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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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証拠のない確信

監察四日目 ダーウィン基地 解析室


ミゼンが移送された朝、解析室は、静かだった。


十六夜は、いつも通り、出勤した。いつも通り、前夜の解析出力に目を通した。いつも通り、束を薄くしていった。


いつも通りにしようと、していた。


だが、一つ、いつも通りではないことが、あった。


面会が、なかった。


この日の午後、面会は、予定されていなかった。監察の期間中、レイスは通訳に取られ、通常の面会は、止まっていた。ミゼンの往来も、当然、なくなった。


二つの文明をつないでいた二本の糸が、同時に、止まっていた。


十六夜は、その静けさの中で、一つのことを、していた。


証拠を、探していた。


四つの引っかかりを、侵攻の準備、という一語で束ねた。束ねたはいいが、それは、まだ、推論だった。推論を、政府が動く根拠にするには、足りない。もう一つ、決定的なものが、要った。


推論を、事実に変える、一枚の何か。


十六夜は、それを、探していた。


四日分の記録を、全部、机に広げた。質問の三十九問。視察の順路の記録。ターナーが取った、六人の動きの写し。レイスの証言の要点。ミゼンの移送文書の写し。——並べて、一つずつ、見返した。


どれも、状況証拠だった。状況証拠は、いくら積んでも、状況証拠だった。百の状況証拠は、一つの物証には、勝てない。裁判なら、そう教わる。外交でも、同じだった。


物証が、要った。侵攻の命令書。作戦の図面。日付の入った指令。——そういう、動かせない一枚。だが、そんなものが、こちらの手に入るはずが、なかった。それは、向こうの、いちばん奥にある。奥にあるものは、始まる瞬間まで、外に出ない。


そして、探せば探すほど、無いことが、分かってきた。


────


「決定的な証拠は、たぶん、出ません」


夕方の会議室で、十六夜は、そう言った。


「なぜだ」赤城が聞いた。


「向こうが、上手いからです」十六夜は言った。「この四日間、監察団のやったことは、全部、正当化できます。質問も、視察も、ミゼンの移送も。一つ一つは、監察として、説明がつく。——違法なことを、一つも、していません」


「だが、全体としては」


「全体としては、侵攻の準備に見える」十六夜は言った。「ですが、『全体として、そう見える』は、証拠になりません。裁判でも、外交でも、そうです。個々の行為が合法なら、全体を違法とは、言えない」


白瀬が、頷いた。


「十六夜さんの言う通りです」白瀬は言った。「これは、意図の問題です。同じ行為が、善意にも悪意にも、読める。そして、意図は、証明できない。心の中は、覗けません」


「たとえば」白瀬は続けた。「錨地の変更。あれは、視界のために選んだ、と読めます。ですが、向こうは、こう言えます。停泊の安全のために選んだ、と。——反論できません。海の民が、自分の艦の安全を、こちらより知らないとは、言えない」


「設備の質問も」十六夜が言った。「協力の準備のため、と言われれば、それまでです」


「ミゼンの移送も、協力の要請、と言い張れます」白瀬は言った。「全部、二通りに読める。そして、向こうは、善意の側の読みを、いつでも、主張できる。——こちらが、悪意の側の読みを、証明しない限り」


「証明は、できない」


「できません」白瀬は言った。「悪意は、行為の中には、ありません。行為の、その先にしか、ない。——撃つまでは、撃つつもりだったことを、証明できない」


「では、どうする」赤城が言った。「証拠が出ないなら、政府は、動かないぞ」


部屋が、静かになった。


「動かせません」白瀬は言った。「正直に、申し上げます。いまの材料で、東京とキャンベラを、本気で動かすのは——難しい」


「なぜだ。これだけ、揃っていて」


「揃っているのは、こちらの解釈です」白瀬は言った。「政府が動くには、解釈ではなく、事実が要ります。『侵攻の準備の可能性がある』では、動けない。『侵攻の準備である』という、確定した事実が、要る。——それは、たぶん、侵攻が始まるまで、確定しません」


「始まってから、では、遅い」


「遅いです」白瀬は言った。「これが、この種の事態の、いちばん、たちの悪いところです。確定したときには、手遅れになっている。手遅れになる前は、確定していない。——確定と、手遅れが、同時に来る」


カーターが、腕を組んでいた。


「軍では、それを、こう言います」カーターが言った。「『確証を待つ者は、初弾を受ける』」


────


「一つ、やれることが、あります」ノックスが言った。


全員が、ノックスを見た。


「証拠を、待つのをやめる」ノックスは言った。「証拠が出ないなら、証拠がないまま、動ける範囲で、動く」


「動ける範囲、というのは」


「防御は、意図の証明を、要しません」ノックスは言った。「攻撃には、相手の悪意の証明が要ります。ですが、防御を固めるのに、相手が悪人だと証明する必要は、ない。——ただ、備えるだけなら、証拠は、要らない」


白瀬が、顔を上げた。


「北岸の、防衛態勢を、静かに、上げる」ノックスは言った。「これは、豪州が、自国の領土で、自国の判断で、やれることです。誰の許可も、要りません。侵攻があると確定していなくても、備えることは、できる」


「ですが」十六夜が言った。「北岸の態勢を上げれば、それは、向こうに、見えます。——第一報のときに、白瀬さんが言った話と、同じです。こちらが警戒したことが、報告書に載る」


「載せればいい」ノックスは言った。


部屋が、静かになった。


「もう、遠慮する段階では、ないと思います」ノックスは言った。「第一報のときは、まだ、相手の善意を、信じる余地がありました。だから、警戒を、隠した。ですが、四日間、見てきて——私は、善意の側に、賭けるのを、やめました」


「賭けを、変える、と」白瀬が言った。


「変えます」ノックスは言った。「これまでは、平和である方に、賭けてきました。賭けが当たれば、警戒は無駄になる。無駄で済むなら、それでいい。——ですが、いまは、逆の賭けに、乗り換えます。侵攻がある方に、賭ける。賭けが外れれば、備えが無駄になる。それでいい。無駄な備えは、誰も殺しません」


「一つ、危険が、あります」十六夜が言った。「備えが、向こうを、刺激する可能性です。向こうに、まだ、迷いがあるとして——こちらが備えを固めれば、その迷いを、消してしまうかもしれません。備えたことが、開戦の口実に、使われる」


「その可能性は、あります」ノックスは、認めた。「ですが、十六夜さん。——迷っている相手に配慮して、備えを緩める。それは、相手の迷いに、こちらの命を、預けることです。私は、預けたくない」


十六夜は、しばらく黙って、それから、頷いた。


「おっしゃる通りです」十六夜は言った。「私の懸念は、正しい。ですが、正しい懸念が、正しい選択とは、限りません。——備えるべきです」


赤城が、頷いた。


「無駄な備えは、誰も殺さない」赤城は、繰り返した。「良い、言葉です」


「軍人の、言葉です」カーターが言った。「昔から、そう言います。——付け加えると、もう半分が、あります。『足りない備えは、味方を殺す』。両方で、一つの言葉です」


部屋が、静かになった。


「今夜から、動きます」ノックスは言った。「キャンベラに、私の名前で、上げます。証拠はない、と正直に書きます。ですが、備えは要る、と。——証拠がないことを認めた上で備えを求める。それが、いちばん、通りにくい。ですが、いちばん、誠実です」


────


同日 夜 旗艦「エイカ」 私室


アルセナのもとに、報告が、上がっていた。


ミゼンの移送は、滞りなく、済んだ。監察団の艦に、移された。以降、ミゼンの様子は、こちらには、伝わってこない。


ミゼンのいなくなった艦は、少し、静かだった。


ミゼンは、乗員の一人に過ぎなかった。多くの乗員のうちの、一人。いなくなっても、艦の運用に、支障は出ない。出ないはずだった。


だが、静かだった。


若い乗員たちが、日本語を真似て騒ぐことが、なくなっていた。ミゼンが録音を運んでこなくなったからだ。運び手がいなくなれば、運ばれていたものも、止まる。艦の中の、小さな笑いが、一つ、消えていた。


そんな小さなことが、アルセナには、いちばん、応えた。


そして、もう一つ、報告が、あった。


日本側が——正確には、この土地の民が、北岸の警戒を、上げ始めた。


アルセナは、その報告を、聞いて、少し、目を閉じた。


気づかれた、と思った。


日本側は、あるいは、この土地の民は、何かに、気づいた。だから、備え始めた。彼らが、何を、どこまで、掴んでいるかは、分からない。だが、警戒を上げるということは、脅威を、感じ取ったということだった。


アルセナ自身、感じ取っていた。


半キロの錨地。設備への質問。役所の名を持たない六人。そして、ミゼンの移送。——一つずつは、説明がつく。だが、並べると、一つの絵に、なりかけていた。


その絵の名前を、アルセナは、まだ、口にしていなかった。口にすれば、それに備えて、動かなければならない。動けば、本国に対する、反逆になりかねない。


まだ、その一線を、越えたくなかった。


「レナ」アルセナは言った。「ドラフォを、呼べ」


「今から、ですか」


「今からだ」


レナが、下がった。


アルセナは、机の上の、覚え書きを、開いた。この二つの月の、日付と事実の一覧。


その、いちばん下。


先日、日付だけを書いて、空けておいた行が、あった。何が起きたかを、書けなかった行。


アルセナは、その空白に、ようやく、書くべき言葉を、見つけていた。


だが、まだ、書かなかった。


書けば、本当になる。もう少しだけ、本当にしたくなかった。


────


同日 深夜 旗艦「エイカ」 作戦室


ドラフォが、来た。


「呼び出しとは、珍しいな」ドラフォは言った。「しかも、この時刻に」


「座れ」アルセナは言った。


ドラフォは、座った。


「一つ、聞きたい」アルセナは言った。「軍として、この四日間を、どう見た」


ドラフォは、すぐには、答えなかった。


「外交として、どう見た、と聞かないんだな」ドラフォは言った。


「外交としては、もう、見た」アルセナは言った。「見て、答えが出た。だから、軍の目で、確かめたい」


ドラフォは、腕を組んだ。


「良くない」ドラフォは言った。「軍として、この四日間は、良くない」


「具体的に」


「あの六人だ」ドラフォは言った。「あれは、調査員ではない。少なくとも、俺の知っている調査員とは、動きが違う。俺の知っている調査員は、艦を調べる。機関を見て、装備を見て、消耗を測る。——あの六人は、艦を、見ていない」


「何を、見ていた」


「陸だ」ドラフォは言った。「港。滑走路。海岸線。——上陸作戦の、下見をする者の、目の付け所だ。俺は、その目を、知っている。若い頃、自分が、その目で、敵地の海岸を見たことがある」


部屋が、静かになった。


「あんたも、同じ結論か」ドラフォは言った。


「同じだ」アルセナは言った。


「厄介だな」ドラフォは言った。「俺とあんたが、同じ結論に達したのは、これで、二度目だ。一度目は、この海を、戦わないことに決めたとき。二度目が、これだ」


「二度目は、戦うことに、なりそうだ」


「なりそうだ」ドラフォは言った。「そして、俺は、それに、反対だ」


アルセナは、ドラフォを、見た。


半年前なら、その言葉は、逆だった。半年前、戦うことに賛成していたのは、ドラフォだった。


「立場が、入れ替わったな」アルセナは言った。


「入れ替わってはいない」ドラフォは言った。「俺は、ずっと、同じことを言っている。——勝てる戦いは、する。勝てない戦いは、しない。半年前、俺が戦おうとしたのは、勝てると思ったからだ。いま、俺が反対するのは——この戦いが、勝てないからだ」


「勝てないのか」


「勝てない」ドラフォは、はっきり言った。「この四日で、確信した。日本と、この土地の民は、思っていたより、遥かに、深く、結びついている。片方を攻めれば、両方が、立つ。そして、その後ろには、この惑星の、他の国々がいる。——一つの海岸を取るために、惑星全部を、敵に回す。そんな戦いは、勝てない」


ドラフォは、続けた。


「もう一つ、ある」ドラフォは言った。「日本の武器を、俺は、まだ、見ていない。半年、戦わなかったからだ。戦わなかったから、向こうの本当の力を、誰も知らない。——本国も、知らない」


「知らないものは、恐れない、と」


「逆だ」ドラフォは言った。「知らないものは、侮る。人は、見たことのない力を、たいてい、実際より小さく見積もる。あの六人が測ったのは、港と滑走路だ。武器の性能は、測っていない。測れなかったからだ。——測れなかったものを、本国は、無いものとして、勘定する」


「無いものとして」


「そうだ」ドラフォは言った。「この半年、日本が一度も武器を使わなかったことを、本国は、弱さと読むだろう。使わなかったのではなく、使う必要がなかっただけだ。——だが、報告書には、そこまでは、書けない。書けないことは、伝わらない」


「本国は、それを、知らない。名簿の上の数字しか、見ていない。あの六人が持ち帰る、港の長さと、水深の数字。それを見て、勝てると、判断する。——だが、数字には、結びつきは、映らない」


「結びつきは、測れないからな」アルセナは言った。


「測れない」ドラフォは言った。「測れないものは、報告書に載らない。載らないものは、勘定に入らない。——本国は、勘定に入らないものに、負ける」


アルセナは、しばらく、黙っていた。


「ドラフォ」アルセナは言った。「もし、本国から、命令が来たら」


「どの命令だ」


「侵攻の命令だ」


ドラフォは、答えなかった。


長い、沈黙が、あった。


「従う」ドラフォは、ようやく言った。「命令が来れば、従う。俺は、軍人だ。命令に従うのが、職務だ。勝てないと分かっていても、従う」


「勝てないのに、か」


「勝てないのに、だ」ドラフォは言った。「それが、軍人だ。——だが」


ドラフォは、アルセナを、見た。


「あんたは、軍人じゃない」ドラフォは言った。「あんたには、従わない道が、ある。俺には、ない。あんたには、ある。——それを、忘れるな」


アルセナは、その言葉を、受け取った。


従わない道。それは、反逆の、別の言い方だった。この海域の軍を率いる男が、外交官である自分に、反逆の道を、示している。半年前には、あり得ない光景だった。


「なぜ、それを、俺に言う」アルセナは言った。「お前が反対なら、お前が、動けばいい」


「動けない」ドラフォは言った。「俺が動けば、それは、軍の反乱だ。軍が反乱すれば、艦隊は、二つに割れる。割れた艦隊は、いちばん、弱い。本国と戦う前に、身内で、殺し合う」


「では、俺なら」


「あんたなら、割れない」ドラフォは言った。「あんたは、外交だ。軍じゃない。あんたが本国と袂を分かっても、艦の指揮系統は、乱れない。——外交責任者が抜けても、艦は、動く。軍が抜けたら、艦は、止まる。その差だ」


理に、適っていた。冷徹なほどに、適っていた。


「俺は、命令に従って、勝てない戦いをする」ドラフォは言った。「あんたが、それを、止められるなら——止めてくれ。俺には、止められない。俺の手は、命令で、塞がっている。あんたの手だけが、空いている」


ドラフォは、立ち上がった。


「珍しく、長く話したな」ドラフォは言った。「俺の柄じゃない」


「助かった」アルセナは言った。


「礼は、言うな」ドラフォは言った。「俺は、勝てない戦いを、止めたいだけだ。あんたのためじゃない。艦隊のためだ。——いつも、そう言っているだろう」


「知っている」アルセナは言った。「だから、助かる」


ドラフォは、出ていった。


────


作戦室に、一人、残った。


アルセナは、覚え書きを、開いたままにしていた。


いちばん下の、空白の行。


アルセナは、筆を、取った。


そして、その空白に、ようやく、書いた。


——この海は、戦争の、下見をされた。


書いてから、しばらく、その一行を、見ていた。


本当になった。


書いたことで、本当になったのではなかった。書く前から、本当だった。ただ、書くまで、認めていなかっただけだった。


アルセナは、窓の外を、見た。


三隻の灯が、海岸の方を向いて、灯っていた。四日前と、同じ位置だった。


だが、その灯の意味は、四日前とは、違っていた。


四日前、あれは、監察団の灯だった。


いまは、下見を終えた者の、灯だった。


明日、監察は、五日目に入る。監察の期間は、あと、幾日か。監察団が去れば、彼らは、報告を持って、本国に帰る。


そして、本国が、その報告を読む。


そこから先が、始まる。


アルセナは、覚え書きを、閉じた。


閉じてから、もう一度、開いた。


そして、いま書いた一行の、下に、もう一行、書き足せる場所を、空けた。


次に書く一行が、この海の、運命を、決める。


それが、いつ書かれるかは、本国の机の上に、あった。


アルセナの手の届かない、遠くの机の上に。


だが、と、アルセナは思った。


書く一行を、決めるのは、本国かもしれない。だが、その一行を書いたあと、自分が、どう動くか。それは、本国ではなく、自分が決める。ドラフォが、そう言った。あんたの手だけが、空いている、と。


空いた手で、何をするか。


まだ、決めていなかった。だが、決めなければならない日が、近いことは、分かっていた。命令が来てから考えるのでは、遅い。命令が来る前に、決めておかなければならない。


アルセナは、覚え書きの、空けておいた行を、もう一度、見た。


その行は、本国が埋める行ではなかった。


自分が、埋める行だった。


本国が「侵攻せよ」と書いたとき、その下に、自分が何と書くか。従う、と書くか。従わない、と書くか。——その一行だけは、遠くの机ではなく、この手の中に、あった。


アルセナは、覚え書きを、閉じた。


窓の外の、三隻の灯を、もう一度、見た。


明日、また、朝が来る。監察の、五日目が。

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