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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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最初の光

西暦××××年××月××日 日本海 護衛艦「あたご」艦橋 午前5時47分


夜が明けきっていない。


東雲晃は、双眼鏡を持ったまま、下ろしていた。


東雲は統合幕僚監部からの連絡官として、今回に限り「あたご」に乗り込んでいた。あの朝から何日が経っただろう。投射試験の翌日、外縁方向での状況を現場で直接把握するためだ。艦上の指揮は当直士官の岩田三佐が執っている。


「あたご」の現在位置は日本海の外縁付近だ。日本列島の沿岸からは数百海里離れている。昨日の投射試験でそのまま外縁方向に展開した位置から、哨戒を継続している。


双眼鏡を構えれば細部が見える。細部が見えると、最初に見た者の解釈が全体を縛る。細かく見るより、まず変化を取る。それが今日の暗黙の方針だった。


「CIC、状況」


「表面反応、なし。水中、なし。航空、なし。AIS、受信なし」


昨日も同じ答えだった。その前の日も。だが今日の「なし」は、少し違う重さを持っている。昨日の投射試験で、未同定信号が一件検出された。単発で、再現性は確認できていないが、「外側が完全な空白ではないかもしれない」という可能性が、初めて数値として記録された。


その一件が、今日のすべての「なし」に、わずかな緊張を混ぜている。


「計測装置の状態は」


「全系統正常です。昨日の投射試験から継続して稼働しています。受信モードで待機中です」


「了解。引き続き監視を続けろ」


岩田は東雲の隣に立った。「昨日の信号が気になっていますか」


「ああ」東雲は短く言った。「単発で再現性がない。だが構造があると報告されている。構造のある信号は、偶然とは言いにくい」


「来るとしたら、今日ですか」


「来るかどうかは分からない。来なければ、昨日の信号は偶然だったという可能性が上がる。来れば、向こうが定期的に何かを送っている可能性が出る。どちらの結果でも、今日のデータが意味を持つ」


────


同日 午前6時10分


水平線の色が変わり始める。夜明けだ。


東の空の端から、光が帯状に広がってくる。その光の中に、ごく細い、しかし明らかに別の輝点がある。


「……水平線上に、目視での反応があります」


見張り員の声だった。発声は平静を保っているが、声の質が普段と違う。見慣れないものを見たとき、人の声はわずかに変わる。訓練でそれを抑えることはできるが、完全には消せない。


「なんだ」


「目視だけです。レーダー、反応なし」


岩田三佐は双眼鏡を上げた。


水平線。朝の光を背負った位置に、何かある。形は、まだ分からない。だが確かに、そこに「ある」。目視で「ある」と確認できるものが、レーダーに映らない。


「CIC、再確認。外縁方向に表面目標の可能性。全系統で確認」


「了解。再確認中」


数秒の沈黙。「表面、反応なし。水中、なし。電波環境、変化なし」


「目視報告を追加しろ」


双眼鏡越しに、水平線を見続ける。目視目標は動いていない。形が、少しずつ分かってくる。


帆だ。白い。大きい。一枚ではない。複数の帆が、風を受けて立っている。


帆船だ。


岩田の中で、何かが一瞬止まった。


現代の海に帆船が存在する理由は複数ある。練習艦、観光船、帆走競技。だがそのいずれも、AISを搭載している。一定規模以上の船舶にはAISの搭載が義務付けられており、それほど小さくない帆船がAIS信号を発していないというのは、現代の船ではないことを示唆している。


それに、このサイズの帆船が木造であれば、レーダーへの映り方は小さくなる。レーダーに映らないのは、木造だからかもしれない。


AISがない。レーダーに映らない。それほど小さな船ではない。


「艦型判定を試みろ。目視で」


「……三本マストです。大型です。現代の艦船ではないと思います。マストの形状と帆の展張方法が、現代の帆走練習艦のそれとは異なります。より古い、横帆式の帆装です。具体的にどの時代かは分かりませんが、近代以前の設計に見えます」


東雲が短く言った。「官邸と統幕へ報告しろ」


「内容は」


「目視目標、複数マストの大型帆船と思われる船影、外縁方向に確認。レーダー・AIS反応なし。目標は静止または微速。接近の意図、現時点では確認できない。艦型は近代以前の横帆式帆装と推定。評価は入れるな。そのまま送れ」


「了解です」


岩田は水平線から目を離さなかった。双眼鏡を下ろした後も、目がそちらを向いていた。


なぜそこにいるのか。なぜ動かないのか。なぜレーダーに映らないのか。なぜAISがないのか。問いが重なる。どれも、今日の段階では答えられない。


だが「帆船がある」という事実だけは、確認できた。七日間の「なし」に、今日初めて「ある」が現れた。


────


同日 官邸地下 午前6時30分


報告が届いた瞬間、室内の空気が変わった。


あの朝から七日間、外側からの報告はすべて「なし」だった。ロシアが来ない。韓国が来ない。中国が来ない。AISが受信できない。迎撃機が出ない。電波反応がない。「なし」が積み重なるだけだった。昨日の投射試験で未同定信号が一件検出されたが、単発で再現性がなかった。


今日の報告は、違う。


「目視目標」。


白瀬が言う。「要点のみで」


藤堂が読み上げる。「護衛艦「あたご」より。外縁方向に目視目標。帆船。三本マスト。横帆式帆装と推定。近代以前の設計。レーダー反応なし。AISなし。静止中」


沈黙。


黒崎首相が言う。「帆船」


繰り返しではない。確認だ。


「向こうにも、海がある」


その言葉が、室内に静かに落ちた。


向こうにも海がある。当然に思える言葉だ。だがあの朝から七日間、それは確認できていなかった。外縁の向こうに何があるのか、誰も言えなかった。外側は「応答がない状態」として、名前のないまま保留されてきた。


だが今日、帆船が出た。


帆船が出たということは、帆船が浮かべる海がある。海があるということは、空も、陸も、あるかもしれない。そして帆船を動かす人がいる。


昨日の未同定信号。今日の帆船。二つの点が、初めて同じ方向を向いている。


「攻撃の意図は」大石祐人が言う。


「確認できません」藤堂。


「近づいているか」


「現時点では静止に見えます」


「距離は」


「目視のみで不明です。レーダーに映らないため、計測できません。ただし、目視できるということは、それほど遠くない距離にいる可能性があります」


「「あたご」の位置は沿岸から」


「外縁付近の哨戒位置です。日本の沿岸からは数百海里離れています。民間からの目視は不可能な距離です」


「それならいい」


────


黒崎。「接触するか、しないか」


その問いが、初めて明確に置かれた。


これまでは「観測するか」「投射するか」だった。今は違う。「接触」という言葉が出た。それは「相手がいる」という前提を含む言葉だ。


あの朝から七日間、「向こうに誰かいる」という認識は、言葉の形を取ったことがなかった。ロシアが来ない、韓国が来ない、中国が来ない、という事実は積み重なってきたが、それは「向こうに誰もいない可能性」を示していた。


だが今日、帆船が出た。帆船を動かす人がいる。


「向こうに誰かいる」という認識が、この部屋で初めて、言葉の形を取った。


相馬隆が言う。「現時点での整理としては。接触した場合のリスクが確認できません。接触しない場合のリスクも確認できません。どちらを選んでも、結果は保証されません」


大石。「攻撃してくる可能性は」


藤堂。「現時点では判断できません。距離も不明、相手の意図も不明、装備も不明」


吾妻英二。「向こうも我々を観察している可能性があります。だとすれば、こちらの動きが向こうの判断に影響します」


「接触した場合と、しない場合のリスクを比較できるか」


「できません」相馬が答えた。「情報が足りない。足りない情報で比較しても、比較の意味がありません」


黒崎は少し間を置いた。「接触の準備をしろ」


「接触する」ではない。「接触できる状態を作る」だ。状態を作るだけなら、まだ引き返せる。だが状態を作り始めた時点で、「引き返す」のコストは上がり始める。その差が、今この瞬間において決定的だった。


「了解」


「白瀬」


「はい」


「今日の報告を外に出すか」


「出しません。今の段階では。目視目標が確認できた、という事実は重要ですが、詳細が分からない状態で出すと、憶測を呼びます。「あたご」の位置が沿岸から離れていることも、今は幸いしています」


「SNSは」


柳田美玲が言った。「通信異常や市場停止に関連した投稿は引き続き増えています。ただし、帆船の目撃情報や外縁方向の異常に関する投稿は現時点では出ていません」


「このまま維持できるか」


「「あたご」が今の位置を保てる限りは。ただし艦が沿岸に近づいたり、他の船が偶然接触したりすれば、情報は出ます」


「できる限り距離を保て。「あたご」への指示に加えろ」


「了解です」


────


同日 護衛艦「あたご」 午前7時


「呼びかけてみろ。国際VHFで」岩田が言った。


通信士が送信する。「こちら海上自衛隊護衛艦「あたご」。水平線上の帆船に呼びかけます。聞こえましたら応答ください」


静寂。三十秒待つ。応答なし。


英語でも試みる。応答なし。


「……応答、ありません」


「向こうに無線機があるかどうかも分からないな」東雲が言った。「近代以前の設計なら、無線機の存在そのものが確認できない」


「艦を向けるか」


「向けない」岩田は即答した。「動けば相手に伝わる。意図を示す前に、まず相手の動きを観察する。今は、こちらが観察していることだけを知らせれば十分だ」


東雲が補足する。「もう知られているかもしれない。だから、知らせていいかどうかを考えるより、知られた場合の対応を考えろ」


「了解です」


帆船は、まだそこにあった。動かない。近づかない。遠ざかりもしない。風を受けた帆が白く光っている。三本のマストが、朝の光の中に静かに立っている。


それは美しかった。


誰もそう言わなかったが、全員が同じことを思っていた。美しい、という感覚と、それが何なのか分からないという恐怖が、同時にそこにあった。


美しいものが怖い、というのは矛盾しているように見えるが、そうではない。理解できないものが美しい形をしているとき、その美しさは怖さを増幅する。理解できないものは、予測できない。予測できないものは、対処できない。対処できないものを前にしたとき、人は美しさと恐怖を同時に感じる。


岩田はそれを頭の中で整理しながら、双眼鏡を下ろさなかった。


────


同日 正午過ぎ


赤外線センサーによる熱源確認の報告が来た。


「熱源が確認できます。帆船の甲板付近および内部に、体温程度の熱源が複数。規模から見て、人が乗っている可能性が高いです」


東雲は、その報告を聞いた。


人が乗っている。あの朝から今日まで、「外側に人がいる」という証拠は存在しなかった。昨日の未同定信号は、構造があると言われたが、単発で再現性がなかった。


だが今日、人の体温が確認された。


「記録しろ」


「了解です」


「人数の推定は」


「正確には難しいですが、複数の熱源が確認できます。五人から十人程度という推定が出ています。ただし精度は低いです」


「了解。統幕へ報告しろ」


しばらくして、別の報告が続いた。


「帆船から規則的な発光の可能性があります。一定の間隔で、微弱な光の点滅が確認されています」


東雲が振り向く。「点滅?」


「はい。ただし、モールス信号とは一致しません」


「何かのパターンか」


「分析中です。規則性はありそうですが、既知のどのコードとも一致しません。少なくとも、完全にランダムな点滅ではありません」


東雲は、再び水平線を見た。


昨日の未同定信号に、構造があった。今日の帆船の発光に、規則性がある。構造のある信号と、規則性のある光。それが同じ日に確認された。偶然かもしれない。だが、偶然にしては揃いすぎている。


「官邸と統幕に報告しろ。内容は以下の通り。帆船から規則的な発光を確認。既知のコードとは一致しないが規則性あり。赤外線センサーで熱源を確認。人が乗っている可能性が高い。評価は入れるな。事実だけ送れ」


「了解です」


向こうが、こちらに話しかけようとしているかもしれない。言葉は分からない。使っている記号も分からない。でも何かを伝えようとしている可能性が、数値として記録された。


それだけで、この日の意味が変わった。


あの朝から七日間、外側は「応答がない状態」だった。今日初めて、外側が「応答しようとしているかもしれない状態」になった。


────


同日 官邸地下 夜


「整理をする」


相馬が言った。「今日確認できた事実を並べる。一、帆船を目視確認した。近代以前の設計と推定される。二、赤外線センサーで熱源を確認。人が乗っている可能性が高い。三、帆船から規則的な発光を確認。既知のコードとは一致しないが規則性がある。四、昨日の投射試験で検出された未同定信号も、内部に構造があると報告されている」


「四つが揃った」黒崎が言った。「全部、同じ方向を向いている」


「はい。外縁の向こうに、人がいる可能性があります。ただし確定はできていません」


「昨日まで、外側は空白だと思っていた」


「確認できていなかった、というのが正確な表現ですが、今日の四点から、少なくとも空白ではない可能性が出てきました」


十六夜が言った。「昨日の未同定信号と、今日の帆船からの発光。どちらも規則性があります。同じ発信源である可能性があります。帆船から電波と光の両方を発している可能性があります」


「"可能性がある"で固定。断定はしない」白瀬が言った。


「了解です。ただし」十六夜は続けた。「接触の準備を進める理由としては、今日の四点で十分だと思います。向こうに誰かいる可能性がある。その可能性があるなら、接触の準備をすることは理にかなっています」


「準備をすることと、接触することは違う」黒崎が言った。


「はい。準備は今日始めます。接触するかどうかは、準備が整ってから判断します」


「急ぐな。だが、止まるな」


────


その夜、「あたご」は帆船と水平線を挟んだまま、静かに浮いていた。


帆船からの発光は、日が落ちてからも続いていた。暗い海の中で、規則的に点滅する光が見えた。


岩田は見張り員に言った。「発光のパターンを全部記録しろ。一点一点、時刻と間隔を全部残せ」


「了解です」


「何かのコードかもしれない。あるいは違うかもしれない。どちらにしても、記録があれば後で解析できる。記録がなければ、後で何もできない」


岩田は窓の外を見た。帆船のシルエットは、今日もそこにある。動かない。近づかない。遠ざかりもしない。


ただ、光が点滅している。


規則的に。繰り返すように。


まるで、こちらに何かを伝えようとしているかのように。


岩田は双眼鏡を下ろして、デスクに戻った。記録のファイルを開く。今日一日で積み重なったデータが並んでいる。帆船の目視時刻。各種センサーの数値。赤外線データ。発光パターンの記録。


全部が、同じ方向を指している。


外側は、空白ではない。


まだ「確認できた」とは言えない段階だ。だが、「確認できない」よりも確実に前に進んでいる。


今日がその一歩だった。

◆国際VHF16チャンネル

世界中の船舶が共通で使っている無線の周波数帯。遭難信号の発信や、他の船への最初の呼びかけに使う。現代の船はほぼすべてこの周波数を受信し続けている。帆船が現代の設計でなければ、そもそも無線機を持っていない可能性がある。


◆赤外線センサー(FLIR)

Forward-Looking Infraredの略。物体が発する熱を映像化する装置。夜間でも人体の温度を検知できる。今回は帆船に人が乗っているかどうかの確認に使用した。体温程度の熱源が複数確認されたことで、人が乗っている可能性が高まった。


◆横帆式帆装

帆をマストと直角方向に張る帆の方式。ヨーロッパ式の大型帆船に多く見られ、追い風の状態では高速で航行できる。現代の帆走船はより操縦性の高い縦帆式が多い。今回の帆船が横帆式であれば、数百年前の設計に近い可能性がある。


◆モールス信号

短い信号トンと長い信号ツーの組み合わせで文字を表す通信方法。SOS(・・・―――・・・)が有名。今回帆船から確認された光の点滅はモールス信号とは一致しない。異なる記号体系を使っている可能性がある。


◆AISとレーダーの盲点

AISは電波を能動的に発信する装置のため、搭載していなければ信号が出ない。レーダーは電波を反射させて探知するため、反射率が低い材質(木材など)の船は映りにくい。木造の帆船がどちらにも反応しない理由はここにある。

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