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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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境界が破れた音

西暦××××年××月××日 航空自衛隊西部防空管制所 深夜


あの朝から何日が経っただろう。


夜の空は、あの朝以来、奇妙なほど静かだった。


それは感覚的な静けさではない。音が消えたわけではなかった。国内線は飛んでいる。貨物便も、医療搬送も、警戒飛行も訓練も、必要と判断されたものはすべて続いている。エンジン音はある。滑走路の振動もある。空港の管制塔は今も灯りを落とさない。


航跡もある。レーダー画面は常に埋まっている。空は、決して空白ではない。


だが一つだけ、決定的に失われたものがあった。


外から入ってくる航空機だ。


あの朝以降、日本の空に外から来た機体は、一機も存在していなかった。ロシア機が来なかった。韓国機も来なかった。中国機も来なかった。スクランブルを発令しても、向こうから何も出てこなかった。


それは異常として扱われることもなかった。空港の発着掲示板から国名が消えた。かつて当たり前に並んでいた都市名や国名は、いつの間にか表示されなくなった。国際線用の誘導路は夜ごと照明を落とされた。閉鎖されたわけではない。廃止されたわけでもない。ただ、使われなくなった。


外はない。あるのは内側だけだ。その前提が、誰にも明示されないまま、制度の隙間に沈み込んでいた。


────


照明を落とした室内で、レーダーの淡い光だけが人の顔を下から照らしている。


画面に並ぶ航跡は多い。国内線、定期便、夜間訓練、警戒飛行。すべてが規定内。すべてが「分かっているもの」だ。


だからこそ、当直管制官の視線が、ほんの一瞬止まった。


警告音が鳴ったからではない。表示が切り替わったからでもない。


ただ、そこに無かったはずのものが、自然に存在している。


配置のズレに近い感覚だった。画面全体を見ているのに、一点だけが場所を違えている。


「……新規トラック」


声は自然に出た。訓練通りの発声だ。だがその声には、自分でも気づかないわずかな引っかかりが混じっていた。


画面の端。防空識別圏の外縁に近い位置。新しい航跡が、控えめな速度で現れている。


進入角度は緩やか。高度も速度も、数値だけを見れば民間機として成立しなくはない。


だが、識別信号がない。


「IFF応答、ありません」


その報告で、室内の空気がはっきりと変わった。


ただし今回の「IFF応答なし」は、これまでと意味が違う。あの朝以降、IFF応答がない場合は「内側にいる誰か」を意味していた。だが今回は違う。


「外縁から、来ています」


誰かが言った。その言葉が、室内に落ちた。


外縁から。外側から。


あの朝以降、外から来たものは何もなかった。電波を送っても返ってこなかった。ロシア機も韓国機も中国機も来なかった。帆船が目視されたが、それは海の上だった。


空から、外縁を越えて来るものが、今夜初めて現れた。


「方位は」


「北」


その瞬間、管制室にいる全員が、ほぼ同時に同じ二つの国名を思い浮かべた。


ロシア。中国。


北から来る未確認機──それは、長年の訓練で最初に当てはめるべき「想定」だった。


だが、次の数秒で、その想定が一つずつ外れていく。


速度が違う。ロシア機のような高速進入ではない。高度が違う。中国軍機のような示威行動パターンでもない。接近の仕方が、あまりにも素直すぎる。


威圧がない。示威がない。電子妨害が、ない。


「……変だな」誰かが、低く言った。


「中国機なら、この距離でこの静けさは選ばない。ロシア機なら、この高度でこの沈黙はありえない」


「何より」別の管制官が言った。「この航跡は"こちらに見せるための飛び方"をしていない。逃げてもいない。探ってもいない。ただ、通っている」


「識別困難、じゃないな」


「当てはまる型が、ない」


敵かどうか以前に、想定に入っていない。それは、この仕事において最も嫌われる状態だった。


「……外から?」


誰かが、思わず呟いた。誰も咎めない。なぜなら、同じ言葉が全員の頭に浮かんでいたからだ。あの朝以降、外から来た航空機は存在しなかった。理屈ではなく、事実として。


その事実が、今夜初めて覆されようとしている。


「スクランブル用意」


命令は、一拍遅れて出た。「外から来た」という事実を頭が受け取るための、ほんのわずかな時間が必要だったからだ。


────


同日 航空自衛隊築城基地


夜の滑走路灯が、暗闇の中に一本の線を引く。


二機のF-15Jが、短い間隔で動き出す。手順は通常通り。アフターバーナーは使わない。


だが「通常」という言葉の意味が、この夜だけはどこか歪んでいた。


これまでのスクランブルはすべて「内側の空」で完結していた。外縁から来るものなど、あの朝以来一度もなかった。今回だけが違う。


パイロットは状況を聞かされていた。外縁から来た未確認機。IFF応答なし。敵対的な動きなし。ただし想定に入っていない動き方をしている。


それだけだ。それ以上の情報は、今夜の段階では存在しない。


レーダー上で、日本機の航跡が外縁へ向かって伸びていく。その先にある航跡は、確かに「こちら側の文脈ではない」。


距離が縮まるにつれ、管制室では誰も口数を増やさなかった。言葉を重ねれば、この異常を確定させてしまう気がしたからだ。


「目標、安定飛行」「回避行動、なし」「……通信、試みます」


送信する。「こちら航空自衛隊機。識別不能の航空機、応答してください」


一拍。その一拍が、異様に長く感じられた。


そして、応答が返る。


「こちらオーストラリア空軍機。聞こえますか」


管制室で、誰かがはっきりと息を吸った。


それは驚きの音ではない。認識が根本から切り替わる音だった。


「……オーストラリア?」


即座に確認が走る。識別コード。データリンク。機体情報。


一致する。F-35A。オーストラリア空軍所属。


「存在している」。


その事実が、ゆっくりと全員に染み渡っていく。


北から来た。ロシアでも、中国でもない。


────


だがここで、管制室に別の疑問が走った。


オーストラリア空軍機であれば、IFF応答があるはずだ。日本とオーストラリアは緊密な安全保障協力関係にある。平時においては、IFFの識別コードを共有している。味方であれば、IFF信号が返ってくるはずだ。


なぜ、IFF応答がないのか。


「IFF応答の確認、もう一度」


「……依然として応答なし。ただし機体情報とデータリンクはオーストラリア空軍F-35Aと一致しています」


管制官の一人が言った。「コードが更新されていないのかもしれません。あの朝以降、両国の間で認証の照合ができていない。平時のコードは持っているはずですが、あの朝以降に変更や再確認が行われていなければ、照合に失敗する可能性があります」


「つまり」


「IFF応答がないことは、敵であることを意味しない。ただ、あの朝以降の混乱の中で認証の照合ができていない、ということかもしれません」


「確定か」


「確定できません。ただし機体情報との整合を見れば、オーストラリア空軍機である可能性が高い」


「驚くべきは、IFF応答がないことではない」別の管制官が言った。「外から来た、という事実だ。それが今夜一番異常なことだ」


────


上空 F-15JとF-35Aの並走


スクランブル機が目標に合流した。


オーストラリア機は回避行動を取らなかった。こちらが近づいてきたことを確認して、速度を落としてきた。並走する意思を示している。


「こちら航空自衛隊機。貴機の識別を確認したい。意図を教えてほしい」


一拍の間があった。


「こちらオーストラリア空軍機。敵対的な意図はない。我々は自国周辺空域で航法データの不整合を確認していた。その確認のために飛行していたところ、気がつけばここにいた」


「航法データの不整合とは」


「GPSが消失している。みちびきの信号が届いているが、位置が計算と合わない。慣性航法で飛行を継続したところ、ここに来た」


「ここがどこか、分かるか」


「日本の空だと思う。あなた方の機体が来たから。ただ、どうやってここに来たのかが分からない」


「どこから出発したのか」


「ダーウィンです。ダーウィン基地を出て、北東方向に飛行しました。通常の哨戒ルートです。このルートは何度も飛んでいます」


「北東に飛んで、北から来た」


「はい。それがおかしいことは分かっています。ダーウィンは日本の南にあるはずです。北東に飛んで北から来るというのは、地図の上では説明できない」


スクランブル機の操縦士は、その言葉を受け取った。ダーウィンは日本の南にある。北東に飛んで北から来た。地図の上では説明できない。


あの朝から今日まで、ロシアが来なかった。韓国が来なかった。中国が来なかった。外側からは何も来なかった。そして今夜、オーストラリア機が北から来た。


「貴国でも、外との通信が途絶えているか」


「はい。あの朝から。キャンベラとも、他のどこともつながらない。本国が確認できていない。あなた方も同じ状況か」


「似ている」


その一言が、二国の間に落ちた。


あの朝から今日まで、日本は沈黙を守ってきた。だが今、沈黙の向こう側に、同じ沈黙を抱えた国がいる。


「燃料が残り少ない。あと二十分ほどだ」


「最寄りの基地に案内する。来てほしい」


「……日本に着陸していいのか」


「緊急状況だ。来てほしい」


────


首相官邸地下 危機管理センター


「……来たか」


相馬が言う。誰に言うでもない言葉だった。


報告が届いたのは深夜だった。官邸の当直が緊急で相馬を呼び出し、相馬が黒崎を呼んだ。部屋に集まった人数は少ない。深夜の緊急召集だ。


「オーストラリア空軍機が北方から接触してきました。敵対的な意図はないとの申告があります。燃料が残り少なく、緊急着陸を誘導中です」


「IFFは」


「応答なし。ただし機体情報はオーストラリア空軍のF-35Aと一致しています。IFF応答がないのは、あの朝以降の混乱の中で認証コードの照合ができていないためと考えられます。オーストラリアとは平時にコードを共有していますが、あの朝以降、両国間で確認作業が行われていません」


「敵対的な動きは」


「ありません。スクランブル機に対して回避行動を取らず、並走の意思を示しました。通信にも応じています」


「どこから来たのか」


「ダーウィン基地から北東方向に飛行したところ、日本に来たと申告しています」


「ダーウィンは北東に飛んで来る場所か」


「地球の地図では来ません。ダーウィンは日本の南にあります。北東に飛んで北から来るというのは、通常の地図では説明できない経路です」


黒崎は少し考えた。「それは、日本の北側にオーストラリアがある可能性があるということか」


「可能性として、そうなります」


「着陸させろ。燃料が尽きる前に」


「築城基地に誘導中です」


「向こうの了承は」


「本国との通信が途絶しているため、向こうも了承を取れる状態ではありません。緊急着陸という扱いにします」


「それでいい」


「それと」藤堂が続けた。「相手の証言から、オーストラリアもあの朝から同じ状況にあることが分かりました。GPSの消失。本国との通信途絶。位置の不整合。日本と同じ状況を経験しています」


「同じ状況にある国が、いた」黒崎が言った。


「はい。少なくとも証言の上では」


「外交ルートで確認しろ。在日オーストラリア大使館に連絡を取れ。ただし今夜は深夜だ。明日の朝一番でいい」


「了解です」


「帆船の件とも整理が要る。外縁方向の外側で帆船が目視された。未同定信号も検出された。そして今夜、オーストラリア機が北から来た。これらがどう繋がるのか、整理しろ」


「別々の現象として扱いますか」


「今は別々に記録する。繋がるかどうかは、もう少し情報が集まってから判断する。急ぐな。だが止まるな」


────


同日 航空自衛隊築城基地 着陸後


F-35Aが滑走路に降りた。


着陸灯の光の中に、オーストラリア空軍の機体が滑り込んでくる。見慣れた形のはずなのに、この夜は違う意味を持っている。


外から来た。外側は存在していた。外側に人がいた。あの朝から今日まで、外側は「応答がない状態」だった。今夜初めて、外側から誰かが来た。


機体が停止する。ラダーが伸びる。


パイロットが降りてくる。出迎えた自衛隊員と、しばらくの間、互いに相手の顔を見た。


言葉は何も出なかった。


出ない言葉の中に、確認している事実があった。生きている。本物だ。外から来た。


「ありがとうございます。助かりました」パイロットが言った。


自衛隊員は頷いた。


握手が交わされた。その握手が、あの朝以来初めての「外側との接触」だった。


────


同日 夜明け前 築城基地 簡易聴取室


パイロット、ライアン・マクブライド少佐は、着替えと食事を終えて椅子に座っていた。


通訳を介してのやり取りだ。


「オーストラリアを離陸したのはどこからですか」


「ダーウィン基地です」


「ダーウィンから、どの方向に飛びましたか」


「北東です。通常の哨戒ルートです。このルートは何度も飛んでいます」


「北東に飛んで、ここに着いた」


「はい。最初は普通の哨戒でした。途中でGPSが消えた。みちびきの信号は受信できましたが、位置が計算と合わなかった。慣性航法で進んだら……ここに来ました」


「ダーウィンは日本のどの方向にあると思いますか」


少佐は少し考えた。「南です。日本の南にあるはずです。北東に飛んで北から来るというのは、おかしい」


「今もそう思いますか」


「……今は、自分が知っている地理が正しいかどうか、自信がありません。地図は正しかったはずです。でも、来てしまった」


通訳が一瞬沈黙した。


南にあるはずのオーストラリアから、北東に飛んで北から日本に着いた。それは、この惑星の地図が根本から変わっていることを意味する。


「本国との通信は」


「取れていません。あの朝から途絶しました。基地とも、キャンベラとも。今日の任務は、その通信途絶の原因を確認しに行くものでした」


「燃料はどのくらいで」


「残り少なかったです。あと十五分くらいだったと思います。着陸できてよかった」


聴取員は頷いた。「よかったです」


それは公式の言葉ではない。だがその場で言える、最も正直な言葉だった。


「あの朝から、あなたの国でも同じことが起きているんですね」


少佐は頷いた。「はい。GPSが消えた。通信が途絶した。外との連絡が取れなくなった。あなた方と同じです」


「怖かったですか」


少佐は少し間を置いた。「怖かったです。一人で飛んでいました。どこに行くか分からなかった。燃料が減っていくのに、目的地が分からなかった。あなた方の機体が来たとき、本当によかったと思いました」


「一人じゃなかった」


「はい。一人じゃなかった」


────


同日 首相官邸地下 夜明け前


「整理をする」


相馬が言った。「今夜確認できた事実。オーストラリア空軍機が北方から接触してきた。ダーウィンを出て北東に飛行したら日本に来た。本国との通信は途絶している。あの朝から同じ状況を経験している」


「北東に飛んで北から来た」黒崎が言った。


「はい。地球の地図では成立しない経路です。しかし実際に成立しました。つまり」


「この惑星の地図は、地球の地図とは違う」


誰も否定しなかった。


「次にやることははっきりした」黒崎は言った。「オーストラリアと話す必要がある。今日来たパイロットを通じて、オーストラリア政府と連絡を取れないか調べろ。在日大使館を通じてもいい。向こうも同じ状況にいる。情報を共有する必要がある」


「了解です」


「急ぐな。だが止まるな」


白瀬が言った。「確定」


────


外では、夜明けが近かった。


あの朝から今日まで、日本は沈黙を守ってきた。外側を確認できないまま、「確認できない」を積み重ねてきた。


今夜、その沈黙に最初の亀裂が入った。


亀裂は、外から来た。


北から、一機の機体が来た。同じ沈黙を抱えた国から。同じ朝を経験した人間が、別の方向から同じ問いを持って来た。


境界は、音もなく、しかし確実に、破れてしまっていた。


白瀬は廊下でメモ帳を出した。これまで何度も書いてきた三つの言葉。「確認できない」「理由がない」「前提」。


今夜、その三つの向こうに、新しい事実が積み上がった。


外側は、存在していた。


オーストラリアが、いた。


同じ朝を生きた国が、別の方向に、いた。


廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。


だが今夜だけは、その音が少し違って聞こえた。

◆防空識別圏(ADIZ)

Air Defense Identification Zoneの略。自国の安全保障上の必要から設定した空域で、この圏内に入る航空機はあらかじめ飛行計画を提出するか、管制機関の指示に従うことが求められる。


◆スクランブル(緊急発進)

未確認機や不審機に対して戦闘機を緊急発進させること。日本では航空自衛隊が担当し、年間数百回のスクランブルを行っている。発令から数分以内に離陸できるよう、常に準備態勢にある。


◆IFF(敵味方識別装置)

Identification Friend or Foeの略。暗号化された信号を自動で送受信し、味方かどうかを識別する装置。日本とオーストラリアは安全保障協力関係にあり、平時はIFF識別コードを共有している。今回IFF応答がなかったのは、あの朝以降の混乱の中で認証コードの照合が行われていなかったためと考えられる。「IFF応答なし=敵」ではなく、「外から来た=驚き」が今夜の本質。


◆F-35A(オーストラリア空軍)

オーストラリア空軍が保有するステルス戦闘機。2018年頃から順次配備が進んでいる。今回の機体はダーウィン基地を出発し、慣性航法だけで飛行を継続した結果、日本に到達した。


◆ダーウィン(RAAF Base Darwin)

オーストラリア北部、ノーザンテリトリー州ダーウィンにある王立オーストラリア空軍基地。地球の地図ではダーウィンから北東に飛行しても日本には来ない。しかし本作の惑星ではそれが成立した。これが「この惑星の地図は地球の地図と違う」という確定の根拠になっている。


◆築城基地

福岡県築上郡にある航空自衛隊の基地。第8航空団が駐屯する。日本海側に比較的近い位置にあり、北方からの接近に対するスクランブル発進の拠点の一つ。

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