二つの名の舟
出航 二日後 封鎖海域の手前
舟は北へ進んでいた。
小さな伝令舟。帆は一枚。ミゼンとナサ二人だけの舟だった。豪州の北岸を発って二日。順調に距離を稼いでいた。だが、これからが難所だった。
海は広かった。見渡す限り水平線しかない。陸の影も他の船の影も見えない。ただ青い海と青い空がどこまでも続いていた。その広さの中を、小さな舟が点のように進んでいた。
食料と水は切り詰めていた。長い航海になるからだ。本国までどれくらいかかるか正確には分からない。風次第。潮次第。だから、二人は口にするものを最小限に抑えていた。乾いた干し肉とわずかな水。それだけで体を持たせていた。
だが、二人は弱音を吐かなかった。運ぶものが大きすぎた。半年分の証言。この海と本国を繋ぐかもしれない言葉の束。それを思えば、空腹も渇きも耐えられた。
本国の艦隊がこの海を封鎖している。豪州へ向かう航路の途中に監視の網が張られていた。大きな艦なら遠くからでも見つかる。だがこの小舟ならあるいは波間に紛れて抜けられる。それだけが頼りだった。
「この先だ」ミゼンが言った。「封鎖の海。——ここを抜ければ本国の海域に入る」
ナサが頷いた。
ナサは本国の海を知っていた。技術調査員として幾度も航海した海。その海が、いまは越えるべき壁になっていた。かつての故郷の海が。
ナサは本国の艦隊の配置の癖も知っていた。どこに監視の艦を置き、どの時間に見張りが手薄になるか。技術者として艦隊の運用を間近で見てきた。その知識が、いまは封鎖を抜けるための武器になっていた。
皮肉なことだった。本国のために蓄えた知識が、いまは本国の封鎖を破るために使われる。だが、ナサは迷わなかった。この知識で封鎖を抜け、証言を届ける。それが本国を救うことにもなると、信じていた。
「夜を待とう」ナサが言った。片言ではあったがこの二日で少しずつ言葉が滑らかになっていた。「昼。危ない。夜。抜ける」
「そうだな」ミゼンが言った。
二人は昼の間島陰に舟を寄せた。小さな無人の島。岩場の陰に舟を隠し、日が暮れるのを待つ。
昼の光の中では、動けなかった。本国の艦に見つかる。だから、昼は隠れて、夜を待つ。じりじりと時間が過ぎていく。焦りが募る。豪州の町はいまも戦っている。一刻も早く、証言を届けたい。だが、焦って見つかれば、全てが終わる。
耐えるしかなかった。二人は岩陰で身を寄せ合い、体力を温存した。その間、二人はぽつりぽつりと話した。長い待ち時間が、二人を少しずつ近づけていった。かつての敵が、言葉を交わすうちに、互いを知っていった。
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「なあ」ミゼンが言った。「一つ聞いていいか」
「なに」ナサが答えた。
「お前は、なぜ火船を止めた」ミゼンが言った。「あのとき。お前は本国の技術者だった。火船に火をつければ、この海は燃えた。豪州も、日本も、亡命艦隊も、大きな痛手を負っていた。——なぜ止めた」
ナサは、しばらく黙っていた。
「私も」ナサは言った。「よく分からない。あのとき。手が動いた。導火線を切った。理由。あとから考えた」
「あとから」
「そう」ナサは言った。「本国。ずっと。この海。敵。教えられた。危険。野蛮。滅ぼすべき。——でも。捕まって。見た。この海の人。私を。殺さなかった。名を聞いた。飯を分けた。——敵。違った。人だった」
ナサは、海を見た。遠い記憶をたどるように。
「捕まった。最初。怖かった」ナサは言った。「殺される。思った。本国では。敵は。殺す。だから。この海も。私を。殺す。思った。——でも。違った」
ナサはこの海で出会った人々の顔を思い浮かべているようだった。名を聞いてくれた者。傷の手当をしてくれた者。言葉を教えてくれた者。敵だったはずの、自分に。
「火をつければ」ナサは言った。「その人たち。死ぬ。名前のある。人たちが。——手が止まった。それだけ」
「名前か」ミゼンが言った。
「そう」ナサは言った。「名前。知ると。殺せない。顔。知ると。殺せない。——敵。名前ない。顔ない。だから。殺せる。でも。名前あると。顔あると。それは。人。人は。殺せない」
ミゼンは、その言葉の重みを感じた。戦争は、相手を顔のない敵に変えることで成り立っている。名前を消し、顔を消し、ただの標的にする。だが、ナサはその逆を経験した。敵に、名前と顔があることを知ってしまった。だから、火をつけられなかった。
ミゼンはその言葉を聞いていた。
自分も同じだったと思った。海に落ちてこの海に拾われた。本国の生まれの自分をこの海は殺さなかった。名を聞き居場所をくれた。だからいま二つの名を持っている。ミゼンというこの海の名とかつての本国の名を。
「俺もな」ミゼンが言った。「海に落ちて、死ぬかと思った。だがこの海の連中が拾ってくれた。本国の生まれだと分かっても、殺さなかった。名前をくれた。ミゼンという名を。——それで、俺は二つの名を持つ男になった」
ミゼンは、海の彼方を見た。
「不思議なもんだ」ミゼンは言った。「本国で生まれた俺と、本国の技術者だったお前が、いま、本国に証言を届けに行く。本国を変えるために。——敵だった者が、いちばん本国を思っているのかもしれない」
「思っている」ナサが言った。「本国。憎くない。ただ。間違っている。だから。正したい。——それは。憎しみ。違う。愛。近い」
ミゼンは、頷いた。
「同じだな」ミゼンが言った。「俺たちは同じものを見た。だからいま同じ舟に乗っている」
ナサが微かに笑った。
その笑顔を、ミゼンは、初めて見た気がした。この二日、ナサは、ずっと張り詰めていた。本国へ戻る恐怖。裏切り者として裁かれる覚悟。そのすべてを、抱えていた。だが、いま、ほんの少しだけ、その顔が緩んだ。
「怖くないか」ミゼンが聞いた。「本国に、戻るのが」
「怖い」ナサが言った。「殺される。かもしれない。——でも。もっと。怖い。何もしないで。戦争。続くこと。それ。もっと。怖い」
ミゼンは頷いた。同じ気持ちだった。この舟が失敗すれば、豪州の町は落ちる。この海の人々が死ぬ。本国の若者も、死に続ける。それを思えば、自分たちの命など、小さなものだった。
「行こう」ミゼンが言った。「二人で。最後まで」
「うん」ナサが言った。
日が暮れ始めた。西の空が、赤く染まる。夜が来る。封鎖を抜ける、夜が。
かつて、二人は敵だった。ナサは火船でこの海を焼こうとした側。ミゼンは、焼かれる側にいた。もし、あのとき、ナサが導火線を切らなければ、二人は殺し合っていたかもしれない。だが、いまは、同じ舟で同じ目的地を目指している。
その事実こそが、この海の伝えたいことだった。敵は、敵のままではない。理解すれば、味方になる。憎み合った者が、手を取り合える。二人の姿は、それを証明していた。
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夜が来た。
月は、細かった。海は、暗い。二人は帆を絞り、音を立てないように、舟を進めた。封鎖の海へ、忍び込む。
前方に、灯りが見えた。
本国の艦だった。篝火を焚き、海を見張っている。一隻ではない。点々と、灯りが連なっていた。封鎖の線。その隙間を縫って、抜けるしかなかった。
「あそこ」ナサが小声で言った。「灯りと灯りの間。広い。あそこを抜ける」
ミゼンは、頷いた。舵を切る。灯りの間の闇へ、舟を向けた。
息を殺した。
艦の影が、近づく。篝火の光が、海面に揺れている。その光の届かない闇の帯を、舟は進んだ。
一隻の艦が、すぐ近くを通った。手を伸ばせば届きそうな距離。甲板の上を、見張りが歩いている影が見えた。二人は、舟の底に身を伏せた。帆を下ろし、櫂も止めた。ただ、潮に流されるまま、息を殺した。
見張りの声が微かに聞こえた。本国の言葉。ナサには分かる言葉。ミゼンにも分かる言葉。異常なし、と見張りが報告していた。二人の舟には、気づいていない。だが、二人は口を閉じた。息さえ潜めた。少しでも音を立てれば、終わりだった。
長い時間に、感じられた。実際には、数分だったかもしれない。だが、二人にとっては、永遠のように長かった。心臓の音さえ聞こえてしまいそうで、怖かった。
やがて、艦が離れていった。二人は、そっと櫂を握り直した。ふたたび、闇の中を進み始めた。
舟が、灯りの線を越えた。
艦の影が、後ろへ遠ざかる。篝火が、小さくなる。——抜けた。封鎖の海を、抜けたのだ。
「抜けた」ミゼンが小さく言った。
「まだ」ナサが言った。「油断。だめ。本国の海。これから」
二人は、なおも闇の中を進んだ。故郷の海へ。そして遠くの机のある場所へ。
封鎖は抜けた。だが、本国の海域は、さらに危険だった。艦だけでは、ない。漁船もいる。沿岸の見張りもいる。ひとたび怪しまれれば、追われる。小さな舟では、逃げ切れない。
ミゼンは、緊張を緩めなかった。ここまで来た。あと、少し。この証言を届けるまでは、倒れるわけにはいかない。豪州の町で耐えている、カーターたちのためにも。この海の人々のためにも。そして、本国の罪のない村人のためにも。
舟は、闇を進み続けた。
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同じ頃 本国 オルグの私室
オルグは、眠れずにいた。
第二次遠征が発って、久しい。戦況の報せは、届いていなかった。勝ったのか負けたのか。それすら、分からない。ただ、時が過ぎていた。
オルグの手には、一枚の紙があった。
寝返った技術者の名。ナサという名。オルグは、この紙を捨てられずにいた。なぜ、その男が寝返ったのか。あの海に、何があったのか。——その問いが、オルグを離さなかった。
「もし」オルグは独りごちた。「あの男が戻ってくれば」
そのときは、話を聞こう。オルグは、そう決めていた。戻ってくる、はずもない。寝返った者が本国へ戻れば、裁かれる。死が、待っている。戻る道理は、なかった。
だが、オルグは待っていた。あり得ない帰還を。
なぜなら、あの海を理解する道は、それしかなかったからだ。両方を知る者。あの海と本国の両方を。その者の口からしか、真実は聞けない。そして、そういう者は、この世に一人しかいなかった。
寝返ったナサ。
オルグは、評議会で少数派だった。多くの評議員は、あの海を、ただ滅ぼすべき敵と見ていた。二度の遠征も、その考えから生まれた。だが、オルグは疑っていた。本当に、あの海はただの敵なのか。滅ぼすことが、本当に本国のためなのか。
その疑いの答えを握っているのが、寝返った技術者だった。あの海の何が、本国の技術者を寝返らせたのか。それを知れば、あの海の本当の姿が見えるかもしれない。武力では、決して見えないものが。
「戻ってこい」オルグは紙に語りかけた。「戻って、話してくれ。——なぜお前があの海を選んだのかを」
その声は、誰にも届かなかった。
老いた評議員の、独り言。誰も、聞いていない。だが、オルグは、語りかけずにはいられなかった。この戦争を止められる道が、もしあるなら。それは、武力ではなく、あの男の証言の中にあると、信じていたからだ。
オルグは、窓の外を見た。夜の、都。静かに眠る、街並み。その向こうに、海があった。遠征の艦隊が発っていった海。そして二度と戻らないかもしれない若者たちが消えていった海。
オルグは、この戦争を望んではいなかった。だが、止められなかった。評議会の多数は、遠征を選んだ。オルグの慎重論は、少数派として退けられた。老いた自分に、できることは少なかった。
だが、もし、証言が届けば。両方を知る者の口から、あの海の真実が語られれば。評議会の多数を、動かせるかもしれない。オルグは、その細い望みに賭けていた。
だがそのとき。遠い海を一艘の舟が本国へ向けて進んでいた。その舟にオルグの待つ男が乗っていることを。オルグはまだ知らなかった。
待つ者と、向かう者。二人の願いは、同じ方向を向いていた。だが、互いに、それを知らない。あと少しで、二つの願いが出会おうとしていた。
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出航 三日後 本国海域
夜が明けた。
舟は、本国の海域に入っていた。見慣れた、島影。ナサには、懐かしい海だった。だが、懐かしさよりも、緊張が勝っていた。ここは、敵地だった。寝返った、自分にとっては。
「どこへ着ける」ミゼンが聞いた。
「港。だめ」ナサが言った。「見つかる。——小さな入り江。人のいない。そこから上がる。歩いて都へ」
ナサは、本国の地理を知っていた。大きな港を避け、人目のつかない入り江に、舟を寄せる。そこから、陸を歩いて、評議会のある都を目指す。危険な、道のりだった。見つかれば、その場で捕らえられる。特に、ナサの顔は知られている。寝返った技術者として、手配が回っているかもしれない。
「都までどれくらい」ミゼンが聞いた。
「歩いて。二日」ナサが言った。「山越える。人。避けて」
山越えの道は、険しかった。だが、街道を行けば、人目につく。人目につけば、捕まる。だから、二人はあえて、道のない山を選んだ。時間はかかる。体力も、削られる。だが、それがいちばん安全だった。
二人は、入り江に舟を隠した。枝葉をかけ、遠目には分からないように。この舟は、帰りにも使う。見つかれば、帰る手段を失う。だから、慎重に隠した。
証言の束を、背負う。ミゼンが半分。ナサが半分。分けて、持った。もし、片方が捕まっても、もう片方が残るように。二人で一つの証言を、二つに分けて運ぶ。どちらか一人でも、都にたどり着けば、証言は届く。そういう、備えだった。
「行こう」ミゼンが言った。
「うん」ナサが言った。
二人は、本国の大地に降り立った。かつて、ナサが育った土地。かつて、ミゼンの祖先が生きた土地。二つの名の二人が、証言を抱えて、その土地を歩き始めた。
山道は、静かだった。鳥の声。風の音。人の気配は、なかった。二人は、黙々と歩いた。話す余裕も、なかった。ただ、一歩、また一歩と、都へ近づいていく。
途中、遠くに集落が見えた。本国の人々が暮らす村。畑を耕し、家畜を飼い、静かに生きている。あの海の集落と、変わらない暮らし。ナサは、それを見て思った。この人々も、戦争を望んではいないだろう、と。遠征を決めたのは、机の上の評議会。村の人々では、ない。
だが、その机が動けば、村の若者が兵として、海を渡る。そして、あの海で死ぬ。名前のある、この村の若者が。——それを止めたい。ナサの思いは、強くなった。
一日目の夜は、山の中で明かした。火は、焚かなかった。煙が、見つかる。寒さに震えながら、身を寄せ合い、夜を越えた。
二日目。山を越えると、眼下に、都が見えた。
本国の、中心。評議会の、ある場所。石造りの建物が立ち並び、その中央に、ひときわ大きな議事堂が見えた。あそこに、オルグがいる。あそこに、遠くの机がある。
「あそこだ」ミゼンが呟いた。
「うん」ナサが言った。「あそこ。オルグ。いる。——証言。届ける」
だが、都に入るのが、いちばん危険だった。人が、多い。見張りも、多い。ナサの顔を知る者も、いるかもしれない。ここまで来て、捕まるわけにはいかなかった。
「慎重に」ミゼンが言った。「ここまで来た。あと、少しだ」
二人は、都を見下ろしながら、最後の道を下り始めた。
問題は、どうやってオルグに会うか、だった。評議員は、都の中心にいる。警備も、厳重だろう。ただ、押しかけても、門前で、捕らえられる。
「オルグに、会う方法は」ミゼンが聞いた。
「ある」ナサが言った。「オルグ。慎重派。少数派。——味方。少ない。だから。人目。避けて。動く。その。動きを。知っている」
ナサは、本国にいた頃、オルグの評判を聞いていた。武力に頼る多数派とは、一線を画す、老評議員。その屋敷の、場所も、知っていた。表からではなく、目立たぬ道から近づく。それしか、なかった。
「賭けだな」ミゼンが言った。
「賭け」ナサが言った。「でも。賭ける。しかない。ここまで。来た」
二人は、都へ、下りていった。最後の、そしていちばん危険な一歩を、踏み出して。
遠くの机は、もう遠くなかった。手が届くところまで、来ていた。
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その頃 豪州北岸 町
同じ空の下。豪州の北岸では。
四日目の朝を、迎えていた。
カーターの部隊は、まだ町の外れに踏みとどまっていた。昨夜、亡命艦隊の援護があった。海から敵の後続を断ち、辛うじて、町の残り半分を守り切った。
兵たちは、疲れ切っていた。四日間、まともに眠っていない。食事も、ろくに取れていない。傷を負った者も、多い。それでも、誰も退こうとはしなかった。退けば、町が落ちる。町が落ちれば、まだ避難しきれていない住民が、危険にさらされる。
だが、限界は近かった。
弾は、尽きている。あとは、銃剣と気力だけ。援護の亡命艦隊も、湾口を空けたままにはできない。湾口を空ければ、そこから本国の後続艦隊が突破してくる。いずれ、亡命艦隊は湾口へ戻らねばならない。そうなれば、また敵の後続が上陸する。町は、再び押される。
時間との、戦いだった。使者が本国を動かすのが、先か。それとも、町が力尽きるのが、先か。
「あと、何日持つ」部下が、聞いた。
「分からん」カーターが言った。「だが、持たせる。——使者が本国に着くまで」
カーターは、北西の海を見た。
その海の彼方で、二人の使者が進んでいることを、カーターは聞いていた。武力じゃない道。自分が託した、その道が、いま遠い海を渡っている。
「頼むぞ」カーターは呟いた。「早く。——早くあの机を動かしてくれ」
半年前、この海で、三者が誓った。私たち。あなたたち。戦わない。その誓いを破ったのは、遠くの机だった。海の当事者たちでは、ない。机の上で、遠征を決めた者たちだった。
だから、その机を動かすしかない。当事者がいくら戦わないと誓っても、机が戦えと命じれば、戦争は続く。逆に言えば、机さえ動かせば、戦争は止まる。カーターは、そこに望みを繋いでいた。
町の外れで。豪州の兵たちが尽きた弾の代わりに銃剣を握りしめていた。援軍の来ない戦い。ただ耐えるだけの戦い。勝つための戦いでは、なかった。時間を稼ぐための、戦いだった。使者が、あの机を動かすまでの時間を。だが、その耐える時間が、遠い海の使者に、望みを繋いでいた。
武力の戦いは、限界の中で続いていた。豪州の北岸で。尽きた弾と、疲れた体で。ただ、耐えることだけを続けていた。
そして、言葉の戦いは、本国の大地を歩き始めていた。二人の使者が。証言の束を、背負って。山を越え、都を目指して。
二つの戦いは、遠く離れていた。南の海の、町と、北の海の、本国。互いの声は、届かない。豪州の兵は、使者がいまどこにいるか、知らない。使者は、町がどれだけ持ちこたえているか、知らない。
だが、二つは繋がっていた。同じ一つの、終わりへ向かって。
戦争を終わらせるという終わりへ。
町が耐える時間が、使者に猶予を与える。使者が届ける言葉が、町を救うかもしれない。武力と、言葉。数えられる矢と、数えられない言葉。その二つが、いま、同じ目的のために、それぞれの場所で戦っていた。
どちらが先に、目的に届くか。あるいは、両方が間に合わずに、終わるのか。——それは、まだ誰にも分からなかった。
ただ、二人の使者は、歩き続けた。遠くの机へ。武力が届かなかった、その机へ。言葉を、運んで。




