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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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帰ってきたな

西暦××××年××月××日 航空自衛隊千歳基地 格納庫前 午前5時30分


格納庫の中はまだ暗かった。


整備員がライトを手に機体の下面を這うように見ている。脚部の油圧。エアインテーク。機体下面のパネル。チェックリストは長い。だが今日の整備員の目は、いつもと少し違う。確認している対象は同じだ。手つきも同じだ。だが視線だけが、どこか慎重すぎた。


「異常なし」「異常なし」「異常なし」


報告が続く。機体は完璧な状態だ。あの朝から四日、飛んで戻って整備を受けて、また飛べる状態になっている。何も変わっていない。


だが、機体を見る人間の側が変わっていた。


昨日と同じ機体が、昨日より重く見える。重く見えるのは、あの朝からずっと「何もない」ことを確認し続けてきたからだ。ロシアが来なかった。韓国が来なかった。中国が来なかった。どの方向に飛んでも、外側からは何も返ってこなかった。


積み重なった「なし」は、積み重なるほど重くなる。最初の「なし」は驚きだった。二回目の「なし」は確認だった。三回目の「なし」は不安になった。四回目の今日は、その不安が静かに日常に溶け込もうとしていた。


溶け込ませてはいけない、と高田は思っていた。慣れた感覚は、異常を見逃す。


「今日も北ですか」高田は整備主任に聞いた。


「はい。ルートはこれまでと同じです。ただ今日は少し変わっています」


「何が変わる」


「給油機が待機しています」


「給油するんですか」


「しないそうです。給油機がそこにいるかどうかを確認するためだそうです」


「……給油機がいるかどうかを確認する」


高田はしばらく考えた。


これまでの飛行で確認してきたのは「外側から何も来ない」という事実だった。ロシア機が来ない。韓国機が来ない。中国機が来ない。それらはすべて「外側が確認できない」という問いへの答えだった。


今日は別の問いを立てている。「距離そのものが正常かどうか」という問いだ。


外側が確認できないのは、外側が存在しないからか。それとも、外側は存在しているが、距離の前提が壊れていてこちらに届いていないからか。その二つを区別するための試みとして、今日の飛行がある。


KC-767は内側にある。存在することが分かっている。その相対距離が計器通りに測れるなら、少なくとも内側の距離測定は正常だということになる。


「なるほど」


「なんですか」


「いや、なるほど、と思いまして」


整備主任は特に気にした様子もなく、チェックリストに署名した。「行ってきてください」


「戻ります」


その言葉が、今日は少し重かった。戻ります、ではなく、戻る、という意思表明に近かった。あの朝から毎日、この言葉を繰り返している。繰り返すたびに、少しだけ意味が変わっている気がした。


────


同日 ブリーフィングルーム


「今日の任務は、これまでと異なる点がある」松本二佐が言った。「これまで確認してきたのは、外側からの反応があるかどうかだった。ロシアが来るか。韓国が来るか。中国が来るか。全部、答えは"来なかった"だった」


「今日は何を確認しますか」


「距離だ。外側から何も来なかった理由が二つ考えられる。一つは、外側が存在しない。もう一つは、外側は存在しているが、距離の前提が壊れていてこちらに届いていない。今日はその二つを区別するための情報を取る」


「どうやって区別しますか」


「KC-767が北方空域で待機している。今日は給油機と合流して、相対距離が正確に測れるかどうかを確認する。給油機はこちらの機体だ。存在することが分かっている。その相対距離が計器通りに測れるなら、少なくとも近距離の距離測定は正常だということになる」


「つまり」高田が言った。「近いものは正常に測れるが、遠いものが測れなくなっているかもしれない、ということを確認するんですね」


「そういうことだ。もし近距離が正常なら、問題は遠距離か外縁方向だけかもしれない。それが分かれば、次の手が立てられる」


「KC-767との合流方法は」


「データリンクで位置を共有している。合流はそこまで難しくない。ただしGPSが使えないので、慣性航法を主体にした合流になる。念のため目視で確認してから近づけ」


「武装は」


「訓練仕様のみ。実弾なし。帰投条件は昨日と同じ」


「五割で帰投。変えない」


「了解です」


────


同日 北方空域 KC-767との合流確認


KC-767が見えた。


機体下部の空中給油用のブームが収納状態で見える。四発のエンジンが安定した推力を出している。大きな機体だ。あれほどの機体が、前方に静かに浮いている。


「イーグル11、給油機確認。データリンク上の位置と目視が一致している。距離、計器通りです」


「イーグル12も確認。一致しています。距離に違和感なし」


高田は少し安堵した。相対距離は正常だ。少なくとも、この空間の、この二機の間では、距離は正しく機能している。KC-767が「そこにある」とデータリンクが言う。実際に、前方にあの大きな機体が見える。数値と現実が一致している。


「内側の距離は正常だ」高田は言った。


「はい。少なくとも自機と給油機と僚機の間では」別府が返す。


「外側は」


「何もない。今日もロシア機の反応なし。電波照射なし。迎撃機の兆候なし」


給油機と自機と僚機。それだけがある。外側には、何もない。レーダーは整然としている。クラッターが少ない。何も映らないのに、何も乱れていない。


「世界が増えないな」高田は言った。


「飛んでるのに増えないな」別府が返した。


飛べば飛ぶほど情報は増えるはずだ。他者の存在が視界に入り、レーダーに重なる。だが今日は、増えるのは自機の航跡だけだ。前方には何も追加されない。前日も同じだった。その前の日も同じだった。


「内側の世界と外側の世界が、繋がっていないみたいだ」


別府の言葉が、機内の空気に少し残った。誰もそれを否定しなかった。


「燃料、五十パーセント」


「了解。反転する」


機体が旋回し始める。その瞬間、わずかな安堵があった。帰れる。その事実が、今日は特別にありがたかった。


帰れることがありがたい、という感覚自体が、今日が普通ではないことを示していた。だが同時に、その感覚が少しずつ薄れていることにも気づいていた。あの朝から四日間、毎回帰れた。帰れることが、少しずつ当たり前になっていた。


当たり前にしてはいけない、と高田は思った。帰れることを当然にした瞬間、帰れないかもしれないという可能性を見失う。


────


同日 千歳基地 着陸


スロットルをアイドルに絞り、エアブレーキを展開する。大きな抵抗が生まれ、機体が前のめりに押される。ホイールブレーキを踏む。速度が落ちていく。数字が下がっていく。


エアブレーキを格納してエンジンを停止する。コックピットの中が、急に静かになる。


高田はラダーを外して降りた。


整備員が駆け寄ってくる。点検が始まる。手つきはいつもと同じだ。だが視線だけが、いつもより慎重だった。整備員も分かっている。今日の飛行が、通常の訓練飛行とは何かが違うことを。


「帰ってきたな」


誰かが言った。高田は振り返った。誰が言ったのか分からない。整備員の誰かだったかもしれない。別の搭乗員だったかもしれない。


その一言が、今日一番重かった。


「帰ってきた」。それだけで、一つの結論だった。何も見つからなかった。ロシアも来なかった。何も起きなかった。だが、戻れた。


戻れたという事実が、「戻れなかった可能性」をはっきりと浮かび上がらせる。あの朝から四日間、毎回戻れた。戻れたことを積み重ねてきた。だが今日初めて、その積み重ねの裏側に何があるかを実感した。


戻れたということは、戻れなかった世界が存在していたということだ。


「よかった」と整備員の一人が言った。「戻ってきてよかった」


「そうだな」


高田はそう答えて、空を見た。青い。いつも通り青い。だが、その青の向こうに何があるのかを、今日も確認できなかった。


────


同日 ブリーフィングルーム 午前10時


「相対距離の確認は取れた」松本二佐が言った。「給油機との位置関係は計器通り。内側の距離は正常だ。少なくとも今日の条件では、近距離の相対距離は機能している」


「ということは」


「"距離"が全部壊れているわけじゃない可能性がある。近距離の相対距離は機能している。問題は遠距離の絶対距離か、あるいは外側に向かう方向の距離だけかもしれない」


「つまり、内側は正常で、外側だけがおかしい」高田が言った。


「まだそこまでは断言できないが、一つの可能性だ。今日のデータを地上に上げる。次の判断は地上がやる」


「搭乗員の所感は」


「全員、距離感がおかしいという報告を出している。ただし、給油機との相対距離については違和感がなかったという報告もある。遠くを見たときだけ、おかしい感じがするそうだ。また」松本は少し間を置いた。「複数の搭乗員から、"慣れ始めている"という報告が出ている」


「慣れ始めている、とはどういうことですか」


「最初の日は、何もないことに強い違和感を感じた。今日は、その違和感が薄れてきている。ロシアが来ないことが当たり前になりかけている、という報告だ」


「それは問題ではないですか」


「問題だ。だから記録している。慣れていくという現象自体が、異常が継続しているという証拠になる。同時に、慣れが進めば異常の検知能力が落ちる。どちらの意味でも重要な情報だ」


「慣れないようにするにはどうすればいいですか」


松本は少し間を置いた。「毎回、初めて見るつもりで見ることだ。ただしそれは精神論だ。実際には慣れる。人間はそういうものだ。だから記録が重要になる。記録は慣れない。記録は最初の感覚を残す。記録を読み返すことで、今の自分がどれだけ慣れてしまったかを確認できる」


────


同日 官邸地下 正午


「今日の範囲で確定できたことは何だ」黒崎が聞く。


「二点です」藤堂が言った。「一点目。近距離の相対距離は正常であることが確認できました。給油機との位置関係は計器通りに測れています。二点目。外側からの反応は今日も確認できていません。ロシア、韓国、中国、いずれも、昨日までと同じ状態が継続しています」


「つまり。内側は正常で、外側だけがおかしい」


「その可能性が高まっています。ただし断定はできていません」


「外側と内側の境目はどこだ」


「まだ分かりません。今日の確認では切り分けができていません。給油機との相対距離が正常だったということは、少なくとも給油機との間では正常だということです。だが給油機も内側にいる。外縁を越えたところで何が起きているかは、まだ確認できていません」


「距離の前提が壊れている可能性については」


「排除できていません。十六夜さんが面白い分析をしています」


「聞かせろ」


十六夜さくらが口を開いた。「ロシアや韓国が来なかったのは、距離の前提が変わっていてこちらに届かない、という可能性があります。消えたのではなく、届いていないだけかもしれない。その可能性を確認するために、投射試験が有効だと思います」


「投射試験か」


「送って返ってくれば、そこまでは正常です。返ってこなければ、そこから先がおかしい。境目の位置が分かれば、次が立てられます」


黒崎は頷いた。「次にやることははっきりした。境目を探す。電波を投げて返るかどうかで確かめる。準備しろ」


「了解です」


「急ぐな。だが止まるな」


────


同日 研究室 午後


十六夜さくらはホワイトボードに数式を書いていた。


「面白いですね」独り言だ。


赤城蓮人が横で資料を見ていた。「今日も何もなかったのに何が面白いんだ」


「内側は正常で外側がおかしい、というのが今日の結果だとすると、境目があるということです。境目があるなら、その境目に物理的な意味がある可能性がある。なぜそこで変わるのか」


「なぜだ」


「分かりません。でも、なぜ変わるのかが分かれば、何が起きているのかに近づける。そのために投射試験が必要です」


「投射試験で何が分かるんだ」


「送って返ってくる範囲が分かれば、境目の位置が分かります。返ってきた信号の内容によっては、境目の向こう側に何があるかも分かるかもしれない。少なくとも、"境目がある"という事実を数値として記録できます」


「ロシアや韓国が来なかったこととは別の話か」


「つながっているかもしれません」十六夜は言った。「距離の前提が壊れているなら、ロシアや韓国からの迎撃機が"来られない"可能性があります。存在しているが、距離の前提が変わっていてこちらに届かない。そういう可能性も排除できません」


「つまり、消えたのではなく、届いていないだけかもしれない」


「可能性として。確認する手段が、今はまだありません。それが投射試験の目的の一つでもあります」


赤城は少し考えた。「兵器として成立するかどうかは別問題だが」


「ええ。でも現象を理解する一歩にはなります。現象が分からないうちは、何もできません。ロシアが来なかった理由も、距離感の異常も、全部この一歩の先にあるかもしれない」


「……やってみるか」


それが翌日の方針になった。


────


同日 千歳基地 夜


高田は自室で記録を書いていた。


今日の飛行の記録。見えたもの。見えなかったもの。計器の数値。所感。


「帰ってきたな」という言葉が、まだ頭に残っていた。


誰が言ったのか分からない。だが、その言葉は正確だった。帰ってきた。それが今日一番重要なことだった。何も見つからなかったが、帰ってきた。


明日もまた飛ぶ。また何かを確認しに行く。また帰ってくる。


その繰り返しが、今の仕事だった。


ロシアが来なかった。それが何を意味するのか、まだ分からない。明日、投射試験がある。その結果で、何か分かるかもしれない。


分からなかったとしても、記録は残る。記録が残れば、その先で考えられる。


高田は記録を保存した。窓の外に、北海道の夜が広がっている。いつも通りの暗さだ。星が出ている。


その星が、地球から見るのと同じ星かどうかは、まだ分からなかった。


◆エアブレーキ

F-15Jの機体上部に装備された大型の板状の装置。着陸時に展開して空気抵抗を増やす。F-15Jにはドラッグシュートは装備されていない。着陸時の減速はエアブレーキとホイールブレーキの組み合わせで行う。


◆KC-767(空中給油機)

航空自衛隊が運用する空中給油機。ボーイング767旅客機を改造した機体で4機保有。給油方式はフライングブーム方式で、機体後部下面から硬性ブームを伸ばして接続する。今回は給油ではなく「給油機がそこにいる」こと自体が相対距離の確認に使われている。


◆相対距離と絶対距離の違い

相対距離とは、二点間の距離のこと。今回は自機と給油機の距離が計器通りに測れることが確認された。絶対距離とは、基準点(衛星など)からの距離のこと。GPS衛星が使えない今、絶対距離の正確な測定ができない状態が続いている。近距離の相対距離は正常でも、遠距離の絶対距離が変わっている可能性を排除できない。

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