二度目の帆
退却から 四十日後 ヴァルタ本国 評議会
第二次遠征は、評議会で、決まった。
決まるまでには、長い、議論があった。一度目の遠征は、失敗した。二十三隻のうち、一隻を失い、切り札を潰され、技術者を一人、奪われた。港は、落とせなかった。艦隊は、退いた。——それは、本国が久しく経験していない、敗北だった。
本国は、強い国だった。この惑星の海を、長く支配してきた。帆船を操る技は、どこの国よりも、優れていた。火薬を扱う技も、進んでいた。——その本国が、名も知らぬ遠い海の、小さな勢力に退けられた。
その事実が、本国の誇りを傷つけた。
傷ついた誇りは、二つの反応を生む。一つは、傷を見つめ、なぜ傷ついたかを学ぶこと。もう一つは、傷を見ないふりをして、傷つけた相手を、より強く叩くこと。——本国が、どちらを選ぶか。それが、この評議会に、かかっていた。
敗北は、本国に、二つの声を生んだ。一つは、退くべきだ、という声。理解できない相手に深入りするのは、危険だ、という慎重派の声。もう一つは、二度目を、送るべきだ、という声。一度の敗北で退けば、侮られる、という強硬派の声。
慎重派は、少数だった。オルグを、中心とした、数人。彼らは、一度目の奇妙な敗北に、不気味なものを感じていた。数で勝り、装備で勝り、切り札まで用意して、なお負けた。——その敗北の理由が分からないことに、慎重派は、恐れを抱いていた。
強硬派は、多数だった。彼らは、単純に、考えた。負けたのは、油断したからだ。奇策に、たぶらかされたからだ。次は、油断せず、数で押し潰せば、勝てる。——理解できない、という、慎重派の懸念を、彼らは、弱腰と、切り捨てた。
その二つが、評議会で、ぶつかった。
一度目の失敗は、本国を動揺させた。切り札を失い、艦隊は退いた。技術者は、寝返った。——だが、その動揺は、慎重派の望んだ方向には進まなかった。
強硬派は、失敗を、逆手に取った。
「一度の敗北で、退けば」強硬派の一人は言った。「あの海は、我々を、侮る。侮られれば、次は、こちらの海が脅かされる。——ここで、退いてはならん。二度目こそ、確実に、落とす」
その強硬派は、評議会でも力を持つ、古参の一人だった。名を、ガルド、といった。長く、軍を、束ねてきた男だった。彼にとって、敗北は、あってはならないことだった。敗北を認めることは、彼が束ねてきた軍の無力を、認めることだった。
「考えても、みろ」ガルドは言った。「我々は、この惑星の、海を、支配してきた。その我々が、名も知らぬ小さな勢力に退けられた。——この報せが、広まれば、どうなる。他の海の勢力が、我々を侮り始める。侮りは、やがて、反抗になる。反抗は、やがて、我々の海への、侵略になる」
ガルドは、評議員たちを、見渡した。
「一度目の敗北は」ガルドは言った。「取り返さねば、ならん。取り返さなければ、あの敗北は、次々と、我々の足元を崩していく。——だから、二度目を、送る。そして、確実に、勝つ。勝って、我々が依然として強いことを、示す」
オルグは、反対した。
「一つ、問いたい」オルグは言った。「なぜ、我々は、負けたのか。数では、勝っていた。装備でも、劣っていなかった。切り札も、あった。——それでも、負けた。なぜだ」
ガルドは、答えなかった。
「油断だ、と言うのだろう」オルグは言った。「奇策に、たぶらかされた、と。——だが、それは、答えに、なっていない。どんな奇策だったのか。なぜ、その奇策に、我々の技術者が寝返ったのか。それを説明できなければ、油断という言葉は、ただの逃げだ」
評議会が、ざわついた。
技術者の、寝返り。それは、本国にとって、いちばん触れたくない傷だった。本国が、最も信頼した、六人の技術調査員。その一人が、敵に寝返った。撃たれて、捕まったのでは、ない。自ら切り札を潰し、敵の側へ渡った。——それは、油断では、説明できなかった。
「答えられまい」オルグは言った。「我々は、なぜ負けたかを理解していない。理解していないのは、負けた理由が、数でも、装備でも、切り札でも、ないからだ。——別の、何かだ。その別の何かを、我々は、まだ掴んでいない」
オルグは、懐から、一枚の紙を取り出した。
技術者の、名が、書かれた紙だった。ナサ、という名。寝返った、技術者の名。オルグは、この半月、その名を、机の引き出しにしまい、時々、取り出しては眺めていた。
「この男は」オルグは言った。「本国最奥の、技術者だった。火薬を扱わせれば、右に出る者のいない男だった。忠誠も、篤かった。——その男が、寝返った。なぜだ。金か。恐怖か。恨みか。——違う。どれも、違う」
オルグは、その名を、見た。
「この男が、寝返った理由を」オルグは言った。「私は、一つしか、思いつかない。——あの海に、この男を寝返らせる、何かがあった。金でも、恐怖でも、恨みでもない、何か。我々が、持っていない、何か。——その何かを理解せずに、二度目を送れば。二度目の艦隊からも、また、寝返る者が出るかもしれん」
評議会が、静まった。
寝返りが、また、起きる。——それは、強硬派も恐れる、可能性だった。
「なぜ、あの海が、我々の技術者を奪ったのか」オルグは続けた。「それを理解する前に、二度目を送るのは、危険だ。理解できない相手に同じ手で挑めば、また、同じ結果になる。——数を増やしても、同じだ。理解できない、より大きな敗北になるだけだ」
「理解など、要らん」ガルドは言った。「奇策に、たぶらかされただけだ。二度目は、油断しない。数で押し潰す。——それだけのことだ」
「一人の寝返り者の名を」ガルドは、オルグの手の紙を見て言った。「後生大事に、持ち歩くとは。——オルグ殿。あなたは、その男に、たぶらかされている。敵の、工作だ。一人を寝返らせ、我々を動揺させる。——その手に、乗ってはならん」
「工作なら」オルグは言った。「なぜ、その男は、切り札を潰した。工作のために寝返ったふりをするなら、切り札は潰さず、我々の情報を探る方が、有効だ。——だが、この男は、切り札を潰した。自らの手で。それは、工作では、ない。本気だ」
「本気で、寝返った、と」
「本気で、寝返った」オルグは言った。「そして、本気で寝返らせる何かが、あの海にあった。——それを、我々は、恐れるべきだ。侮るのでは、なく」
だが、その言葉は、評議会に届かなかった。
技術者の寝返りという触れたくない傷をオルグが突いたことで、評議会は、かえって頑なになった。傷を見つめるより、傷を忘れるために、勝利を欲した。二度目の、勝利で、一度目の、屈辱を、上書きしたい。——その欲求が、評議会を支配した。
評議は、強硬派に、傾いた。
オルグの言葉は、正しかった。だが、正しさは、評議会を動かさなかった。評議会を動かしたのは、恐れだった。負けを認めることへの、恐れ。侮られることへの、恐れ。——理解より、恐れの方が、強かった。
政治とは、そういうものだった。オルグは、長い政治家としての経験から、それを知っていた。人は、正しいから動くのでは、ない。恐いから、動く。安心したいから、動く。——理解には、時間が、かかる。恐れは、即座に人を動かす。
そして、評議会は、恐れを選んだ。理解する、という時間のかかる面倒な道を、避けて。押し潰す、という、即座に安心できる道を。
一度目の失敗が、かえって、退けない理由になっていた。ここで退けば、敗北を、認めることになる。敗北を、認めたくない。その心理が、評議会を、二度目へと押し出した。
理解できないものを、理解しないまま、より大きな力で押し潰す。——それが、評議会の、選んだ道だった。理解する、という、面倒な道を、避けて。
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評議のあと、オルグは、私室に戻った。
数人の、慎重派が、ついてきた。若い、評議員たちだった。オルグの意見に賛同していた、数少ない者たち。
「オルグ様」若い評議員の一人が言った。「なぜ、あそこで、引かれたのですか。もっと、食い下がれば——」
「食い下がっても」オルグは言った。「変わらん。評議会は、もう、決めていた。私が何を言っても、恐れが勝つ。——言葉で、恐れは、消せない」
「では、どうすれば」
オルグは、しばらく、黙っていた。
「恐れを、消すには」オルグは言った。「理解が、要る。あの海が何かを理解すれば、恐れは、消える。理解できないから、恐い。理解できれば、恐くない。——だが、その理解が、いまの本国には、ない。ないから、恐れが、勝つ」
「理解は、どうすれば、得られますか」
「あの海の者と、話すことだ」オルグは言った。「あの海が、なぜ、我々の技術者を奪ったのか。あの海が、何を積んだのか。——それを、あの海の者の口から聞く。それしか、理解を得る道は、ない」
「ですが、戦争中です。話す、道など——」
「ない」オルグは言った。「いまは、ない。——だが、いつか、できるかもしれん。あの寝返った技術者。あるいは、あの海の、誰か。——両方を知る者が、もし、この本国に来たら。そのときが、理解の始まりになる」
若い評議員たちは、その言葉の意味を、測りかねた。
だが、オルグには、微かな予感があった。あの海は、武力で勝ちながら、なお、こちらに何かを伝えようとするだろう、という予感。——武力で退けるだけなら、それは、ただの勝利だ。だが、あの海は、勝利のその先を狙っている気が、した。
オルグは、その流れを、止められなかった。
止められないまま、オルグは、思った。——これは、理性の判断では、ない。面子の判断だ。負けを認めたくない、という、ただそれだけの。だが、その面子のために、また、二千の乗員が、あの海へ送られる。
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退却から 五十日後 本国 港
第二次遠征の艦隊は、一度目より、大きかった。
三十五隻。一度目の二十三隻を、大きく上回った。今度は、切り札に、頼らない。数で、押す。数で湾口を突破し、そのまま、上陸する。——それが、本国の、立てた策だった。
港には、三十五隻が、並んだ。帆を畳んだ、その姿は、壮観だった。本国の造船所が、この五十日で、作れる限りを作り、集められる限りを集めた。——本国は、この二度目に、本気だった。一度目の、屈辱を、雪ぐために。
五十日。本国は、その間、休まなかった。造船所は、昼も夜も、槌の音を響かせた。新しい艦を造り、古い艦を繕った。火薬を蓄え、砲を鋳た。剣を打ち、兵を集めた。——本国の産業の全てが、この二度目の遠征のために動いた。
それが、本国の、強みだった。本国は、自らの手で、艦を造れた。火薬を、作れた。砲を、鋳られた。撃っても、また作れた。失っても、また、造れた。——本国の矢は、尽きなかった。この惑星の産業を、本国は握っていた。
あの海には、それが、なかった。あの海の者たちは、高い技術を、持っていた。だが、その技術を支える産業を、この惑星に持っていなかった。持ってきたものが、尽きれば、それまでだった。——本国は、その差を、知らなかった。知っていれば、二度目の勝算は、もっと高く見積もれたはずだった。だが、本国は、あの海の内情までは知らなかった。ただ、数で押せば勝てると、信じていた。
本国は、この二度目に、本気だった。一度目の、屈辱を、雪ぐために。
出航の日、港には、多くの民が集まった。艦隊を、見送るために。旗が、振られた。歓声が、上がった。——一度目の、静かな見送りとは違った。今度こそ、勝つ。その期待が、港を満たしていた。
民は、知らなかった。一度目の艦隊が、どんな海へ行ったかを。二千の乗員が、どんな思いで退いてきたかを。ただ、勝利を、期待していた。本国が強いことを、当然と思っていた。
見送りの群衆の中に、一人、旗を振らない者がいた。
一度目の遠征から、生きて帰った、乗員の一人だった。彼は、あの海を、見ていた。撃ち合いながら、退いてきた。彼は、知っていた。あの海が、ただの、敵ではないことを。撃ち合いながら、なぜか憎めなかったことを。
彼は、出航する三十五隻を、複雑な思いで見ていた。あの艦隊は、また、あの海へ行く。あの海で、何を、見るのだろう。自分が見たものを、彼らも見るのだろうか。——彼は、旗を、振れなかった。
だが、その一人の沈黙は、歓声にかき消された。
その期待は、あの海を知らない者の、期待だった。あの海が、何を積んだかを、見ていない者の。
指揮官は、一度目とは、別の男だった。
一度目の指揮官は、退却の責任を負って、閑職に退いた。二千の乗員を生きて帰した、男だった。だが、港を、落とせなかった。本国は、その功を見ず、罪だけを見た。生きて帰したことは評価されず、勝てなかったことだけが、責められた。
ドラフォは——裁きが宙吊りのまま、遠征からは外された。
ドラフォの、裁きは、進んでいなかった。故意の遅延の証拠が、なかったからだ。ドラフォは、命令に、従っていた。ただ、下手に、従っただけだった。下手を、罰する法は、なかった。だが、疑いは、残った。疑いのある者を、遠征に加えるわけには、いかない。——ドラフォは、本国に、留め置かれた。裁かれもせず、放免もされず、宙吊りのまま。
この海を知る者たちが、遠征から外され、知らない者たちが、送られる。
それは、奇妙な、人選だった。この海を、実際に、見た者。この海の恐ろしさを、肌で知る者。——そういう者ほど、二度目の遠征に消極的だった。だから、外された。代わりに、この海を知らない、意気軒昂な者が選ばれた。
ドラフォは、その人選を、本国の片隅で聞いていた。留め置かれた身で、遠征には加われない。だが、加われなくてよかった、とも思った。二度目の遠征は、一度目より無謀だった。理解しないまま、数だけ増やす。——それは、より大きな、敗北への、道だった。
ドラフォは、あの海を、思った。アルセナの、いる海。半年前、戦わない、という道を教えてくれた海。その海に、また、艦隊が向かう。今度は、三十五隻。
「また、あの海が、勝つ」ドラフォは、独りごちた。「そして、また、本国は、理解しないまま、負ける。——何度、繰り返すのだ」
ドラフォには、分かっていた。この繰り返しは、本国が、あの海を理解するまで続く。武力では、終わらない。理解が、始まるまで、終わらない。——だが、その理解を、本国は、拒み続けていた。
新しい指揮官は、この海を見たことが、なかった。
海図の上でしか、知らなかった。海図には、湾口の地形が、記されていた。水深も、岸壁も、奥の平地も。——一度目の技術調査員たちが測った数字が、そこにあった。
指揮官は、その海図を、繰り返し眺めた。数字は、明快だった。ここに艦隊を展開し、ここから湾口を突破する。ここに、兵を、上陸させる。——全てが、計算できた。数字の上では。
指揮官は、若かった。野心も、あった。一度目の失敗を、自分が雪ぐ。それが、彼の出世の階段になる。——彼は、この遠征を、好機と見ていた。
「一度目は、油断した」指揮官は、幕僚に言った。「奇策にたぶらかされ、切り札を潰され、技術者に裏切られた。——だが、それは、指揮が緩んでいたからだ。私は、緩めない。奇策など、通じさせない。数で、正面から、押し潰す」
幕僚の一人が、遠慮がちに、言った。
「一度目の艦隊も」幕僚は言った。「同じことを、考えていた、と聞きます。数で、勝てる、と。——ですが、負けました」
「一度目とは、違う」指揮官は言った。「私は、あの海の報告を、全部読んだ。奇策の、手口も、知っている。同じ手には、二度と、かからん。——それに、三十五隻だ。一度目より、遥かに多い。数が違えば、結果も違う」
「勝てる」指揮官は、そう、確信していた。三十五隻。正確な海図。明快な作戦。——負ける要素が、見当たらなかった。
指揮官は、知らなかった。一度目の艦隊も、同じように、確信していたことを。そして、その確信が、あの海で崩れたことを。
報告書は、奇策の手口を伝えていた。だが、その奇策が、なぜ生まれたかは、伝えていなかった。火船を止めたのが寝返った技術者だったことは、書いてあった。だが、なぜ、その技術者が寝返ったかは、書いていなかった。——指揮官は、手口を知っていた。だが、手口の奥にあるものを、知らなかった。
数字は、正確だった。だが、数字は、あの海の半分しか語っていなかった。
港の水深は、測れた。だが、その港で、二つの文明が水を交わしたことは、測れなかった。岸壁の大きさは、測れた。だが、その岸壁で名を呼び合ったことは、測れなかった。数字は、形あるものを、語る。だが、あの海が、本当に積んだのは、形のないものだった。
一度目の敗北の本当の理由は、そこにあった。本国は、あの海の形あるものを、全部測った。だが、形のないものを、見なかった。見えなかった。——そして、負けた理由が、その見えなかったものにあると気づかなかった。
だから、二度目も、同じ過ちを繰り返そうとしていた。より多くの、艦で。より正確な、海図で。形あるものを、より完璧に測って。——だが、形のないものは、相変わらず、見ていなかった。
数字にならない、もう半分を。新しい指揮官は、知らなかった。知らないまま、三十五隻を率いて、南へ向かった。
同じ、海へ。同じ、過ちへ。
そして、その南で。あの海が、待っていた。数字にならないものを、抱えて。半年、積み上げてきた、その形のないものを。
本国は、二度目も、それを測れないだろう。測れないまま、また、何かを失うだろう。——オルグだけが、それを、予感していた。港で旗を振らなかった、あの乗員だけが、それを恐れていた。
だが、艦隊は、出航した。
三十五の白い帆が、本国の港を離れ、南の水平線へ、消えていった。
港に残ったオルグは、その帆を、最後まで見送った。隣で旗を振らなかった、あの乗員も、同じ帆を見ていた。二人は、互いを、知らなかった。だが、二人とも、同じことを恐れていた。あの帆が、また、理解しないまま、あの海へ向かい、また、何かを失って戻ってくることを。
帆が、水平線に、消えたあと。
オルグは、懐の紙を、もう一度、開いた。ナサ、という名。寝返った技術者の名。オルグは、その名を、しばらく見て、そして、またしまった。
「お前が」オルグは、小さく、呟いた。「もし、この本国に戻ってくることがあれば。——そのときは、私が、話を、聞こう。なぜ、お前が、寝返ったのか。あの海に、何があったのか。——本国で、ただ一人でも、それを聞く用意のある者が、いなければ。理解は、永遠に、始まらない」
その呟きは、誰にも、届かなかった。
だが、海を隔てた、あの海でも。同じころ、一人の男が、同じことを考えていた。本国へ戻り、この海が積んだものを伝えたい、と願う、ナサという名の男が。
二つの願いは、まだ、繋がっていなかった。
だが、同じ方向を、向いていた。




