火を止める手
戦い 四日目 未明 湾口の海上
ミゼンは、小舟を、漕ぎ出した。
夜明け前の海は、暗く、冷たかった。砲声が、遠くで、続いていた。火船の二隻は、まだ隊列の前で、態勢を整えている。突撃には、まだ少し間があった。
その間に、ミゼンは、海に出た。
遠くで、亡命艦隊の砲が、火を噴いていた。ドォン、ドォン、と、腹に響く音。だが、閃光が走るたびに見えるのは、水柱ばかり。暗い海では、狙いが、定まらない。火船には、当たらない。
カーターの、言った通りだった。闇に紛れた火船を、遠くから沈めるのは、難しい。
ミゼンは、その砲声の合間を縫って、漕いだ。櫂が、水を、掻く。ぎい、ぎい、と、櫂受けが、鳴った。
目指すのは、火船ではなかった。火船の、脱出艇だった。火船が突撃すれば、乗員は、直前に小舟で脱出する。その脱出の経路を、ミゼンは読んでいた。半年、この海を往来した勘で。潮の流れが、脱出艇をどこへ運ぶか。ミゼンには、分かった。
そこで、待った。
暗い海の上で、一人。冷たい波に、揺られながら。
小舟は、木の葉のように、頼りなかった。波が来るたび、傾ぐ。ミゼンは、櫂で姿勢を保ちながら、火船の動きを見ていた。
恐ろしくなかったと言えば、嘘になる。半年前、この海に落ちた夜も、同じ暗さだった。同じ冷たさだった。あのときは、落ちて、死ぬかと思った。いまは、自分の意志で、この暗い海に出てきた。
違いは、それだけだった。だが、その違いが、全部だった。落ちるのと、出るのとでは、同じ海でも、まるで違った。
やがて、火船の一隻が、動き出した。
帆を張り、風を受け、港へ向かって加速していく。喫水の深い船体が、重々しく、しかし確実に進んでいく。その甲板から、小さな影が、次々と海へ飛び降りた。脱出する乗員たち。
その中の一つの影が、ミゼンの読んだ経路へ、流れてきた。
ミゼンは、小舟を、寄せた。
「調査員」ミゼンは、呼んだ。
水面の影が、動きを、止めた。
────
ミゼンは、その乗員を、小舟に引き上げた。
顔を、見た。
あの調査員だった。ミゼンを逃した、あの一人。火薬樽に手を置き、そして離した、あの一人。
「お前」調査員は、水を、吐きながら言った。「なぜ、ここに」
「あなたを、待っていました」ミゼンは言った。「答えを、聞くために」
調査員は、ミゼンを、見た。暗い海の上で、二人だけ。艦隊の目も、届かない。
「答えは、持ってきたか」調査員は言った。
「まだです」ミゼンは言った。「答えは、この戦争が終わらないと、出せません。ですが——今日、あなたに渡せるものが、あります」
「何を」
「問いです」ミゼンは言った。「あなたが私に問うたように。私も、あなたに問います」
調査員は、警戒する目で、ミゼンを見た。この海の真ん中で、敵の案内人が、自分を待っていた。罠かもしれない。そう思う目だった。
だが、ミゼンには、武器がなかった。小舟には、櫂が一本と、ずぶ濡れの案内人が一人。それだけだった。罠を張るには、あまりに、無防備だった。
その無防備さが、かえって、調査員の警戒を解いた。
ミゼンは、調査員を、まっすぐ見た。
「あの火船は、港を焼きます」ミゼンは言った。「港には、いま、人がいます。半年、あなたたちに港の長さを測らせた、その人たちが。警戒しなかった、その人たちが。——あなたは、その人たちを焼くために、火薬を積みましたか」
調査員は、答えなかった。
「あなたは、火薬の、専門家だと聞きました」ミゼンは言った。「本来は、岩を砕き、港を造る技術だと。——その技術で、港を、焼く。あなたは、それを、望みましたか」
調査員の、顔が、歪んだ。
図星だった。この男は、望んでいない。港を焼くことを。人を焼くことを。それが、顔に、出ていた。
「望んでいない」調査員は言った。「望んでいるはずが、ない。——だが、命令だ」
「命令」ミゼンは、繰り返した。
「命令だ」調査員は、もう一度言った。まるで、自分に、言い聞かせるように。「俺は、技術者だ。命令された場所に火薬を運び、命令された通りに爆発させる。——それが、仕事だ。どこで爆発させるかを、決めるのは、俺じゃない」
「決めるのは、誰ですか」
「本国だ」調査員は言った。「遠くの、机だ」
その言葉に、ミゼンは、覚えがあった。殿下も、同じことを言った。破るのは、この海の者じゃない、遠くの机だ、と。攻める側も、攻められる側も、同じ、遠くの机に動かされていた。
「命令に、従えば」ミゼンは言った。「あなたの疑問は、永久に答えを失います。なぜ、あの海が警戒しなかったのか。——その答えを持つ人たちを、あなたが焼くからです」
調査員は、ミゼンを、見た。
その目に、軋みが、あった。あの夜、火薬樽に手を置いて離したときの、あの軋み。それが、いま、ミゼンの言葉で大きくなっていた。
「もう一隻が」調査員は、言った。「まだ、ある」
ミゼンの、心臓が、跳ねた。
「一隻は、もう突撃した」調査員は言った。「止められない。あれは、無人で進んでいる。——だが、もう一隻は、まだ態勢を整えている。あれには、まだ、乗員がいる。止めるなら、もう一隻だ」
「止められますか」
調査員は、しばらく、黙っていた。
「導火の仕掛けは、俺が組んだ」調査員は言った。「組んだ者になら、外せる。——だが、外すには、あの船に戻らねば、ならない」
戻る。爆発する船に、戻る。
「一緒に、行きます」ミゼンは言った。
「お前は、来るな」調査員は言った。「これは、俺の仕掛けだ。俺の責任だ。——お前は、答えを持ってくる役目がある。ここで、死ぬな」
「あなたも、死なないでください」ミゼンは言った。「あなたが死ねば、私は、答えを渡す相手を失います」
「答え、答えと」調査員は言った。「お前は、その答えを、そんなに欲しがるのか」
「私ではありません」ミゼンは言った。「あなたが、欲しがっている。——なぜ、あの海が、警戒しなかったのか。あなたは、それを、知りたい。知りたいのに、その答えを持つ港を、焼こうとしている。矛盾しています」
調査員は、黙った。
「あなたが、火船を止めれば」ミゼンは言った。「港は、残ります。答えを持つ人たちも、残ります。——あなたは、自分の疑問の答えを、残せます。焼けば、永久に、失う。止めれば、いつか、手に入る。——どちらを、選びますか」
調査員は、ミゼンを、見た。
そして、初めて、笑った。硝煙と、水に、汚れた顔で。
「妙な、やつだ」調査員は言った。「敵の案内人が、俺の命を惜しむ」
「敵では、ありません」ミゼンは言った。「あなたは、私を逃した。私は、あなたを逃す。——それだけです」
「それだけ、で」調査員は言った。「命を、賭けるのか」
「あなたも、賭けたでしょう」ミゼンは言った。「私を、逃したとき。見つかれば、あなたも、ただでは済まなかった。——賭けを、返すだけです」
調査員は、何も、言わなかった。言えなかった、というほうが、近かった。
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戦い 四日目 未明 湾口
一隻目の火船が、港へ、迫っていた。
無人だった。帆を張ったまま、風に押されて、まっすぐ港の心臓へ。
「一隻目、止まりません」観測班が、叫んだ。「無人です。乗員は、既に脱出しています」
アルセナは、艦橋で、決断を迫られていた。
無人の火船。乗員は、いない。ならば——沈めても、誰も、死なない。殺さずに止める、という原則を、破らずに済む。
皮肉だった。この四日、殺さないために、どれほど苦労したか。座礁させ、退かせ、あらゆる手を尽くして、乗員を生かしてきた。その原則を、いま、無人の火船だけが、易々と破らせてくれる。無人だから、心置きなく、沈められる。乗っていないものを壊すのに、ためらいは要らない。
だが、それは、一隻目だけの話だった。
「一隻目を、沈めろ」アルセナは言った。「無人だ。遠慮は、要らん。港に届く前に、沈めろ」
亡命艦隊の全砲門が、一隻目に向いた。
「撃て」
ドドン——ドドンッ。
砲声が、暗い海を、殴りつけた。閃光が、波頭を、白く照らす。硝煙の匂いが、風に乗って、甲板を舐めた。
一発目。逸れた。水柱。
二発目。逸れた。また水柱。
無人の火船は、回避しない。まっすぐ、港へ。その、まっすぐさだけが、狙いを助けた。
三発目——ガッ。
船体を、抉った。木片が、飛び散る。
一瞬の、静寂。
次の、瞬間。
ズガアアアン。
世界が、白く灼けた。腹の底を、突き上げる轟音。火柱が、夜明け前の空を、真っ二つに焼き上げる。遅れて、爆風。海面を平らに薙ぎ、亡命艦隊の艦を、ぐらりと傾けた。
ミゼンは、遠い小舟の上で、思わず耳を塞いだ。熱風が、頬を、撫でていった。港の、手前。届かない位置で。
一隻目は、止まった。
誰も、死なずに。
「一隻目、阻止」観測班が、叫んだ。
だが、アルセナの表情は、晴れなかった。
「二隻目は」アルセナは言った。
「二隻目——」観測班の、声が、止まった。「二隻目が動き出しました。港へ、向かっています。——ですが」
「ですが、何だ」
「乗員が乗っています」観測班は言った。「二隻目には、まだ、乗員が。——脱出、していません」
アルセナの、顔が、こわばった。
乗員の乗った、火船。
沈めれば、乗員が、死ぬ。沈めなければ、港が、焼ける。港が焼ければ、補給が断たれ、この海岸の全員が、危うくなる。数百の命と、火船の乗員、数人の命。天秤にかければ、答えは、明らかだった。
明らかな答えを、アルセナは、選びたくなかった。
数の多い方を取る。それは、正しい。だが、正しさで、数人を見殺しにする。その正しさに、乗ってしまえば——遠くの机と、同じになる。数字で、命を、量る机と。
「殿下」レナが言った。「時間が、ありません。二隻目が、港に、近づいています」
アルセナは、答えられなかった。
殺さずに止める。この四日、貫いてきた原則が、いま、いちばん残酷な形で、試されていた。原則を貫けば、港が焼ける。原則を捨てれば、数人が死ぬ。——どちらも、選べなかった。
殺さずに止める原則が、いま、不可能になろうとしていた。
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戦い 四日目 未明 二隻目の火船
調査員は、二隻目の火船に、戻っていた。
ミゼンの小舟から飛び移り、舷側をよじ登り、甲板に立った。
甲板には、乗員が数人。突撃の態勢。導火に、火を入れる、その直前だった。
遠くで、ズガアアアン——一隻目が、爆発した。爆風が、ここまで、届く。船体が、みしりと軋んだ。乗員たちが、一瞬、そちらを振り向く。
その隙に、調査員は、甲板へ駆け上がった。
「待て」調査員は、叫んだ。「点火を、待て」
乗員たちが、調査員を、見た。
「なぜ、戻った」乗員の一人が言った。「お前は、一隻目で、脱出したはずだ」
「仕掛けに、不備がある」調査員は、嘘をついた。「このまま点火すれば、船が、途中で爆発する。港に、届かない。——俺が直す」
乗員たちは、迷った。だが、火船の仕掛けを、いちばん知るのは、この調査員だった。誰も、反論できなかった。
「急げ」乗員の一人が言った。「時間が、ない」
調査員は、導火の仕掛けに、近づいた。
そして、自分が組んだ、その仕掛けを見た。
外すことは、できた。導火を切り離せば、火薬は、爆発しない。ただの、重い船に、なる。港に突っ込んでも、木材が砕けるだけ。人は、死なない。港も、焼けない。
だが、外せば、乗員たちが気づく。気づけば、調査員は、反逆者として、その場で殺されるだろう。
外すことは、自分の命と引き換えだった。
調査員は、手を、止めた。
海に飛び込んだ、あの案内人のことを、思い出した。生きて着け、と言った、あの言葉を。答えを持ってこい、と言った、あの約束を。
そして、あの海のことを、思い出した。警戒しなかった港。敵かもしれない自分たちに、港を見せた、あの海。——その海に、いま、火を、向けている。
なぜ、警戒しなかったのか。
その答えは、この港が焼ければ、永久に失われる。
調査員は、決めた。
答えを失いたく、なかった。技術を、海を焼くために使いたく、なかった。
調査員の手が、動いた。
ブツッ。
導火を、根元から、断ち切る。
「何を、している」
乗員が、気づいた。
調査員は、振り返らない。断った導火を、海へ——ヒュッ、ポチャン。暗い波が、それを、飲み込んだ。
これで、火薬は、死んだ。この船は、ただの、重い木の塊。港へ突っ込んでも、メリメリと、船首が砕けるだけ。
「貴様ァ——」
シャッ。
剣が、鞘を、走った。白い刃が、薄闇に、光る。
そのとき。
「調査員っ」
海から、声。ミゼンの小舟が、舷側の真下に、着いていた。
「飛べっ」
調査員は、迷わなかった。舷側を、蹴る。
ヒュッ——。
体が、宙に、投げ出された。
ブンッ。
背後で、剣が、空を、薙ぐ。刃先が、調査員の踵の、指一本を外した。
ザブンッ。
海が、調査員を、受け止めた。冷たさが、全身を、締めつける。すぐ上で、水を、掻く音。ミゼンの手だった。その手を、調査員は、掴んだ。
二人は、もつれるように、小舟へ這い上がった。
火船は、導火を失ったまま、なおも港へ滑っていく。だが、もう、牙は、ない。ただの、船だった。
ドドンッ。
港の手前で、亡命艦隊の砲が、火を噴いた。着弾。船体が、裂ける。だが——爆発は、起きなかった。火薬は、既に、死んでいた。
ザザーッと、水柱が、上がり。
重い船体が、ゆっくりと、傾いで、沈んでいく。静かに。火柱も、轟音も、なく。
二隻目も、止まった。
誰も、死なずに。
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戦い 四日目 夜明け 湾口 亡命艦隊「エイカ」
夜が、明けた。
火船は、二隻とも、止まった。港は、無事だった。補給の拠点は、守られた。
攻撃艦隊の、切り札は、潰えた。
火船に、賭けていた。港を焼き、補給を断ち、一気に決着をつける。その一手が、防がれた。しかも、二隻とも。一隻は砲撃で、一隻は——内側から。
そして、蓄えは、尽きかけていた。切り札を失い、蓄えも尽きる。攻撃艦隊は、もう、勝ち筋を失っていた。
残された道は、二つ。退くか、あるいは、蓄えの尽きるまで、無駄に撃ち合い続けるか。前者なら、大敗の記録だけが、残る。後者なら、大敗に加えて、渇いた乗員の屍が残る。
どちらも、敗北だった。切り札を防がれた時点で、この戦いは、決していた。
アルセナは、艦橋で、その報告を聞いた。
「二隻目の火船が、爆発しませんでした」観測班が言った。「導火が切り離されていました。——誰かが、内側から止めたようです」
アルセナは、その言葉の意味を理解した。
内側から、止めた。あの二隻の中に、迷っている者がいる、という望み。その望みが、現実になった。
「ミゼンは」アルセナは言った。
「戻ってきました」観測班が言った。「小舟で。——もう一人、乗せて」
甲板に、ミゼンが上がってきた。ずぶ濡れの体を、引きずるように。二度、同じ夜のうちに、海に浸かった体だった。震えが、止まっていなかった。
その隣に、もう一人。同じく、ずぶ濡れの見知らぬ男。
ヴァルタの、技術調査員だった。
敵の、六人の、一人。半キロの錨地を選ばせ、港の設備を測り、火船を港へ導くはずだった、あの六人の一人。この海の侵攻を、内側から支えていたはずの、専門家。
その一人が、いま、ずぶ濡れで、アルセナの前に立っていた。侵攻を支える側から、侵攻を止める側へ。たった一夜で、渡ってきた。
「殿下」ミゼンは言った。「この人が、二隻目を止めました。——導火を、自分の手で切り離しました」
アルセナは、その調査員を、見た。
調査員は、アルセナの前で、立ち尽くしていた。逃げてきた者の顔でも、降伏した者の顔でもなかった。ただ、疲れきった、一人の技術者の顔だった。
「なぜ、止めた」アルセナは、聞いた。
調査員は、しばらく、黙っていた。
「答えが、欲しかった」調査員は言った。「なぜ、あの海が警戒しなかったのか。——その答えを持つ港を焼けば、答えは、永久に失われる。俺は、答えを失いたく、なかった」
アルセナは、その言葉を聞いた。
一人の技術者が、命令ではなく、自分の疑問のために、切り札を止めた。数字を測る六人の一人が、数字にならないもののために、規則を破った。
それは、この半年、この海が積んできたものの証明だった。測れないものが、測れるものより、重いことがある。——その事実が、いま、敵の内側から証明された。
「よく、来た」アルセナは言った。
そして、この土地の掟の言葉を、加えた。
「海に落ちた者は、拾う。敵でも、味方でも。——お前は、海に落ちた。だから、拾う」
調査員は、その言葉に、顔を上げた。
その目が、潤んでいた。硝煙で、汚れた顔の上で。長く、命令に、従ってきた男だった。従うことしか、知らなかった男だった。その男が、生まれて初めて、命令ではなく、自分の疑問に従った。従った先で、敵に、拾われた。そして、拾った者が、責めるのではなく、掟の言葉で迎えた。
「名は」アルセナは、聞いた。
調査員は、しばらく、黙っていた。それから、名乗った。ヴァルタの、技術者の、名を。
その名を、アルセナは、覚えた。名を覚えることは、相手を、人として扱うことだった。遠くの机が、決してしなかったこと。名を伏せ、「抵抗する勢力」と束ねた机が。
この海は、違った。この海は、敵の名すら、覚える。
夜明けの光が、湾口を、照らしていた。
二隻の火船は、沈んだ。誰も、死ななかった。
そして、敵の中から、一人が、こちら側へ渡ってきた。
自分の、疑問を、抱えて。
その疑問の、答えを、探すために。
その答えは、まだ、誰も持っていなかった。だが、答えを探せる場所に、その男はたどり着いた。焼くはずだった港の、焼かれなかった岸に。
戦いの、四日目が、終わろうとしていた。
切り札は、防がれた。攻撃艦隊は、勝ち筋を失った。あとは、退くだけ。この戦争の、大きな山は、越えた。誰も殺さずに、越えた。
だが、アルセナは、知っていた。戦争は、勝ち筋を失ったからといって、すぐには終わらない。追い詰められた者は、時に、いちばん危険になる。退くにしても、暴れてから退くのか、静かに退くのか。それは、まだ、分からなかった。
そして、もう一つ。この戦争を、始めたのは、遠くの机だった。ならば、終わらせるのも、遠くの机かもしれない。現場が、いくら勝っても、机が退けと言わなければ、艦隊は退けない。
夜明けの海を見ながら、アルセナは、思った。
この戦いに、勝ちつつある。だが、この戦争に勝つのは、まだ先だ。




