空いた手
監察最終日 三隻の投錨地
監察は、七日で、終わった。
七日目の朝、三隻は、錨を上げた。北西へ、来た方角へ、帰っていった。ミゼンを、乗せたまま。
去り際に、監察官ヴェイルから、アルセナへ、短い文書が、届いた。
——監察に、協力を感謝する。所見は、本国にて、報告する。
それだけだった。良いとも、悪いとも、書いていなかった。ヴェイルは、最後まで、判断を、口にしなかった。判断は、自分の仕事ではない。そう言い続けた人物の、最後の文書らしい、文書だった。
アルセナは、甲板から、三隻が去るのを、見送った。
見送りに、意味は、なかった。儀礼ですらなかった。ただ、去るのを、見ておきたかった。何が去っていくのかを、目に、焼き付けておきたかった。
三隻のうちの一つに、ミゼンが、乗っていた。どの艦かは、分からなかった。三つとも、同じように、遠ざかっていった。アルセナは、その三つを、等しく、見送った。どれか一つに、あの乗員がいる。それだけで、三つ全部が、少し、重く、見えた。
ミゼンは、甲板に、出ているだろうか。もし出ているなら、この海を、振り返っているだろうか。——アルセナには、確かめる術が、なかった。
三隻が、水平線の向こうに、消えた。
海は、静かになった。二つの月の間、この海域を圧していた緊張が、艦が去ると同時に、抜けたように、感じられた。
だが、アルセナは、知っていた。
抜けたのではない。移動したのだ。緊張は、この海域から、本国の机の上へ、移った。三隻が運んでいったのは、ミゼンだけではない。この海域の全部を——港の長さも、水深も、結びつきの見えない数字も——本国へ、運んでいった。
いや、と、アルセナは、思い直した。
運んでいけなかったものも、ある。
三隻が測れたのは、測れるものだけだった。港の長さ。水深。滑走路の耐荷重。数字になるものは、全部、運ばれた。だが、数字にならないものは、この海に、残った。若い乗員が日本語を真似た、あの笑い。レイスが作法を教えた、あの午後。ミゼンが二つの名を持って立った、あの位置。——それらは、船には、積めなかった。
積めなかったものが、この海に、残っている。
そして、本国が判断するのは、積めたものだけを、材料にして、だった。積めなかったものは、判断に、入らない。入らないまま、この海の運命が、決まる。
そこから先が、始まる。
いつ始まるかは、分からなかった。
だが、遠くはない、ということだけは、分かっていた。
────
監察後 二日目 ダーウィン基地
監察団が去って、面会が、再開した。
レイスが、面会室に来た。二つの月ぶりの、通常の面会だった。
だが、話す議題は、以前とは、違っていた。物資の受け渡しでも、言葉の確認でも、なかった。
「イザヨイ」レイスは言った。「ミゼン。無事。かどうか。——分からない」
「連絡は、ないのですか」
「ない」レイスは言った。「船。本国。着いた。頃。——でも。何も。来ない」
十六夜は、頷いた。
「一つ、聞いていいですか」十六夜は言った。この日の面会から、片言ではなく、通常の日本語で問うことが、増えていた。レイスの理解が、そこまで、上がっていた。「アルセナ様は——これから、どうされるおつもりですか」
レイスは、少し、黙った。
「分からない」レイスは言った。「殿下。何も。言わない。——でも」
「でも」
「毎晩。作戦室。一人。いる」レイスは言った。「覚え書き。開いて。——何か。考えて。いる」
「食事は、とられていますか」
「少し」レイスは言った。「レナ。心配。している。——でも。殿下。大丈夫。と。言う。だけ」
「眠れて、いますか」
「分からない」レイスは言った。「朝。目。赤い。——たぶん。眠れて。いない」
十六夜は、その様子を、想像した。
アルセナが、覚え書きを前に、一人でいる。書くべき一行を、まだ、書かずに。
「レイス」十六夜は言った。「もし、アルセナ様が、本国と、袂を分かつとしたら——日本は、どう応えるべきだと思いますか」
レイスは、驚いた顔を、した。
「あなた。それ。聞く。カ」
「聞きます」十六夜は言った。「白瀬さんにも、赤城さんにも、この問いは、もう、渡してあります。——考えておくべきことだと、思うからです」
レイスは、しばらく、十六夜を、見ていた。
「殿下。孤独。です」レイスは言った。「本国。捨てる。かもしれない。捨てたら。——帰る。場所。ない」
「日本が、帰る場所に、なれますか」
「なれる。カ」レイスは、聞き返した。
「分かりません」十六夜は言った。「ですが、なろうとする用意は、しておきたい。——誰かが、帰る場所を失うとき、そこに、別の場所を差し出せるかどうか。それは、たぶん、この半年、私たちが積んできたことの、答え合わせです」
レイスは、しばらく、黙っていた。
「イザヨイ」レイスは言った。「一つ。聞いて。いい。カ」
「はい」
「あなた。なぜ。そこまで。する。カ」レイスは言った。「殿下。あなたたちの。人。じゃ。ない。私も。違う。——なぜ。帰る。場所。用意。する。カ」
十六夜は、少し、考えた。
「三つ、理由があります」十六夜は言った。「一つ。実利です。アルセナ様が、こちらの側に立てば、こちらは、ヴァルタの内部を知る、味方を得ます。それは、大きい」
「二つ目」
「二つ目。恩です」十六夜は言った。「この半年、こちらが困ったとき、あちらは、いつも、助けてくれました。作法を教えてくれた。錨地の変更の意味を、そっと示してくれた。技術調査員のことを、危険を冒して、教えてくれた。——受けた恩は、返すのが、筋です」
「三つ目」
十六夜は、少し、言い淀んだ。
「三つ目は、理屈では、ありません」十六夜は言った。「——見捨てたく、ないんです。それだけです。半年、一緒にやってきた人が、行き場を失うのを、見て、見ぬふりをする。それが、できない。理屈では、ないんです」
レイスは、その三つ目に、いちばん、長く、目を留めた。
「三つ目」レイスは言った。「それ。私たちの。言葉。も。ある」
「なんと言うんですか」
レイスは、ヴァルタの言葉で、短く、言った。それから、日本語に、移した。
「見捨てない。——それ。海の。掟。です」レイスは言った。「海。落ちた。者。拾う。敵。でも。拾う。——それ。海の。民。いちばん。古い。掟」
十六夜は、その言葉を、書き取った。
海に落ちた者を拾う。敵でも。——ミゼンが、そうやって、拾われたことを、十六夜は、思い出した。
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監察後 三日目 旗艦「エイカ」 作戦室
命令は、その夜に、来た。
本国から。最速の伝令で。
三隻が本国に着いてから、わずか、数日。報告が読まれ、判断が下され、命令が返ってくるまでの時間として、それは、異様に、短かった。
短いということは、迷いが、なかったということだった。
本国が、この報告を、まともに読んで、議論して、判断したなら——数日では、済まない。評議会が招集され、意見が交わされ、反対も出る。そういう過程を経れば、命令は、もっと、遅く来る。
こんなに速いのは、過程が、なかったからだ。
あるいは——三隻が発つ前から、答えは、決まっていたということだった。監察は、判断のための材料集めではなかった。既に下された判断を、正当化するための、手続きだった。
アルセナは、そこに気づいて、背筋が、冷えた。
もし、そうなら——監察団は、判断のためではなく、確認のために、来た。侵攻すると決めた上で、侵攻できるかを、確かめに来た。港の長さも、水深も、侵攻の可否を判断する材料ではなく、侵攻の計画を立てる材料だった。
そして、その計画は、いま、本国の机の上で、既に、引かれ始めている。
アルセナは、その命令書を、受け取った。
封の印は、これまでのどれよりも、高い位置に、あった。評議会の、最高位の印。この海域に、この印の文書が届くのは、初めてだった。
アルセナは、封を、切った。
指が、少し、震えた。外交を長くやってきて、無数の文書を、開いてきた。だが、その手が、震えたことは、なかった。今夜、初めて、震えた。
震えた理由を、アルセナは、知っていた。封を切る前から、中身が、分かっていたからだ。分かっていて、それでも、違う中身であることを、心のどこかで、願っていた。願いながら、封を、切った。
読んだ。
願いは、叶わなかった。
長い、命令ではなかった。
──貴艦隊は、当該大陸北岸への、上陸作戦を、準備せよ。作戦開始は、追って指示する。目標は、沿岸拠点の、確保。抵抗する勢力は、排除して、構わない。
排除して、構わない。
その一文を、アルセナは、二度、読んだ。
抵抗する勢力。それは、日本を、指していた。この土地の民を、指していた。この半年、言葉を交わし、作法を教え合い、名を呼び合った、あの人々を。
「抵抗する勢力」と、本国は、書いた。名前を、書かなかった。日本とも、この土地の民とも、書かなかった。ただ、「抵抗する勢力」と。
名前を書かないのは、都合が良かったからだ、とアルセナは思った。名前を書けば、相手が、人になる。人を排除せよ、とは、書きにくい。だが、「抵抗する勢力」なら、書ける。名前のない、勢力。顔のない、障害物。——そう書くことで、本国は、あの人々を、人でなくした。
赤城という名も、白瀬という名も、十六夜という名も、レイスという名も、本国は、知らない。知らないから、排除、と書ける。
もし、本国が、あの人々の名を、一つでも知っていたら。作法を教えるレイスの、あの目を、一度でも見ていたら。——同じ命令を、書けただろうか。
書けたかもしれない。書けなかったかもしれない。だが、少なくとも、いまより、ためらったはずだった。
名を知ることは、排除を、難しくする。だから、本国は、名を、知ろうとしなかった。
排除して、構わない。
アルセナは、命令書を、机に、置いた。
そして、その隣に、覚え書きを、開いた。
いちばん下の、空けておいた行が、あった。本国が埋める行ではなく、自分が埋める行、と、先日、思い定めた、その行が。
アルセナは、筆を、取った。
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しばらく、筆を、持ったまま、動かなかった。
書くべき言葉は、二つ、あった。
「従う」。
「従わない」。
どちらを書くかで、この海の、運命が、決まる。
アルセナは、「従う」の側を、まず、考えた。
従えば、命令通り、上陸作戦を、準備する。艦隊は、動く。ドラフォが指揮を執る。勝てない戦いだと、二人とも知っている。だが、命令だ。従えば、少なくとも、自分は、反逆者には、ならない。艦隊は、割れない。本国の秩序の中に、留まる。
そして、この半年が、全部、無に帰す。
言葉も、作法も、名前も。ミゼンが運んだ荷も、レイスが教えた作法も、十六夜が積んだ言語も。全部、無意味になる。無意味どころか——それらは、攻撃を、容易にするための、下準備だったことに、なる。
親しくなったのは、油断させるためだった。言葉を覚えたのは、内情を知るためだった。作法を教えたのは、こちらの目を、欺くためだった。
そう、読まれる。この半年の全部が、裏切りの、道具に、なる。
そして、その読み方は、あの人々にも、届く。
赤城は、思うだろう。あの停戦は、罠だったのか、と。白瀬は、記録を、読み返すだろう。どこで、欺かれ始めたのか、と。十六夜は、レイスとの、全部の対話を、疑うだろう。あの作法の講習は、何のためだったのか、と。
そして、レイス。
レイスは、いちばん、深く、傷つくだろう。あの人は、作法を教えるとき、こう言った。守ってほしいのではない、知ってほしい、と。選ばせる形を、わざわざ選んだ。その誠実が、全部、演技だったことに、される。
アルセナには、それが、耐えられなかった。
自分が裏切り者になることより、レイスの誠実が、演技にされることの方が、耐えられなかった。
アルセナは、その未来を、想像して——耐えられない、と思った。
次に、「従わない」の側を、考えた。
従わなければ、反逆者になる。本国の秩序から、外れる。帰る場所を、失う。ドラフォの言った通り、外交責任者である自分が抜けても、艦は割れない。だが、割れない代わりに、自分は、一人になる。本国からも、艦隊からも、切り離された、一人に。
そして——この半年が、意味を、持ち続ける。
言葉も、作法も、名前も。それらは、裏切りの道具では、なくなる。守るべきものに、なる。守るために、自分は、本国を、捨てる。
だが、それは、簡単なことでは、なかった。
本国を捨てるということは、本国にいる、全ての者を、捨てるということだった。アルセナには、本国に、家族が、いた。育った海が、あった。仕えてきた評議会が、あった。それらを、全部、置いて、外の民の側に、立つ。
裏切り者、と呼ばれるのは、あの人々にでは、ない。本国の、家族に、だった。アルセナの選択は、本国にいる家族を、反逆者の縁者に、する。
その重さを、アルセナは、知っていた。知った上で、なお、天秤は、傾いていた。
なぜ傾くのか。理屈では、説明できなかった。本国の家族と、この海の人々。どちらが大切かと問われれば、答えられない。答えられないのに、天秤は、この海の側に、傾いていた。
たぶん、と、アルセナは思った。半年、共にいた、ということの、重さだった。家族とは、この半年、会っていない。この海の人々とは、この半年、毎日、会っていた。毎日の積み重ねが、血の繋がりを、上回りかけていた。
それが、正しいかどうかは、分からなかった。だが、それが、事実だった。
捨てて、どこへ行くか。
行き先は、一つしか、なかった。
日本。あるいは、この土地の民の、側。
十六夜が、レイスに問うたという、あの問い。「日本が、帰る場所に、なれますか」。——その問いの答えが、いま、自分の、書く一行に、かかっていた。
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アルセナは、筆を、置いた。
書けなかった。
まだ、書けなかった。
一人で書くには、この一行は、重すぎた。
アルセナは、立ち上がり、扉を、開けた。
「レナ」
レナは、扉の外に、いた。いつものように。だが、今夜は、いつもより、近くに、いた。まるで、呼ばれるのを、待っていたかのように。
「聞いていたか」アルセナは言った。
「命令書の、内容は、存じません」レナは言った。「ですが——殿下が、迷っておられることは、分かります」
「迷っている」アルセナは言った。「初めて、だ。外交で、これほど、迷ったことは、ない」
「外交では、ないからです」レナは言った。
アルセナは、レナを、見た。
「これは、外交の、判断では、ありません」レナは言った。「外交は、利害の、計算です。ですが、今夜の判断は——利害では、ありません。何を、守るか、です。守るものを、選ぶのは、計算では、ありません」
「何だと言うんだ」
「生き方です」レナは言った。「殿下が、どういう者として、生きるか。それを、選んでおられるのだと、思います」
「生き方なら」アルセナは言った。「間違えても、いいのか」
「間違えます」レナは言った。「生き方の選択に、正解は、ありません。あるのは、選んだ後で、それを正解にしていく努力だけです。——どちらを選んでも、間違いにも、正解にも、なります。選んだ後の、殿下次第です」
「厳しいことを、言うな」
「殿下が、お強いからです」レナは言った。「弱い方には、慰めを。強い方には、事実を。——殿下には、事実を、申し上げます」
アルセナは、しばらく、レナを、見ていた。
「お前は、どう思う」アルセナは言った。「俺が、どちらを、選ぶべきだと」
「申し上げません」レナは言った。
「なぜだ」
「これは、殿下が、お一人で、選ぶべき、一行です」レナは言った。「誰かに、選ばされたのでは、生き方に、なりません。——私が申し上げれば、殿下は、私に従ったことに、なります。それでは、意味が、ありません」
アルセナは、その言葉を、受け取った。
レナは、続けた。
「ですが、一つだけ、申し上げます」レナは言った。「殿下が、どちらを、お選びになっても——私は、殿下の、そばに、おります。従うと決めれば、従う殿下のそばに。従わないと決めれば、従わない殿下のそばに。——それだけは、私が、選びました」
アルセナは、レナを、見た。
長く、この従者と、共にいた。海に落ちたミゼンを拾ったときも、レナは、そばにいた。この半年の、全部の面会に、レナは、いた。
「お前を、道連れに、するかもしれん」アルセナは言った。
「道連れ、では、ありません」レナは言った。「同行、です。——私が、選んで、ついていく。それは、道連れとは、言いません」
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アルセナは、作戦室に、戻った。
覚え書きの前に、座った。
空けておいた行を、見た。
もう、迷いは、なかった。レナの言葉が、迷いを、消したのではなかった。レナは、答えを、言わなかった。ただ、どちらを選んでも、一人ではない、と言った。
一人ではない、と分かれば、選べた。
一人で、本国を捨てるのは、怖かった。だが、一人ではないなら——捨てられる。
アルセナは、筆を、取った。
そして、空けておいた、その行に、書いた。
一文字ずつ、確かめるように。
──従わない。
書いた。
書く手は、もう、震えていなかった。命令書の封を切るとき、震えた手が、この四文字を書くときには、止まっていた。迷っている間は、震える。決めてしまえば、震えない。決断は、恐怖を、消しはしない。だが、震えは、止める。
書いてしまえば、あっけないほど、短い一行だった。二つの月かけて空けておいた場所に、たった、四文字。
だが、その四文字が、アルセナの、生き方を、決めた。本国からも、艦隊の秩序からも、外れる。帰る場所を、失う。反逆者に、なる。
なる。
だが——この半年を、無意味には、しない。
アルセナは、書いた一行を、しばらく、見ていた。
窓の外は、暗かった。三隻は、もう、いなかった。海は、静かで、暗く、そして、自由だった。
明日、この決断を、動かし始める。
やるべきことは、多かった。そして、順番を、間違えれば、全部が、崩れる。
まず、ドラフォだ。ドラフォには、真っ先に伝えなければならない。ドラフォが、こちらの動きを、本国への反逆として、力で止めにかかれば、艦隊は、そこで割れる。だが、ドラフォは、先日、言った。あんたの手だけが、空いている、と。あれは、黙認の、約束だった。——たぶん、ドラフォは、止めない。止めないどころか、割れないように、軍を、抑えてくれる。
次に、艦隊の乗員たちだ。全員が、こちらについてくるとは、限らない。本国に、家族のいる者。本国への忠誠を、捨てられない者。——そういう者を、無理に、連れてはいけない。残りたい者は、残す。その選別を、どうやって、艦隊を割らずに、やるか。
そして、最後に、日本だ。
ドラフォに、伝える。艦隊を、どう割らずに導くか、考える。そして——日本に、告げる。
告げる相手の、顔が、浮かんだ。
赤城。白瀬。十六夜。そして、レイス。
一人ずつ、顔を、思い浮かべた。半年前、こちらが敵だった頃の、彼らの顔は、知らない。知っているのは、この半年で、少しずつ、警戒を解いていった、その顔だった。最初は硬かった赤城の表情が、やわらいでいった過程。白瀬が、こちらの言い分を、初めて認めた日。十六夜が、作法を教わって、頭を下げた午後。レイスの、あの、目のあたりで笑う笑い方。
その全部を、いま、賭ける。
あの人々に、こう告げる日が、来た。
私は、本国を、捨てる。あなたたちの、側に、立つ。——受け入れて、くれるか。
十六夜が、レイスに問うたという、あの問いが、いま、逆向きに、なって、返ってくる。
日本は、帰る場所に、なれるか。
その答えを、聞きに行く日が、明日から、始まる。
アルセナは、覚え書きを、閉じた。
閉じた表紙の上に、しばらく、手を、置いていた。
二つの月の、記録。往来。面会。合意。そして、最後の、四文字。
この一冊が、いつか、一つの国の、始まりの記録に、なるかもしれなかった。
本国ではない、もう一つのヴァルタの。
まだ、名前もない、その国の。
名前は、いつか、つける。だが、今夜は、まだ、いい。名前のない国の、名前のない始まりが、この覚え書きの、最後の四文字から、始まる。
アルセナは、灯を、消した。
暗い作戦室で、しばらく、目を、閉じていた。
明日から、眠れない日々が、始まる。だから、今夜は、少しでも、眠っておくべきだった。
だが、目を閉じても、浮かぶのは、明日、告げに行く、あの人々の顔ばかりだった。
受け入れて、くれるだろうか。
その問いだけが、暗闇の中で、繰り返し、鳴っていた。




