北へ
西暦××××年××月××日 航空自衛隊千歳基地 格納庫前 午前5時40分
格納庫の中はまだ暗かった。
整備員がライトを手に機体の各部を確認している。エンジンナセルの吸気口。主翼下の増槽取り付け部。機体後部の排気口周辺。点検の手順はいつもと変わらない。だが今日は、その手つきに余分な丁寧さがあった。
余分な丁寧さは、不安の裏返しだ。整備員も分かっている。今日の飛行が通常とは異なることを。聞いても答えられないが、雰囲気で伝わっている。
「今日の任務は昨日と同じか」高田は整備員に聞いた。
「今日は少し違います」
「何が違う」
「計測装置を積んでいます。昨日より"耳"がいいです。返ってくるものがあれば、より細かく拾えます。周波数の範囲も広げています」
「……返ってくるものがあれば、な」
「はい。あれば、ですが」
高田はコックピットに乗り込んだ。計器の配置はいつも通りだ。HUDの表示。操縦桿の感触。どれも変わらない。変わったのは、今日向かう先の目的だけだ。
あの朝から五日間、毎日北へ飛んで戻ってきた。最初の三日間は「外側から何が来るか」を確認しに行った。ロシアが来なかった。何も来なかった。四日目は給油機との相対距離を確認した。内側の距離は正常だった。
今日は別の問いを立てている。明日の投射試験の準備として、背景ノイズを記録しに行く。何もない状態の数値が、明日の比較材料になる。
「行ってきてください」整備主任が言った。
「戻ります」
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同日 ブリーフィングルーム
「今日は投射試験の前段階として、外縁方向への進出を行う」
松本二佐がブリーフィングで言った。「明日、三系統同時の投射試験を実施する。今日はその前段階として、基準データを取ることが目的だ」
「基準データとはなんですか」高田が聞く。
「投射試験で何かが返ってきたとき、それが本物の信号なのかノイズなのかを区別するための比較材料だ。異常を探すには、正常な状態を先に記録しておく必要がある。今日は"何もない状態"の数値を記録しに行く」
「つまり、今日も何もない状態を確認するということですか」
「そうだ。ただし今日は計測装置が動いている。何もない状態でも、どのくらいの背景ノイズがあるかを記録する。明日の試験で何かが返ってきたとき、それが今日の背景ノイズを超えているかどうかで、本物かどうかを判断できる」
「なるほど」
「帰投条件は変わらない。燃料五割で折り返せ」
「了解です」
「今日の任務は消極的に見えるかもしれないが」松本は続けた。「明日の試験の価値を決める。今日の記録の精度が低ければ、明日の判断ができなくなる。今日の仕事が明日の基準になる。それを忘れるな」
「了解しました」
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同日 機内 午前8時頃
「慣性航法装置、正常。みちびき受信二機。精度低下あり、参考値として使用」
「計測装置、全系統起動。背景ノイズ記録開始」
「送受信系、スタンバイ。今日は送信はしない。受信のみで背景データを取る」
確認が終わって、機内は静かになった。普段と違う静かさだ。今日は積極的に何かを探しているわけではない。静かに聞いているだけだ。
「三十分経過。状況報告を」
地上管制からの声。
「目標なし。レーダー正常。計測装置、正常動作中。外縁方向の背景ノイズ、記録中。ロシア機の反応、なし。今日も来ない」
「了解。引き続き進出。見えたら評価前に報告」
「了解」
高田は火器管制レーダーの表示を見ていた。整然としている。何も映らないのに、何も乱れていない。
あの朝から何日飛んだか数えるのをやめた。数えると、その数字が重くなる。飛んだ日数分だけ「ない」が積み重なる。積み重なった「ない」は、慣れに変わる。
「……静かだな」
無線に乗った。
「静かですね」別府が返す。
昨日も同じやり取りをした。その前の日も。同じ言葉を繰り返しているのに、その言葉の重さは毎日少しずつ変わっていく。最初の日の「静かだな」と今日の「静かだな」は、同じ言葉だが違う意味を持っている。
「今日の静かさは、明日の基準になる」高田は言った。
「そうですね。明日、同じ場所で何かが聞こえたとき、今日の静かさが比較材料になる」
「何かが聞こえると思うか」
別府はしばらく答えなかった。「……分かりません。ただ」
「ただ」
「今日まで五日間、何も聞こえなかった。だから何も聞こえないことに慣れかけている。慣れかけているときに何かが聞こえたら、最初の日より驚くかもしれない」
高田はその言葉を受け取った。慣れかけているときの驚きは、最初の驚きより大きい。なぜなら、慣れたことが覆されるからだ。最初の驚きは「知らなかった」ことへの驚きだ。慣れた後の驚きは「あると思っていたものが違った」ことへの驚きだ。
「外縁方向のノイズデータ、記録継続中」三谷三尉が報告した。「国内方向との比較も同時記録しています」
「パターンに違いはあるか」
「細かい話になりますが、わずかに違います。誤差の範囲かもしれません。一応記録しておきます」
「全部記録しておけ。誤差か本物かは帰ってから判断する」
「了解です」
「燃料、五十パーセント」
「了解。反転する」
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同日 帰投後 格納庫
「異常はなかったですか」整備員が聞く。
「機体は正常だった。計測装置も問題なく動いていた」
「今日も何もなかったですか」
「今日は何もない状態を記録しに行ったので、何もなくて正解です」
整備員は少し首を傾けた。「……そういう仕事もあるんですね」
「そういう仕事だ。何もないことを証明するのも、仕事のうちだ」
高田はヘルメットを脱いで、空を見た。青い。いつも通り青い。
「帰ってきたな」
また誰かが言った。今日は昨日より少し、その言葉が軽く聞こえた。帰れることへの安堵が、少しだけ当然になりかけている。
高田は意識的にそれを打ち消した。当然にしてはいけない。帰れることを当然にした瞬間、次は帰れないかもしれない。
帰れた。それは今日も確認できた事実だ。当然ではない。確認できた事実だ。
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同日 研究室 夜
赤城が資料を見ながら言った。「今日の背景ノイズデータが届いた。解析したか」
「はい」十六夜が答えた。「面白いですね」
「今日も何もなかったのに何が面白いんだ」
「外縁方向と国内方向で、背景ノイズのパターンが微妙に違います」
赤城は顔を上げた。「違う?」
「はっきりした差ではありません。誤差と言ってもいいレベルです。ただし、方向による差があることは確認できます。外縁方向の背景ノイズは、国内方向より若干不規則です。完全にランダムではない。何らかのパターンがあります」
「それはどういう意味だ」
「分かりません。ただ、完全な空白ではないかもしれない、ということです。ランダムなノイズの中に、わずかな規則性がある。規則性があるということは、何かがそこにある可能性を示します」
「可能性として、だな」
「はい。ただし」十六夜は少し間を置いた。「明日の投射試験で、その方向に信号を送ったとき、何かが返ってくる可能性は、今日のデータから見てゼロではないかもしれません」
赤城はしばらく黙った。「それを官邸に上げるか」
「今の段階では上げない方がいいと思います。"可能性としてゼロではない"という情報は、今の段階では判断を誘導しすぎます。明日の試験の結果を見てから上げる方がいい」
「了解だ。明日まで待つ」
「ええ。ただし」十六夜は続けた。「明日の試験で何かが返ってきたとしても、すぐに名前を付けないでください。返ってきた、という事実だけを先に確定させる。何が返ってきたのかは、その後で考える。その順番を守ってほしいです」
「お前らしい言い方だな」
「そうですか?」
「慎重というより、楽しんでいるように見える」
十六夜は少し考えた。「楽しんでいます。分からないことが、少しずつ分かっていく過程が好きです。怖いですが、面白い」
「怖いと面白いが、同時に成立するのか」
「成立します。分からないことの正体が見えてくるとき、それは怖さと面白さを同時に持ちます。怖さは分からないことへの反応で、面白さは分かっていく過程への反応です。今はちょうど、その境目にいます」
赤城は資料を閉じた。「明日に備えて準備しておけ」
「はい」
十六夜はホワイトボードに向き直った。今日の背景ノイズデータ。わずかな規則性。外縁方向だけに見られるパターン。
明日、その方向に信号を送る。
何が返ってくるか、あるいは何も返ってこないか。どちらの結果になっても、今日より一歩前に進む。
それが、あの朝から五日間積み重ねてきた「確認できない」を、初めて「確認できた」に変えるかもしれない一歩だった。
◆背景ノイズ
計測装置が常に拾っている微弱な電磁的雑音のこと。宇宙からの電磁波、大気の放電、機器自体の電気回路から発生するものなどが含まれる。今日の飛行でこの「正常状態のノイズ」を記録しておくことで、明日の試験で何かが返ってきたとき、それが本物の信号なのかノイズなのかを区別できるようになる。
◆受信専用モード
今日の飛行では送信は行わず、受信だけを行っている。こちらから何も出さない状態での外縁方向のノイズパターンを記録することが目的。このデータが明日の投射試験の比較基準になる。
◆ノイズの規則性
完全にランダムなノイズは、どの方向から見ても同じ統計的性質を持つはずだ。しかし今日のデータでは、外縁方向と国内方向でわずかな差が確認された。規則性のあるノイズは、何らかの発生源がある可能性を示唆する。ただし現時点では誤差との区別がついていない。
◆増槽
機体外部に取り付ける追加燃料タンク。F-15Jは主翼下や胴体中心線に増槽を搭載でき、航続距離を大きく延ばすことができる。今回は長距離進出のために搭載している。




