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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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静かに厚くする

一つ目の月の終わり 官邸地下


「監視を厚くしている、という話を、そろそろ整理して聞きたい」


黒崎が言った。二つ目の月に入る前の、定例の会合だった。


この一つの月、地下の会合は、静かだった。議題が減ったわけではない。むしろ増えていた。だが、緊急のものが一つもなかった。決めるべきことを、決めるべき順番で、決めていく。半年前には、想像もできなかった種類の静けさだった。


その静けさが、今日で終わる。全員が、それを知っていた。


「はい」白瀬が答えた。「厚くしています。ただ、ご説明する前に、一つだけ、言葉を正しておきたいことがあります」


「言葉を」


「監視、と申し上げていますが、実態は、監視ではありません」


部屋が、少し静かになった。


「監視というのは、相手が知らないうちに見ることです。今回、こちらがやっていることは、向こうが来ると言った日に、来ると言った方角を、見ておくことです。これは、監視ではなく——出迎えの準備です」


「呼び方の問題か」


「呼び方の問題です」白瀬は言った。「ですが、この件については、呼び方が、そのまま中身になります。監視のつもりで配置すれば、配置の形が変わります。出迎えのつもりで配置すれば、また変わる。現場の隊員は、呼び方で動きます」


藤堂が、資料をめくった。


「具体的には、どうなっている」


「三段階です」白瀬は言った。「第一に、北西海域の常時観測。これは、あの朝以来ずっと続いているものを、密度だけ上げました。新しい装備も、新しい配置もありません。同じ人員が、同じ場所で、報告の頻度を上げているだけです」


「なぜ、増やさない」


「増やせば、向こうに見えるからです」


黒崎が、顔を上げた。


「見えることの、何が問題だ。こちらは何も隠していない。備えるのは、当たり前だろう」


「当たり前です」白瀬は言った。「ですが、当たり前かどうかを決めるのは、こちらではありません」


「向こうの艦隊は、この海域を見ています。こちらが急に艦を増やせば、必ず気づく。気づいたとき、向こうは考えます。——三隻が来ると伝えたら、日本が兵を増やした、と」


「なるほど」


「向こうの本国から来る監察官が、それを見たら、どう報告するか」白瀬は言った。「日本は、我々の使節に対して警戒態勢を取った。——そう書かれた紙が、二つの月の後に、向こうの評議会に届きます」


「こちらの善意とは、無関係にな」


「無関係に、届きます」


白瀬は、少しだけ声を落とした。


「私たちが備えなければならないのは、三隻ではありません。三隻に付いてくる、報告書です」


部屋が、静かになった。


「三隻は、二つの月の後に来て、いずれ帰ります。艦は、帰れば、この海からいなくなる」白瀬は言った。「ですが、報告書は、帰った先に残ります。残って、読まれます。読む人間は、この海を一度も見たことがない人間です」


「見たことのない人間が、読んだ紙で決める」


「そうです」白瀬は言った。「この半年、私たちは、目の前の相手と向き合ってきました。これからの二つの月は、会ったこともない読み手と向き合うことになります。——正直に申し上げて、こちらの方が、難しいです」


────


「第二段階は」藤堂が促した。


「通信の準備です。三隻が現れたとき、こちらから最初に何を送るか。文面を、もう作ってあります」


白瀬は、一枚の紙を回した。


短い文面だった。三行しかなかった。


「ヴァルタ語で、こちらから、先に送ります。内容は、歓迎の意と、指定した錨地の位置と、こちらの連絡担当者の名前。それだけです」


「錨地を、こちらから指定するのか」藤堂が聞いた。


「指定します。ただし、良い場所を指定します」白瀬は言った。「風の当たらない、水深の十分な、艦隊の停泊地に近い場所です。追いやるための指定ではなく、案内としての指定であることが、位置を見れば分かるようにしてあります」


「分かるだろうか」


「向こうは、海の民です」白瀬は言った。「良い錨地と悪い錨地の区別が付かない、ということは、ありません」


「歓迎、と書くのか」黒崎が言った。「相手が何をしに来るか分からんのに」


「書きます」白瀬は言った。「分からないから、書きます」


「理屈を聞こう」


「向こうの監察官は、この海域について、紙でしか知りません。艦隊からの報告と、本国での噂だけです。到着した瞬間に受け取る第一報が、その人物にとって、最初の実物になります」


白瀬は、文面を指した。


「その最初の実物が、こちらの言葉で書かれたヴァルタ語で、こちらから先に届く。——これは、内容以前に、事実そのものが情報です。この海域では、日本がヴァルタ語を書ける。書いて、先に送る側にいる。それが、いきなり伝わります」


「言語ができることを、見せるのか」


「見せます」白瀬は言った。「隠す理由がありません。むしろ、隠せば、あとで発覚したときに、隠していたことの方が問題になります」


十六夜が、初めて口を開いた。


「文面の敬語の形について、一点、申し上げます」


全員が、そちらを向いた。


「先日、ヴァルタ語に二種類の高い形があることを確認しました。家柄に対するものと、役職に対するものです。——この文面には、役職の方を使っています」


「理由は」


「監察官は、評議会直属です。任命されて来る人物です。家柄で来るのではありません」十六夜は言った。「ここで家柄の形を使うと、二つのうちどちらかに読まれます。無知か、あるいは——皮肉か」


「皮肉に読まれると、どうなる」


「初手で、こちらが何かを企んでいる、という前提が立ちます」


「そんなに違うものか。一つの音で」


「違います」十六夜は言った。「こちらで言えば——初対面の相手に、わざと古風な言い回しを使うようなものです。丁寧ではあります。丁寧ですが、丁寧すぎて、何かある、と思われる」


黒崎は、しばらく文面を見ていた。


「三行の紙に、そこまで載るのか」


「載ります」十六夜は言った。「短い文ほど、載ります。長い文には、逃げ場がありますが、三行には、ありません」


────


「第三段階は」


白瀬は、少しだけ間を置いた。今日の三つのうち、いちばん説明の要るものだった。


「これは、備えというより、決めごとです」白瀬は言った。「三隻が来てから帰るまでの間、こちらは、いつも通りを続けます」


「いつも通り、というのは」


「面会を、続けます。往来を、続けます。物資の受け渡しを、予定通りに行います。——監察官が滞在している間だけ、日程を空けたり、人を減らしたりは、しません」


藤堂が、少し眉を寄せた。


「刺激しないために、静かにする、という選択もあるのでは」


「あります」白瀬は言った。「ですが、私は、逆だと考えています」


白瀬は、手元のノートを開かなかった。開かずに、話した。


「監察官が測りに来るのは、この海域が本物かどうかです。本物かどうかを見るいちばん簡単な方法は、来客の前後で、様子が変わるかどうかを見ることです」


「変わらなければ、本物だと」


「変われば、偽物だと分かります」白瀬は言った。「客が来るからといって片付ける家は、普段が片付いていない家です。片付けなくていい家だけが、片付けずにいられます」


黒崎が、短く笑った。


「うちの海は、片付いているのか」


「片付いています」白瀬は言った。「積んできたものは、見せて困るものではありません。全部、見せられます。——見せられないものを、この半年、一つも作らなかったからです」


その一言に、部屋の何人かが、少しだけ姿勢を変えた。


作らなかった、という言い方を、白瀬は選んでいた。無かった、ではなく。


この半年、隠し玉を作る機会は、何度もあった。言語の解析結果を全部は渡さない。相手の内部事情を掴んだら黙っておく。物資の交換で、少しずつ有利を積む。どれも、やろうと思えば、やれた。やれば、たぶん、短期的には得をした。


やらなかったのは、方針というより、積み重ねの結果だった。一度やれば、次からは、やった前提で全部を組み直さなければならなくなる。その手間を、誰も引き受けたがらなかった。


結果として、いま、見せて困るものが一つもない。


半年前の選択が、二つの月後の備えになっている。備えというのは、たぶん、そういう形でしか作れない。


「一つだけ、申し上げておきます」白瀬は続けた。「この方針には、危険があります。いつも通りを続けるということは、監察官の目の前で、こちらとヴァルタの人間が、普通に話す場面が発生するということです。親しさが、そのまま見えます」


「それが危険か」


「向こうの内側の物差しによっては、危険です」白瀬は言った。「馴れ合っている、と書かれる可能性があります。艦隊が、外の民に取り込まれた、と」


「では、どうする」


「どうもしません」白瀬は言った。「その危険は、こちらが引き受けるものではないからです。それは、向こうの内側の問題です。こちらが向こうの内側を忖度して普段を曲げれば、曲げた分だけ、この半年の意味が減ります」


「向こうの外交責任者が困ることになっても、か」


白瀬は、その問いに、すぐには答えなかった。


「困るでしょう」しばらくして、白瀬は言った。「困ると思います。あの立場の人が、いちばん困る形です」


「それでも、曲げないと」


「曲げるとしたら、向こうから頼まれたときだけです」白瀬は言った。「頼まれてもいないのに気を回すのは、親切ではありません。相手の立場を、こちらが勝手に決めることになります。——あの人は、たぶん、頼んでこないと思いますが」


黒崎は、長い間、白瀬を見ていた。


「白瀬」


「はい」


「君は、いつからそんなに肚が据わった」


「据わってはいません」白瀬は言った。「ただ、この件については、迷う材料が、もう手元にないだけです。迷えるうちは、迷います。迷えなくなったら、決めます」


────


同日 深夜 ダーウィン基地 通信室


十六夜は、三行の文面を、もう一度点検していた。


隣に、レイスがいた。


正式な面会の時間ではなかった。十六夜が頼み、レイスが応じた、記録の外の時間だった。


頼むかどうかは、迷った。


この文面は、日本側が、ヴァルタの本国から来る人物に宛てて書くものだ。それを、ヴァルタの人間に見せる。手の内を見せることになる、という見方もできた。


だが、十六夜は、別の見方をした。この紙が失敗すれば、困るのは日本だけではない。この海で積んできたもの全部が、初手でつまずく。それは、レイスにとっても、他人事ではない。


そして——他人事ではないと、こちらが考えていることを、示す機会でもあった。


「これ。読む。お願い」十六夜は言った。「間違い。ある。カ」


レイスは、紙を受け取った。ヴァルタ語で書かれた三行を、上から下へ、ゆっくり読んだ。


読み終えてから、しばらく、黙っていた。


「イザヨイ」


「はい」


「これ。書いた。誰。カ」


「私たち。です」


レイスは、もう一度、紙を見た。


「間違い。ない」レイスは言った。「形。正しい。高さ。正しい。——正しすぎる」


十六夜は、その言葉に、引っかかった。


正しすぎる、という指摘は、解析班からは絶対に出てこない種類のものだった。解析班が測れるのは、正しいかどうかまでだ。正しさが度を越したときに何が起きるかは、その言葉で育った者にしか分からない。


「正しすぎる。悪い。カ」


「悪くない」レイスは言った。「でも。読む人。驚く。とても」


「なぜ。です」


レイスは、言葉を探した。


「私たちの。国。外の人。この言葉。書けない。書けない。当たり前。——この紙。当たり前。壊す」


当たり前を壊す紙。


「壊す。危ない。カ」十六夜は聞いた。


レイスは、少し考えてから、首を——ヴァルタの形で——横に動かした。否定の動きだった。


「危なくない。でも。——変わる」


「何が。です」


「読む人の。中。です」レイスは言った。「来る前。決めていた。こと。ある。たぶん。この海。こう。だろう。——紙。読む。決めた。こと。合わない。人。もう一度。考える」


もう一度、考える。


十六夜は、その言葉を、書き留めた。


三行の紙にできることは、相手の考えを変えることではない。相手に、もう一度考えさせることだ。それだけで、十分だった。それ以上は、紙の仕事ではない。


考え直した結果が、こちらに不利に転ぶ可能性もある。だが、それは、考え直させないことの理由にはならない。決めたまま来る人間と、一度考え直した人間とでは、その後に起きることの幅が違う。幅があるということは、こちらの積んだものが効く余地がある、ということだった。


十六夜は、紙を封筒に入れた。あとは、送る日を待つだけだった。


「ありがとう」十六夜は言った。高い形は、使わなかった。この時間の、この会話には、合わない気がした。


レイスは、それに気づいた。気づいた上で、何も言わなかった。


代わりに、立ち上がりながら、日本語で言った。


「おやすみ。なさい」


────


同じ夜 旗艦「エイカ」 私室


アルセナは、机の前に座っていた。


一つ目の月が、終わろうとしていた。


机の上には、二枚の紙があった。一枚は、本国から届いた、最初の短い通知。もう一枚は、この一つの月の間に自分で書いた、覚え書きだった。


覚え書きには、日付と、その日にこの海域で起きたことが、一行ずつ書かれていた。


往来。面会。手順の合意。文法の確認。


華々しいことは、一つもなかった。読み上げても、誰も感心しない種類の一覧だった。


アルセナは、その一覧を、上から下へ、指でたどった。


これが、答えだ、と思った。


監察官が何を問うにせよ、こちらが差し出せるのは、この一覧だけだ。劇的な成果はない。決定的な譲歩も、輝かしい勝利もない。あるのは、続いた日数と、その日数の中で積んだ、小さな確認の山だけだった。


小さすぎる、と言われるかもしれない。


だが、と、アルセナは思った。


大きなものは、一度で崩れる。小さなものの積み上げは、一度では崩れない。崩すには、一つずつ、外していかなければならない。外していく間に、外している者の手が疲れる。


疲れさせるための厚さを、この一つの月で作った。もう一つの月で、もう少し厚くする。


やっていることは、地味だった。地味だが、他にやることが無いのではない。他にやれることを検討した上で、これがいちばん強いと判断した結果だった。


一度だけ、別の道を考えたことがある。監察官が来る前に、既成事実を大きく作ってしまう道。派手な合意を一つ、本国が否定しにくい形で結んでおく。


一晩考えて、捨てた。


大きく作ったものは、大きく壊せる。壊す口実も、大きいほど作りやすい。この海で結んだ最大の合意が、この海を潰す口実になる——その形は、あり得た。


だから、小さいままにした。小さいものは、口実にならない。


窓の外は、暗かった。


レナが、扉のところに立っていた。いつからいたのか、分からなかった。


近頃、この従者は、声をかけるまでの間が長い。以前は、扉を叩いてすぐに用件を言った。いまは、部屋の様子を見てから、言う。


悪い癖ではない、とアルセナは思っていた。むしろ、この一つの月で、いちばん頼りになった変化だった。


「殿下」


「何だ」


「二つ目の月の、日程表です」レナは、紙を差し出した。「往来の日、面会の日、受け渡しの日——全部、いつも通りに組んであります」


アルセナは、日程表を受け取った。


上から下まで、隙間なく埋まっていた。監察官の到着予定日にも、予定が入っていた。その日は、面会の日だった。


「この日も、やるのか」


「やります」レナは言った。「日程表を作るとき、その日だけ空けようかと、一度、思いました。ですが——空けたら、その空白が、いちばん目立つと思いまして」


アルセナは、日程表から顔を上げて、レナを見た。


「お前も、そういうことを考えるようになったか」


「殿下のそばに、長くおりますので」


「悪い影響だな」


「良い影響です」


アルセナは、日程表を机に置いた。二枚の紙の隣に、三枚目として並べた。


本国からの通知。この一つの月の覚え書き。そして、次の一つの月の予定表。


過去と、現在と、未来。三枚が、机の上に並んだ。


十六夜が線と点で説明したという時制の図を、アルセナは知らない。知らないまま、同じ形を、机の上に作っていた。


人が不安なときにやることは、どの文明でも、たぶん似ている。時間を、目に見える形に置き直す。置き直せば、少なくとも、どこまで来たかが分かる。


アルセナは、三枚の並びを、しばらく見ていた。


いちばん薄いのは、真ん中の一枚だった。この一つの月で、実際に起きたことの記録。日付と、一行ずつの事実。それだけの紙が、いちばん薄く、そして、いちばん重かった。


「レナ」


「はい」


「二つ目の月が終わったとき、この机に、四枚目が並ぶ」


「四枚目、ですか」


「監察の結果だ」アルセナは言った。「何が書かれるかは、分からない。分からないが、一つだけ、確かなことがある」


アルセナは、覚え書きの一覧を、もう一度見た。


「四枚目に何が書かれても、この三枚は、消えない」


レナは、何も言わなかった。


窓の外で、夜の海が、静かに動いていた。


北西の遠くを、三つの帆が、こちらへ向かって進んでいた。


夜のうちも、帆は進む。眠っている間も、距離は縮む。それは、脅威の性質であると同時に、時間の性質でもあった。同じ夜が、こちらの積み上げの上にも降りている。


一つ目の月が、終わった。

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