測る国
西暦××××年××月××日 キャンベラ 国防省地下 状況統合室
照明は落とされていない。むしろ、必要以上に明るい。
影を作らないためだ。表情を曖昧にしないためでもある。
ここは、緊張を演出する場所ではない。怒号も、沈黙も、感情的な判断も、最初から想定されていない。事実を並べ、仮説を許容し、結論を急がないための空間。判断を「止める」ためではなく、「遅らせる」ために作られた部屋だ。
壁面スクリーンには、空域の広域図。複数レイヤーで重ねられた航跡ログ。断続的に更新される通信の断片。各航空基地からの定期報告が、秒単位で時刻を刻みながら無機質に積み上げられている。
どの情報も、「異常」とは表示されていない。警告色も、強調表示もない。
それが、この部屋の空気をかえって張り詰めさせていた。
それらの中央に、一つの映像だけが固定されていた。
日本機と並走する、自国のF-35。
画面が切り替わっても、拡大されても、解析画面に移っても、その映像だけは消えない。意図的に残されている。
どちらも、機首を向けていない。どちらも、背を見せていない。距離は一定。高度差も最小限。互いの存在を、過不足なく意識した配置。
均衡した距離。意図の読める間合い。そこには、偶発性がない。
「……確認するが」
防衛次官が口を開く。声は低く、感情を含まない。「日本側は、敵対行動を一切取っていないな」
それは質問ではなく、確認だった。すでに答えを知った上での、最終確認。
「はい」情報将校が即答する。「照準動作なし。火器管制レーダー照射なし。電子妨害の兆候もありません」
「回避機動は?」
「不要と判断しています。距離は終始、管理下です。意図的に"詰めていない"」
次官は、スクリーンから視線を外さずに言った。「意図的だな」
誰も否定しない。否定する理由が、どこにもない。
「彼らは、"確認はするが、定義はしない"という態度を取っている」
それは評価ではなく、観測結果だった。日本側の行動は、過剰でも、不足でもない。定義を与えれば、次の段階に進まなければならなくなる。その一線を、意図的に踏まない。
「……日本らしいですね」誰かがそう呟き、すぐに口を閉じた。ここは、印象を共有する場ではない。
「問題は」次官が、ゆっくりと椅子に深く腰をかける。「こちらが、どう振る舞うかだ」
────
「日本は、沈黙を維持するだろう」
「はい。少なくとも、政府としての公式発表は当面ありません」
「隠し通せると?」
情報将校は、一瞬だけ言葉を選んだ。「……日本国内では、しばらくは可能でしょう。制度も、世論も、まだそれを許容しています」
「だが、我々は違う」
その一言で、室内の空気がはっきりと切り替わる。
「この現象は、"国内問題"として閉じられない」
別の将校が補足する。「我が国の位置が、日本の北にある以上、空域の接続は偶発では説明できません」
「一度ではなく、繰り返し確認されています」
「否定は困難です」
次官は頷いた。「沈黙を選ぶ、ということは、確認を拒む、ということだ。我々には、それができない」
それは、政策でも、理想でもない。意志というより、国家の性質だった。
オーストラリア政府は、あの朝以来、一貫して同じ姿勢を取っている。
分からないなら、確かめる。確かめられるなら、実際に行く。危険かどうかではない。「可能かどうか」が判断基準だ。
それは長い時間をかけて形成された国家の習慣だ。未知の大地に乗り込んでいった歴史が、この国の骨格に刻み込まれている。
「日本と連携する」次官が言う。「ただし、日本の"沈黙"を破らない形でだ」
「具体的には?」
「政府同士ではない。軍同士だ」即答だった。「現場と現場を直接つなぐ。データは共有する。判断は委ねる。だが、言葉にはしない」
「頻度は?」
「上げる」迷いはなかった。「日本側とは事前連絡。完全共有。だが、公表はしない」
「了解しました」
「命令を出せ。北方ルート、定期確認飛行を開始」
命令が流れる。
この瞬間、オーストラリア政府は一線を越えた。まだ、世界が何であるかは分からない。ここが地球かどうかも、確定していない。
だが、空が続いている以上、確かめないという選択は存在しなかった。
日本は、沈黙を守る国だ。
オーストラリアは、沈黙を測る国だ。
どちらが正しいかは、まだ分からない。だが、両者が同時に動いたことで、一つだけ確かなことが生まれた。
この世界は、もう一国では隠しきれない。
────
同日 キャンベラ 国防省 別室
「マクブライド少佐の状況は」
「日本の築城基地に着陸し、保護されています。本国との通信が回復するまで、当面は日本に留まる形になります」
「日本側の扱いは」
「報告によれば、敵対的に扱われていません。聴取を受けていますが、強制的な様子はありません」
「少佐の聴取で、何を話したか」
「ダーウィンを出た経路と、オーストラリア側の状況を話したと思われます。本国との通信が途絶していること。GPSが消失していること。あの朝から同じ状況を経験していること」
「それは伝えていい情報か」
「隠す理由がありません。むしろ情報共有が今後の協力の前提になります」
次官は頷いた。「了解した。少佐には、日本側と率直に情報交換するよう伝えろ。ただし帰還の見通しが立つまでは、日本での行動に注意するよう指示を出せ。連絡手段は」
「現時点では、少佐が持つ機体の通信装置経由が最善です。ただし日本の管制下にあります」
「それでいい。信頼関係の構築が最優先だ」
────
同日 首相官邸地下 危機管理センター
「パイロットの聴取結果が届きました」
藤堂が言った。「マクブライド少佐の証言です。ダーウィンを出て北東に飛行したら日本に来た。本国との通信は途絶している。あの朝から同じ状況を経験している。以上です」
「星座データは」
「取得しました。十六夜さんに解析を依頼しています」
「それと」後藤彰浩外務大臣が言った。「在日オーストラリア大使館に連絡を取りました。大使館側も本国との通信が取れていない状態です。ただし、今日の接触については既に把握していました」
「どういうことだ」
「オーストラリア側は、あの朝以降、独自に状況確認を進めていたようです。今日の飛行も、偶発ではなく計画的なものだった可能性があります」
「計画的に飛ばしてきた、ということか」
「可能性として。ただし大使館は本国の指示を受けられていないため、確認が取れていません。在日大使館を通じて情報共有の提案ができるか確認しましたが、大使館の権限で応じられる範囲には限りがあります」
「本格的な情報共有には」
「政府同士の合意が必要です。今の段階では段階として早い。ただし、軍同士の非公式な接触という形なら、今の段階でも可能かもしれません」
黒崎は少し間を置いた。「防衛省に確認しろ。自衛隊とオーストラリア軍の間で、非公式な情報共有が可能かどうか。可能なら、どういう形が適切か」
「了解です」
「今日来たパイロットは、今後どうする」
「当面、築城基地で待機させます。本国との通信が回復するまでは、帰還させる手段がありません」
「生活の面倒を見ろ。敵対的に扱うな。ただし、情報の扱いには注意しろ」
「了解です。マクブライド少佐は、自らの証言が日本の判断に役立つなら話す意思があると言っています」
「それはありがたいが、今は情報の整理が先だ。急がせるな」
────
同日 研究室 十六夜さくら
「面白いですね」
十六夜は星座データを見ながら言った。
「今日は何が面白いんだ」赤城蓮人が聞く。
「マクブライド少佐の飛行記録から、飛行中の観測データを取り出しました。星の位置です」
「それで何が分かる」
「地球上のどの位置にいるかを、星の見え方から逆算できます。ただし、どの位置にもぴったり合わない場合は、別のことが分かります」
「別のこととは」
「この惑星が、地球ではない可能性があります」
赤城は黙った。
十六夜は画面を見ながら続けた。「星は地球の星です。同じ宇宙にいます。ただし、星座の見え方が地球上のどの緯度からの観測とも一致しません。オーストラリアが南半球にあるなら、南半球の見え方になるはずです。日本が北半球にあるなら、北半球の見え方になるはずです。でもこのデータは、どこにも一致しない中間的な見え方をしています」
「つまり」
「惑星のサイズが地球と異なるか、赤道傾斜角が異なるか。あるいはその両方か。それによって、同じ宇宙でも、同じ星の見え方が変わります。この惑星は地球と同じ宇宙にあります。ただし、地球とは異なる惑星である可能性があります」
「……どのくらいの確度で言えるのか」
「数値では言えません。ただし、地球上の既知のどの緯度とも一致しないというのは確認できています。それだけは断言できます」
「……それを官邸に上げるか」
「上げる必要があります。ただし言葉は慎重に選んでほしい」
「どう言う」
「"星座データが、地球上の既知のどの緯度とも一致しない"。それだけです。この惑星が地球ではないとは言わない。地球と同じ宇宙にあることは確認できている。そこまで言えば十分です」
赤城は少し間を置いた。「……それがどういう意味を持つか、分かった上で言うのか」
「分かった上で言います。知っている側が黙っていれば、知らない側は違う前提で動き続ける。それの方が危険です」
「了解した。官邸に上げる」
────
同日 官邸地下 夕方
「星座データの解析結果が出ました」
十六夜が報告する。「マクブライド少佐の飛行記録から取得した星座データが、地球上の既知のどの緯度からの観測とも一致しません。同じ宇宙にあることは確認できます。ただし、地球上の既知の位置にいる可能性は大幅に低下しています」
室内が静まった。
「"地球上の既知の位置にいない"ということか」
「地球上の既知の位置にいる可能性が低い、ということです。断定はできていません」
「それは、どういう意味になるのか」
十六夜は少し間を置いた。「この惑星が、地球と同じ惑星ではない可能性があります。同じ宇宙にある、別の惑星にいる可能性があります」
別の惑星。
その言葉が、部屋の中に落ちた。誰も声を上げなかった。誰も否定しなかった。それは否定したくても否定できない言葉だった。
白瀬が言った。「"可能性がある"で固定。断定はしない。今の段階で確認できる表現に留める」
「了解です」
「断定か」黒崎が確認する。
「断定ではありません。可能性として、現時点で排除できない、ということです」
「それで足りるか」
「足ります」
「ならいい」
黒崎は少し間を置いた。「今日分かったことは、以上か」
「以上です」
「整理しろ。今日の段階で確認できた事実を一つずつ言え」
「一、オーストラリア空軍機が北から接触してきた。二、オーストラリアもあの朝から同じ状況を経験している。三、ダーウィンから北東に飛んで日本に来た。地球の地図では説明できない経路だ。四、星座データが地球上の既知のどの緯度とも一致しない」
「つまり、私たちがいる惑星は、地球ではないかもしれない」
「可能性として」
「"かもしれない"という段階だな」
「はい」
黒崎は頷いた。「急ぐな。だが止まるな」
────
同日 夜 官邸廊下
相馬は廊下で立ち止まった。
別の惑星。その言葉が、頭の中で繰り返されていた。
別の惑星にいる。だとすれば、日本はどうなるのか。食料は。エネルギーは。資源は。日本は国内で完結できない国だ。石油の自給率はほぼゼロ。LNGも石炭も輸入依存。食料自給率は四割を切る。それらはすべて、「世界と繋がっている」ことを前提に成立している。
世界が繋がっていない場合、どうなるのか。
今日の段階では、その問いを公式に立てることができない。立てれば、答えを出さなければならなくなる。答えを出せば、対処しなければならなくなる。対処するには、まず「何が起きているか」を確定させなければならない。確定させるための前提が、今日まだない。
だから今日は立てない。
だが、明日以降、立てずに済む時間は長くない。
相馬はメモ帳を出して、一言だけ書いた。
「輸入依存」
それだけだ。今日のところは、それだけでいい。
別の惑星。別の惑星にいるなら、これまで輸入してきた国々は、この惑星のどこにいるのか。あるいは、いるのか。
問いは重なる。だが今日は立てない。
廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。
だが今夜、その音が少し遠く聞こえた。
◆キャンベラ(国防省)
オーストラリアの首都キャンベラにある国防省。オーストラリア国防軍(ADF)の最高指揮機関。日本の防衛省に相当する。
◆日豪の安全保障協力
日本とオーストラリアは緊密な安全保障協力関係を持つ。共同訓練、情報共有、装備品の相互運用性確保など幅広い協力が行われている。平時にはIFFの識別コードを共有しており、互いの軍用機を「味方」として識別できる体制にある。
◆「沈黙を守る国」と「沈黙を測る国」
日豪の姿勢の対比。日本は確認できないものに名前を付けず沈黙を保つ。オーストラリアは沈黙そのものを確認しようとする。どちらが正しいかではなく、国家の性質の違いとして描かれている。
◆星座照合
特定の星の高度角を測定し、時刻と組み合わせることで位置を割り出す天文航法の手法。今回「星座の見え方が地球上のどの緯度とも一致しない」という結果は、惑星のサイズや赤道傾斜角が地球と異なることを示唆している。




