退けない指揮官
戦い 四日目 朝 本国艦隊 旗艦
火船が、両方とも、失敗した。
その報せが攻撃艦隊の旗艦に届いたとき、指揮官は、しばらく動けなかった。
一隻目は、砲撃で沈められた。港の手前で。それは、想定の範囲だった。火船は、防がれることもある。だから、二隻、用意した。
問題は、二隻目だった。
「二隻目は、なぜ爆発しなかった」指揮官は、聞いた。
副官が、言いにくそうに答えた。
「導火が、切り離されていた、と」
「切り離された。敵にか」
「いえ」副官は言った。「内側から、です。——技術調査員の一人が。自ら導火を切り、そのまま敵の小舟に拾われて、消えました」
指揮官は、その言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
技術調査員。本国最奥から送られた、六人。監察官よりも上に置かれた、切り札の担い手。その一人が、切り札を、自らの手で潰した。そして、敵に、寝返った。
「あり得ん」指揮官は、呟いた。
だが、あり得ないことが、起きていた。そして、起きたことは、もう戻らなかった。
切り札は、なくなった。二隻の火船は、海の底。港は、無事。敵の補給は、断てなかった。
蓄えは、あと、一日分。
指揮官は、初めて、負けを意識した。
この戦いは、最初から、切り札に賭けていた。数の差ではない。地形でもない。火船で、港を焼き、補給を断つ。その一手だけが、勝ち筋だった。海の戦いは、地形と風で、数の差がひっくり返る。それを知る本国が、それでも勝てると踏んだのは、火船があったからだった。
その火船が、なくなった。
賭けの駒が、盤上から消えた。残ったのは、干上がりかけた、二十三隻。地形を知り尽くした敵。陸を背にした、無限の補給を持つ、防衛側。——どこにも、勝ち筋は、なかった。
そして、指揮官を、いちばん苦しめたのは。切り札を潰したのが、敵ではなく、味方だったことだった。本国最奥から送られた、いちばん信頼すべき六人。その一人が、裏切った。この海の、何かに。
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戦い 四日目 昼 本国艦隊 作戦会議
指揮官は、幕僚を、集めた。
選択肢は、二つだった。
一つ、退く。蓄えが尽きる前に、艦隊を本国へ戻す。大敗の記録は、残る。だが、艦隊は、生きて帰れる。
一つ、留まる。蓄えの尽きるまで、攻め続ける。奇跡的に、港を落とせれば、勝てる。落とせなければ、干上がって、全滅する。
「退くべきです」幕僚の一人が言った。「勝ち目は、ありません。切り札を失い、蓄えも尽きる。これ以上留まれば、艦隊ごと失います」
「本国に、何と報告する」別の幕僚が言った。「切り札を、寝返りで失い、戦わずに退いた。——そう報告すれば、我々は、無能の烙印を押される」
「無能でも、生きていれば、次がある」
「生きて、辱められるより、戦って——」
「やめろ」指揮官は言った。
会議が、静まった。
指揮官は、幕僚たちを、見渡した。
「退く」指揮官は言った。「これ以上、干上がる前に退く。——本国には、私が責任を負う。切り札を失ったのも、退いたのも、全部、私の判断だ、と」
会議室が、静まった。
指揮官は、幕僚たちの顔を、順に見た。若い者もいた。歴戦の者もいた。全員が、乾いた唇を、していた。蓄えが減れば、まず、水が惜しくなる。乗員は、皆、渇いていた。渇いたまま、意地で戦えと命じることは、指揮官には、できなかった。
「勝てない戦いで、名誉を守ろうとすれば」指揮官は言った。「守れるのは、私の名誉だけだ。乗員の、命は、守れん。——私は、私の名誉より、乗員の命を選ぶ」
幕僚たちが、顔を見合わせた。
「よろしいのですか」
「よくはない」指揮官は言った。「だが、二千の乗員を干上がらせて、意地を通すより、ましだ。——私一人が無能とされて済むなら、それが、いちばん安い」
指揮官は、退却の準備を命じた。
そのとき、伝令が、駆け込んできた。
「本国から、通信です」
指揮官の、動きが、止まった。
嫌な、予感が、した。
────
本国からの、通信は、短かった。
──退却を、許可せず。攻撃を、継続せよ。港湾の、確保まで、退くこと、罷りならん。
指揮官は、その文面を、二度読んだ。
退却を、許可せず。
「本国は、戦況を分かっているのか」幕僚が言った。「切り札は、失われた。蓄えも、尽きる。この状況で、攻撃継続とは——」
「分かっていないのだ」指揮官は言った。「あるいは、分かっていて、なお退くな、と言っている。——どちらにせよ、机の上の、判断だ」
遠くの、机。
この海を、一度も見ていない、机。そこから、退くな、という命令が来た。
指揮官は、その机を、想像した。本国の、評議会の間。海図の上に駒を並べ、勝敗を論じる者たち。彼らにとって、この二十三隻は、駒だった。渇きも、飢えも、恐怖も、駒には、ない。駒は、命じられた場所に置かれ、命じられるまで、そこにある。退くな、と言われれば、退かない。それが、駒だった。
だが、駒には、家族がいた。名前があった。渇けば、水を、欲しがった。指揮官には、それが、見えた。机には、見えなかった。
見えているものと、見えていないものが、命令を挟んで、向き合っていた。そして、命令を下すのは、見えていない方だった。
「従うのですか」幕僚が言った。
指揮官は、答えなかった。
従えば、艦隊は、干上がる。二千の乗員が、渇いて死ぬ。従わなければ、命令違反。本国での処断が、待つ。
どちらを選んでも、破滅だった。
「私は」指揮官は、ゆっくり言った。「軍人だ。命令に従う。——だが」
指揮官は、そこで言葉を切った。
「だが、乗員を、無駄に殺すことは、しない。攻撃は、継続する。命令通りに。だが——勝てる攻撃ではなく、被害の少ない攻撃を選ぶ。時間を、稼ぐ。稼ぎながら、本国に、もう一度、退却の許可を求める。——それしか、ない」
命令には、従う。だが、命令の破滅的な部分を、できるだけ薄める。
それは、どこかで聞いた戦い方だった。
指揮官は、はっと気づいた。
ドラフォだ。
あの、遅れ続けた男。慎重すぎる、と罵られた男。あの男も、同じことをしていたのではないか。命令に従いながら、破滅を、薄めていた。——いや、あの男は、もっと進んでいた。破滅を薄めるどころか、味方の勝利を、遅らせていた。
指揮官は、ようやく気づいた。
ドラフォの、遅れは、故意だった。
思い返せば、証拠は、いくつもあった。ドラフォの隊は、いつも、いちばん遅かった。深追いを、避けた。浅瀬を、警戒した。潮を、読んだ。一つ一つは、正しい判断だった。正しすぎて、疑えなかった。だが、合わせてみれば、その隊だけが、ほとんど戦っていなかった。
有能な指揮官の、慎重さ。その仮面の下で、ドラフォは、この戦いを勝たせないように、動いていた。味方でありながら。命令に従いながら。
そして、いま、指揮官自身が、同じことをしようとしている。勝てない戦いで、被害を、薄める。時間を、稼ぐ。——ドラフォが、開戦から、やっていたことを、指揮官は、四日目にして、ようやく、始めようとしていた。
四日、遅かった。
「ドラフォを」指揮官は言った。「呼べ」
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戦い 四日目 午後 本国艦隊 旗艦
ドラフォが、来た。
いつもの、落ち着いた顔で。
「呼ばれて、来た」ドラフォは言った。
「お前」指揮官は言った。「この戦いを、遅らせていたな」
ドラフォは、否定しなかった。
「遅らせて、などいない」ドラフォは言った。「私は、慎重に進めていた。それだけだ」
「嘘を、つくな」指揮官は言った。「私も、いま、同じことをしようとしている。だから、分かる。——お前の慎重さは、故意だ。この戦いを勝たせないための、故意だ」
ドラフォは、しばらく、指揮官を見ていた。
「気づいたか」ドラフォは言った。「遅かったな」
否定は、しなかった。認めた。この期に及んで、隠す意味もなかった。
「なぜだ」指揮官は言った。「お前は、軍人だろう。なぜ、味方の勝利を遅らせる」
「勝てない戦いだからだ」ドラフォは言った。「私の掟は、一つ。勝てない戦いは、しない。この戦いは、勝てない。だから、遅らせた。——一人でも多く、生きて帰すために」
「命令違反だ」
「違反していない」ドラフォは言った。「私は、命令に従った。ただ、下手に従っただけだ。下手は、罪ではない。無能は罰せられるが、反逆では、ない。——お前も、いま、同じことをしようとしているのだろう」
指揮官は、答えなかった。
図星だった。指揮官自身が、いま、ドラフォと同じことを始めようとしていた。命令に従いながら、破滅を薄める。それを、この男は、開戦の最初からやっていた。
「お前を、処断すべきだ」指揮官は言った。
「すればいい」ドラフォは言った。「だが、処断すれば、艦隊は動揺する。私の信望は、厚い。——それに、いま私を処断して、誰が、この艦隊を生きて帰す。お前か。お前一人で、二千の乗員を、干上がる海から連れ帰れるか」
指揮官は、ドラフォを、見た。
この男は、処断されることすら計算に入れて、動いていた。処断できないことを知っていて、堂々と、認めた。
「取引を、しよう」ドラフォは言った。
「取引」
「本国は、退却を許さない」ドラフォは言った。「だが、私になら、艦隊を退かせられる。——理由を、作れる。『敵の伏兵により、これ以上の継戦、不可能』。そういう、退却やむなしの状況を、私が作る。お前は、それを本国に報告すればいい。——お前の責任には、ならない」
「お前の、責任になる」
「私は、構わん」ドラフォは言った。「もともと、私は、この戦いに反対だった。反対の戦いで無能とされ、退却の責任を負う。——望むところだ。私の掟に、適う」
「お前は」指揮官は言った。「何もかも、覚悟の上か」
「軍人だ」ドラフォは言った。「覚悟しか、していない。——ただ、覚悟の、中身が、人と、違うだけだ。多くの軍人は、死ぬ覚悟をする。私は、無能とされる覚悟を、した。どちらが、辛いかは、人による」
指揮官には、その意味が、分かった。戦って死ぬのは、名誉だった。戦わずに、無能とされるのは、屈辱だった。軍人にとって、屈辱は、死より重いことがある。ドラフォは、その重い方を、選んでいた。二千の乗員のために。
「一つだけ、言っておく」ドラフォは言った。「私が、退却の口実を作る。だが、それは、この戦いを終わらせるだけだ。戦争を、終わらせるわけでは、ない。——本国は、また、艦隊を、送るだろう。次は、もっと、大きなものを」
「分かっている」
「分かっているなら、いい」ドラフォは言った。「私にできるのは、ここまでだ。二千を、一度、生きて帰す。それだけだ。その先の戦争を止めるのは——私の手には、負えん」
指揮官は、長く、ドラフォを見ていた。
そして、言った。
「なぜ、そこまで、する」
「二千の乗員のためだ」ドラフォは言った。「それと——もう一つ」
ドラフォは、少し間を置いた。
「この海に、借りが、ある」ドラフォは言った。「半年前、この海は、私に、戦わない、という道を教えてくれた。私は、その道を、一度は選んだ。——選んだ道を、本国に踏み潰させたくない。それだけだ」
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戦い 四日目 夕方 湾口 亡命艦隊「エイカ」
異変は、夕方に、起きた。
「殿下」観測班が言った。「本国艦隊が、退き始めています」
アルセナは、艦橋に、上がった。
北西の海。攻撃艦隊が、隊列を崩し、後退を始めていた。二十隻以上の艦が、ゆっくりと、こちらに背を向けていく。
「退く、のか」アルセナは、呟いた。
「はい」観測班が言った。「ですが——妙です。整然と、した退却では、ありません。混乱している、ようにも、見えます」
アルセナは、双眼の代わりに、目を凝らした。
確かに、妙だった。艦隊の後退は、ばらばらだった。ある隊は、素早く退き、ある隊は、まだ留まっている。指揮が、乱れている。あるいは——わざと乱しているように、見えた。
その、乱れの、中心に。
一隻の、旗艦が、いた。
ドラフォの、艦だった。
「レナ」アルセナは言った。「あれは、ドラフォが、やっている」
「退却を、ですか」
「退却の口実を作っている」アルセナは言った。「艦隊が、混乱しているように見せて。——『これ以上、戦えない』という状況を、作っている。本国に、退却を、認めさせるために」
アルセナは、その光景を、見ていた。
ドラフォは、最後まで、ドラフォだった。命令に従いながら、命令の破滅を薄める。今度は、退却できない艦隊を退却させるために、混乱を演じていた。
有能な指揮官が、また、無能を演じていた。
「殿下」レナが言った。「追撃、しますか」
アルセナは、しばらく、考えた。
追撃すれば、退く敵を討てる。戦果は、上がる。だが——退く敵を、討てば、それは、殺すための、戦いになる。殿下が、この四日避けてきた、憎しみの戦いに。
そして、あの艦隊の中には、ドラフォがいた。二千の乗員を生きて帰そうとしている、ドラフォが。
もし、追撃すれば。混乱して退く艦隊は、格好の的だった。討てば、大きな戦果になる。この海の勝利を、決定的に、できる。乗員たちは、それを、望むだろう。四日間、耐えた末の、反撃を。
だが、その反撃は、ドラフォの努力を無にする。ドラフォが、命がけで、退かせようとしている艦隊を、こちらが討てば——ドラフォは、味方を、退かせるために、味方を、殺したことになる。そして、この海は、去る者の背を撃つ、卑怯な海になる。
半年、積み上げてきたものが、その一回の追撃で崩れる。
「追撃は、しない」アルセナは言った。
「よろしいのですか」
「退く者を討たない」アルセナは言った。「それも、海の掟だ。——去る船の背中を撃つのは、恥だ」
アルセナは、退いていく艦隊を、見送った。
その中の、一隻。ドラフォの艦が、いちばん後ろに、いた。全艦を退かせてから、自分が、最後に退く。指揮官の、位置だった。
アルセナは、その艦に向かって、小さく頷いた。
届かない、頷きだった。だが、頷かずには、いられなかった。
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戦い 四日目 夜 本国艦隊 旗艦
退却は、成った。
艦隊は、蓄えの尽きる寸前で、この海を離れた。二千の乗員は、渇く前に、退路に就いた。
指揮官は、本国への報告を書いていた。
──敵の伏兵、および、地形の不利により、継戦、不可能と、判断。艦隊を保全するため、退却を決断せり。責任は、指揮官に、あり。
嘘だった。伏兵など、いなかった。だが、この嘘が、二千の乗員を生かした。
隣に、ドラフォが、立っていた。
「これで、いいのか」指揮官は言った。「退却の責任は、私が負う。だが、本当に動いたのは、お前だ」
「責任は、軽い方が負えばいい」ドラフォは言った。「お前には、まだ、艦隊がある。私には、もう、何もない。——反対した戦いで、無能とされた男に、失うものは、ない」
「お前は、これから、どうなる」
「分からん」ドラフォは言った。「本国が、私をどう裁くか。だが、どう裁かれても、私は、二千を生きて帰した。それで、いい」
指揮官は、ドラフォを、見た。
「一つ、聞きたい」指揮官は言った。「お前は、あの海を憎んでいるか。我々を退却に追い込んだ、あの海を」
ドラフォは、しばらく、黙っていた。
「憎んでいない」ドラフォは言った。「むしろ——羨ましい」
「羨ましい」
「あの海は、選べた」ドラフォは言った。「戦わない、という道を。本国を捨ててでも、それを守る道を。——アルセナは、それを、選んだ。私は、選べなかった。軍人だからだ。命令に縛られているからだ」
ドラフォは、暗い海の向こうを見た。
そこに、もう、ダーウィンの灯は見えなかった。
「昔の私なら」ドラフォは言った。「あの海を、憎んだだろう。戦って、勝てなかった相手を、恨んだだろう。——だが、いまは、違う。あの海は、私に、勝てない戦いを、勝てないと、教えてくれた。恨む相手ではない」
「妙な、話だ」指揮官は言った。「敵に、感謝しているように、聞こえる」
「感謝している」ドラフォは、あっさり言った。「敵に、感謝して、何が悪い。——半年、あの海と、向き合った。向き合ううちに、敵か味方か、分からなくなった。撃ち合いながら、同じことを、考えている。戦いたくない、と。誰も、この戦争を、望んでいない。望んでいるのは、遠くの机だけだ」
「あの男は」ドラフォは言った。「空いた手で、道を選んだ。私の手は、塞がったままだ。——羨まずには、いられん」
「お前も」指揮官は言った。「選べば、よかったのではないか。アルセナのように」
「選べなかった」ドラフォは言った。「私が選べば、艦隊が、割れる。軍が反乱すれば、身内で、殺し合う。——アルセナは、外交だ。抜けても、軍は割れない。私は、軍だ。抜ければ、割れる。同じ選択が、私には、許されなかった」
ドラフォは、暗い海を、見続けた。
「だから、私は、残った」ドラフォは言った。「残って、内側から、遅らせた。それが、塞がった手にできる、精一杯だった。——空いた手ほど、自由ではない。だが、塞がった手にも、できることはある」
────
同じ夜 湾口 亡命艦隊「エイカ」
戦いは、終わった。
いや、正確には、この海での戦いが終わった。攻撃艦隊は、退いた。港は、無事。亡命政権は、守り抜いた。
だが、アルセナは、勝った、とは思わなかった。
戦争は、まだ、終わっていない。攻撃艦隊は、退いただけだ。本国の机は、まだ、そこにある。退却を許さなかった、あの机が。次は、もっと大きな艦隊を送ってくるかもしれない。
この一戦に、勝った。だが、戦争には、まだ勝っていない。
アルセナは、覚え書きを、開いた。
「従わない」の四文字から、始まった、この記録。その後に書き足された、日付と、事実。
アルセナは、今日の日付を書いた。そして、一行。
──攻撃艦隊、退く。この海の、戦い、終わる。だが、戦争は、続く。
書いてから、その一行を、見た。
戦争は、続く。
どうすれば、この戦争を、終わらせられるのか。攻撃艦隊を退けるだけでは、足りない。本国の机を動かさなければ。始めた机に、終わりを書かせなければ。
だが、その机は、遠かった。この海から、あまりに遠かった。
アルセナは、覚え書きを、閉じた。
そして、甲板に目を向けた。
そこに、拾ったばかりの技術者が、いた。名を得た、あの一人。敵の内側から渡ってきた、証人。
もしかしたら、と、アルセナは思った。
遠くの机を動かすのは、こちらの艦隊では、ないのかもしれない。
あの、渡ってきた技術者。ミゼンの運んだ証言。この海が積み上げてきた、測れないもの。——それらが、いつか、遠くの机に届いたとき。
そのとき、初めて、戦争は終わるのかもしれない。
考えてみれば、と、アルセナは思った。この戦いで、いちばん、本国を、揺らしたのは、砲でも、地形でも、なかった。技術調査員の、寝返りだった。本国が、いちばん信頼した六人の一人が、こちらへ来た。それは、本国にとって、一隻を沈められるより重い、打撃だったはずだ。
武力は、艦を沈める。だが、人の心は、動かせない。むしろ、憎しみを、生む。
寝返りは、違った。あの技術者は、撃たれて、寝返ったのではない。この海の何かを見て、自分で選んで、来た。その選択は、本国の机に、問いを突きつける。——なぜ、いちばん信頼した者が、敵の側を、選んだのか、と。
その問いは、砲弾では、生まれない。積み上げた、半年の何かからしか、生まれない。
アルセナは、甲板の技術者を、もう一度見た。
あの一人が、なぜ来たかを、本国に伝えられたら。ミゼンの証言を、本国に、届けられたら。この海が積んだものを、遠くの机に、見せられたら。
そのとき、初めて、戦争は終わるのかもしれない。
武力ではなく。
証言で。




