がってきた。
甲板に立つ兵たちが、二人を取り囲むように槍を構えた。
「待て」ドラフォが声を上げた。「その者たちに手を出すな」
兵たちは、槍を下げた。だが、警戒は解かなかった。
ドラフォが、二人の前に進み出た。
「ミゼン」ドラフォは言った。「本当に、お前なのか」
「久しぶりだ、ドラフォ」ミゼンは言った。「あの日以来だな」
ドラフォは、しばらくミゼンの顔を見つめた。記憶にある少年の面影と、目の前の男を重ね合わせるように。
「随分と、変わったな」ドラフォは言った。「見違えた」
「あんたも変わってない」ミゼンは言った。「相変わらず、堅物だ」
ドラフォは、その言葉に僅かに口元を緩めた。だが、すぐに、真剣な表情に戻った。
「お前が海に落ちてから、艦の全員が案じていた」ドラフォは言った。「まさか、あの海の民に拾われていたとはな」
「拾われて、育てられた」ミゼンは言った。「命の恩人たちだ」
「本国では、お前は、死んだものと思われていた」ドラフォは言った。「艦隊の中には、お前のために弔いの儀式を行った者もいる」
「そうか」ミゼンは少し驚いたように言った。「知らなかった」
「お前を失ったことは、この艦隊にとって痛手だった」ドラフォは言った。「若い船員たちの中には、お前を兄のように慕っていた者もいた」
ミゼンは、しばらく何も言わなかった。それから、静かに言った。
「みんな、元気か」
「元気だ」ドラフォは言った。「お前が生きていたと知れば、きっと喜ぶだろう」
隣で、ナサがそのやり取りを静かに見ていた。
「本国。人。みんな。同じ。感情」ナサが、ぽつりと言った。
ドラフォは、ナサに、目を向けた。
「当然だろう」ドラフォは言った。「我々も、人間だ」
────
ドラフォは、二人を艦の一室に案内した。
「用件は何だ」ドラフォは言った。「休戦の旗を掲げて、わざわざ私の艦に来るからには、それなりの理由があるのだろう」
ミゼンは、懐から命令書の写しを取り出した。
「本国の評議会が決定を下した」ミゼンは言った。「第二次遠征は見送られた。増援は来ない」
ドラフォは、その紙を受け取った。目を通す間、表情を変えなかった。だが、その手は僅かに震えていた。
部屋の中は、しばらく、静まり返っていた。ドラフォが命令書の文字を一字一句、確かめるように読み進めていく音だけが静かに響いていた。
「これが、本当に評議会の決定なのか」ドラフォは言った。
「本物だ」ナサが言った。「私。証言。した。評議会。それ。聞いた。決めた」
ドラフォは、ナサの顔を見た。
「お前は」ドラフォは言った。「確か——寝返った技術者だな」
「そう」ナサは言った。「でも。今。違う。仕事。ある」
「仕事、か」ドラフォは言った。「その仕事とは、なんだ」
「二つの世界。繋ぐ」ナサは言った。「戦争。終わらせる。それ」
ドラフォは、しばらく、ナサを見つめた。
「お前は、なぜ、寝返った」ドラフォは聞いた。「本国を、裏切ってまで」
「裏切った。じゃない」ナサは言った。「両方。見た。両方。知った。だから。伝えたい。それだけ」
「両方を知る、か」ドラフォは言った。
「あの海。敵。じゃない」ナサは言った。「恐れる。だけ。私たち。同じ」
ドラフォは、その言葉をしばらく噛み締めるように考えた。半年、あの海の民を敵としてしか見てこなかった。だが、目の前の男の言葉には、これまで聞いたことのない重みがあった。
────
ドラフォは、しばらく沈黙した。命令書の文言を、何度も読み返しているようだった。
「増援が、来ない」ドラフォは低く呟いた。「では——この艦隊は」
「決定には、続きがある」ミゼンは言った。「あの海の民との接触の可能性についても、評議会は検討を始めている」
ドラフォは、顔を上げた。
「接触、だと」ドラフォは言った。「和平の話をしているのか」
「和平とは、まだ言わない」ミゼンは言った。「だが、その一歩手前だ。少なくとも、これ以上戦を拡大させないという決定は下された」
ドラフォは、椅子に深く座り直した。
「私は」ドラフォは、やがて言った。「本国からの命令で、ここにいる。同胞に砲を向けろと、命じられて」
「知っている」ミゼンは言った。「アルセナ殿下も知っている。あんたが板挟みになっていることを」
ドラフォは、その言葉に僅かに目を伏せた。
「殿下が、そんなことを」ドラフォは言った。「私を、恨んでいるとばかり」
「恨んでいない」ミゼンは言った。「殿下は、あんたの立場を理解している」
ドラフォは、その言葉にしばらく目を閉じた。長年、心に重くのしかかっていたものが、少しだけ軽くなったような、そんな表情だった。
「殿下は、優しい人だ」ドラフォは言った。「そんな人を、私は、裏切ることになった。この半年、ずっと、そのことが心にのしかかっていた」
「裏切ってはいない」ミゼンは言った。「あんたは、命令に、従っただけだ」
「同じことだ」ドラフォは言った。「結果として、殿下を苦しめたことに変わりはない」
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ドラフォは、目を閉じた。
「私にも、選択の余地はなかった」ドラフォは言った。「命令に従わなければ、反逆者として処罰される。従えば、かつての仲間を敵として扱わなければならない。——どちらを選んでも、苦しいだけだった」
「その苦しさは」ミゼンは言った。「殿下も分かっている」
ドラフォは、しばらく両手で顔を覆った。
「毎晩、考えた」ドラフォは言った。「もし、命令を拒否したら、どうなるか。だが、拒否すれば、私だけでなく、この艦隊の全員が反逆者として処罰される。私一人の意地で、多くの部下を犠牲にすることはできなかった」
「それも一つの決断だ」ミゼンは言った。「誰にでも、できることじゃない」
「決断、というより」ドラフォは言った。「ただ、逃げ場がなかっただけだ。誇れるものじゃない」
ドラフォは、目を開けた。
「アルセナ殿下は、いま、どうしている」ドラフォは聞いた。
「湾口で、艦隊を率いている」ミゼンは言った。「この半年、ずっと、あんたたちの艦隊と睨み合ってきた」
「知っている」ドラフォは言った。「その状況の中で、私が砲を向ける側にいる。皮肉なものだ」
ドラフォは、しばらく、遠くを見るような目をした。
「かつて」ドラフォは言った。「私は、殿下の副官として、この艦隊を共に率いていた。あの頃は、こんな未来が来るとは想像もしていなかった」
「誰も、想像できなかったはずだ」ミゼンは言った。「あの朝が来るまでは」
────
「今回の決定で」ミゼンは言った。「あんたの立場も、少しは変わるはずだ。増援が来ないということは、この対峙が、これ以上悪化しないということでもある」
ドラフォは、しばらく考え込んだ。
「だが」ドラフォは言った。「私は、まだここにいる。命令が変わらない限り」
「命令書には」ミゼンが言った。「もう一つ、記されている」
ミゼンは、命令書の別の箇所を指し示した。
「現地に展開している艦隊の処遇についても、評議会は改めて検討する、とある」ミゼンは言った。「あんたたちの艦隊も、いずれ召還される可能性がある」
ドラフォは、その一文を何度も読み返した。
「召還、か」ドラフォは呟いた。
「本国に戻る、ということだ」ミゼンは言った。「この対峙を終わらせる道が開けつつある」
ドラフォは、しばらく、何も言わなかった。窓の外に、湾口の海が、静かに広がっていた。
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「ドラフォ」ミゼンは言った。「あんたは、これから、どうする」
ドラフォは、しばらく答えなかった。
「私は、軍人だ」ドラフォは、やがて言った。「命令があれば従う。それが、私の役目だ。だが——」
ドラフォは、言葉を切った。
「だが、何だ」ミゼンが続きを促した。
「だが、この命令書の内容を、艦隊の全員に伝える必要がある」ドラフォは言った。「彼らも知る権利がある。増援が来ないことを。評議会が変わろうとしていることを」
ナサが、頷いた。
「それ。私たち。望むこと」ナサは言った。
ドラフォは、しばらく腕を組んで考え込んだ。命令に忠実であることと、部下への誠実さと、どちらを優先すべきか。その答えを、ドラフォは慎重に探しているようだった。
「この決断が、後でどう評価されるかは分からない」ドラフォは、やがて言った。「だが、私の部下たちを、これ以上何も知らされないまま戦わせ続けることはできない」
ドラフォは、椅子から立ち上がった。その顔には、これまでとは違う、何か決意めいたものが浮かんでいた。
「艦隊の全員を集めよ」ドラフォは、副官に命じた。「本国からの新たな報せがある」
副官は、僅かに驚いた表情を見せた。だが、すぐに頷いて部屋を出ていった。
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甲板に、艦隊の兵たちが集められた。
夕暮れの光の中、多くの兵たちの顔が、並んでいた。誰もが、突然の招集に、緊張した面持ちをしていた。
ドラフォは、その前に立ち、命令書を掲げた。
「本国の評議会から正式な決定が届いた」ドラフォは声を張り上げた。「第二次遠征は見送られた。増援は来ない」
兵たちの間に、動揺が広がった。
「では」一人の兵が声を上げた。「我々は、これから、どうなるのですか」
「まだ決まっていない」ドラフォは言った。「だが、少なくとも、この戦いがこれ以上拡大することはない。——評議会は、あの海の民との接触の可能性についても検討を始めている」
兵たちの間に、静かなざわめきが広がった。安堵とも戸惑いともつかない複雑な空気が、艦隊全体を包んでいた。
多くの兵たちの顔に、安堵の色が浮かんでいた。増援が来ないということは、この長い対峙が、これ以上悪化しないということでもある。故郷に残してきた家族を思い、密かに、涙を拭う兵の姿も見られた。
だが、それと同時に、戸惑いも広がっていた。これまで敵として教え込まれてきた相手との接触を、評議会が検討している。その事実を、すぐには飲み込めない者も少なくなかった。
「隊長」別の兵が、声を上げた。「この報せは、本当に信じられるものなのですか」
ドラフォは、その兵に目を向けた。
「この命令書を、届けたのは」ドラフォは言った。「あの二人だ」
ドラフォは、傍らに立つミゼンとナサを指し示した。
「本国の評議会で証言を行い、この決定を引き出した者たちだ」ドラフォは言った。「私は、この二人の言葉を信じることにした」
兵たちの視線が、一斉にミゼンとナサに向けられた。
その視線には、様々な感情が、入り混じっていた。かつて仲間だった者への懐かしさ。あの海の民との繋がりを持つ者への警戒。そして、この戦争を終わらせるかもしれない二人への、僅かな期待。
一人の若い兵が、おずおずと、口を開いた。
「あの、質問しても、よろしいでしょうか」若い兵は言った。「あの海の民は——本当に我々を敵として見ていないのでしょうか」
ミゼンは、その兵をまっすぐ見た。
「敵として見ていない」ミゼンは言った。「恐れているだけだ。それは、こちら側も同じだろう」
若い兵は、しばらく考え込むような表情を見せた。それ以上、何も、言わなかった。だが、その顔には、これまでとは違う何かを考え始めた様子が見て取れた。
────
その夜 本国艦隊 旗艦
ドラフォは、一人、甲板に立っていた。
湾口の向こうに、亡命艦隊の灯りが小さく見えていた。あの艦隊の中に、アルセナがいる。かつて共に、この海を守っていた上官が。
ミゼンが、その傍らに、近づいてきた。
「休んでいないのか」ミゼンが言った。
「眠れそうにない」ドラフォは言った。「今日、あまりに多くのことがあった」
「無理もない」ミゼンは言った。「一日で、色々なことが変わりすぎた」
ドラフォは小さく笑った。
「お前が生きていたことも、その一つだ」ドラフォは言った。「今日は、驚くことばかりの一日だった」
「そうだな」ミゼンは言った。「俺も、まさか、あんたとこうして話すことになるとは思っていなかった」
「殿下は」ドラフォが、傍らのミゼンに聞いた。「私を、どう思っているだろうか」
「あんたのことを心配していた」ミゼンは言った。「板挟みになっていることを分かっていた」
ドラフォは、しばらく黙っていた。
「私は、これから、どうすればいい」ドラフォは静かに呟いた。
「それは」ミゼンは言った。「あんた自身が決めることだ。俺たちは、ただ報せを届けに来ただけだ」
ドラフォは、水平線の彼方に目を向けた。湾口の灯りを、しばらく見つめ続けた。
「今日、艦隊の全員に、真実を伝えた」ドラフォは言った。「命令に、そぐわない行動だったかもしれない。だが、それが、正しいことだと思った」
「正しかったと思う」ミゼンは言った。「あんたは、あんたにできることをした」
ドラフォは、その言葉に小さく頷いた。
「もし」ドラフォは言った。「もし、この対峙が本当に終わる日が来たら——私は殿下に何を伝えればいいのだろうか」
「あんたが思うことを、伝えればいい」ミゼンは言った。「殿下は、あんたの言葉を待っているはずだ」
ドラフォは、しばらく考え込んだ。
「私は、殿下に謝りたい」ドラフォは、やがて言った。「命令とはいえ、砲を向けたことに変わりはない」
「殿下は、あんたを責めないと思う」ミゼンは言った。「あんたが、どれほど苦しんだかを、知っているから」
「それでも」ドラフォは言った。「謝る必要はある。それが、けじめというものだ」
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その灯りの向こうに何が待っているのか、ドラフォには、まだ確かなことは分からなかった。だが、少なくとも、これまでの半年とは違う何かが始まろうとしていることだけは感じ取っていた。
「ミゼン」ドラフォは、やがて言った。「お前は、この戦争が本当に終わると思うか」
ミゼンは、しばらく考えた。
「分からない」ミゼンは言った。「だが、終わらせるために、今できることをやっている。それだけだ」
ドラフォは、その答えに静かに頷いた。
二つの海を繋ぐ糸は、いま本国艦隊という、もう一つの結び目に届いていた。
その糸がこの先どこまで伸びていくのか、まだ誰にも分からなかった。




