受け入れるという答え
決断の翌日 早朝 旗艦「エイカ」 作戦室
アルセナは、まず、ドラフォを、呼んだ。
夜明け前だった。眠らなかった。眠れなかったのではなく、眠らないことを、選んだ。決めたことを、動かし始めるのに、最初の数刻が、いちばん、大事だった。
ドラフォが、来た。一目で、アルセナの顔を見て、悟った顔を、した。
「決めたか」ドラフォは言った。
「決めた」
「どちらだ」
「従わない」アルセナは言った。
ドラフォは、しばらく、黙っていた。それから、短く、息を、吐いた。
「そうか」
「止めるか」アルセナは言った。
「止めない」ドラフォは言った。「先日、言った。あんたの手だけが、空いている、と。空いた手で、あんたが何をするかは、あんたの、勝手だ。——俺は、俺の手が、塞がっている理由を、変えない。それだけだ」
「艦隊は」
「割らせない」ドラフォは言った。「それが、俺の、最後の仕事になるだろう。——あんたが本国と袂を分かつなら、艦隊の中に、ついていく者と、残る者が、出る。その二つが、殺し合わないように、間に立つ。それは、軍の指揮官である、俺にしか、できん」
アルセナは、ドラフォを、見た。
「お前は、残るのか」
「残る」ドラフォは言った。「俺は、軍人だ。命令に、従う。——だが」
ドラフォは、少し、言葉を、切った。
「本国が、上陸の命令を出したら、俺は、従って、艦隊を動かす。だが、俺は、いちばん、遅く動く。いちばん、下手に動く。命令に、背きはしない。だが、命令を、上手には、こなさない。——それが、俺にできる、精一杯の、抵抗だ」
「わざと、下手に戦うのか」
「わざとではない」ドラフォは言った。「勝てない戦いは、上手にやろうとしても、下手になる。俺は、ただ、それを、直さないだけだ。——直せば勝てるものを、直さない。それは、命令違反ではない。無能だ。無能は、罰せられるが、反逆ではない」
アルセナは、その覚悟を、受け取った。
ドラフォは、反逆せずに、抵抗する道を、選んでいた。従いながら、勝たせない。無能を、演じる。指揮官にとって、無能とみなされることは、反逆者になるより、屈辱だった。その屈辱を、ドラフォは、引き受けようとしていた。
「ドラフォ」アルセナは言った。「すまない」
「謝るな」ドラフォは言った。「俺は、俺の掟に、従っているだけだ。勝てない戦いは、しない。——命令で、せざるを得ないなら、せめて、勝たせない。それが、俺の、掟だ」
「一つ、聞かせろ」アルセナは言った。「お前は、なぜ、俺と一緒に、離反しない。お前の掟に、いちばん、適うのは、それだろう。勝てない戦いを、しないなら、戦わない側に、立てばいい」
ドラフォは、しばらく、黙っていた。
「艦隊のためだ」ドラフォは言った。「俺が離反すれば、艦隊は、指揮官を、失う。指揮官を失った艦隊は、統率を、失う。統率を失った軍は、いちばん、多く、死ぬ。——俺が残るのは、いちばん多く死ぬ形を、避けるためだ」
「お前がいれば、被害が減ると」
「減る」ドラフォは言った。「勝てはしない。だが、無駄死には、減らせる。——勝てない戦いで、俺にできるのは、それだけだ。勝つことではなく、減らすこと。それが、残る俺の、仕事だ」
アルセナは、その論理を、受け取った。
離反する自分が、守るのは、この海の未来だった。残るドラフォが、守るのは、この海で死ぬ者の数だった。二人は、別々のものを、守ろうとしていた。そして、その二つは、どちらも、必要だった。
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同日 午前 旗艦「エイカ」 甲板
次に、アルセナは、乗員を、集めた。
全員では、なかった。集めたのは、この半年、面会や往来に、関わってきた者たちだった。外の民と、実際に、接してきた者たち。
なぜ、その者たちだけを、先に集めたのか。理由は、はっきりしていた。彼らが、いちばん、迷わないからだった。外の民と、接したことのある者は、外の民を、人として、知っている。人として知っている相手を、攻めよと言われて、素直に頷ける者は、少ない。
逆に、接したことのない乗員に、先に告げれば、迷いが、広がる。外の民を、名前のない敵としか知らない者にとって、本国を捨てる理由は、薄い。薄い理由で迷う者が増えれば、艦全体が、揺れる。
だから、まず、迷わない者から、固める。固めた核が、後から、迷う者を、支える。——それが、アルセナの、算段だった。
アルセナは、彼らに、告げた。
本国から、上陸の命令が来たこと。その命令に、自分は、従わないこと。本国と、袂を分かつこと。そして——ついてくるかどうかは、各自の、自由であること。
「残る者を、責めない」アルセナは言った。「本国に、家族のいる者は、残れ。本国への忠誠を、捨てられない者も、残れ。——残ることは、裏切りではない。当然の、選択だ」
乗員たちは、黙って、聞いていた。
「考える時間を、やる」アルセナは言った。「今日、一日。明日の朝までに、決めろ。ついてくる者は、残れ。残る者は、下がれ。——どちらを選んでも、俺は、恨まない」
一人の、若い乗員が、手を、挙げた。
日本語の挨拶を、いちばん熱心に、覚えた乗員だった。ミゼンが運んできた録音を、いちばん、聞いた乗員でもあった。
「殿下」若い乗員は言った。「考える時間は、要りません」
「なぜだ」
「もう、決まっているからです」若い乗員は言った。「私は、ついていきます。——理由は、一つです。ミゼンが、戻ってくるとき、帰る場所が、要ります。その場所を、守るのが、私の役目だと、思います」
アルセナは、その乗員を、見た。
ミゼンが、戻ってくるとき。——その乗員は、ミゼンが、戻ってくることを、前提に、していた。戻らないかもしれない、とは、考えていなかった。
「ミゼンは」アルセナは言った。「戻らないかも、しれん」
「戻ります」若い乗員は言った。「あいつは、証人になった、と聞きました。証人は、証言するまで、死ねません。——だから、戻ります。私は、それを、信じます」
甲板の、何人かが、頷いた。
信じる、という言葉が、甲板に、広がった。証拠ではなく、信。——それは、この半年、外の民から、彼らが、学んだものだった。
ヴァルタの民は、元来、証拠を、重んじる。海の民は、確かめられるものだけを、信じる。潮の高さ。風の向き。星の位置。——確かめられないものに、命を、預けない。それが、海で生きる者の、知恵だった。
その民が、いま、確かめられないものを、信じ始めていた。ミゼンが戻る、という、確かめようのないことを。その変化は、小さくなかった。海の掟が、一つ、書き換わりかけていた。
アルセナは、その甲板を、見渡した。変わったのは、乗員だけではなかった。乗員を、変えたものが、この海に、あった。それを、守るために、自分は、本国を、捨てた。
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同日 午後 ダーウィン基地
アルセナが、基地に来る。
その報せは、レイスを通じて、朝のうちに、届いていた。
面会ではなかった。往来でもなかった。ヴァルタの外交責任者が、公式の予定なく、単身で、基地を、訪れる。——それが、何を意味するかは、告げられていなかった。だが、告げられなくても、日本側は、察していた。
会議室に、赤城、白瀬、十六夜が、いた。豪州側から、ノックスと、カーターが、いた。
アルセナが、レイスと、レナを、伴って、入ってきた。
一同が、立ち上がった。
アルセナは、部屋の中央に、立った。そして、通訳を介さず、自分の言葉で——この半年で覚えた、たどたどしい日本語で、話し始めた。
「私」アルセナは言った。「日本語。少し。話す。——今日。大事な。話。自分の。言葉。したい」
部屋が、静まった。
アルセナが、日本語を話すのを、日本側は、初めて、聞いた。この半年、アルセナは、常に、通訳を介してきた。外交責任者として、正確を期すためだった。その人物が、いま、たどたどしい日本語で、話している。
正確さを、捨ててでも、自分の口で、言いたいことが、ある。——それが、伝わった。
「本国」アルセナは言った。「命令。来た。——この土地。攻める。命令」
部屋の空気が、変わった。
「私」アルセナは言った。「従わない。——決めた」
誰も、声を、出さなかった。
「本国。捨てる」アルセナは言った。「あなたたちの。側。立つ。——でも」
アルセナは、そこで、言葉に、詰まった。次の一言が、この半年で、いちばん、言いにくい一言だった。
「でも。私。行く。場所。ない」アルセナは言った。「本国。捨てたら。——帰る。場所。ない」
アルセナは、続けた。片言のまま。
「私。半年。前。敵。だった」アルセナは言った。「この海。攻める。ため。来た。——あなたたち。覚えて。いる。カ」
赤城が、頷いた。
「今。私。頼む。あなたたちに」アルセナは言った。「昔。敵。だった。者。——助けて。ほしい。と。言う。虫。良い。話。分かって。いる」
言葉を、探した。片言では、追いつかない感情を、片言で、伝えようとしていた。
「でも」アルセナは言った。「半年。あった。——あの半年。無かった。ことに。したく。ない。私も。あなたたちも。積んだ。あれ。守りたい」
そして、アルセナは、頭を、下げた。
ヴァルタの、最高位の作法だった。家柄の高さと、役職の高さ、その両方を、相手に、捧げる形。この半年、一度も、日本側に、見せたことのない、深い、礼だった。
レイスが、その礼の意味を、小さく、補った。
「あの形」レイスは言った。「私たちの。国。——負けた。者。勝った。者。する。形。命。預ける。意味」
命を預ける形。アルセナは、この土地の者たちに、自分の命を、預ける姿勢を、示していた。
「お願い。ある」アルセナは言った。頭を下げたまま。「あなたたちの。海。——私に。帰る。場所。くれる。カ」
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部屋が、静まり返った。
十六夜は、その問いを、聞いていた。
半年前、この人物は、敵だった。艦隊を率いて、この海に、現れた。停戦を、結んだのは、この人物が、話の通じる相手だったからだ。だが、それでも、敵だった。少なくとも、味方では、なかった。
その人物が、いま、頭を下げて、帰る場所を、乞うている。
十六夜が、レイスに問うた、あの問いが、いま、現実の、重みを持って、目の前に、あった。
日本は、帰る場所に、なれるか。
答えるのは、十六夜では、なかった。答えるのは、この場の、いちばん上の者たちだった。赤城。白瀬。そして——この土地の、持ち主である、ノックス。
赤城が、口を、開こうとした。
その前に、ノックスが、言った。
「一つ、確認させてください」ノックスは言った。「アルセナ様。あなたは、いま、オーストラリアの領土に、庇護を、求めておられます。——日本にでは、なく」
アルセナが、頭を、上げた。
「この土地」アルセナは言った。「あなたたちの。土地。——さっき。聞いた。日本。客。あなたたち。主人」
「その通りです」ノックスは言った。「ですから、この答えは、私が、出さなければなりません」
部屋が、ノックスを、見た。
ノックスは、しばらく、アルセナを、見ていた。
「率直に、申し上げます」ノックスは言った。「あなたを受け入れることは、オーストラリアにとって、途方もない、危険です。あなたを受け入れれば、我々は、ヴァルタ本国の、明確な敵になります。あなた一人のために、国が、戦争の、矢面に立つ」
アルセナは、その言葉を、静かに、受け止めた。
「分かって。いる」アルセナは言った。「だから。——断って。良い。私。恨まない」
「最後まで、聞いてください」ノックスは言った。
ノックスは、少し、間を、置いた。
「ですが、断れば、こうなります」ノックスは言った。「帰る場所を求めて、頭を下げた者を、危険だから、と、追い返す。——それをやる国は、次に自分が窮地に立ったとき、誰にも、助けを求められません。見捨てる国は、見捨てられる国です」
ノックスは、アルセナを、まっすぐ、見た。
「オーストラリアは、そういう国では、ありません」ノックスは言った。「受け入れます。——正式な、庇護を、供与します。それが、どれほどの危険を、招くとしても」
アルセナが、ノックスを、見た。
「一つだけ、条件が、あります」ノックスは言った。「あなたを、難民としては、受け入れません」
「難民。では。ない。カ」
「政府として、受け入れます」ノックスは言った。「あなたは、ヴァルタの、正統な外交責任者です。本国の、いまの軍事政権が、正統だという保証は、どこにもない。あなたは、逃げてきた個人ではなく——もう一つのヴァルタの、代表です。そう、扱います」
十六夜は、その言葉に、はっと、した。
難民ではなく、政府。——それは、亡命政権を、認める、ということだった。
ノックスは、この一瞬で、アルセナの立場を、個人から、国家へ、引き上げた。個人なら、庇護は、温情になる。国家なら、庇護は、承認になる。承認された政府は、正統性を、持つ。
「なぜ」アルセナは言った。「そこまで」
「実利です」ノックスは、正直に言った。「あなたを、政府として立てれば、本国の侵攻は、内政干渉ではなく、正統政府への攻撃になります。国際的な、大義が、こちらに立つ。——温情だけでは、ありません。計算も、あります」
「計算」
「計算です」ノックスは言った。「ですが、計算だけでも、ありません。——両方です。人は、たいてい、両方で、動きます」
「一つ、私からも」赤城が、言った。「日本の立場を、申し上げておきます」
アルセナが、赤城を、見た。
「日本は、この土地の、客です」赤城は言った。「庇護を供与するのは、豪州です。それが、正しい。ですが——豪州が、あなたを政府として立てるなら、日本は、その政府を、真っ先に、承認します。二番目ではなく、一番目に」
「なぜ。一番目。カ」
「二つの文明が、最初に言葉を交わしたのは、この海だからです」赤城は言った。「その最初の相手を、我々は、見捨てない。——それは、豪州の計算とは、別の、日本の、筋です」
ノックスが、赤城を、見て、小さく、頷いた。豪州の計算と、日本の筋。二つが、同じ方向を、向いていた。
アルセナは、しばらく、ノックスを、そして赤城を、見ていた。
そして、もう一度、頭を、下げた。今度は、礼としてではなく、承諾として。
「受ける」アルセナは言った。「もう一つの。ヴァルタ。——始める」
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同日 夕方 会議室
受け入れは、決まった。だが、決まった瞬間から、事態は、動き始めた。
「時間が、ありません」白瀬が言った。「アルセナ様が離反したことは、遠からず、本国に、伝わります。伝われば、本国は、動きます。——上陸命令の、実行を、早める可能性が、高い」
「どのくらいだ」赤城が聞いた。
「分かりません」白瀬は言った。「ですが——覚悟しておくべきです。数日、かもしれません」
カーターが、海図を、広げた。
「北岸の防衛は、この数日で、上げてきました」カーターは言った。「ですが、まだ、途上です。全部が、整うには、あと、二週間は、要る。——二週間は、ないでしょうね」
「ない」白瀬は言った。
部屋が、静かになった。
「一つ、報告が、あります」レイスが、言った。この日、レイスは、通訳ではなく、ヴァルタ側の一員として、この場に、いた。
全員が、レイスを、見た。
「監察団。三隻。本国。帰った」レイスは言った。「でも——本国。艦隊。もう一つ。ある」
「もう一つ」
「監察団。三隻。偵察。だけ」レイスは言った。「攻める。艦隊。別。です。——本国。港。今。集まっている。と。聞いた」
十六夜が、ペンを、止めた。
三隻は、偵察に過ぎなかった。本当の艦隊は、別にある。そして、いま、本国の港に、集結しつつある。
「規模は」カーターが聞いた。
「分からない」レイスは言った。「でも——三隻。より。ずっと。多い」
「いつ、その情報を」白瀬が聞いた。
「今朝」レイスは言った。「殿下。離反。決めた。あと。——殿下。私に。教えた。もう。隠す。必要。ない。から」
部屋が、静かになった。アルセナは、離反を決めるまで、この情報を、伏せていた。伏せていたのは、日本を欺くためではなく——本国の乗員として、まだ、本国の機密を、抱えていたからだった。離反した瞬間、その機密は、共有すべきものに、変わった。
「一つ、確認します」カーターが言った。「その攻撃艦隊は、監察団と、連携していましたか。それとも、別の指揮系統ですか」
レイスが、少し、考えた。
「別」レイスは言った。「監察団。評議会。攻撃艦隊。——軍。です。別の。命令。別の。人。動かす」
「二つの系統が、別々に動く」カーターは言った。「厄介ですね。片方と話がついても、もう片方は、止まらない」
「あの六人」十六夜が言った。「技術調査員は、どちらでしたか」
レイスは、その問いに、はっきり、答えた。
「六人。攻撃艦隊。です」レイスは言った。「監察団。じゃ。ない。——最初。から。攻撃。側。だった」
十六夜は、その一言で、最後の空白が、埋まるのを、感じた。役所の名を持たない六人。監察官より上かもしれない六人。——彼らは、攻撃艦隊の、先遣だった。監察に、紛れて、来た。監察は、彼らを運ぶための、隠れ蓑だった。
四つの引っかかりが、一つの絵に、完全に、なった。
そして、その絵の名前は、侵攻の準備、だった。推論では、なかった。もう、事実だった。
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同じ夜 旗艦「エイカ」改め、亡命艦隊 甲板
アルセナは、甲板に、出ていた。
この艦は、もう、本国の艦では、なかった。今日、本国を、捨てた。だが、艦の名は、まだ、変えていなかった。「エイカ」のままだった。
名を変えるのは、いつでも、できる。だが、今夜は、まだ、変えたくなかった。半年、この名の艦で、この海を、守ってきた。その名を、性急に、捨てたくは、なかった。
甲板から、北西を、見た。
三隻は、もう、いなかった。だが、その向こう——もっと、遠くに、別の艦隊が、集まりつつある。まだ、見えない。だが、来る。近いうちに。三隻より、ずっと、多い数で。
レナが、隣に、来た。
「殿下」レナは言った。「乗員の、返事が、出そろいました」
「どうだった」
「予想より、多く、残りました」レナは言った。「ついていくと、決めた者が」
「どのくらいだ」
「三分の二です」レナは言った。「三分の二が、殿下に、ついていくと」
アルセナは、その数字を、聞いて、しばらく、黙っていた。
三分の二。予想より、多かった。半年前なら、考えられない数だった。半年前、この乗員たちは、外の民を、敵と見ていた。その三分の二が、いま、本国を捨ててでも、外の民の側に立つと、決めた。
この半年が、彼らを、変えた。
言葉が、作法が、名前が、彼らを、変えた。ミゼンが運んだ荷が。レイスが教えた作法が。若い乗員が真似た、下手な日本語が。——測れないものが、三分の二の乗員の、心を、動かした。
本国が、勘定に入れなかった、あの、測れないものが。
そして、と、アルセナは思った。この三分の二は、これから、いちばん、苦しい立場に、立つ。
本国から見れば、反逆者だった。かつての同胞から、裏切り者と、呼ばれる。攻撃艦隊が来れば、その艦隊には、昨日までの、仲間が、乗っている。同じ言葉を話し、同じ海で育った者たちと、撃ち合うことになる。
外の民との戦いより、それは、苦しい。外の民となら、憎しみで、戦える。だが、同胞とは、憎めない。憎めない相手と、撃ち合う。——それが、この三分の二が、これから、背負うものだった。
その苦しさを承知で、三分の二が、残った。承知していないはずが、なかった。彼らは、海の民だ。同胞と撃ち合うことの意味を、誰よりも、知っている。知った上で、残った。
だからこそ、その選択は、重かった。
「レナ」アルセナは言った。「残る三分の一は」
「明日、本国へ、帰す手配を、します」レナは言った。「危害は、加えません。——彼らも、この半年を、共にした、仲間です」
「そうしてくれ」
アルセナは、もう一度、北西を、見た。
来る。
近いうちに、あの水平線に、三隻ではなく、艦隊が、現れる。そのとき、この海で、何が起きるか。アルセナには、分かっていた。
戦争が、起きる。
「私たち。あなたたち。戦わない」——半年前、この海で、結んだ、あの宣言。二つの文明の、最初の、約束。
その約束は、破られる。
だが、破るのは、この海の者ではない。この海の、日本も、豪州も、亡命した艦隊も、誰も、戦いたくは、ない。
破るのは、この海を、一度も見たことのない、遠くの、机だった。
遠くの机は、この海の、何も、知らなかった。停戦の日の、水を交わす儀式を、知らない。作法を教え合った、午後を、知らない。若い乗員が、下手な日本語で、笑われた、あの声を、知らない。ミゼンが、二つの名を持って、立った、あの位置を、知らない。
知らないから、破れた。
もし、遠くの机の上に座る者が、一度でも、この海に、来ていたら。一度でも、あの午後の、面会室に、いたら。——同じ命令を、書けただろうか。
書けたかもしれない。人は、知っていても、残酷になれる。だが、少なくとも、いまより、重かったはずだった。
知らないことは、罪を、軽くする。知らないから、遠くの机は、軽々と、この海の、運命を、決めた。
アルセナは、甲板の、手すりを、握った。
明日から、この海は、二つの月かけて積んだものを、守る戦いに、入る。
守れるかどうかは、分からなかった。
だが、守るために、立つ。
それだけは、もう、決まっていた。
北西の水平線は、まだ、静かだった。
だが、その静けさは、長くは、続かない。
灯りの消えた甲板で、アルセナは、来るべきものを、待っていた。




