投降
数日前 豪州北岸 前線
敵の攻勢が止んで、五日が過ぎていた。
カーターの部隊は、その五日間、前線の陣地を保ち続けていた。負傷者の手当てを進め、僅かに届いた補給で、弾薬を整理し直す。そうした地道な作業を繰り返しながら、次の攻勢に備え続けていた。
この五日間、カーターは部下たちに、決して油断するなと繰り返し言い聞かせてきた。敵の攻勢が止んだ理由が分からない以上、それが罠なのか、あるいは単なる準備期間なのか判断のしようがなかった。
だが、敵の陣地にも、これまでとは違う動きが見え始めていた。
「隊長」見張りが言った。「敵陣に、動きがあります」
カーターは、双眼鏡をその方向に向けた。敵の陣地の中央に、これまでになかった白い布が掲げられていた。風にはためくその布は、この五日間の沈黙を破る、初めての明確な意思表示だった。
「あれは」カーターは目を細めた。「休戦の合図か」
参謀も、傍らで双眼鏡を構えた。
「間違いなさそうです」参謀は言った。「ですが、罠の可能性も、捨てきれません」
「分かっている」カーターは言った。「だが、この五日間の静けさを見れば、単なる罠とは思えない」
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しばらくして、敵陣から数名の兵が、白い布を掲げたまま、こちらへ向けて歩み出てきた。武器は持っていなかった。
歩調は、ゆっくりとしていた。その足取りには、疲労と、これから何が起きるか分からない不安が色濃く滲んでいた。
「隊長、どうしますか」参謀が聞いた。
「迎え入れる」カーターは言った。「だが、警戒は解くな」
カーターは、部下たちに周囲を固めるよう指示を出した。万一の事態に備えつつ、しかし決して威圧的にならないよう細心の注意を払った。
数名の兵が、前線の中間地点まで進み、そこで止まった。カーターは、護衛を連れて、その場所まで歩いていった。
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敵兵の一人が、片言の言葉で話しかけてきた。日本語ではなかったが、身振りと表情から、その意図は伝わった。
その兵は、痩せ、目の下に深い隈を作っていた。この数日、まともな食事も休息も取れていないことが一目で分かった。
「戦い。もう。やめたい」その兵は言った。「私たち。命令。上。ない。もう。届かない」
カーターは、その言葉にしばらく考えた。
「命令が届かない、というのは」カーターは言った。「本国からの指示がない、ということか」
敵兵は、頷いた。
「艦隊。湾口。帰った」敵兵は言った。「私たち。ここ。残った。命令。ない。食料。もう。少ない」
その言葉に、カーターの表情が僅かに変わった。
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カーターは、その言葉を参謀と共に確認した。
「湾口の艦隊が召還されたことは、聞いている」カーターは言った。「だが、上陸した部隊への指示は、届いていないのか」
「届いていない」敵兵は言った。「私たち。取り残された。戦う。理由。もう。ない」
カーターは、しばらくその状況を理解しようとした。本国艦隊は、召還命令を受け、湾口を離れた。だが、既に上陸していた部隊への撤退指示は、間に合わなかったのだろう。あるいは、そもそも想定されていなかったのかもしれなかった。
「なぜ、これまで、静かにしていたのか」カーターは聞いた。
敵兵は、少し間を置いてから答えた。
「攻める。理由。分からなくなった」敵兵は言った。「命令。ない。ただ。ここ。いる。だけ。意味。ない」
参謀が、その言葉に、小さく息を吐いた。
「命令一つで、あれほど激しく攻めてきた者たちが」参謀は言った。「命令がなくなった途端、動けなくなる。皮肉なものですね」
「皮肉というより」カーターは言った。「それが、軍というものの現実なんだろう」
カーターは、その敵兵の疲れた顔をしばらく見つめた。この男もまた、故郷に、家族がいるのかもしれない。命令に従い、見知らぬ土地で戦い、そして取り残された。その境遇に、カーターはどこか既視感を覚えた。半年前、自分たちも似たような状況に置かれていたことを思い出したからだった。
「食料は、どれくらい持つ」カーターは聞いた。
「もう。ほとんど。ない」敵兵は言った。「あと。二日。三日。それ。限界」
「二、三日か」カーターは、呟いた。「よく、それだけ持ちこたえた」
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「投降したい、ということか」カーターは確認するように聞いた。
敵兵は、頷いた。
「投降。したい」敵兵は言った。「これ以上。戦う。意味。ない。私たち。分かった。あなたたち。敵。じゃない」
カーターは、しばらく沈黙した。この数日、敵の攻勢が止んでいた理由が、ようやく腑に落ちた。彼らは命令のないまま取り残され、戦う目的そのものを見失っていたのだった。
「他の兵たちの、意見は」カーターは聞いた。「全員が、同じ考えか」
「全員。じゃない」敵兵は言った。「一部。まだ。戦う。言う。でも。多く。もう。疲れた。食料。ない。それ。一番。大きい」
「分かった」カーターは言った。「投降を受け入れる。武器を置け」
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その日のうちに、上陸していた敵部隊、およそ数百名が、順次、武器を置き投降した。
投降の過程は、思いのほか、静かに進んだ。抵抗する者は、ほとんど、いなかった。多くの兵が、疲れ切った表情で粛々と、武器を地面に置いていった。
武器を置いた敵兵たちの列は、長く続いた。剣、槍、そして火薬を用いた古い形式の銃。それらが次々と地面に積み上げられていく光景を、カーターの部隊の兵たちは複雑な表情で見守っていた。
「これで、終わりだな」若い兵が傍らの同僚に呟いた。
「終わり、というより」同僚は言った。「次の、始まりって感じがする」
カーターの部隊は、彼らを基地の一角に設けた収容区画へと移送した。負傷者には治療が施された。傷の手当てを受けながら、涙を流す兵の姿も、あった。安堵の涙なのか、悔しさの涙なのか、それは傍からは分からなかった。
「随分な数だな」参謀が、収容区画を見渡しながら言った。
「これで、この前線は片付いた」カーターは言った。「だが、彼らの処遇は、これからの外交交渉の一部になるだろう」
「捕虜交換、ということですか」参謀が聞いた。
「その可能性が高い」カーターは言った。「使節団が到着すれば、この件も議題に上がるはずだ」
「食料は、足りるでしょうか」参謀が聞いた。「数百名分の追加の食料を、確保する必要があります」
「基地の備蓄から、当面は、賄える」カーターは言った。「彼らを、飢えさせるわけにはいかない。それだけは譲れない」
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投降した敵兵の一人が、収容区画の柵の前で、ふと遠くを見た。故郷の方角を見ているようだった。
その兵の表情には、安堵とも諦めともつかない複雑なものが浮かんでいた。戦うことを命じられ、この見知らぬ土地に送られ、そして命令が途絶えた。それでも生き延びて、いま、ここにいる。
その事実だけが確かなことだった。
見張りの兵が、その様子を見て水を差し出した。敵兵は、驚いたように、その水を受け取った。
「なぜ」敵兵が、片言で聞いた。「私たち。敵。なのに」
見張りの兵は、しばらく考えるように答えた。
「敵だったのは、昨日までだ」見張りの兵は言った。「今日から、お前たちは俺たちの預かりものだ。ちゃんと生きて返してやる」
その言葉に、敵兵は何も答えなかった。ただ、その手の中の水を大切そうに見つめていた。
別の収容区画の一角では、若い衛生兵が負傷した敵兵の手当てをしている場面もあった。敵兵は、最初その手を拒むように身をよじった。だが、衛生兵は構わず丁寧に、傷口を消毒し包帯を巻いていった。
「痛いか」衛生兵が、覚束ない身振りで、聞いた。
敵兵は、しばらく衛生兵の顔を見つめた。それから、小さく、頷いた。痛みを認めたのか、それとも、その気遣いに応えたのか。どちらとも、判然としない仕草だった。
「もう少しだ」衛生兵は言った。「我慢してくれ」
治療が終わると、敵兵は小さく頭を下げた。言葉は通じなかったが、その仕草の意味は、誰の目にも明らかだった。
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同日 豪州基地 特別使節室
赤城は、その報告を受け取っていた。
「投降部隊の件は」赤城は言った。「速やかに、使節団に伝える必要がある。捕虜の扱いも、今後の交渉次第で大きく変わってくるはずだ」
十六夜が、頷いた。手元の資料には、カーターからの詳細な報告が既にまとめられていた。
「投降した兵の数は」赤城が聞いた。
「およそ三百二十名です」十六夜は言った。「そのうち、負傷者は、五十名ほど。既に、基地の医療班が対応しています」
「思ったより、多いな」赤城は言った。
「上陸部隊の、ほぼ全員が、投降したことになります」十六夜は言った。「本国からの補給が、完全に途絶えていたことを考えれば、当然の帰結かもしれません」
「捕虜たちの中には」十六夜は言った。「言葉を学びたいと申し出ている者もいるようです」
「学びたい、か」赤城は言った。
「敵として、ではなく」十六夜は言った。「もう一度、人として向き合いたいという意志の表れかもしれません」
十六夜は、続けた。
「言葉が通じないことが、これまでの多くの誤解の根本にありました」十六夜は言った。「もし、捕虜たちが自ら言葉を学びたいと望むなら、それは大きな一歩になります」
「言葉を学ぶことが、恐れを減らす、ということか」赤城が言った。
「その通りです」十六夜は言った。「ナサとミゼンが、証明してくれたことです。言葉が通じれば、相手を単なる敵として見ることが難しくなります」
赤城は、その言葉にしばらく考え込んだ。
「言語分析の、チームを」赤城は言った。「捕虜たちにも、割り当てられるか」
「人手は、限られていますが」十六夜は言った。「優先度を、調整すれば、可能だと思います。ナサとミゼンの証言のためだけでなく、これから先この地で暮らすことになるかもしれない捕虜たちとの意思疎通も必要になるはずです」
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「捕虜の待遇については」赤城は言った。「国際法上の、捕虜の扱いに準じるべきだろう。だが、あの海の民には、そうした概念自体が存在しないかもしれない」
「そこも、これから擦り合わせが必要な部分だと思います」十六夜は言った。「彼らの文化には、捕虜をどう扱うかという独自の慣習があるかもしれません」
「使節団が到着したら」赤城は言った。「真っ先に確認すべき事項だな」
十六夜は、手元の資料にその項目を書き加えた。
「これで」十六夜は言った。「証言外交が扱う課題が、また一つ増えました」
「増える一方だな」赤城は、僅かに苦笑した。「だが、それだけこの対話が現実的なものになってきている証だ」
十六夜は、少し考えるように間を置いた。
「一つ、気になっていることがあります」十六夜は言った。「捕虜の中には、投降を快く思っていない者もいるはずです。全員が、心から、戦意を失ったわけではないでしょう」
「その懸念は」赤城は言った。「もっともだ。収容の際には、その点も注意しなければならない」
「カーター隊長には、既に、伝えてあります」十六夜は言った。「不穏な動きがあれば、すぐに報告が上がる体制を整えています」
赤城は、頷いた。
「油断は、できないな」赤城は言った。「投降は、あくまで一時的な局面の変化に過ぎない。証言外交そのものが、まだ確固たるものになっていない以上、この状況もいつ覆るか分からない」
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赤城は、窓の外を見た。
湾口の艦隊が召還され、上陸部隊が投降した。武力による対峙は、この地では、ひとまず区切りを迎えていた。
この半年、赤城が向き合ってきたのは、常に目の前の危機だった。防衛線の維持、弾薬の枯渇、そして証言外交という試み。その一つ一つを乗り越えてきた先に、いま、この投降という結果があった。
赤城は、この半年を、振り返った。着任した当初、ここまでの展開を、誰が想像できただろうか。あの海の民との、最初の接触。言語の壁。戦争の勃発。そして、証言による停戦への道のり。その全ての先に、いま数百名の投降兵という新たな現実が横たわっていた。
だが、この数百名の捕虜たちの存在は、これから始まる交渉の中で無視できない一つの現実だった。彼らをどう扱うか。それもまた、証言外交がこれから答えを出さなければならない課題の一つだった。
赤城は、机の上に投降部隊に関する報告書を丁寧にまとめ始めた。これもまた、使節団への、重要な引き継ぎ事項の一つになる。
証言から交渉へ。その道のりは、思っていた以上に多くの、片付けなければならない現実を抱えていた。




