証人、帰る
開戦 二時間後 湾口 亡命艦隊「エイカ」
見張りが、海面の、何かに気づいた。
「殿下。海に、人が」
アルセナは、艦橋から身を乗り出した。
夕暮れの海面に、一つ、頭が見えた。泳いでいる。こちらへ向かって、まっすぐに。砲火の中を、一人で。
「敵の落伍兵か」レナが言った。
「引き上げろ」アルセナは言った。「敵でも味方でも、海に落ちた者は拾う。——それが、掟だ」
縄が、投げられた。泳いでいた者が、それを掴んだ。掴む手に、力が入らないのが、遠目にも分かった。長く泳いだ者の手だった。乗員たちが、縄を手繰った。
海から、体が、引き上げられた。冷たい水を、滴らせながら。甲板に、ずぶ濡れの体が転がった。
アルセナは、艦橋を降り、その者に近づいた。
顔を、見た。
「ミゼン」
ミゼンだった。海に落ちた日と同じように、ずぶ濡れで震えていた。だが、あの日と違って、今日は自分の意志で、この海を渡ってきた。
「殿下」ミゼンは、震える声で言った。「戻りました」
アルセナは、しばらく言葉が出なかった。
連れて行かれた者が、戻ってきた。人質になるはずだった者が、自分の足で——自分の腕で、戻ってきた。
「よく戻った」アルセナは言った。それだけ言うのが、精一杯だった。
半年前、この乗員を海から拾ったのも、この手だった。名を返し、位置を与え、二つの文明の間に立たせた。そして、監察団に、この手で送り出した。守れないと知りながら。
その乗員が、自分で、戻ってきた。送り出した手のところへ、自分の腕で、泳いで。
アルセナは、ミゼンの肩に、手を置いた。冷たかった。海の冷たさが、まだ、抜けていなかった。だが、その下で、脈が打っていた。生きている脈だった。
「戻ると、約束しました」ミゼンは言った。歯を、鳴らしながら。「約束は、果たすものです。——殿下に、教わりました」
アルセナは、その言葉に、何も返せなかった。返す言葉が、見つからなかった。ただ、肩に置いた手に、少し力を込めた。
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ミゼンは、乾いた布をかけられ、温かい飲み物を渡された。震えが、少しずつ収まっていった。
震えが収まると、ミゼンは、話し始めた。
「覚えてきました」ミゼンは言った。「全部」
「無理をするな」アルセナは言った。「先に、休め」
「休めません」ミゼンは言った。「いま、話さないと。——戦況が、変わる前に」
アルセナは、頷いた。証人は、証言のために生きて戻った。その仕事を、止める権利は、なかった。
「攻撃艦隊、二十三隻」ミゼンは言った。「そのうち、大型が八隻。残りが、中型と小型。——数だけなら、圧倒的です」
「知っている」アルセナは言った。「見れば、分かる」
「ですが、大型八隻のうち、二隻は、様子が違いました」ミゼンは言った。「他の艦より、喫水が、深い。何かを、たくさん、積んでいます。武器か、蓄えか、あるいは——別の、何か。積み荷の艦です」
アルセナは、その情報を、書き留めさせた。喫水の深い、二隻。戦うための艦ではなく、運ぶための艦。何を運んでいるかは、分からない。だが、運んでいることは、確かだった。
「ですが」ミゼンは言った。「弱点が、あります」
アルセナの、目が、動いた。
「補給です」ミゼンは言った。「二十三隻は、本国から、ここまで休まず来ました。真水と食料の蓄えが、限界に近い。——長くは、戦えません。彼らは、短期で決着をつけるつもりです。長引けば、彼ら自身が、干上がる」
アルセナは、その情報の重さを理解した。
海の戦いで、補給は、命だった。帆船は、風で進むが、乗員は、水と食料で動く。蓄えの尽きた艦隊は、剣を持っていても戦えない。渇いた乗員は、櫂を漕げない。飢えた乗員は、砲を上げられない。艦がどれだけ立派でも、中の人間が、水と食料でできている。
本国は、二十三隻を、遠路送り込んだ。その距離を、蓄えで、賄ってきた。往路で、蓄えの半分以上を、使ったはずだった。ここで長く留まれば、復路の分まで、食い潰す。食い潰せば、帰れない。
つまり、攻撃艦隊は、勝つか、退くか、二つに一つだった。留まって、じわじわ攻める、という選択肢は、そもそも彼らになかった。
「どのくらい、もつ」アルセナは言った。
「私が見た限り、五日」ミゼンは言った。「五日で蓄えが尽きます。それまでに、この海岸を落とせなければ、彼らは退くしかない」
五日。
亡命艦隊と、豪州の防衛が、五日、持ちこたえれば。攻撃艦隊は、自ら、退く。
「もう一つ」ミゼンは言った。「指揮系統が、二つに、割れています」
「二つ」
「監察団と攻撃艦隊は、別の命令で動いています」ミゼンは言った。「攻撃艦隊の指揮官は、評議会ではなく、軍の命令で動いている。——そして、技術調査員の六人は、そのどちらとも別です。本国の、いちばん奥から直接来ている」
アルセナは、その構造を、頭の中に描いた。
三つの、系統。評議会の監察団。軍の攻撃艦隊。そして、本国最奥の、六人。三つが、一枚岩ではない。命令が、微妙に食い違う可能性がある。
外交を長くやってきたアルセナには、この構造が何を意味するか、分かった。三つの系統が別々の命令で動くとき、必ず境目に、責任の空白ができる。誰も、全体を、見ていない。監察団は監察を、軍は軍事を、六人は六人の任務を。全体を統べる者が、この海には、来ていない。
統べる者は、本国の机の上にいる。遠く離れた机が、三つの糸を、握っている。だが、糸が長ければ、動きは遅れ、ずれる。現場で、三つの系統が噛み合わなくなる瞬間が、必ず来る。
その瞬間を、待てばいい。そして、来たとき、そこを突く。
「ミゼン」アルセナは言った。「お前は、途方もないものを運んできた」
「証人ですから」ミゼンは言った。「覚えているのが、仕事です」
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同じ頃 ダーウィン基地 作戦室
ミゼンの情報は、亡命艦隊から日本側へ、即座に共有された。
「補給の限界、五日」白瀬が、その報告を読んだ。「これは、大きい」
「防衛の目標が定まりました」カーターが言った。「勝つ必要は、ない。五日、持ちこたえればいい。——それなら、できます」
作戦室の空気が、変わった。二十三隻を撃退する。それは、絶望的だった。だが、五日しのぐ。それは、可能な目標だった。
目標が変わると、戦い方が変わる。撃退が目標なら、敵を、沈めなければならない。しのぐことが目標なら、敵を、足止めするだけでいい。沈める必要はない。時間を、稼げばいい。
「持久戦の、組み立てに、切り替えます」カーターが言った。「敵を、湾口で、留める。深追いはさせない。上陸させない。——ただ、五日、押し返し続ける。攻めるより、守る方が、少ない兵力でできます」
「向こうが、無理に上陸を仕掛けてきたら」白瀬が言った。
「そこが、勝負どころです」カーターは言った。「補給が尽きかけた四日目か五日目に、向こうは、必ず無理をします。その無理を、どう受けるか。——そこだけ、準備しておけば、いい」
「東京から、返答が来ました」赤城が言った。
全員が、赤城を見た。
「日本は、直接の参戦はしません」赤城は言った。「憲法の制約です。——ですが、自国民保護のために、この基地の防衛に必要な措置を取ることは、認められました。そして——ダーウィンの日本人居住区への攻撃があった場合は、これを排除できる」
「つまり」ノックスが言った。
「攻撃艦隊が、ダーウィンに上陸してくれば」赤城は言った。「そこに日本人がいる限り、日本は動けます。——参戦ではなく、保護として」
微妙な線だった。だが、その線の中で、日本は最大限動こうとしていた。
「正直に言えば」赤城は言った。「この線引きは、綱渡りです。参戦ではない、保護だ、と言い張る。——ですが、砲を撃てば、撃たれた側から見れば、参戦です。区別は、こちらの言い分でしかない」
「それでも、線を引く意味は、あります」白瀬が言った。「線があれば、そこまでは、迷わず動けます。線がなければ、一発ごとに、これは許されるのか、と迷う。戦場での迷いは、命取りです。——引いた線が、綱渡りでも、無いよりは、いい」
「東京も、それを分かって引いたんだと思います」赤城は言った。「完璧な線ではない。だが、現場が、迷わずに動ける線を引いてくれた。——あとは、こちらが、その線をどう使うかです」
「豪州は、既に、動いています」ノックスが言った。「北岸の全防衛部隊に、警戒態勢。そして、亡命艦隊の後方支援。——弾薬と真水を、送っています」
「真水を」十六夜が言った。
「向こうの弱点が補給なら」ノックスが言った。「こちらの強みは、補給です。亡命艦隊は、この海岸を後ろに持っている。いくらでも、水と食料を補給できる。——五日、持ちこたえるどころか、こちらは、五十日でも戦えます」
補給の、非対称。攻撃側は、蓄えが尽きれば退くしかない。防衛側は、陸を背にして、いくらでも続けられる。
この一点が、数の差を、覆しかけていた。
「一つ、懸念があります」白瀬が言った。「向こうも、補給の限界は分かっているはずです。分かっていて、来た。——ということは、五日以内に決着をつける、確実な策があるということです」
部屋が、静かになった。
「確実な策、とは」赤城が言った。
「分かりません」白瀬は言った。「ですが、二十三隻を、干上がる前提で送り込む。それは、五日で勝てると踏んでいる証拠です。——その根拠を、こちらは、まだ掴んでいません」
「数の差、では、ないんですか」ノックスが言った。「二十三隻対、数隻。それだけで、五日あれば、勝てると踏むのでは」
「それなら、干上がる心配を、するはずです」白瀬は言った。「補給が限界だと、本国も、分かっている。分かっていて、なお、確実だと踏んでいる。——数の差だけで、確実、とは、言いません。海の戦いは、地形と風で、数の差がひっくり返る。それを、いちばんよく知っているのが、海の民です。海の民が、確実だと踏むなら、数以外の何かがある」
「何か、とは」
「切り札です」白瀬は言った。「私たちが、まだ見ていない、何か。それが、あるとしか、思えません。——そして、それが何かを掴むまで、こちらは安心できません」
十六夜が、ミゼンの証言の記録を、見返していた。
「一つ、引っかかることが、あります」十六夜が言った。「ミゼンさんの報告に、六人の技術調査員が、攻撃艦隊の最後尾の一隻に乗っている、とあります。他の艦から、離れて。守られるように」
「守られている、というのは」
「大事なものは、後ろに置きます」十六夜は言った。「そして、守ります。——あの六人か、あるいは、あの六人が運んでいる何かが、その、切り札かもしれません」
部屋が、静かになった。四つの引っかかりを一つの絵にした、あの解析官が、また一つの点を指し始めていた。
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同じ頃 本国艦隊 旗艦
攻撃艦隊の指揮官は、戦況を、見ていた。
初日の攻撃は、思うように進んでいなかった。亡命艦隊が、湾口を盾にして、動かない。地形を、知り尽くしている。一隻、浅瀬に誘い込まれ、座礁した。
そして、後方の、ドラフォの隊が遅い。
「ドラフォ隊に、前進を督促しろ」指揮官は言った。「なぜ、あんなに、遅い」
副官が、通信を、送った。
返ってきたのは、ドラフォの、いつもの慎重な返答だった。潮を読んでいる。浅瀬を警戒している。隊列を整えている。——どれも、正しい。正しすぎて、反論できない。
指揮官は、ドラフォを疑い始めていた。
だが、証拠が、なかった。ドラフォの一つ一つの判断は、全部、軍人として正しい。ただ、遅い。有能な指揮官の慎重さと、故意の遅延は、外からは見分けがつかなかった。
「閣下」副官が言った。「五日の蓄えしか、ありません。この速度では——」
「分かっている」指揮官は言った。「だが、督促以上のことは、できん。ドラフォを更迭すれば、艦隊は動揺する。あの男の信望は、厚い。——いまは、使うしかない」
指揮官は、迷っていた。
疑いは、あった。だが、疑いだけでは、動けなかった。ドラフォを、更迭するには、証拠が要る。命令違反の、明確な証拠。だが、ドラフォは、命令に違反していなかった。全ての命令に、従っていた。ただ、遅く。
遅いことは、罪では、なかった。慎重であることも、罪では、なかった。むしろ、美徳だった。指揮官が、部下の慎重さを罰することは、できない。慎重すぎて負けたなら、罰せられる。だが、まだ、負けていない。負ける前に慎重さを罰すれば、それは、指揮官の勇み足になる。
指揮官は、知らなかった。
その「信望の厚い有能な指揮官」こそが、この艦隊を内側から遅らせている張本人であることを。
ドラフォの長年の評判が、いま、誰にも疑わせなかった。有能さが、無能の偽装を、完璧に隠していた。
「五日」指揮官は、呟いた。「五日で決着をつける。——あれが間に合えば」
あれ。
指揮官の視線が、艦隊の最後尾に向いた。
そこに、六人の技術調査員が乗る一隻が、いた。他の艦とは、少し離れて。守られるように。
その艦が運んでいるものが、この戦いの切り札だった。
指揮官も、その中身を、正確には知らなかった。渡されたのは、封をした指令だけだった。中身を問うことは、許されなかった。ただ、本国が、こう言った。——五日以内に、あれを使えば、この海岸は落ちる、と。
指揮官は、その言葉を、信じるしかなかった。信じて、二十三隻を率いて、遠路ここまで来た。蓄えを、半分以上、使い果たして。
もし、あれが、間に合わなければ。あるいは、あれが、本国の言うほどのものでなければ。——この艦隊は、干上がり、退き、そして、大敗する。
指揮官の運命も、この海岸の運命も、後ろの一隻の封をした指令にかかっていた。
自分が、指揮官でありながら、勝敗の鍵を握っていない。握っているのは、口をきかない六人と、その積み荷だった。——それが、指揮官には、何より、不快だった。だが、不快を口に出すことも、許されなかった。
────
同じ夜 亡命艦隊「エイカ」 医務室
ミゼンは、休むように、言われた。
だが、眠れなかった。体は、疲れきっていたが、頭が冴えていた。
思い出していたのは、あの調査員のことだった。
海に飛び込む、その瞬間に見逃してくれた、一人。「生きて着け」と言った、一人。「答えを持ってこい」と言った、一人。
あの調査員は、いま、あの艦隊にいる。二十三隻の、どこかに。
ミゼンは、覚えてきた情報を、全部話した。規模。補給。指揮系統。——だが、一つだけ、話していないことがあった。
あの調査員の、疑問を。
なぜ、あの海が警戒しなかったのか。——その疑問を、ミゼンは、まだ誰にも話していなかった。
話せば、情報になる。敵の調査員が、疑問を抱いている。それは、敵の内部に、揺らぎがある証拠だ。使える情報だった。
だが、ミゼンは、話さなかった。
あれは、情報では、なかった。あれは、一人の人間の、問いだった。答えを待っている、問い。それを、戦況の材料にするのは——違う気がした。
戦況の材料にすれば、こうなる。「敵の技術調査員に、動揺の兆しあり。組織への忠誠に、揺らぎ。切り崩しの、余地あり」。——そう報告すれば、亡命艦隊は、あの調査員を標的にする。揺らいでいる者を、さらに揺らして、寝返らせる。あるいは、利用する。
それは、あの調査員の、たった一度の人間らしさを武器に変えることだった。
ミゼンには、それが、できなかった。あの調査員は、規則を破って、ミゼンを逃した。数字にならないもののために。その行いを、数字にして、利用する。——それをやれば、ミゼンは、あの海がしてくれたことを裏切ることになる。
あの海は、ミゼンを、道具にしなかった。人として、扱った。名を返した。ミゼンも、あの調査員を、道具にしたくなかった。
あの調査員は、ミゼンを、見逃した。数字を測る六人の一人が、数字にならないもののために、規則を破った。
その一度の規則破りを、ミゼンは、材料にはしたくなかった。
いつか、答えを持って戻る。あの調査員に。——それは、戦況とは別の、約束だった。
ミゼンは、目を、閉じた。
外では、砲声が、続いていた。だが、その砲声の、向こうに。
答えを待つ、一人の顔が、あった。
この戦争が終わったとき。あの顔に、答えを渡せるだろうか。
渡せる戦争の終わり方を、選べるだろうか。
憎しみで終わる戦争なら、渡せない。片方が、もう片方を殲滅して終われば、答えを渡す相手は、いなくなる。あの調査員が、生きて、聞く耳を持ったまま終わらなければ、約束は、果たせない。
殿下は、殺さずに退かせろ、と命じた。憎しみの戦いにするな、と。あの命令の意味が、いま、ミゼンには別の重さで分かった。あれは、勝ち方の話であると同時に、終わり方の話でもあった。憎しみを残さない終わり方を、選べれば——答えを、渡せる相手が、残る。
殿下は、たぶん、そこまで考えていた。この戦争を、どう終わらせるかを。始まったばかりの、初日の夜に、既に。
ミゼンには、分からなかった。
分からないまま、ミゼンは、疲れた体を休めた。
証人は、生きて、戻った。
あとは、この証言が、この海をどこへ導くか。
それは、ミゼンの手を離れたところに、あった。
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同じ夜 湾口 亡命艦隊「エイカ」 艦橋
アルセナは、一人、艦橋に立っていた。
初日は、しのいだ。ドラフォの遅延に助けられ、地形に助けられ、そして——ミゼンの情報に助けられた。
五日。
五日、持ちこたえれば。だが、白瀬の懸念が、頭に残っていた。向こうには、五日で勝てる確実な策がある。その策が何かは、分からない。
分からないものに、備えることは、できない。できるのは、目の前の一日をしのぐことだけだった。
アルセナは、覚え書きを開いた。戦場にも、持ってきていた。
「従わない」の、四文字の、下。
書き足せる場所を、空けておいた、その行に。
アルセナは、今日の日付を書いた。そして、その横に、一行。
——初日、しのぐ。証人、帰還。
証人、帰還。
その四文字を、アルセナは、しばらく見ていた。
連れて行かれた者が、戻ってきた。それは、この戦争の、最初の小さな勝利だった。数の上では、何も変わっていない。だが、変わったものが、あった。
戻れる、ということが、証明された。
一度、失われた者が、戻ってくることがある。——その事実は、これから、この海の全員を支えるはずだった。
戦争は、奪う。人を、船を、時間を、命を。奪われたものは、たいてい、戻らない。それが、戦争だった。
だが、今日、一つだけ、奪われたものが戻ってきた。ミゼンが。連れ去られた者が、自分の意志で。
それは、戦況の数字には、乗らない。二十三隻対数隻の絶望的な数字は、ミゼンが戻っても、一つも変わらない。だが、数字に乗らないものが、いちばん人を立たせる。
明日、乗員たちは、この帰還を知るだろう。連れ去られた仲間が、戻ってきたことを。その報せが、明日の乗員たちの背筋を、伸ばすはずだった。奪われても、戻れる。その希望が、数の差とは別のところで、この艦隊を支える。
アルセナは、覚え書きを、閉じた。
北西の空は、まだ、赤かった。
砲火が、続いていた。
だが、その赤い空の下で、一人の証人が、生きて戻ってきた。
それだけは、確かな事実だった。
明日、また、朝が来る。戦いの、二日目が。
アルセナは、その朝を、待った。




