陸の戦い
戦い再び 初日 午後 豪州北岸 海岸線
カーターは、北岸の海岸線に、いた。
亡命艦隊から、通信が入っていた。三隻、突破。北岸へ、向かう。——カーターは、その報せを受けて、海岸の防衛線に着いていた。
豪州軍の、部隊が、展開していた。この半年、後方支援に徹してきた豪州軍が、初めて前線に立っていた。
「来ます」部下が言った。「三隻。——上陸艇を、下ろしています」
カーターは、双眼鏡を、覗いた。
敵艦から、小型の舟が、次々と下ろされていた。その舟に、兵が、乗り込む。剣と、旧式の火薬の武器を持った、ヴァルタの兵が。上陸の、部隊だった。
数えると、一隻の敵艦から、十以上の上陸艇。三隻なら、三十を、超える。一艇に、数人。合わせれば、二百に届くかもしれなかった。
カーターの手元の部隊は、五十ほどだった。北岸の防衛に配された、数少ない兵力。この半年、実戦は、なかった。後方で、亡命艦隊に弾薬と水を送るのが、仕事だった。その部隊が、いま、四倍の敵と向き合おうとしていた。
「初めてだな」カーターは、呟いた。「陸で、あいつらと、やり合うのは」
半年、この戦争を、見てきた。だが、常に、海の上の出来事だった。亡命艦隊と、本国艦隊の撃ち合い。豪州は、後ろから支えるだけだった。手を、汚さずに、済んでいた。——だが、いま、敵は豪州の大地に足をかけようとしていた。もう、後ろには、いられなかった。
この半年、戦いは、海の上にあった。艦と、艦の、撃ち合い。だが、いま、敵は陸に上がってこようとしていた。カーターたちの、足元の、この大地に。
「撃ち方、用意」カーターは言った。
豪州軍の小銃が、海岸に並んだ。F88オーステア。ブルパップ式の、五・五六ミリ。この半年、後方支援に徹してきた兵たちの手に、握られていた。ヴァルタの、剣と黒色火薬の武器とは、比べ物にならない性能。
だが、数が、多かった。
上陸艇は、次々と下ろされ、兵を乗せて海岸へ向かってくる。一隻の敵艦から、何十もの兵。三隻なら、百を超える。それが、押し寄せてくる。
「まだだ」カーターは言った。「引きつけろ。——射程に、入るまで、待て」
上陸艇が、近づいてくる。ゆっくりと、だが、確実に。漕ぎ手のヴァルタ兵の顔が、見えるほどになった。日焼けした、精悍な、顔。剣を握りしめ、上陸の瞬間を、待っている。
「撃て」カーターは言った。
バババッ——バババッ——。
F88が、一斉に、火を噴いた。バババッ、と、五・五六ミリ弾が、海岸に迫る上陸艇に降り注ぐ。ヒュッ、ヒュッと、着弾が水面を跳ねる。ミニミ軽機関銃も、加わった。ダダダダッ、と、毎分数百発の連射。数隻の上陸艇が、砕けた。木片が、飛び散る。兵が、海に投げ出される。ザブン、ザブンと、水音が続いた。
一斉射で、数艇を潰した。
だが、止まらなかった。
砕けた舟の間を縫って、別の舟が来る。撃たれても、撃たれても、後ろから来る。数の、暴力だった。ヴァルタ兵は、恐れなかった。仲間が撃たれても、怯まず漕ぎ続けた。彼らには、彼らの、戦い方があった。数で押し、上陸し、剣で決める。——その戦法を、彼らは、信じていた。
そして、その戦法は、数さえあれば通用した。
────
海岸の、戦いは、激しかった。
ズドンッ——。
八一ミリ迫撃砲が、火を噴く。後方から、放物線を描いて、砲弾が飛ぶ。着弾。ズガンッと、砂と火柱が上がる。上陸した兵の一団が、吹き飛んだ。だが、その隙に、別の一団が海岸に取りつく。剣を、抜いて。喚声を、上げて。
バババッ——。
銃火が、その一団を、薙ぐ。倒れる。だが、後ろから、また、来る。
近代兵器の性能は、圧倒的だった。五・五六ミリ弾は、初速、毎秒九百メートル。一発が、確実に敵を倒す。ヴァルタの兵は、剣しか持たない。小銃の前に、剣は無力だった。斬りかかる前に、撃たれて倒れる。——一対一なら、勝負にすら、ならなかった。
だが、数が。
倒しても、倒しても、次が来る。海岸には、上陸した兵が、じわじわと増えていった。豪州軍は、性能で圧倒しながら、数で押されていた。
一人のヴァルタ兵が、弾幕をかいくぐり、豪州兵に肉薄した。剣を、振り上げる。シャッ、と、白刃が、閃く。豪州兵が、間一髪、身をかわす。バン、と、小銃を、至近距離で撃つ。ヴァルタ兵が、倒れた。
だが、その豪州兵の後ろから、別のヴァルタ兵が迫っていた。
「後ろだっ」カーターが、叫んだ。豪州兵が、振り向く。遅い。剣が振り下ろされる——寸前、カーターのF88が火を噴いた。バン。ヴァルタ兵が、崩れ落ちる。
危うかった。
近代兵器は、強い。だが、接近戦に持ち込まれれば、その優位は薄れた。小銃は、遠くの敵には、強い。だが、剣を持った敵に懐に入られれば、一対一の殺し合いになる。そして、数で劣る豪州軍は、一人が数人を相手にしなければならなかった。
戦線は、じわじわと、後退した。海岸の砂浜を、一歩、また一歩と、明け渡しながら。
カーターの部隊は、よく戦った。一人が数人を相手にしながら、それでも崩れなかった。訓練された近代軍の練度が、辛うじて、数の差を埋めていた。
だが、それにも限界が、あった。
一人の豪州兵が、倒れた。剣を、受けたのだった。仲間が駆け寄り、引きずって後退する。医療班が、応急手当をする。——だが、その間も、敵は迫ってくる。一人倒れれば、その分、火力が減る。火力が減れば、押される。押されれば、また倒れる。
悪循環だった。
「弾を、節約しろ」カーターは、命じた。「一発で、確実に倒せ。——無駄撃ちする、余裕は、ない」
だが、それは、酷な命令だった。迫りくる敵を前に、狙いを定める余裕など、なかった。撃たなければ、斬られる。撃てば、弾が、減る。——兵たちは、その板挟みの中で、引き金を引き続けた。
カーター自身も、F88を、取った。指揮官が、前線で、小銃を握る。それは、戦線が、それだけ切迫している証だった。
バン、バン、と、カーターは、撃った。迫る敵を、一人、また一人と、倒す。だが、倒しても、湧いてくる。海岸には、上陸した敵が、もう百を超えていた。
「弾は」カーターが、聞いた。
「消耗が、激しいです」部下が言った。「この、ペースだと——」
部下は、言葉を、濁した。だが、その濁した先を、カーターは聞かずとも分かった。
一時間の戦闘で、想定の三倍の弾を、使っていた。当然だった。倒しても倒しても来る敵に、撃ち続ければ、弾は、飛ぶように消える。だが、この惑星に、豪州の弾を作れる工場はなかった。撃った分は、戻らない。
豪州も、日本と、同じだった。「あの朝」以前、豪州の軍需は、多くを輸入に頼っていた。F88の小銃本体は、タレスの工場で自国生産していた。だが、その大元の設計は、海の向こうの国のもの。弾薬の原料も、部品も、多くが海外からの供給だった。その供給元が、いま、この惑星のどこにあるか分からない。手元にあるのは、「あの朝」に、この惑星へ持ち込まれた分だけ。それが、尽きれば、終わりだった。
カーターは、頭の中で、計算した。このペースで、あと、どれくらい戦えるか。——長くは、ないだろう。数時間。あるいは、一日。それで、弾は底をつく。底をつけば、豪州軍は、剣を持った敵と素手同然で向き合うことになる。
このペースで撃ち続ければ、弾が尽きる。性能で勝っていても、弾が尽きれば、終わりだった。F88も、ミニミも、弾がなければ、ただの鉄と樹脂の塊になる。どれだけ精密で、どれだけ高性能でも、弾がなければ、ヴァルタの剣にすら劣る、ただの棒に。
その現実が、カーターの背筋を冷やした。
半年、豪州は、この戦争を支えてきた。亡命艦隊に、弾薬と水を、送り続けた。その豊富な補給が、亡命艦隊を支えた。——だが、その補給は、無限ではなかった。ただ、これまでは、豪州が直接撃たなかったから、目立たなかっただけだった。
いま、豪州が直接撃ち始めて、その有限さが牙を剥いた。撃てば、減る。減れば、戻らない。——半年、支え続けた、その豊富さの底が、見え始めていた。
これは、豪州だけの問題では、なかった。この惑星に来てしまった、全ての近代国家の問題だった。高い技術で作られた、兵器。それを、支える、補給。その補給の源が断たれたとき。近代兵器は、ただの精巧な鉄の塊に、なる。
海岸の後方には、集落があった。
北岸の、小さな町。漁と牧畜で暮らす、人々の町。この半年、戦いは海の上にあり、その町は、遠くの砲声を聞くだけだった。だが、いま、戦いはその町の目の前に迫っていた。
避難は、始まっていた。町の人々が、荷物をまとめ、内陸へ逃げていく。老人。子供。家財を抱えた、女たち。——この半年、遠くの戦争だと思っていたものが、突然、彼らの家のすぐそばまで来た。
だが、間に合うか、分からなかった。避難には、時間がかかる。道は、一本。人々は、徒歩か、荷車。速くは進めない。上陸した敵が町に達すれば——カーターは、その先を考えたくなかった。
ヴァルタ兵が、町で何をするか。それは、分からなかった。彼らが、残虐だとは限らない。だが、戦場になった町で、民間人が無事で済む保証もなかった。流れ弾。混乱。剣を持った兵と、逃げ惑う人々。——想像したくない、光景だった。
守らなければならない。この町を。この、人々を。彼らは、戦っていない。ただ、そこで、暮らしていただけだった。漁をし、家畜を飼い、静かに生きていただけだった。その人々を、戦火に巻き込むわけには、いかなかった。
だが、弾が、尽きかけていた。
避難の列の中に、一人の老人が、いた。この北岸で生まれ、この北岸で漁をして生きてきた、老人だった。「あの朝」も、この地で、迎えた。世界が変わったあとも、老人は、変わらず海に出ていた。魚は、獲れた。海は、変わらず、恵みをくれた。
その海から、いま、見知らぬ兵が上がってきた。剣を、持って。老人には、なぜ彼らが攻めてくるのか、分からなかった。政治も、戦争も、遠い話だった。老人は、ただ漁をして生きてきただけだった。
「なぜ、わしらが」老人は、逃げながら呟いた。「なぜ、わしらの、町が」
答えは、なかった。戦争は、いつも、戦っていない者を巻き込む。遠くの机が始めた戦争が、海を越え、この静かな漁村まで届いていた。老人は、家財を荷車に積み、住み慣れた家をあとにした。振り返ると、海岸の方から、煙が上がっていた。
その煙を、老人は長く見ていた。そして、また前を向いて、歩き出した。逃げるしか、なかった。守ってくれるはずの兵たちも、数に押されていた。老人にできるのは、ただ、逃げることだけだった。
「本国に——東京に、伝えろ」カーターは言った。「豪州単独では、この戦線を支えきれない。——日本の、参戦を要請する、と」
日本の、参戦。
この半年、日本は、直接の戦闘を避けてきた。憲法の、制約で。だが、いま、豪州の北岸が破られようとしていた。この土地の民が、危険にさらされていた。
カーターは、日本とこの半年、共に歩んできた。赤城とは、幾度も、語り合った。日本の装備は、優秀だった。日本の部隊が加われば、この戦線は、変わる。押し返せるかもしれない。町を守れるかもしれない。
カーターは、日本が来てくれることを、願った。
だが、同時に、知っていた。日本には、日本の事情があることを。憲法という、動けない理由があることを。
赤城から、聞いていた。日本は、戦後、武力の行使を、厳しく自らに禁じてきた、と。他国のために戦うことは、さらに難しい、と。——それが、日本という国の形だった。半年、共にいて、カーターはその形を理解していた。理解していたが、いまは恨めしかった。
「来て、くれるか」カーターは、呟いた。「あんたたちの、法が。——それを、許してくれるか」
海岸の向こうで、敵の兵が、また一団上陸した。
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同日 夜 ダーウィン基地
赤城のもとに、豪州からの要請が、届いた。
正式な、参戦要請だった。豪州北岸に、敵が上陸。豪州単独では、支えきれない。日本の、参戦を、求める。——文面は、短く、そして切迫していた。
赤城は、その文面を、読んだ。
半年前、赤城は、言った。この土地の民が攻撃されるとき、共にいる日本人が何もしない、という選択は、できない、と。いま、その攻撃が、始まっていた。この土地の民が、現に攻撃されていた。
だが、赤城には、分かっていた。
日本は、簡単には、動けない。憲法がある。自衛隊法がある。他国のために戦うことを、日本の法は、厳しく縛っていた。——赤城が、いくら動きたくても、動くための法的な根拠が要った。
赤城は、東京へ報告を送った。豪州から、正式な参戦要請。北岸に、上陸。豪州単独では、支えきれず。——日本は、どこまで動けるか。東京の、判断を仰ぐ。
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同じ夜 東京 官邸
赤城の報告は、東京の官邸に届いた。
深夜の、会議が、招集された。防衛の担当者。外務の担当者。法制の専門家。そして、経済安全保障の遠野も、呼ばれた。
議題は、一つ。——豪州の、参戦要請に、応えられるか。
「結論から、言います」法制の担当者が言った。「本格的な参戦は、極めて難しい。——防衛出動、つまり、自衛隊が武力を行使して戦うには、法律の定める事態に該当する必要が、あります」
「該当、しないのか」
「二つの、事態が、あります」担当者は言った。「一つは、武力攻撃事態。日本そのものが攻撃された場合です。——今回、攻撃されているのは、豪州であって、日本ではありません。これには、当たりません」
「もう一つは」
「存立危機事態です」担当者は言った。「日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が、発生し、それによって、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が、根底から覆される、明白な危険がある事態。——これに該当すれば、防衛出動が可能です」
「豪州は、密接な関係にある、他国だ」桧山が言った。「この惑星で唯一、手を繋げている国だ」
「密接な関係、までは、認められるかもしれません」担当者は言った。「ですが、問題は、その先です。——豪州が攻撃されたことで、日本の存立が脅かされ、国民の権利が、根底から覆される、明白な危険が、あるか。そこまで、言えるか」
会議室が、静かになった。
「言えるか、どうかは」担当者は言った。「政府が、認定します。ですが、認定には、慎重さが要ります。——豪州の北岸に、敵が上陸した。それだけで、日本の存立が脅かされている、と言えるか。まだ、日本本土は、攻撃されていない。日本国民の大半は、平穏に暮らしている。——この状況で、存立危機事態と認定するのは、法律上、容易ではありません」
「では」桧山が言った。「日本は、動けない、と」
「本格的な参戦は」担当者は言った。「難しい。——ですが、もう一つ道が、あります。在外邦人等の、保護措置です」
「ダーウィンには」遠野が言った。「日本人が、います。この半年、豪州と共に暮らしてきた、日本人が。基地の関係者。技術者。——彼らを保護するためなら、部隊を送れるのでは」
「送れます」担当者は言った。「在外邦人等の保護措置。自衛隊が、外国で危険にさらされた日本国民を守るために、部隊を派遣する。——これなら、防衛出動より、要件は緩い。ですが」
担当者は、そこで言葉を切った。
「ですが、この措置にも、厳しい条件が、あります」担当者は言った。「その一つが——保護を行う場所で、戦闘行為が行われることがないと認められること。これが、要件です」
「戦闘行為が、ない、こと」桧山が繰り返した。
「そうです」担当者は言った。「邦人保護は、あくまで保護です。戦闘をするための派遣では、ありません。だから、戦闘が行われている場所には、原則送れない。——ですが、いま、ダーウィンの北岸では、まさに戦闘が行われています」
会議室が、静まった。
「つまり」桧山が言った。「いちばん危険な、戦闘のある場所には——邦人保護という名目でも送れない、と」
「法律上は、そうなります」担当者は言った。「戦闘が収まっている後方でなら、邦人を保護し、退避させることは、できます。ですが、戦闘の只中に部隊を送り込んで、共に戦う。——それは、邦人保護の枠を超えます」
遠野は、その説明を聞きながら、奇妙な矛盾を感じていた。
いちばん助けが要る場所。いちばん危険な場所。そここそが、法律上、日本が手を出せない場所だった。安全な後方でなら、動ける。だが、安全な場所には、そもそも助けは要らない。——法は、日本の手を、いちばん要るところで縛っていた。
「では」桧山が、静かに言った。「日本にできることは」
「限られています」担当者は言った。「後方支援。物資の提供。邦人の退避。——それが、いま、法律の枠内でできる精一杯です。前線に出て、豪州と共に戦う。それは、できません。少なくとも、現行法のままでは」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
「一つ、確認したい」遠野が言った。「この法律は——『あの朝』の前に作られたものだ。同盟国がいて、輸入元があって、日本が独りではなかった頃の。——その前提が、いま、全部崩れている。それでも、法律はそのまま生きている、ということか」
「生きています」担当者は言った。「法律は、状況が変わったからといって、自動的には変わりません。変えるには、国会での議論と手続きが要ります。——いまの日本は、『あの朝』以前の法律で、『あの朝』以後の世界に対応しようとしています。その、ずれが、こういう場面で噴き出す」
遠野は、その言葉を、心に刻んだ。「あの朝」以前の法律。同盟を前提にした法律。輸入を前提にした国防。——その全ての前提が崩れた世界で、日本は、古い枠組みのまま、立ち尽くしていた。
「今夜の結論は」官邸の、責任者が言った。「後方支援と、邦人退避の、準備。前線への部隊派遣は、見送る。——現行法では、それが、限界だ」
誰も、反論しなかった。反論の余地が、なかった。法が、そう、定めていた。
だが、遠野は、この夜を忘れまいと思った。
日本は、隣人を、助けられなかった。助けたくても、法が許さなかった。弾も、足りなかった。同盟も、なかった。——三つとも、欠けていた。この三つを揃えなければ、日本は、この惑星で生き延びられない。そして、隣人を守ることも、できない。
法を、変える。弾を、作れるようにする。同盟に代わる自立を、築く。——どれも、一夜では、できない。何年も、かかる。だが、始めなければ、ならなかった。今夜の、この無力を、二度と繰り返さないために。
「一つ、提案が、あります」遠野は言った。「今夜のことを、記録に残すべきです。日本が、なぜ動けなかったか。何が足りなかったか。——それを明確にして、国防の根本的な見直しの、出発点にする。同盟なき世界での防衛。輸入なき世界での装備。——それを考え始めなければ、次も、また動けない」
責任者は、頷いた。
「記録に、残そう」責任者は言った。「そして、見直しを始める。——遅すぎた、かもしれん。だが、始めなければ、もっと遅くなる」
その夜、東京では、日本の国防を根本から問い直す最初の一歩が、記された。隣人の、血の、代償として。
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同じ夜 ダーウィン基地
赤城は、東京の判断を待っていた。だが、待つ間も、戦況は進んでいた。北西の海を、赤城は、見た。
海の向こうで、豪州の兵が、戦っていた。この半年、共に歩んできた、隣人が。その隣人が、いま、数に押されて崩れかけていた。
助けたい。だが、日本の法は、それを簡単には許さない。
日本が、他国のために武力を行使できるのは、極めて限られた場合だけだった。日本自身が攻撃されたとき。あるいは、日本と密接な国が攻撃され、それによって、日本の存立が脅かされる明白な危険があるとき。——それ以外では、動けない。豪州が攻撃されている、というだけでは足りなかった。
そして、たとえ邦人を保護するためであっても、戦闘が行われている場所には、原則、部隊を送れなかった。法が、そう、定めていた。——皮肉なことだった。いちばん危険な場所、いちばん助けが要る場所にこそ、法が日本の手を縛っていた。
赤城は、その法を恨みは、しなかった。法は、理由があって、そこにある。戦後の日本が、慎重に、慎重に積み上げてきた、歯止めだった。
その歯止めは、意味のある、ものだった。武力を簡単に使える国は、簡単に戦争に踏み込む。日本は、その轍を踏まないために、自らの手を縛った。二度と、あの戦争を、繰り返さないために。——その選択を、赤城は、間違いだとは思わなかった。日本人として、その歴史の重みを知っていた。
だが、その歯止めが、いま、目の前の隣人を見捨てさせようとしていた。
半年、共に、生きてきた。豪州は、行き場のない亡命艦隊を、迎えた。日本も、迎えた。三者で、この海を、守ってきた。「私たち。あなたたち。戦わない」——その言葉を、共に、掲げてきた。
その豪州が、いま、血を流している。助けを、求めている。だが、日本は、動けない。過去の戦争への反省から作られたその法が、いまの、目の前の隣人を助けることを、阻んでいた。
過去の反省が、現在の隣人を見捨てさせる。——その皮肉に、赤城は、立ち尽くした。
赤城は、その、もどかしさの中に立っていた。
海の向こうの砲声が、夜風に乗って、微かに届いた。
その砲声は、豪州が、まだ戦っている証だった。
だが、いつまで戦えるかは、分からなかった。豪州の弾が尽きるのが、先か。日本が、動ける道を見つけるのが、先か。——時間は、豪州の味方では、なかった。
赤城は、思った。この状況は、遅かれ早かれ来るものだったのかもしれない、と。
「あの朝」、世界は、この惑星に移された。同盟国は、見えなくなった。輸入元は、断たれた。日本と豪州は、独りきりで、この惑星に立たされた。——その時点で、日本の国防の前提は、崩れていた。ただ、これまで、直接の戦闘がなかったから、その崩れが表に出なかっただけだった。
いま、初めて、日本は、独りで隣人を守るかどうかを問われていた。同盟の傘も、輸入の補給も、ない状態で。そして、その問いに、日本の古い法は、答えを持っていなかった。
助けるための法が、なかった。助けるための弾も、限られていた。助けるための同盟も、消えていた。——三つとも失った状態で、日本は、隣人の悲鳴を聞いていた。
日本が動けるかどうかも——まだ、分からなかった。
だが、赤城には、一つ、確かなことがあった。この夜が、日本の国防を根本から問い直す始まりになる、ということだった。同盟に、頼れない。輸入に、頼れない。古い法では、動けない。——その現実を、日本は、もう見ないふりをできなかった。
隣人の血が、それを突きつけていた。
赤城は、北西の海を、見続けた。
砲声は、まだ、続いていた。




