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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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73/77

半キロの誠実

残り一日 旗艦「エイカ」 甲板


三隻が見えたのは、朝だった。


夜明けの光は、この海では、北東から差す。海面が金色に灼けて、それから白く冷めていく。その白く冷めた側——北西の水平線に、影があった。


ミゼンは、当直ではなかった。当直ではなかったが、甲板に出ていた。この二十日、艦の全員が、非番でも甲板に出た。北西を見た。見て、何もないことを確かめて、持ち場に戻る。それが、この二十日の、朝の作法になっていた。


今朝、その北西に、初めて、帆があった。


三つ。


遠く、水平線の上に、三つの点。まだ、帆の形もしていない。指の先で隠れるほどの、小さな影。だが、それが何かは、見た瞬間に分かった。この海で、その方角から、その並びで来るものは、一つしかない。


甲板の空気が、変わった。


誰も、声を上げなかった。逆だった。話していた者が、話をやめた。動いていた者が、手を止めた。艦全体が、息を詰めるように、静かになった。二十日、待っていたものが、水平線に現れた。現れてみると、待っていた間より、静かだった。


隣に、レイスが立った。


「来た」レイスが言った。


「来ました」ミゼンも言った。


二人は、しばらく、黙って見ていた。


「ミゼン」レイスが言った。「一つ。聞く」


「はい」


「怖い。カ」


ミゼンは、少し考えた。正直に答えることにした。


「怖いです」


「私も」レイスは言った。「同じ。です」


嘘のない答えだった。この二人の間で、嘘は、もう、意味を持たなくなっていた。片言と片言で、飾った言葉は作れない。作れないから、残るのは、本当のことだけだった。


「何が。怖い。カ」ミゼンが、聞き返した。


レイスは、少し考えた。


「分からない。こと。怖い」レイスは言った。「あの。船。何。積んで。いる。分からない。誰。乗って。いる。半分。分からない。——分からない。まま。近づく。それ。怖い」


「私は」ミゼンは言った。「分かって。いる。方。が。怖い。かもしれない」


レイスが、ミゼンを見た。


「私。あの。船。乗って。いた」ミゼンは言った。「本国。から。来る。船。どういう。もの。か。知って。いる。——知って。いる。から。怖い」


三つの点は、少しずつ、大きくなっていた。


ミゼンは、自分がこの二十日、何を積んできたかを、思い返した。往来を、三度。若い乗員たちの録音を、二箱。日本語の挨拶を、艦の半分が真似られるようになった。基地の医療品の名前を、二十ほど覚えた。カーターという豪州人の名を、正しく発音できるようになった。


積んだものは、確かにあった。


一つ一つは、小さかった。だが、二十日、休まず積んだ。積んだ日数だけは、確かにあった。


だが、いま、水平線の上の三つの点を見ていると、その全部が、ひどく小さく感じられた。積み上げた紙の山を、風が一息で崩していくような。あるいは——積んだ場所が、そもそも、崩される場所だったような。


嫌な考えだった。ミゼンは、その考えを、押しやろうとした。押しやりきれなかった。


「ミゼン」レイスが、また言った。


「はい」


「積んだもの。小さい。感じる。カ」


ミゼンは、驚いて、レイスを見た。


「今。あなた。そう。思った。顔。していた」レイスは言った。「私も。思う。——でも。違う。と。思う。ことに。した」


「なぜ。です」


「小さい。と。思うと。——手。止まる」レイスは言った。「あと。一日。ある。手。止める。時間。ない」


そして、少し間を置いて、続けた。


「それに」レイスは言った。「小さい。か。どうか。——決める。の。私たち。じゃ。ない」


ミゼンは、その言葉を、受け取った。


積んだものが小さいかどうかを決めるのは、積んだ本人ではない。あの三隻に乗っている者が決める。あるいは、その後ろの、本国の机が決める。決められる側にいる者が、先に「小さい」と決めてしまうのは、いちばん、してはいけないことだった。


「あなた。強い。です」ミゼンは言った。


「強くない」レイスは言った。「怖い。だから。——動く。止まると。怖さ。追いつく」


レイスは、それだけ言って、持ち場に戻っていった。


ミゼンは、もう少し、甲板に残った。


三つの点は、帆の形になりかけていた。


────


同日 午後 ダーウィン基地 通信室


第一報の送信は、午後だった。


三隻が、通信の届く距離に入った。その距離は、事前に計算してあった。近すぎれば、押しつけがましい。遠すぎれば、届かない。ちょうど、相手が「受け取ろうと思えば受け取れる」距離。その線を、三隻が越えた。


その瞬間を、白瀬は待っていた。


会議室ではなく、通信室に、全員が集まっていた。白瀬。十六夜。赤城。ノックス。そして、カーター。豪州側の連絡官が、自分の名前の載った文面が送られる瞬間に、立ち会っていた。


「送ります」白瀬が言った。


十六夜が、送信の操作をした。ヴァルタ語の三行が、電波に乗った。


歓迎の意。錨地の位置。そして、連絡担当者の名前——マレー・カーター。


カーターは、自分の名前が電波になって海へ出ていくのを、黙って見ていた。


「妙な気分です」カーターが、小さく言った。


「どういう」白瀬が聞いた。


「自分の名前が、いま、この惑星で初めて、異星の言葉に翻訳されて、海の向こうへ飛んでいった」カーターは言った。「四十八年生きてきて、こんな使われ方をされるとは、思っていませんでした」


誰も、笑わなかった。だが、部屋の緊張が、その一言で、わずかに緩んだ。


送信してから、部屋の全員が、待った。


返信が来るかどうか。来るとして、どのくらいで来るか。それ自体が、最初の情報だった。すぐ返せば、向こうも待っていたということ。返さなければ、向こうにこちらと話す用意がないということ。時間をかければ、向こうの中で判断が要るということ。


「時間を、計っておきます」十六夜が言った。「返信までの時間は、記録します」


「そんなものまで、記録するのか」カーターが聞いた。


「します」十六夜は言った。「言葉の中身は、向こうが選べます。ですが、返すまでの時間は、選びにくい。判断に迷えば、遅れます。迷わなければ、速い。——中身より、時間の方が、正直なことがあります」


カーターは、感心したような顔をした。


「言語の人間は、そういうところを見るんですね」


「見ます」十六夜は言った。「見ることしか、できませんから」


十分が過ぎた。


二十分。


三十分。


「準備していなかった、ということでしょうか」カーターが言った。


「分かりません」白瀬が言った。「あるいは——準備しすぎていて、返し方を決めかねている、ということかもしれません」


四十分が過ぎたところで、返信が来た。


十六夜が、受信を読んだ。読んで、少し、間を置いた。


「三行です」十六夜が言った。「こちらと、同じ形式です」


「内容は」


「一行目。到着の通知。二行目。錨地の——」


十六夜が、そこで、止まった。


「どうしました」赤城が聞いた。


「錨地の、変更の申し出です」十六夜は言った。「こちらが指定した位置ではなく、別の位置を、向こうから提案してきています」


部屋が、静かになった。


「変更を、申し出る」白瀬が、繰り返した。「第一報の返信で、いきなり」


「はい」


「歓迎の挨拶と、担当者の名前と——錨地の変更。三行のうち、一行を、それに使った」


白瀬は、その配分に、意味を読もうとしていた。三行しか使えない場で、一行を錨地の変更に割く。それは、向こうにとって、挨拶と同じくらい、その変更が大事だったということだった。


「よほど、その位置に、こだわりがある」ノックスが言った。


「こだわり、という言葉が、正しいかどうか」白瀬は言った。「ですが——軽い話ではない、ということは、確かです」


「三行目は」


「連絡担当者の名前です。ヴァルタ側の窓口。——監察官の、補佐官の一人です」


「監察官本人では、ないんですね」ノックスが言った。


「ありません」十六夜は言った。「補佐官です。名前は、初めて見るものです」


白瀬は、その三行を、もう一度読ませた。


そして、二行目に、注意を向けた。


「錨地の変更。理由は、書いてありますか」


「書いてあります」十六夜は言った。「一言だけ。——『より安全』」


より安全。


「こちらが指定したのは、風の当たらない、水深の十分な場所でした」白瀬が言った。「向こうが、それより安全な場所を知っている、ということですか」


「そう、読めます」


「向こうが提案してきた位置は、どこですか」


十六夜が、海図を広げた。


こちらが指定した錨地に、印をつけた。それから、向こうが提案してきた位置に、もう一つ、印をつけた。


二つの印は、近かった。


海図の上では、二つの点は、ほとんど重なって見えた。指を一本置けば、両方が隠れる。


「半キロ、ほどですね」カーターが言った。距離感覚は、軍人のものだった。目測で、ほぼ正確だった。


「半キロです」白瀬が、縮尺で確認して、言った。


半キロ。ほとんど、同じ場所と言っていい距離だった。海の上での半キロは、艦がひとつ向きを変えるだけで消える距離だ。わざわざ変更を申し出るような差ではない。


だが、変更を、申し出てきた。


「引っかかりますね」カーターが言った。


「引っかかります」白瀬が言った。「差が大きければ、こちらも警戒します。ですが、これは——警戒するには、小さすぎる。小さすぎて、逆に、目立つ」


「わざと小さくした、ということは」ノックスが言った。


「あり得ます」白瀬は言った。「小さければ、こちらは呑む。呑まざるを得ない。半キロで揉める国は、ありません。——呑ませるために、小さくした。そう考えることも、できます」


────


「地形を、確認させてください」白瀬が言った。


カーターが、海図の詳細版を持ってきた。水深、海底の質、潮流。この海域について、豪州が持っている、いちばん細かい情報だった。


四人で、二つの位置を、見比べた。


こちらが指定した位置。向こうが提案した位置。


「水深は、ほとんど同じですね」十六夜が言った。「向こうの方が、わずかに深い。ですが、艦の停泊には、どちらも十分です」


「風は」


「こちらの位置の方が、陸の陰に入ります。風は、こちらの方が穏やかです」カーターが言った。「『より安全』というなら、こちらの位置の方が、安全なはずです」


「では、なぜ」


誰も、答えを持っていなかった。


白瀬が、海図を、じっと見ていた。


「一つ、伺います」白瀬が言った。「向こうが提案した位置から、この基地は、見えますか」


カーターが、地形を確認した。


「見えます」


「こちらが指定した位置からは」


「——陸の陰になります。基地は、見えにくい」


部屋が、静かになった。


「風を捨てて、視界を取った、ということですか」ノックスが言った。


「そう、読むことも、できます」白瀬が言った。「ですが、決めつけるのは、早すぎます。海の民が、停泊地から陸が見える方を好む、というだけのことかもしれません。船乗りが、岸を見ていたい、というのは、自然な感覚です」


「カーター中佐」赤城が言った。「軍として、どう見ますか」


カーターは、すぐには答えなかった。海図を、もう一度、見た。


「軍として言えば」カーターは、慎重に言葉を選んだ。「停泊地から目標が見えるかどうかは、意味のある要素です。見えれば、観測できる。観測できれば、記録できる。——ですが」


「ですが」


「それは、こちらの見方です」カーターは言った。「こちらが軍人だから、そう見える。向こうが同じことを考えているとは、限らない。私が海図を見て『ここは観測に向いている』と思うのと、向こうが実際に観測しようとしているのとは、別の話です」


「憶測を、避けていますね」ノックスが言った。


「避けています」カーターは言った。「昨夜、十六夜さんと話しました。利用されたことと、積んだものが偽物だったことは違う、と私は言いました。——同じことが、こちらにも言えます。こちらが疑い深いことと、向こうが実際に企んでいることは、別です。混ぜると、判断が鈍る」


「では、どう扱いますか」白瀬に、赤城が聞いた。


白瀬は、しばらく考えていた。


「呑みます」白瀬が言った。「向こうの提案した位置で、受け入れます」


「よろしいのですか」赤城が聞いた。


「半キロの差で、揉める理由がありません」白瀬が言った。「ここで『こちらの位置の方が安全だ』と押し返せば、初手で、こちらが位置に神経質になっている、と伝わります。神経質になる理由があるのか、と勘繰られる。——半キロのために、それは高い」


「呑むのは、分かります」ノックスが言った。「ですが、豪州の立場も、聞いてください」


白瀬が、ノックスを見た。


「その半キロは、我々の領海の中の話です」ノックスは言った。「どこに投錨させるかは、本来、我々の判断です。日本側が呑むかどうかを決める前に、我々が決めることです」


部屋が、静かになった。ノックスの言う通りだった。


「失礼しました」白瀬は言った。「おっしゃる通りです。——豪州として、この変更を、認められますか」


「認めます」ノックスは言った。「結論は、同じです。半キロで揉めません。ですが、順番は、守っていただきたい。呑むと決めるのは、我々です。日本が呑んで、豪州に事後承諾を求めるのでは、さっきの署名の話と、同じことになります」


「肝に銘じます」白瀬は言った。


赤城が、二人のやり取りを、黙って見ていた。それから、言った。


「良い癖がついてきた」赤城が言った。「半年前なら、いまの指摘は、出てこなかった。出ても、角が立った。——いまは、指摘が出て、しかも、話が前に進む」


「進めるために、指摘しています」ノックスは言った。「詰まらせるためではありません」


白瀬は、海図の、向こうが提案した位置を、指でなぞった。


「ただし」


「ただし」


「この半キロは、記録に残します」白瀬が言った。「向こうが、風より視界を選んだ。理由は不明。——それだけを、書いておきます。判断はしません。今は」


十六夜が、少し、顔を上げた。


同じことを、していた。技術調査員、六名、要確認。あのノートと、同じ言葉だった。


判断はしない。だが、忘れない。


引っかかりが、二つになった。


────


同日 夕方 基地の一室


その二つを、十六夜は、並べて書いた。


一つ。技術調査員、六名。目的不明。


二つ。錨地、半キロ変更。風より視界。理由不明。


並べて見ると、二つは、別々の引っかかりに見えた。片方は人員の話。片方は位置の話。つながる線は、すぐには見えなかった。


人員は、本国から来る。位置は、この海域で決まる。出どころが違う。決めた人間も、違うはずだった。片方は本国の役所が名簿を作り、片方は艦隊の艦長が海図を見て決める。二つの間に、直接の線は、引けなかった。


だが、十六夜は、解析の仕事で、覚えていることがあった。


言語の解析でも、そうだった。無関係に見える二つの音の変化が、実は、一つの規則の別々の現れだった、ということが、何度もある。表面では別々に見える。だが、一段深いところに、両方を生んでいる、一つの規則がある。


別々に見える二つの異物は、たいてい、別々ではない。


同じ一つのことが、二つの場所に、影を落としている。そういうときに、二つの異物が、同時に現れる。線が見えないのは、線がないからではない。まだ、真ん中にあるものが、見えていないからだ。


真ん中に、何があるのか。


十六夜は、二つの言葉の間に、空白を置いた。空白に、まだ、言葉を入れなかった。


入れる材料が、なかった。


だが、空白があること自体は、書いておいた。


技術調査員、六名。

      (     )

錨地、半キロ、視界を取った。


括弧の中は、空だった。


いつか、ここに、一つの言葉が入る。入ったとき、二つの引っかかりは、一つの事実になる。


十六夜は、その空白を、しばらく見ていた。


空白に、何を入れたくないか、は、分かっていた。入れたくない言葉が、一つ、ある。その言葉を入れれば、二つの引っかかりは、きれいに一つに繋がる。人員も、位置も、全部、その一語で説明がつく。


繋がってしまうから、入れたくなかった。


これは、解析官として、してはならない態度だった。ある結論を望まないという理由で、その結論を検討から外す。それは、いちばんやってはいけない誤りだった。この半年、班の若手には、その誤りを、繰り返し戒めてきた。望む答えに引き寄せるな、と。望まない答えから逃げるな、と。


自分が、いま、それをやろうとしていた。


十六夜は、括弧の中に、鉛筆を近づけた。近づけて——止めた。


まだ、証拠がなかった。望まないから書かない、のではなく、材料がないから書かない。その二つは、外から見れば同じだが、中身は、正反対だった。前者は逃避で、後者は規律だった。


自分がどちらでいるのか、十六夜には、確信が持てなかった。


そのとき、たぶん、手遅れかどうかが、決まる。


十六夜は、ノートを閉じた。


────


同じ夜 旗艦「エイカ」 私室


アルセナのもとに、報告が上がっていた。


第一報への返信。錨地の変更。連絡担当者は、監察官本人ではなく、補佐官。


アルセナは、その三つを、聞いた。


そして、最後の一つに、引っかかった。


「窓口が、補佐官か」


「はい」レナが言った。


「なぜ、監察官本人ではない」


「分かりません」


アルセナは、しばらく考えた。


補佐官を窓口に立てる、ということは、監察官が、直接の応対を避けている、ということだった。避ける理由は、いくつか考えられた。格を保つため。距離を取るため。あるいは——監察官が、この海域の人間と、記録に残る形で言葉を交わすことを、避けたいため。


最後の可能性が、いちばん、嫌だった。


記録に残したくない、というのは、あとで否定したいことがある、ということだ。


アルセナは、外交を長くやってきた。記録というものが、どう使われるかを、知っていた。記録は、約束を守らせるためにある。同時に、記録が無いことは、約束を無かったことにするためにある。監察官が記録を避けているなら、それは、この海で自分が見たものを、後で無かったことにできる状態を、保っておきたいということだった。


見たものを、無かったことにする。


何のために。


その問いの答えを、アルセナは、まだ持っていなかった。持っていなかったが、問い自体は、消えなかった。


「殿下」レナが言った。「もう一つ、報告があります」


「何だ」


「錨地の変更を、日本側が、呑みました。抵抗なく」


アルセナは、顔を上げた。


「向こうが、変更を申し出たのか。こちらから、ではなく」


「向こうからです。監察団の側からの申し出です」


アルセナは、それを、しばらく考えた。


錨地の変更を申し出たのは、艦隊ではない。艦隊は、この海域の錨地を知り尽くしている。変えたがる理由がない。変更を申し出たのは、本国から来た監察団の方だった。


本国から来たばかりの人間が、この海域の錨地について、艦隊より良い判断ができるはずがなかった。


にもかかわらず、変えた。


「レナ」


「はい」


「監察団が提案した錨地は、どこだ」


レナが、海図を持ってきた。


アルセナは、その位置を、見た。


見て、すぐに、気づいた。


アルセナは、この海域に、半年いた。錨地の良し悪しは、体で分かる。この半年、荒れた日も凪いだ日も、この海で艦を停めてきた。どこが揺れて、どこが穏やかか。海図の数字ではなく、体で、知っていた。


監察団が選んだ位置は、停泊地としては、二番目だった。一番良い場所は、日本側が最初に指定した、陸の陰の位置だった。


日本側は、正しい場所を選んでいた。この半年で、日本側は、この海域の良い錨地を、艦隊とほぼ同じ精度で把握するようになっていた。それ自体が、二つの月の積み上げの、証だった。


その正しい場所を、監察団が、断った。


二番目の場所を、わざわざ選んだ。


一番良い場所を捨てて、二番目を取る理由は、停泊には、ない。艦を安全に停めることだけが目的なら、一番良い場所を断る理由は、どこにもない。


停泊以外の目的が、あるということだった。


そして、その目的を、監察団は、口にしていない。「より安全」とだけ書いて、二番目の場所を取った。より安全、という言葉が、嘘だということを、アルセナは、体で知っていた。一番安全な場所は、日本側が選んだ場所だ。それを、この海域の人間なら、誰でも知っている。


監察団は、それを、知らないふりをした。


知らないふりをするために、「より安全」という、この海域の誰もが嘘と分かる言葉を、あえて選んだ。


アルセナは、海図の上の、その位置を、長く見ていた。


そして、口には出さなかった。


出せば、レナに答えを探させることになる。まだ、答えを探させる段階ではなかった。いまは、自分一人が、引っかかっていれば、十分だった。


「日程は、予定通りだな」アルセナは言った。


「予定通りです。明日、投錨。明後日から、監察が始まります」


「分かった」


レナが、下がった。


アルセナは、一人、海図の前に残った。


窓の外で、三隻の灯が、闇の中に、三つ、並んでいた。


明日、あの灯が、二番目の錨地に落ち着く。


一番良い場所を避けて。


アルセナは、机の上の覚え書きを、開いた。この二つの月で積んできた、日付と事実の一覧。往来。面会。合意。


その一覧の、いちばん下に、一行、書き足そうとして——やめた。


書く言葉が、まだ、なかった。


正確には、書ける言葉は、あった。「監察団、二番目の錨地を選択。理由、不明」。事実としては、それが書ける。だが、それを書いた瞬間、この一覧の性質が、変わる。


この二つの月、アルセナが積んできた一覧は、良いことの記録だった。往来。面会。合意。一つずつ、前に進んだことの、記録。


そこに、初めて、前に進まなかったことを書く。疑わしいことを書く。それを書き足せば、一覧は、成果の記録ではなくなる。何かが狂い始めた記録に、変わる。


まだ、変えたくなかった。


一行を書けば、それが本当になる気がした。書かなければ、まだ、ただの半キロのずれのままでいられる。海の上ではよくある、小さなずれ。潮に流された、それだけのこと。


だが、アルセナは、自分がその考えに逃げ込もうとしていることに、気づいていた。


書かないことで、本当にならないわけではない。二番目の錨地は、書こうが書くまいが、二番目の錨地だった。


代わりに、日付だけを書いた。日付の横は、空けておいた。


いつか、そこに、何が起きたかを書く。書く言葉が見つかったときに、書く。見つからないでほしい、と、少しだけ、思った。


今夜は、まだ、何も起きていない。


灯が三つ、並んでいるだけだった。そのうちの二つが、一番良い場所ではなく、海岸のよく見える場所に、灯っていた。


三つの帆が、着いた。

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