湾口に届く報せ
その頃 湾口 亡命艦隊「エイカ」
アルセナは、艦橋にいた。
湾口の海には、まだ緊張が残っていた。北岸の戦いが膠着して以来、本国艦隊は湾口の外で動きを止めていた。攻めるでもなく、退くでもない。両者の間には、重苦しい沈黙だけが横たわっていた。
半年にわたる海上の対峙は、乗員たちの神経を確実にすり減らしていた。緊張が解けることのない日々の中で、誰もが次に何が起きるのか分からないまま、持ち場に立ち続けていた。
「殿下」レナが言った。「豪州基地から通信です」
「繋げ」
通信が繋がった。カーターの声だった。
「アルセナ殿下」カーターの声は、これまでとは違う響きを持っていた。「大きな報せがあります。本国の評議会から正式な決定が届きました。——第二次遠征は見送られました」
アルセナは、しばらく、その言葉の意味を飲み込もうとした。艦橋にいた他の乗員たちも、通信に耳をそばだてていた。誰もが、この半年、増援の可能性に常に怯えながら過ごしてきた。その恐れが、いま、この一言で消えようとしていた。
艦橋の乗員の何人かが、思わず、顔を見合わせた。誰も声を上げることはしなかったが、その表情には隠しきれない安堵が浮かんでいた。この半年、増援という言葉は常に、亡命艦隊の頭上に重くのしかかっていた。その重石が、いま初めて外れようとしていた。
「見送られた、というのは」アルセナは言った。「増援は来ない、ということですか」
「その通りです」カーターは言った。「更に評議会は、あの海の民との接触の可能性についても検討を始めています」
アルセナの手が、艦橋の手すりを強く握った。
「誰が、それを成し遂げたのですか」アルセナは聞いた。
「ナサとミゼンです」カーターは言った。「二人が証言を携えて本国の評議会に立ちました。オルグという評議員が、その証言を評議会に届けました」
ミゼンの名を聞いて、アルセナは目を閉じた。
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「ミゼンが」アルセナは静かに繰り返した。「本国に、渡っていたのですか」
「はい」カーターは言った。「ナサと共に、危険を承知で都に向かいました。証言が評議会を動かしました」
アルセナは、しばらく言葉を失った。
半年前、ミゼンは海に落ちた本国生まれの少年だった。ヴァルタの民に拾われ、育てられ、二つの世界の狭間で生きてきた。その少年が、いま、二つの世界を繋ぐ決定的な役割を果たした。
アルセナは、ミゼンが初めてこの艦に上げられた日のことを、ふと思い出した。怯えた目をした、痩せた少年だった。あの日から、ここまでの道のりを、アルセナはまだうまく飲み込めずにいた。
「彼らは、いま、どこに」アルセナは聞いた。
「基地にいます」カーターは言った。「休息を取らせています。長い航海の後でしたので」
「無事、なのですね」
「無事です」
アルセナは、その言葉に深く息を吐いた。半年、この海で戦い続けてきた中で、これほど安堵を覚えたことはなかった。
「詳しい経緯を、聞かせてもらえますか」アルセナは言った。
「もちろんです」カーターは言った。「証言の内容、評議会での議論、採決の経緯。全て、記録に残っています。後ほど、文書でお送りします」
「頼みます」アルセナは言った。「一言一句、確かめたい」
カーターは、しばらく言葉を選ぶように間を置いた。
「殿下」カーターは言った。「一つ、申し上げておきたいことがあります。この決定は、評議会の中でも、僅差での可決でした。オルグという評議員の尽力がなければ、逆の結果になっていたかもしれません」
「僅差、ですか」アルセナは言った。
「はい」カーターは言った。「本国の中にも、まだ、強硬な意見を持つ者たちがいます。今回の決定が、最終的なものとはまだ言い切れません」
アルセナは、その言葉を重く受け止めた。
「分かりました」アルセナは言った。「油断はしません。だが、この一歩を大切にしたいと思います」
────
通信を終えた後、アルセナは、しばらく艦橋の窓から湾口の外を見つめていた。
本国艦隊は、まだ、そこにいる。増援は来ないと決まったとはいえ、既に展開している艦隊が、すぐに引くとは限らない。この均衡がいつまで続くのか、アルセナにも、まだ分からなかった。
「殿下」レナが傍らに来た。「良い報せですね」
「そうだな」アルセナは言った。「だが、まだ終わってはいない。あの艦隊が湾口にいる限り」
レナは、頷いた。
「それでも」レナは言った。「半年間、変わらなかった状況に初めて変化の兆しが見えました。それだけでも、大きいと思います」
「その通りだ」アルセナは言った。「だが、油断はできない。追い詰められた側が何をするかは分からない」
「ドラフォ様の艦は、まだ、あの中に」レナが言った。
アルセナは、水平線の彼方に目を凝らした。本国艦隊の中に、ドラフォの艦がある。命令に従わされ、同胞に砲を向けさせられている、かつての腹心。
ドラフォとは、長く共に、この艦隊を率いてきた。強硬な男だったが、その強硬さの裏には、故国への忠誠があった。その男が、いま本国の命令によって、かつての仲間を敵として扱わされている。
アルセナは、かつてドラフォと交わした会話を、ふと思い出した。まだ本国と対立する前、二人は同じ艦隊で共に、あの海を見つめていた。ドラフォは常に、故国の未来を案じていた。その忠誠心が、いま、この皮肉な状況を作り出している。
「ドラフォ様は、いま、何を思っているのでしょう」レナが言った。
「分からない」アルセナは言った。「だが、あの男が心から、この戦を望んでいるとは思えない。命令に従っているだけだ」
「それでも、逆らえない」レナは言った。
「そうだ」アルセナは言った。「本国の軍人には、本国の軍人の、事情がある。私のように一度亡命した者とは、立場が違う」
「ドラフォにも、この報せは届くだろうか」アルセナは呟いた。
「分かりません」レナは言った。「本国艦隊の指揮系統次第です」
アルセナは、しばらく黙っていた。
────
その頃 豪州基地
ナサとミゼンは、基地の一室で目を覚ました。
久しぶりに、深く眠った後だった。窓の外には、穏やかな朝の光が差し込んでいた。この数日間の緊張が、ようやく体から抜けていくのを、二人とも感じていた。
「よく眠れたか」ミゼンが、伸びをしながら聞いた。
「眠れた」ナサは言った。「久しぶり。こんな。深く」
「俺もだ」ミゼンは言った。「夢も見なかった気がする」
ナサは、体を起こし、窓の外を見た。基地の敷地には、負傷兵たちの姿が、まばらに見えた。だが、その表情には、これまでとは違う僅かな緩みがあった。
「みんな。安心。している」ナサが言った。
「そうだな」ミゼンは言った。「それが、俺たちの届けたかったものだ」
扉が、ノックされた。カーターだった。
「起きていたか」カーターは言った。「アルセナ殿下に報せを伝えた。湾口の艦隊に」
ナサとミゼンは、顔を見合わせた。
「殿下は、なんと」ミゼンが聞いた。
「安堵していた」カーターは言った。「特に、お前の名前を聞いた時は」
ミゼンは、少し照れたように、目を伏せた。
「殿下。まだ。湾口。戦っている」ナサが言った。「本国。艦隊。まだ。いる」
「その通りだ」カーターは言った。「増援は来ないが、既にいる艦隊が、すぐに退くとは限らない。——この報せが湾口にも届く必要がある」
カーターは、続けた。
「湾口の状況は、まだ、緊迫している。本国艦隊が今後どう動くかは、まだ読めない。だが、少なくとも増援が来ないという事実は、あの艦隊の士気にも、何らかの影響を与えるはずだ」
「士気、か」ミゼンが言った。
「そうだ」カーターは言った。「戦は、武器や数だけで決まるものじゃない。士気が崩れれば、艦隊全体が揺らぐこともある」
「本国艦隊の兵たちも」ナサが言った。「知らない。この決定。まだ」
「その通りだ」カーターは言った。「彼らは今も命令に従って、そこにいる。増援が来ないことも、評議会の議論も、まだ知らないままだ」
「教えたい」ナサが言った。「彼ら。も。知る。権利。ある」
カーターは、その言葉に少し驚いたように、ナサを見た。
「敵の兵たちの、権利まで、気にかけるのか」カーターは言った。
「敵。じゃない」ナサは言った。「同じ。国の人。ただ。命令。従う。だけ」
カーターは、しばらく、何も言わなかった。それから、静かに、頷いた。
「その通りかもしれない」カーターは言った。
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「俺が行く」ミゼンが、すぐに言った。
カーターは、ミゼンを見た。
「また、船に乗るのか」カーターは言った。「休んだばかりだろう」
「休みは、十分だ」ミゼンは言った。「湾口の状況を、直接確かめたい。それに——ドラフォにも、この報せを届けたい」
「ドラフォに」カーターが訝しんだ。
「あの人は、まだ本国艦隊の中にいる」ミゼンは言った。「命令に逆らえない立場で。だが、もし、この報せが届けば——何かが変わるかもしれない」
ナサも、立ち上がった。
「私も。行く」ナサは言った。
カーターは、しばらく二人を見た。二人の目には、これまでと変わらない、強い意志が宿っていた。
「分かった」カーターは、やがて言った。「船を用意する。だが、今度は護衛をつける。無理はするな」
「感謝する」ミゼンは言った。
カーターは、部屋を出ながら、振り返った。
「お前たちには、本当に、世話になった」カーターは言った。「この五日間、戦線を保てたのは、お前たちが届けてくれた望みがあったからだ」
ミゼンは、それに小さく笑って応えた。
「まだ、終わってない」ミゼンは言った。「礼を言うのは、全部が片付いてからにしてくれ」
カーターは、その言葉に頷いた。
「そうだな」カーターは言った。「だが、これだけは、言わせてくれ。——お前たちがいなければ、この戦争は、まだ終わりの見えないものだった」
ナサは、その言葉に何も答えなかった。ただ、静かに、頭を下げた。
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その日の午後、ミゼンとナサを乗せた船は、湾口に向けて出航した。護衛の船が、その両脇についていた。
船上から見る湾口の海は、これまでとは違う奇妙な静けさに包まれていた。本国艦隊も亡命艦隊も、互いに睨み合ったまま動かずにいた。
「まるで時間が止まっているみたいだ」ミゼンが呟いた。
「止まってる。でも。長く。続かない」ナサが言った。「どちらか。動く。いつか」
ミゼンは、水平線に浮かぶ、二つの艦隊の輪郭を見つめた。半年前、自分がまだ海に落ちる前は、こんな光景を目にすることになるとは想像もしていなかった。
「不思議なもんだな」ミゼンは言った。「あの二つの艦隊のどちらにも、俺は、関わりがある」
「両方。知る。私たち。だから。ここ。いる」ナサが言った。
ミゼンは、しばらく黙って水平線を見つめ続けた。
「なあ」ミゼンが、やがて、口を開いた。「もし、ドラフォが、この報せを聞いても何も変わらなかったら」
ナサは少し考えた。
「その時。また。次。考える」ナサは言った。「今。できること。やる。それだけ」
ミゼンは、その言葉に、小さく笑った。
「お前の、そういうところ、嫌いじゃないぞ」ミゼンは言った。
「褒めてる。それ」ナサが言った。
「褒めてる」ミゼンは言った。
船が、亡命艦隊の旗艦「エイカ」に近づくと、甲板からレナの声が聞こえた。
「ミゼン!」
ミゼンは、その声に手を振った。
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「エイカ」の甲板
アルセナは、ミゼンとナサを自ら出迎えた。
「よく無事で」アルセナは言った。「お前たちの働きが、本国を動かした。信じられないことを成し遂げたな」
「まだ。終わってない」ナサが言った。「本国艦隊。まだ。湾口。いる」
「分かっている」アルセナは言った。「だが、この報せは私にとっても大きな意味を持つ。増援が来ないということは、この均衡が少なくともこれ以上悪化しないということだ」
ミゼンが、一歩前に出た。
「殿下」ミゼンは言った。「ドラフォは、まだ本国艦隊の中に」
アルセナの表情が、僅かに曇った。
「そうだ」アルセナは言った。「ドラフォは、あの艦隊の中で板挟みになっている。同胞に砲を向けさせられながら」
「この報せを届けたい」ミゼンは言った。「もし届けば——ドラフォの立場も変わるかもしれない」
アルセナは、しばらく考え込んだ。
「危険な試みだ」アルセナは言った。「本国艦隊に直接近づくということだからな」
「分かってる」ミゼンは言った。「それでも、やる価値がある」
アルセナは、ミゼンの顔をじっと見つめた。半年前、怯えていたあの少年の面影は、もうそこにはなかった。
「お前は、変わったな」アルセナは言った。
「変わった、というより」ミゼンは言った。「やるべきことがはっきりしただけだ」
アルセナは、その言葉に頷いた。
「あの日、お前をこの艦に上げた時のことを、覚えている」アルセナは言った。「怯えた目をした少年だった。何も話せず、ただ震えていた」
「あの頃は」ミゼンは言った。「自分が、何者なのかも、分からなかった。本国の人間なのか、あの海の人間なのか」
「今は」アルセナが聞いた。
「今は、両方でいい」ミゼンは言った。「両方だからこそ、できることがある」
────
アルセナは、水平線の彼方に目を向けた。本国艦隊の輪郭が、そこに見えていた。
「一つ、方法がある」アルセナは、やがて言った。「休戦の旗を掲げて、通信の使者を送る。危険はあるが、不可能ではない」
「やらせてください」ミゼンは言った。
アルセナは、ミゼンを見た。その目には、迷いと期待が浮かんでいた。
「お前は、既に一つの奇跡を成し遂げた」アルセナは言った。「もう一つ、頼めるだろうか」
「頼んでくれ」ミゼンは言った。「俺にできることなら」
ナサも、頷いた。
「私も。行く」ナサは言った。
アルセナは、二人の顔を、交互に見た。半年前、この二人がこれほどの働きをすることになるとは、誰も予想していなかった。海に落ちた少年と、寝返った技術者。その二人が、いま二つの世界を繋ぐ、最も重要な役割を担っている。
「不思議なものだ」アルセナは、独り言のように、呟いた。
「何が、ですか」ミゼンが聞いた。
「お前たち二人のことだ」アルセナは言った。「この戦争が起きなければ、お前たちがこうして共に、何かを成し遂げることもなかっただろう。皮肉なものだと思わないか」
ミゼンとナサは、顔を見合わせた。
「皮肉。かもしれない」ナサは言った。「でも。今。これ。私たち。役目」
アルセナは、二人を見て、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「準備を、整えよう」アルセナは言った。「無事に戻ってこい。それだけが、私の望みだ」
アルセナは、レナに指示を出した。
「伝令船を、一艘、用意しろ」アルセナは言った。「最も、信頼できる船員を、選べ。休戦の旗も忘れずに」
レナは頷いて、艦橋を出ていった。
アルセナは、改めてミゼンとナサに向き直った。
「本国艦隊が休戦の旗を尊重するかどうかは、分からない」アルセナは言った。「だが、この半年少なくとも、あの艦隊が休戦の合図を無視したことはない」
「それが、頼りか」ミゼンが言った。
「それしか、頼れるものがない」アルセナは言った。「だが、それでいい。今は、その僅かな可能性に賭けるしかない」
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その日の夕刻、小さな伝令船が、休戦の白い旗を掲げて本国艦隊に向けて出発した。
ミゼンとナサは、その船の甲板に立っていた。
「届くと、思うか」ミゼンが静かに聞いた。
「分からない」ナサは言った。「でも。届ける。それ。私たち。仕事」
船は、静かな海面を本国艦隊に向けて進んでいった。両艦隊が睨み合う緊張の水域を、白い旗だけを頼りに渡っていく。
風は、穏やかだった。波も、静かだった。だが、その静けさがかえって、二人の緊張を際立たせていた。
「近づいてきた」船員が言った。「本国艦隊まで、あと少しだ」
ミゼンは、双眼鏡を目に当てた。本国艦隊の輪郭が、次第に、はっきりと見えてくる。あの中の、どこかに、ドラフォの艦がある。
「見えるか」ナサが聞いた。
「まだ、はっきりとは」ミゼンは言った。「だが、近づけば分かるはずだ」
船員が、休戦の白い旗をマストの先端に高く掲げ直した。風を受けて、旗が大きくはためいた。
背後で、亡命艦隊の甲板から多くの視線が、二人の船を見送っていた。アルセナも、レナも、その光景を艦橋から見つめ続けていた。
「無事に、戻ってきてくれ」アルセナは、小さく呟いた。
やがて、本国艦隊の輪郭がはっきりと視界に入ってきた。無数の帆が、風を受けて静かに揺れていた。その中の一隻に、ドラフォがいる。
ミゼンは、深く、息を吸った。
「行こう」ミゼンは言った。
ナサは、頷いた。
「行く」ナサは言った。
船は、休戦の白い旗を掲げたまま静かに、本国艦隊へと近づいていった。
その船の先に何が待っているのか、まだ誰にも分からなかった。
だが、二つの海を繋ぐ糸は、確かに少しずつ伸び始めていた。




