机の前に
上陸 三日後 本国 都
都は、賑わっていた。
石畳の道。市場の喧騒。行き交う人々。戦争が遠い海で続いていることなど忘れたような日常が、そこにあった。魚を売る声。布を広げる商人。子供が路地を駆け抜ける音。本国の民は、遠征の勝敗すら知らされていない。ただ、いつものように暮らしていた。
それが、本国という国の仕組みだった。戦は、遠くで起きるものだった。都の広場に、戦況を報せる声は届かない。評議会の一部だけが、机の上で知り、机の上で決める。民は、知らされないまま、日々を積み重ねていく。
ミゼンとナサは、その雑踏に紛れ込んだ。
外套を目深に被り、顔を隠す。ナサの顔は、知られているかもしれない。寝返った技術者として。船を降り、あの海の側に付いた男として。名は、記録に残っているはずだった。だから、俯き、足早に人混みを抜けた。証言の束は、それぞれの外套の下に隠している。紙の重さが、腰のあたりに、じかに伝わってきた。
「こっちだ」ナサが小声で言った。
ナサは、都の道を覚えていた。かつて暮らした、街。石畳の継ぎ目、井戸の場所、市場の裏に抜ける小道。裏道を選び、大通りを避けた。見張りの少ない道。人目のつかない道。その道をたどって、オルグの屋敷を目指した。
ミゼンは、その後ろをついていった。本国の顔立ちをしていても、この街に馴染みはない。頼れるのは、ナサの記憶だけだった。
「この先」ナサが顎で示した。「昔。よく通った」
だが、都の警備は厳しかった。
遠征中の都は、警戒態勢にあった。要所に兵が立ち、通行人を検めている。槍を持った兵が道の分岐点に立ち、荷を運ぶ者や旅装の者に、順に声をかけていた。ナサとミゼンは、その検問を避けて、遠回りを重ねた。
一度、検問の兵と目が合いかけたことがあった。ナサは、俯いたまま、荷車の陰に身を寄せた。心臓が、跳ねた。兵は、ただの通行人と見たのか、視線を外した。それだけのことに、二人は、しばらく息を潜めた。
半日かけて、ようやく、オルグの屋敷の近くまでたどり着いた。
────
オルグの屋敷は、都の外れにあった。
質素な、屋敷だった。評議員の屋敷にしては、地味だった。塀は低く、飾りもない。オルグの人柄が、表れていた。派手を好まず、実を取る。慎重派の老評議員らしい、佇まいだった。
「どうやって入る」ミゼンが聞いた。
「裏。使用人の出入り口」ナサが言った。「表。門番。いる。裏。手薄」
ナサは、屋敷の輪郭を、指で辿るように見た。かつて、この近くを通ったことがあるのか、迷いのない動きだった。
二人は、屋敷の裏手に回った。使用人の出入りする、小さな門。そこには、門番はいなかった。だが、忍び込めば、賊と間違われる。捕らえられれば、証言を渡す前に終わる。それだけは、避けねばならなかった。
「賭けだな」ミゼンが言った。
「賭け」ナサが頷いた。
そのとき。裏門から一人の使用人が出てきた。水を汲みに行くのか、桶を持っていた。年配の、女だった。ナサは、意を決して、その使用人に近づいた。
「頼み。ある」ナサが言った。「オルグ様。会いたい。——伝えて。ほしい」
使用人は、驚いて、二人を見た。怪しい風体の、二人組。外套を目深に被り、顔を隠した男が二人。当然、警戒した。桶を抱え直し、後じさった。
「何者だ」使用人が言った。「評議員に会いたいなら、正式な手続きを——」
「時間。ない」ナサが言った。「これ。オルグ様。渡して。ほしい」
ナサは、外套の下から、一枚の紙を取り出した。そこには、本国の文字で、一言書かれていた。ナサが道中、用意した言葉だった。歩きながら、幾度も書き直し、削り、最後にこの一言だけを残した。
──あの海から戻りました。ナサ。
使用人は、その紙を見た。ナサという名。その名に心当たりがあるのか、使用人の顔色が変わった。手の中の紙を、二度、見直した。
「少し待て」使用人は言った。「渡してみる。——だが期待はするな」
使用人は、紙を持って、屋敷の中へ消えた。
残された二人は、裏門の脇で、待った。時間が、やけに長く感じられた。ミゼンは、周囲に目をやった。人の気配はない。ナサは、じっと、屋敷の窓を見上げていた。
「読んでる。もう」ナサが呟いた。「多分」
「読んでなかったら」ミゼンが言った。
「その時。また。考える」ナサが言った。
────
オルグは、書斎にいた。
その日も、眠れぬ夜の疲れを抱えて、書類に目を通していた。戦況の報せは、相変わらず届かない。遠征はどうなっているのか。勝っているのか。負けているのか。オルグには、知る術がなかった。机の上には、いつものように、答えのない問いが積み上がっていた。
そこへ、使用人が来た。
「オルグ様」使用人が言った。「妙な二人組が、裏門に。——これを渡してくれと」
使用人が、一枚の紙を差し出した。
オルグは、その紙を受け取った。本国の文字。短い、一言。
──あの海から戻りました。ナサ。
オルグの手が、震えた。
ナサ。その名を、オルグは忘れていなかった。寝返った技術者。あり得ない帰還を待ち続けた、その名。毎晩、紙に語りかけた、その名が。いま、屋敷の裏門に立っている。
オルグは、何度も、この名を書いた紙を破ってきた。あり得ないと、自分に言い聞かせながら。それでも、書くのをやめられなかった。答えのない問いを、誰かに向けて投げ続けなければ、正気を保てなかったからだ。その相手が、いま、屋敷の裏に立っている。
「通せ」オルグは言った。
「ですが」使用人が言った。「怪しい二人組です。何を企んでいるか——」
「通せ」オルグは繰り返した。「私が待っていた、男だ。——早く」
使用人は、戸惑いながらも頷いた。
オルグは、立ち上がった。心臓が、高鳴っていた。あり得ないと、思っていた。戻るはずが、ないと。だが、戻ってきた。あの男が。あの海から。オルグの問いの、答えを携えて。
オルグは、書斎の中を、一度、見回した。積み上げた書類。答えの出ない議論の記録。半年、この部屋で考え続けてきたことの、全てが。いま、形を変えて、戻ってこようとしていた。
────
ミゼンとナサは、書斎に通された。
オルグは、二人を見た。一人は、本国の顔立ち。もう一人は——ナサだった。記録で見た、寝返った技術者。間違い、なかった。痩せて日に焼けていたが、その顔は、ナサのものだった。目の光が、以前よりも強くなっていた。
「本当に戻ってきたのか」オルグは言った。
「戻った」ナサが言った。「オルグ様。話。ある。——長い。話」
「聞こう」オルグは言った。「そのために、私は待っていた」
ナサは、外套の下から、証言の束を取り出した。ミゼンも、自分の分を出した。分厚い紙の束が、二つ。机の上に、置かれた。紙の擦れる音が、静かな書斎に、やけに大きく響いた。
「これ。全部。あの海の。話」ナサが言った。「私。見た。聞いた。半年。全部。ここ。ある」
オルグは、その束を見た。膨大な、量だった。半年分の証言。あの海で、何があったのか。その全てが、この束の中にあった。指で表紙をなぞるように触れ、オルグは、しばらく、何も言わなかった。
「読もう」オルグは言った。
だが、その前に、と、オルグは続けた。
「一つ聞かせてくれ」オルグは言った。「なぜ戻ってきた。——戻れば、裁かれる。死ぬ、かもしれない。それでも、戻ってきた。なぜだ」
ナサは、まっすぐ、オルグを見た。
「戦争。止めたい」ナサは言った。「本国。あの海。戦っている。でも。戦う。理由。ない。——ただ。互いを。知らない。だから。恐れる。恐れる。から。戦う」
ナサは続けた。
「私。両方。知る。あの海。本国。両方。——だから。伝える。あの海。敵。違う。人。いる。名前。ある。顔。ある。——それ。伝えれば。戦争。止まる。かもしれない」
オルグは、その言葉を聞いた。
互いを知らないから、恐れる。恐れるから、戦う。——それは、オルグ自身が薄々感じていたことだった。だが、誰も、それを確かめようとはしなかった。あの海を知る者が、いなかったからだ。いま、その知る者が、目の前にいた。
オルグは、ゆっくりと、椅子に座り直した。半年、この問いを、誰にもぶつけられずにいた。目の前の男が、たった数語で、その答えの輪郭を、示していた。
「もう一つ」オルグは、ミゼンを見た。「お前は何者だ。本国の顔をしているが」
「ミゼン」ミゼンが言った。「本国の生まれだ。海に落ちて、あの海に拾われた。——いまは、あの海の人間だ。二つの名を、持っている」
「二つの名」オルグが繰り返した。
「本国の名とあの海の名だ」ミゼンが言った。「俺は、その両方を生きている。だから、分かる。本国も、あの海も、同じ人間だ。——憎み合う理由なんて、本当はないんだ」
オルグは二人を見た。
本国と、あの海。二つの世界の間に立つ、二人。かつて、敵だった二人。その二人が、いま、同じ証言を携えて、目の前にいた。オルグは、長く生きてきた中で、これほど奇妙な組み合わせを、見たことがなかった。
「読もう」オルグはもう一度言った。「お前たちの運んできた、言葉を。——最後まで、読もう」
オルグは、束の最初の一枚を、手に取った。
最初の一枚には、あの朝のことが、書かれていた。海が割れたように見えたこと。船が、見たこともない色の空の下に、放り出されたこと。誰もが、何が起きたのか分からず、ただ、混乱していたこと。オルグは、その一文一文を、目で追った。読み進めるうちに、オルグの手の動きが、次第に速くなっていった。
「これは」オルグが呟いた。「お前が、見たままを書いたのか」
「見た。まま」ナサが言った。「嘘。ない」
オルグは、次の一枚をめくった。そこには、あの海の民が、最初に見せた反応が記されていた。恐れ。警戒。だが、攻撃はしなかったこと。オルグは、その部分を、二度、読み返した。
「攻撃しなかった、というのは」オルグが言った。「本当か」
「本当」ナサが言った。「あの海。最初。恐れた。でも。攻撃。しなかった。——待った。様子。見た」
ミゼンが、口を開いた。
「俺も、その場にいた」ミゼンが言った。「向こうは、こちらが何者か分からなかった。だから、まず、様子を見た。武器を構えたのは、こちらが先だったこともある」
オルグは、その言葉に、目を上げた。
「先に構えたのは、我々の側だったと」
「一度目は、そうだ」ミゼンが言った。「向こうも、人間だ。分からないものには、警戒する。それは、こちらと同じだ」
オルグは、しばらく、何も言わなかった。半年、あの海の民を、得体の知れない敵として、報告書の中でしか見てこなかった。だが、いま目の前の証言は、その像を少しずつ崩し始めていた。
────
時間は、過ぎていった。
オルグは、束をめくり続けた。言語を学んでいく過程の記録。最初は単語だけだったこと。やがて助詞が繋がり、疑問の形が生まれ、過去のことを語れるようになっていったこと。オルグは、その積み重ねを、一枚ずつ、確かめるように読んだ。
「これほどの、記録が」オルグが言った。「よく、残せたな」
「毎日。書いた」ナサが言った。「忘れる。前に。書いた」
「なぜ、そこまでした」
「伝える。ため」ナサが言った。「言葉。だけ。じゃ。足りない。——証拠。いる。そう。思った」
オルグは、束の中ほどにある、一枚の紙に手を止めた。そこには、あの海の民の一人が、本国の子供の絵を見て、涙を流した、という記述があった。オルグは、その一文を、何度も読み返した。
「涙を流した、と」オルグが言った。
「本当」ナサが言った。「その人。子供。いた。あの海。——絵。見た。思い出した。故郷。子供」
オルグは、目を閉じた。敵は、涙を流す。子供を思う。それは、報告書の中の「敵」という文字からは、決して、読み取れないことだった。
ミゼンが、静かに言った。
「オルグ様。あんたが、これを読んでいる間にも」ミゼンが言った。「豪州の海岸では、まだ戦っている。今日も、誰かが死んでいるかもしれない。——だから、急いでほしい」
オルグは、目を開けた。ミゼンの声には、焦りがあった。それは、この場に、時間の重みがあることを、思い出させた。
「分かっている」オルグは言った。「だが、急いで読んで、間違った判断をすれば、元も子もない。——一枚一枚、確かめさせてくれ」
ミゼンは、頷いた。それ以上、急かすことは、しなかった。
オルグは、また、次の一枚を手に取った。証言は、まだ、半分も終わっていなかった。
そこには、外交の場面が記されていた。両国の代表が、初めて机を挟んで向き合った日のこと。言葉がまだ足りず、身振りと単語の断片とで、互いの意図を探り合ったこと。オルグは、その記述に、目を細めた。
「これが、最初の交渉か」オルグが言った。
「そう」ナサが言った。「最初。何も。伝わらなかった。でも。少しずつ。——通じた」
「時間がかかったのだろう」
「かかった」ナサが言った。「でも。戦う。より。早い。多分」
オルグは、その一言に、何も返さなかった。戦うより、話す方が、時間がかかる。だが、それでも、話す方が、失うものは少ない。オルグ自身、評議会の場で、何度も、そのことを訴えてきた。だが、多くの評議員は、聞く耳を持たなかった。
紙をめくると、宣言文の草案が記されていた。両国の間で交わされた、戦わないという約束。オルグは、その文言を、声に出して読んだ。
「私たち。あなたたち。戦わない——これが、その約束か」
「そう」ナサが言った。「約束。した。両方。守る。つもりだった」
「だが、戦争は起きた」
ナサの表情が、初めて、曇った。
「約束。破った。私たち。じゃない」ナサが言った。「遠く。机。——遠くの、決めた人。約束。知らない。多分。知っていても。——関係ない。と。思った」
オルグは、その言葉に、鋭く反応した。
「遠くの机、というのは」
「本国。都。ここ」ナサが言った。「あの海。ない。町。現場。ない。——決めた。遠く。ここで」
オルグは、その言葉を、何度も、頭の中で繰り返した。遠くの机で決められた戦争。現場を知らない者が下した決定。それは、まさに、オルグ自身が座っている、この場所のことだった。オルグの手にした紙が、微かに、震えた。
「私も、その机の一つに座っている」オルグは、低く言った。「そういうことか」
ナサは、答えなかった。答える必要は、なかった。オルグ自身が、すでに、答えを持っていた。
────
オルグは、しばらく、束を置いて、窓の外を見た。都の空は、変わらず、静かだった。だが、その静けさの裏で、遠い海の岸辺では兵たちが、いまも倒れ続けている。オルグは、その事実を、これまで数字としてしか受け取っていなかった。損耗率、補給の見込み、戦況の推移。すべてが、文字と数字だった。
だが、目の前の束は、違った。そこには、名前があり、顔があり、涙があった。
「続けよう」オルグは言った。
ナサは、次の一枚を、机の上に滑らせた。そこには、戦闘が始まった経緯が、記されていた。誰が、最初に、矢を放ったのか。誰が、最初に、剣を抜いたのか。ナサは、見たままを、淡々と、記していた。
「これは、お前が見たことか」オルグが言った。
「見た」ナサが言った。「両方。悪い。ない。両方。恐れた。——だから。起きた」
オルグは、目を閉じた。悪意があったわけではない。ただ、恐れが、恐れを呼び、それが、剣を抜かせた。その連鎖の先に、いまの戦争がある。
「もう、止められないのか」オルグが、静かに聞いた。
ミゼンが、身を乗り出した。
「止められる」ミゼンが言った。「だから、俺たちは、ここに来た。——証拠がある。証言がある。あんたが、それを、上に届けられるなら」
オルグは、ミゼンを見た。その目には、切実な光があった。
「私に、何ができる」オルグが言った。
「評議会。動かせる」ナサが言った。「あなた。信頼。ある。人。——だから。あなた。選んだ」
オルグは、しばらく、黙った。自分にできることは、限られている。評議会の中で、自分の声は、決して大きくはない。だが、いま、目の前にある証言は、これまで誰も持ち得なかった、重みを持っていた。
「分かった」オルグは、ようやく言った。「最後まで、読ませてくれ。——読み終えたら、私にできることを、考える」
ナサは、頷いた。ミゼンも、それ以上は、何も言わなかった。二人にできるのは、もう、待つことだけだった。
オルグは、束の残りに、目を落とした。紙の量は、まだ、半分近く残っていた。そこには、まだ見ぬ半年の記録が、詰まっている。恐れが恐れを呼んだ経緯も、それでも交渉を続けようとした人々の努力も、すべてが、この紙の中に、書き込まれているはずだった。
オルグは、深く、息を吸った。半年、答えの出ない問いを、この書斎で、抱え続けてきた。だが、いま、その答えの手がかりが、目の前にある。読み終えるまで、あと、どれだけかかるか分からない。だが、読み終えたときには、きっと、何かが変わっているはずだった。
窓の外は、次第に、光の色を変え始めていた。
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その頃 豪州北岸 町
同じ空の下。豪州の北岸では。
五日目の朝を、迎えていた。
カーターの部隊は、まだ町の外れにいた。昨日、亡命艦隊は湾口へ引き上げた。これ以上、湾口を空ければ、本国の後続艦隊に突破される。援護は、終わった。
兵舎代わりの建物には、負傷者が並んでいた。手当てできる者は、限られていた。薬も、包帯も、乏しくなっていた。それでも、動ける者は、また前線へ戻っていった。
そして、今朝。敵が、また上陸を始めた。
「来たか」カーターは呟いた。
双眼鏡越しに見える、上陸用の小舟の列。昨日と、同じ数。同じ動き。だが、こちらの側は、昨日より確実に消耗していた。
弾は、ない。援護も、ない。あるのは、疲れ切った兵と、尽きかけた気力だけ。だが、それでも、カーターは退かなかった。
「持たせるぞ」カーターは部下に言った。「使者が、机を動かすまで。——それまで、この線を、死んでも保つ」
兵たちが、銃剣を握り直した。
一人の若い兵が、カーターに近づいてきた。顔には、疲労と、それでも消えない緊張があった。
「隊長」若い兵が言った。「弾薬、あと、これだけです」
差し出された弾倉は、ほとんど空だった。カーターは、それを見て、頷いた。
「銃剣で、いく」カーターは言った。「弾がなくても、線は、保てる。——お前たちの体が、線だ」
若い兵は、何も言わず、頷いた。それが、答えだった。
町の外れで。豪州の兵たちが、剣を持つ敵と向き合った。数えられる矢は、とうに尽きていた。あるのは、意地と覚悟だけ。それでも、彼らは立っていた。遠い海の使者が、机を動かすと信じて。
戦線は、じりじりと、後退していった。町までの距離が、また、少し縮んだ。だが、崩れては、いなかった。踏みとどまり、後退し、また踏みとどまる。その繰り返しだった。
無線手が、カーターに駆け寄ってきた。
「隊長、後方から連絡です」無線手が言った。「増援は、まだ、時間がかかると」
「分かっている」カーターは言った。「あとどれくらいだ」
「早くて、半日」無線手が言った。「湾口の艦隊次第、とのことです」
半日。カーターは、その数字を、頭の中で、繰り返した。半日、この線を、保たなければならない。目の前の兵たちの、疲労を見れば、それがどれほど長い時間か、分かりすぎるほど分かった。
「分かった。伝えろ」カーターは言った。「——保つ、と」
無線手は、頷いて、離れていった。
前線では、剣を持つ敵の一団が、じりじりと、距離を詰めてきていた。豪州側の兵は隊列を組み、銃剣を構えたまま後退しつつ、隙を見て突いた。数の上では、こちらが、明らかに劣勢だった。だが、隊列は、崩れなかった。
一人の兵が、倒れた。すぐ隣の兵が、その穴を埋めるように、詰めた。誰も、声を上げなかった。ただ、黙々と、線を保ち続けた。
カーターは、その光景を、双眼鏡越しに見ていた。歯を、強く、噛みしめた。
「あと少しだ」カーターは、自分に言い聞かせるように、呟いた。「あと少し、保てば——」
だが、その「少し」が、いつまで続くのか、カーター自身にも、分からなかった。
カーターは、無線機に手をかけた。だが、繋がる先は遠く、届くまでには時間がかかる。カーターにできるのは、ただ、この線を、少しでも長く保つことだけだった。
「持ちこたえろ」カーターは、自分にも、部下にも、言い聞かせるように呟いた。「持ちこたえろ。——それしか、できることはない」
その使者が、いま、机の前に立っていることを。カーターは、まだ知らなかった。
だが、二つの戦いは、同じ瞬間に山場を迎えていた。武力の戦いは、限界の中で。言葉の戦いは、机の前で。
オルグが証言の最初の一枚を読み始めた、そのとき。豪州の町では、五日目の戦いが始まっていた。
二つの戦いの行方は。まだ、誰にも分からなかった。




