距離という前提
西暦××××年××月××日 首相官邸地下 危機管理センター 午前8時
「昨日のP-1の報告を整理する」
白瀬が言った。昨日から一夜明けた。机の上の資料がまた増えている。それだけだ。他は変わっていない。
「ロシア極東沿岸方向への進出で、ロシア機の迎撃なし。電波反応なし。AIS信号なし。迎撃機が出なかった、というのが昨日一番重い報告です」
「具体的にどのくらいまで進出したか」
「通常なら迎撃機が出る空域の手前まで進出しました。燃料の制約で、それ以上は進めませんでした。ただし迎撃機が出るはずの距離まで近づいても、何も出てきませんでした」
「中国と韓国は確認できたか」
「昨日は北方を優先したため、中国・朝鮮半島方向への進出は行っていません」
「今日やれ」
「P-1は」
「昨日と同じく北方に出す。今日はその継続確認だ。それとは別に、中国・朝鮮半島方向の確認が要る。F-15Jを出せ」
「F-15Jですか」
「朝鮮半島、中国沿岸は日本海を挟んだ距離だ。P-1ほどの航続距離は要らない。F-15Jで十分届く。それにF-15Jは日常的にスクランブル対応でその方向を飛んでいる。慣れた空域だ。いつもと同じように飛んで、いつもと違うものを確認してこい」
「了解です。千歳から出しますか」
「小松か百里の方が朝鮮半島に近い。小松から出せ」
「了解です」
「韓国・中国側からの迎撃が来るかどうかを確認しろ。来なければ、それが結果だ。来ても、それが結果だ。どちらも等しく結果だ。来なかった場合に落胆するな。来なかった場合の方が、今日は重要な情報になる可能性がある」
「了解です」
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同日 防衛省・市ヶ谷 情報運用室 午前9時
「昨日の整理から始めます」
幕僚の一人が報告を読み上げた。「ロシア極東沿岸方向、引き続き反応なし。P-1が昨日進出しましたが、ロシア機の迎撃なし。電波発信の確認なし。本日も同方向へP-1が進出しており、同様の確認を継続します」
「中国・朝鮮半島方向は」
「本日、小松からF-15Jが朝鮮半島・東シナ海方向へ進出します。韓国軍・中国軍からの迎撃機が出るかどうかを確認します」
「通常であれば」
「韓国は、こちらが対馬海峡に近づくと韓国空軍機が出てきます。中国は、東シナ海の特定空域に入ると中国海軍・空軍の反応が出ます。あの朝から両国からの電波反応が止まっています。今日の飛行で、反応があるかどうかを確認します」
「反応がなければ」
「ロシアと同様に、確認できていない状態が続く、ということになります」
「つまり」藤堂が言った。「日本の周囲、全方向で同じことが起きているかどうかを、今日確認する」
「はい。ロシアは昨日確認できなかった。今日、韓国と中国も確認できなければ、方向に関係なく外側が全部同じ状態にある、ということになります」
藤堂はスクリーンを見た。日本列島の周囲には航跡がある。その外側は、まだ白い。今日の飛行で、その白さがどこまで広がっているかが、もう少し分かるかもしれない。
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同日 航空自衛隊小松基地 ブリーフィングルーム 午前11時
「TACチャートがないな」
F-15Jの操縦士、加藤二等空尉はブリーフィングルームの壁を見た。いつもなら詳細な戦術航空図が貼ってある場所が空白だ。代わりに貼ってあるのは一枚の紙だった。指定訓練空域。高度帯。飛行時間。燃料消費目安。帰投判断ライン。それだけだ。
「今日はないそうです」僚機の田中二等空尉が言った。
「なぜないんだ」
「行き先が決まっていないからだと思います」
「行き先が決まっていないのに飛ぶのか」
田中は少し間を置いた。「決まっていないというより、地図がない、という方が正確かもしれません」
「地図がない?」
「向かう方向は決まっています。でもその先に何があるかが確認できていない。チャートに書けることがない、ということかもしれません」
加藤はその言葉を少し考えてから、視線をブリーフィングルームの前方に向けた。
「進出方向は西と南西だ」第6航空団司令が言った。「まず日本海を横断して、朝鮮半島方向へ進出する。その後、東シナ海方向に向けて南下し、中国沿岸に相当する方向を確認する」
「韓国軍・中国軍との接触は」
「想定しない。ただし、通常ならこちらが近づけば向こうから迎撃機が出てくる。今日、それが出てくるかどうかを確認しろ」
「出てこなかった場合は」
「それが結果だ。帰ってから考える。今日は見て記録するだけだ」
「武装は」
「訓練仕様のみ。実弾なし。武装を積む理由がないので積まない」
「燃料の折り返し条件は」
「五割で帰投。これは変えない。いかなる理由があっても五割で戻れ。帰投を絶対条件とする」
「了解です」
加藤は資料を閉じた。目的地のない飛行。迎撃が来なければ来なかったことが結果で、来れば来たことが結果。どちらでも「結果」になる飛行というのは、これまでに経験がない。
「行くか」司令が言った。
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同日 F-15J機内 日本海上空 午後0時頃
離陸から三十分。日本海を西に向かって飛んでいる。
「三十分経過。状況報告を」地上管制からの声。
「目標なし。レーダー正常。電子妨害の兆候なし。見えるのは自機と僚機のみ」
「了解。引き続き進出。何か見えたら評価前に報告」
「了解」
加藤は火器管制レーダーの表示を見ていた。整然としている。ノイズが少ない。クラッターも安定している。機材は完全に正常だ。
だが、映らない。
この空域に入ると、通常は韓国軍の反応が出る。対馬海峡に近づくにつれ、韓国空軍の戦闘機が上がってくる。あるいは早期警戒機のレーダー照射を受ける。それが「普通」だった。スクランブルで何度もこの方向を飛んだ。そのたびに、ある距離を超えると何かが出てきた。
今日は何も来ない。
「……静かだな」加藤は思わず無線に乗せた。
「聞こえてるぞ」田中の声が返ってきた。「韓国機が来ない」
「そうだ。対馬海峡まで来た。いつもなら必ず何か出てくる空域だ」
「レーダー照射も来ていない」田中が言った。「韓国側からの電波が、一切ない。管制の電波も、軍用レーダーの照射も、全部ない」
「ロシアと同じか」
一拍の沈黙があった。
「……同じだ」
韓国も来なかった。昨日ロシアが来なかった。今日韓国も来なかった。方向は違う。しかし結果は同じだ。
「南下する。東シナ海方向へ」
「了解」
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東シナ海に入った。
「中国側の反応は」
「……なし。尖閣周辺の空域に入りました。中国海軍・空軍の反応が通常出るはずの空域ですが、何もありません。電波照射なし。迎撃機なし。AIS信号もなし」
「記録しろ」
「記録しています。中国海警の船も、軍艦も、漁船も、何も確認できません」
加藤はレーダー画面を見た。
何もない。
尖閣周辺は、あの朝まで世界で最も緊張した海域の一つだった。中国の公船が定期的に接続水域に入り、航空機が飛来し、海軍艦艇が周辺を航行していた。それが毎日の「普通」だった。その「普通」が、ある朝を境に消えた。
「燃料、五十パーセント」
「了解。反転する」
南西の空を見ながら、機体を旋回させた。遠くに島影がうっすら見える。尖閣だ。いつも通りの島影だ。だがその周囲の海に、いつも通りの船影はない。
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同日 小松基地 着陸後 午後2時頃
加藤は機体から降りながら、空を見た。いつも通りの空だ。青い。いつも通りの天気だ。
「異常はなかったですか」整備員が聞く。
「機体は正常だった。韓国機も中国機も来なかった」
整備員は黙ってメモを取った。
飛行班長の松本二佐が待っていた。「韓国も来なかったか」
「はい。対馬海峡も、尖閣周辺も、何も出てきませんでした。電波照射もありませんでした」
「所感は」
加藤はしばらく考えた。「怖かったです」
「何が」
「何もなかったことです。来ないことが怖かった。迎撃機が来れば、それはそれで緊張します。でも来ないと、確認すべき相手がいない。相手がいないと、自分がどこにいるのか分からなくなる気がしました」
松本は頷いた。「もう少し詳しく聞かせてくれ」
「自分が今どこにいるかは、座標で分かります。でも、座標が正しいかどうかを確認するのに、周囲の反応を使っていたんだと気づきました。韓国機が出てくれば、韓国の方向が分かる。中国のレーダーが照射されれば、中国の方向が分かる。それで自分の位置を確認していた部分があります。その確認ができなくなると、座標は合っていても、自分がどこにいるかが分からなくなる感じがします」
「面白い観察だ」松本は言った。「記録に残せ。所感ログとして別に保存しろ」
「了解です。ただ、面白いとは感じませんでした」
「そうか」
「怖かったです。それだけです」
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同日 防衛省・市ヶ谷 情報運用室 午後2時30分
「小松からの報告が届きました」幕僚が言った。「朝鮮半島方向、韓国軍の迎撃なし。対馬海峡まで進出したが韓国側からの反応ゼロ。東シナ海方向、中国側の迎撃なし。尖閣周辺まで進出したが中国側からの反応ゼロ」
室内が静まった。
「ロシア、韓国、中国。全方向で確認できていない」藤堂が言った。「方向に関係なく、外側が全部同じ状態にあります」
「P-1の報告は」
「北方も昨日と同様です。ロシア機の迎撃なし、電波反応なし。これで二日連続です」
藤堂はスクリーンを見た。日本列島の周囲には航跡がある。だが外側は、どの方向を見ても白い。北も、西も、南西も、全部同じだ。
「……全部の方向で、同じことが起きている」
誰かがぼそりと言った。
「地図の外側が、全部消えちまったみたいだな」
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同日 千歳基地
千歳では今日も、F-15Jが北方から戻ってきた。
今日の千歳機は別の任務だった。P-1の帰投を確認するための待機と、空域の安全確保だ。飛行そのものは通常の訓練に近い形で実施していた。
高田一等空尉は、帰投後のブリーフィングで松本二佐と向き合っていた。
「今日の所感を聞かせてくれ」
「昨日と同じです。空が薄い感じがします。距離感がおかしい。計器は正しいんですが、体感が全然違います」
「昨日と比べて変化はあるか」
「……少し変わった気がします」
「どう変わった」
「慣れ始めています」高田は言った。「昨日は気持ち悪かった。今日も気持ち悪いですが、昨日より少しだけ当たり前になっています。ロシアが来ないことが、当たり前になりかけている」
松本は端末への入力を止めた。「それは重要な観察だ」
「そうですか」
「慣れた感覚は記録しにくい。でも、慣れていくということは、それが繰り返されているということだ。繰り返されているということは、再現性がある。再現性のある現象は、偶然ではない」
「……確かに」
「お前だけじゃないぞ。複数の搭乗員が同じことを言っている。距離感の異常が、少しずつ当たり前になっていると。それをまとめて地上に上げる。慣れていくという現象自体が、データになる」
高田は少し間を置いた。「慣れていいんですか」
「慣れることと、注意を払わなくなることは違う。慣れるのは体の話だ。注意を払い続けるのは頭の話だ。体が慣れても、頭は慣れるな。それが今日から求めることだ」
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同日 官邸地下 午後3時
「今日の範囲で確定できたことは何だ」黒崎が聞く。
「三点です」藤堂が言った。「一点目。ロシア極東沿岸方向、二日連続で確認できていない状態が継続。二点目。朝鮮半島方向、韓国軍の迎撃なし。対馬海峡まで進出したが韓国側からの反応ゼロ。三点目。東シナ海方向、中国側の迎撃なし。尖閣周辺まで進出したが中国側からの反応ゼロ」
「方向を問わず、全部確認できていない、ということだな」
「はい。北、西、南西。確認した全方向で同じ結果です」
「それは何を意味する」
「少なくとも、特定の方向だけが問題なのではない、ということです。日本の外側、どの方向に向かっても、同じ状態になっている」
「日本だけが残っている、ということか」
「確認できているのは日本だけです。他の国が存在しないとは言えません。ただし、他の国の存在を示す証拠が、今日の時点でどの方向からも確認できていません」
黒崎は少し間を置いた。
「それを"日本だけが残っている"とは言うな。"外側の確認ができていない"と言え。言い方が変われば、次の行動が変わる。"日本だけが残っている"と言えば、孤立という前提で動き始める。"確認できていない"なら、確認する方向で動ける。今は行動を変える段階ではない」
「了解です」
「F-15Jの搭乗員から、相手がいないと位置が分からなくなる、という報告が来ています」白瀬が言った。「座標は合っているが、自分がどこにいるかが分からなくなる、と」
「どういう意味だ」
「他の国からの反応を使って、自分の位置を確認していた、という話です。反応がなくなると、座標の数値は正しくても、それが何に対して正しいのかが分からなくなる。距離感がおかしくなる、という搭乗員の所感に繋がっているかもしれません」
黒崎はしばらく天井を見た。
「距離は、相手があって初めて意味を持つ。相手がなければ、どれだけ遠く飛んでも、距離は距離にならない。そういうことか」
「そうかもしれません。距離という概念が、前提を失っている可能性があります」
「次にやることははっきりした。距離で測るのではなく、違う手段で確かめる必要がある。電波を投げて返るかどうかを見る。準備しろ」
「了解です」
「急ぐな。だが、止まるな」
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同日 夜 防衛省内
白瀬は廊下でメモ帳を出して、書いた。
「確認できない」「理由がない」「前提」
今日、韓国も中国も来なかった。昨日、ロシアが来なかった。日本の周囲、全方向で、同じことが起きている。
距離は、相手があって初めて意味を持つ。黒崎の言葉が残っていた。相手がなければ、どれだけ飛んでも、どれだけ進んでも、距離にならない。
来なかった、という事実に「消えた」という言葉を付けた瞬間、その言葉は走り始める。走り始めた言葉は止められない。
だから今はまだ、「確認できていない」を守る。
廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。
◆小松基地
石川県小松市にある航空自衛隊の基地。第6航空団が駐屯し、F-15Jを運用する。日本海に面した位置にあり、中国や朝鮮半島方向への対領空侵犯措置の主要拠点の一つ。日本のスクランブル回数の大部分はこの基地が担っている。
◆対馬海峡
日本と朝鮮半島の間にある海峡。幅は最も狭い部分で約50キロメートル。韓国軍はこの海域に近づく航空機に対して、通常は早期に反応する。今回、この海域まで進出しても韓国軍の反応がなかったことは、通常では考えられない事態だ。
◆尖閣諸島周辺空域
日本が実効支配する尖閣諸島周辺の空域。中国は領有権を主張しており、中国海警船や軍用機が定期的に接続水域・防空識別圏に進入していた。あの朝以降、この海域でも中国側からの反応が消えている。
◆F-15JとP-1の役割分担
P-1はターボファンエンジン四発の大型機で、長時間・長距離の哨戒に優れる。F-15Jは高速・高機動の戦闘機で、比較的近距離の空域確認やスクランブル対応に向いている。今回はP-1が遠距離のロシア方向、F-15Jが比較的近距離の韓国・中国方向を担当している。




