境界確認
西暦××××年××月××日 首相官邸地下 危機管理センター 午前6時
「次」
白瀬が言う。
あの朝から五日が経った。毎朝同じ時刻に始まり、同じメンバーが集まり、同じ形式で進む。変わったのは、「確認できない」の種類と量だけだ。だが五日間積み重なった「確認できない」は、もはや軽いものではなかった。
最初の日は、説明できない異常が現れた。二日目は、ロシアが来なかった。三日目は、韓国も中国も来なかった。四日目は、相対距離は正常だが外側の確認はできないという事実が積み重なった。
五日目の今日、何が積み重なるのか。
「防衛省、藤堂です。変化なし。各方向への進出後も同様です」
「要点だけでいい」
「航空・海上ともに、外側からの反応がゼロの状態が継続しています。ロシア、韓国、中国、いずれも変化なし。近距離の相対距離は正常であることが確認済みです。問題は外縁方向の遠距離のみに絞られてきています」
「観測値は正常か」
黒瀬みなみ。「正常です。ただし整合しません。日の出時刻のズレは継続しています」
布藤当真。「座標系のズレも継続しています。変化はありません」
横山和人。「回線は正常です。外側からの応答は引き続きありません」
式守千春。「市場は停止したままです。理由が確認できません」
黒崎はそれを聞いていた。「整理すると。内側は全部正常で、外側との接点だけがおかしい。それが五日間続いている、ということだな」
「はい」
「その"接点"がどこにあるのかが、まだ分かっていない」
「分かっていません。給油機との相対距離が正常だったことで、少なくとも給油機との間は正常だと確認できました。だが給油機も内側にいます。外縁を越えたところで何が起きているかは、まだ確認できていません」
「原因について言える人間はいるか」
沈黙。
大塚誠が口を開いた。「可能性としては、外部そのものが存在しない状態と解釈することもできます」
「その表現は使えません」白瀬が即座に言った。「断定できていないものに名前を付けると、名前の方が現実になります。名前に合わせて制度が動き始めます。今は動かせる段階ではありません」
「では、今言えることだけ言え」黒崎が言った。
「外縁の向こうは"空白"ではなく、"応答がない状態"です」相馬が言った。「応答がないことと、存在しないことは違います。今確認できているのは応答がないという事実だけです」
「それで足りるか」
「足ります」
「ならいい」
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「方法を変える」黒崎が言った。「距離を使うな」
室内に微妙な緊張が走った。距離を使うな、という言葉の意味を、全員が正確に理解しようとした。
「距離は信用できない。なら距離を使わない観測に切り替える。投げて、返るかどうかだけを見る。昨日の結果から、内側は正常で外側がおかしい可能性が出てきた。その境目を探す」
赤城が言った。「電波、通信、レーダー、全部可能です。比較基準については、国内方向と外縁方向の両方に投射して、差を見ます。国内に向けて返ってくれば機材は正常だと確認できる。同じ機材で外縁方向に投射して返ってこなければ、外縁方向の問題だと言えます」
「それでいい」
「三系統で同時に実施しますか」
「そうだ。地上固定局、海上移動局、航空移動局。同一時刻基準で記録する。一系統だけだと機材の問題かもしれない。三系統が揃えば、機材の問題ではないと言えるようになる」
「海上はどの艦を使う」
「「あたご」を外縁方向に展開させます」東雲晃が言った。「昨日から外縁付近での哨戒を継続させています。移動局として使えます」
「航空は」
「P-1に計測装置を搭載します。下総から出せます」
「地上は」
「NICTと連携します。複数の地点から同時送信できます」
「表向きは訓練でいい」黒崎が言った。「準備を始めろ」
「了解」
「それと」白瀬が言った。「"失敗"という言葉は使わない。外縁方向で返ってこなかった場合、それは失敗ではなく結果だ。"成立しなかった"で統一する」
「了解です」
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同日 研究室 十六夜さくら 午前9時
十六夜はホワイトボードに図を描いていた。同心円だ。中心に「日本」を置き、外側に向かって距離を示す線を引いている。
「境目がある、とすると」独り言だ。「境目の内側は正常で、外側は応答がない。この"応答がない"は何を意味するのか。三つの可能性があります」
十六夜は同心円の外側に、三つの記号を書いた。
「一、向こうに何もない。文字通り、外側が存在しない状態。二、向こうに何かあるが、こちらの信号が届いていない。境目で信号が遮断されている。三、向こうから信号が来ているが、こちらに届いていない。向こうは送っているが、こちらが受け取れていない」
赤城が入ってきた。「また一人で話しているのか」
「面白いことを考えていたので」
「何が面白いんだ」
「三つの可能性を区別できるかもしれない、ということです。投射試験で返ってこない場合、それだけでは三つのうちどれかが分かりません。でも、受信専用の試験を追加すれば区別できるかもしれない」
「受信専用?」
「こちらからは何も送らず、外縁方向から来るものだけを拾う試験です。もし向こうから信号が来ていれば、三番目の可能性が浮上します。向こうは存在していて、送っているが、こちらに届いていない。その場合、境目は双方向ではなく片方向に作用していることになります」
「片方向に作用している境目、か」
「不思議ですね」十六夜は言った。「通常の物理現象では、境目は双方向に作用します。こちらから届かなければ、向こうからも届かない。でも片方向なら、それは物理的な遮断ではなく、何か別のものかもしれない」
「何だと思う」
「分かりません。だから面白い。でも今は分からなくていいです。まず投射試験で返ってくるかどうかを確認して、次に受信専用の試験を追加する。その順番でいいと思います」
赤城はしばらく黙った。「兵器として成立するかどうかは別問題だが」
「ええ」十六夜は頷いた。「でも現象を理解する一歩にはなります。ロシアが来なかった理由も、距離感の異常も、全部この一歩の先にあるかもしれない」
「……やってみるか」
それが翌日の方針になった。
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同日 午後 防衛省各所での準備
海上では「あたご」が外縁方向へ移動しながら機材の確認を行っていた。
「地上局との時刻同期確認」
「みちびき基準で同期済み。艦内基準との誤差、〇・二秒以内です」
「投射方向の確認。国内基準局への方向、および外縁方向への角度設定、完了しています」
「機材の状態は」
「全系統正常です。昨日の確認では機材に問題はありませんでした」
当直士官の岩田三佐が確認する。「試験は明日実施する。今日は準備の最終確認だ。機材を万全の状態にしておけ」
「了解です」
岩田は艦橋の窓から外を見た。外縁付近の海域だ。見た目には何も変わらない。水平線が穏やかに揺れている。だが、この水平線の向こうで電波が返ってこなくなることを、今日まで五日間確認し続けてきた。
明日、その事実を数値として記録する。数値にすれば、言葉よりも正確に伝わる。言葉は解釈を含む。数値は事実だけを含む。
「天候確認。明日の予報は」
「晴れ。波高一メートル以下。試験実施に問題なし」
「了解。全員、今日は早めに休め。明日の試験に備えろ」
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航空側では、P-1が計測装置の搭載確認を行っていた。
「計測装置、搭載完了。全系統の動作確認を行います」
機内に並ぶ機材は、通常の哨戒機器とは一部異なる。電波の送受信を精密に記録するための装置が追加されている。これが明日の試験の「耳」になる。
「送信系、正常」「受信系、正常」「記録装置、正常」「時刻同期、みちびき基準で成立」
吉田二佐は確認を聞きながら、明日の任務を頭の中で整理していた。
送って、返るかどうかを見る。それだけだ。返ってくれば機材は正常。返ってこなければ、外縁方向の問題。どちらの結果でも、データになる。
シンプルな試験だ。だが、シンプルであることが、今日まで積み重なってきた「確認できない」を、初めて数値に変える可能性を持っていた。
「時刻基準は昨日のP-1と同じ基準を使えるか」
「みちびき基準。全系統で同期されています。昨日取得した背景ノイズデータとの比較準備も完了しています」
「了解。明日に備えて機材を保全状態にしておけ」
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地上では、NICTの担当者が送受信装置の最終確認を行っていた。
複数の地点から同時に送信する。時刻基準はみちびき。送信方向は国内基準局への方向と外縁方向の二種類。記録は全部残す。
担当者は机の上のメモを見た。「"成立しなかった"で統一」という注記がある。失敗とは言わない。結果を記録するだけだ。
その言葉の整理が、この試験の性格を表していた。失敗を証明しに行くのではなく、何が起きているかを記録しに行く。それが科学的な態度だ。今の状況で求められているのも、同じ態度だ。
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同日 夜 官邸地下廊下
白瀬は廊下で立ち止まった。窓のない壁を見る。地下では空が見えない。
メモ帳を出して、三つの言葉を書いた。
「確認できない」「理由がない」「前提」
あの朝から五日目だ。明日は六日目になる。六日目には、投射試験の結果が出る。
結果が出れば、「確認できない」の一つが、「確認できた」に変わるかもしれない。あるいは、新しい「確認できない」が生まれるかもしれない。
どちらになるかは、まだ分からない。だが少なくとも、今日より一歩前に進む。
五日間、白瀬はこの三つの言葉を守り続けてきた。断定しない。仮説に名前を付けない。測れるものだけを測る。
明日、その姿勢が最初の試練を迎える。
数値が出たとき、その数値に名前を付けたくなる衝動が来る。数値が「ある」を示せば、「外側に何かある」と言いたくなる。「ない」を示せば、「外側が消えた」と言いたくなる。
どちらも、まだ言ってはいけない。数値は数値だ。解釈は、もう少し待つ。
廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。それがいちばん不穏だった。あの朝からずっと、この音は変わらない。
◆外縁
本作で便宜上使用される言葉。日本列島の外周に接する、電波が返ってこなくなる境界線の境目。物理的な壁があるわけではなく、「向こうから信号が返ってこない領域の境目」として定義されている。あの朝以降、この境目の存在が徐々に明らかになってきている。
◆往復遅延測定
信号を送信して返ってくるまでの時間を測る方法。レーダーの基本原理と同じ。今回は距離を計算するためではなく「返ってくるかどうか」だけを確認するために使う。返ってきた場合でも、その波形が送ったものと同じかどうかを分析することで、反射なのか別の信号なのかを区別できる。
◆三系統同時投射
地上・海上・航空の三系統が同じ時刻に同じ方向に信号を送る試験。一系統だけで「返ってこない」結果が出ても、機材の故障や局所的な問題かもしれない。三系統が全て同じ結果を示せば、機材の問題ではなく「向こう側の問題」と判断できる。
◆受信専用試験
こちらからは何も送らず、外縁方向から来るものだけを受信する試験。十六夜が提案したもので、投射試験と組み合わせることで「境目が双方向か片方向か」を区別できる可能性がある。片方向の境目は通常の物理現象では説明しにくく、何か別の原理が働いている可能性を示す。
◆NICT(情報通信研究機構)
国立研究開発法人。電波・通信・宇宙天気などを専門に研究している国の研究機関。みちびきの時刻管理にも関与しており、本作では電波投射試験の地上側の信号解析を担当している。




