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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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往来

西暦××××年××月××日 ダーウィン港 午前6時


巡視船が、出港の準備をしていた。


十六夜は、甲板に立っていた。


三日間、準備に追われた。今、その三日間の先に、今日が来た。


空はまだ薄暗い。港の灯りが、水面に映っている。あの朝から数えれば、もう何十日も経っている。その間の積み上げが、今日この瞬間に、一つの形になろうとしている。


捕虜が、隔離区画から、桟橋まで歩いてきた。記録者ではなく、護衛の担当者が付いていた。捕虜の表情は、落ち着いていた。


レイスは、見送りのために来ていた。捕虜と、短く言葉を交わした。それから、捕虜の肩に、軽く手を置いた。


十六夜には、その動作の意味は分からない。だが、励ましのようなものに見えた。


レイスの表情には、見送る者としての緊張があった。捕虜が艦隊に戻った後、自分一人でこちらとの接触を続けることになる。その不安が、わずかに表情に出ていた。


それでも、レイスは最後まで、落ち着いた態度を崩さなかった。


────


見送りが終わると、桟橋に静けさが戻った。


船長が、十六夜に近づいてきた。


「準備できました」


船長が言った。


十六夜は、捕虜と一緒に、船室に向かった。


捕虜は、初めて乗る船だ。これまでの帆船とは違う、エンジンで動く船だ。捕虜は、甲板から見える景色を、しばらく眺めていた。


エンジンの音が、船体を通して伝わってくる。捕虜は、その振動を、足元から感じているようだった。帆船とは違う動き方に、興味を示しているように見えた。


船が、港を出た。


────


海上は、穏やかだった。


十六夜は、捕虜と並んで、甲板に立っていた。


これまでの面会室とは違う場所だ。同じ空気を、外で、一緒に感じている。


面会室には、いつも記録者がいた。録音機があった。今日は、それらがない。ただ、海と風と、二人だけだ。


捕虜は、海を見ていた。北西の方向だ。艦隊がいる方向。


十六夜は、何も言わなかった。言葉は、今は必要ないと思った。


あの朝から、ずっと言葉を探してきた。今日は、言葉を探さない時間も、必要だと感じた。


風の音と、エンジンの低い響きだけが、二人の間にあった。それでも、何も欠けているとは感じなかった。むしろ、言葉のない時間が、これまでのどの面会よりも、二人を近くに感じさせた。


────


数時間後、艦隊が見えてきた。


捕虜の表情が、変わった。


これまでの面会で見た、どの表情とも違った。十六夜には、その表情を正確に表す言葉が見つからなかった。


安堵でもない。喜びでもない。それらが混ざり合った上に、もう一つ何かがある表情だった。長く待ち続けたものが、ようやく目の前に現れたときの表情、というのが、一番近いかもしれない。


捕虜は、甲板の手すりを、強く握っていた。指の関節が、白くなっているのが見えた。


艦隊が、近づいてくる。


────


向こうの帆船が一隻、巡視船を誘導するように、近くまで来た。


巡視船は、その帆船の後について、艦隊の近くまで進んだ。


向こうの帆船が、近くを並走する様子を、十六夜は初めて見た。風を受けて進む帆船と、エンジンで進む巡視船。速度はほぼ同じだったが、進み方の質感が、まったく違っていた。帆船には、波と風の力をそのまま使う、しなやかな動きがあった。


十六夜は、双眼鏡で、艦隊の様子を見た。


艦隊の規模を、初めて近くで見た。これまで衛星データの上で確認してきた数字が、実際の船の並びとして見えている。帆船が主力で、蒸気機関を持つ艦が数隻混ざっている。古い設計だと報告で読んだが、実際に見ると、その古さの中に、確かな技術の蓄積も感じられた。


旗艦の甲板に、人影が見えた。複数の人物が、並んで立っている。


一人は、若い女性だった。これが、アルセナという人物だろうか。


服装が、周りの者たちと少し違う。立ち姿に、特有の緊張感があった。


もう一人は、年配の男性だった。指揮官のドラフォかもしれない。


二人の間に、少し距離があった。だが、敵対的な距離ではない。むしろ、それぞれの役割を持つ者同士の、適切な距離に見えた。


────


巡視船が、艦隊の近くで停止した。


捕虜が、甲板の先端に立った。


向こうの帆船から、小さなボートが下ろされた。捕虜が、そのボートに乗る予定だ。


ボートには、漕ぎ手が二人乗っていた。彼らも、艦隊の人間だ。捕虜の同じ文明の人間が、こちらの船まで来ている。十六夜にとって、捕虜以外のヴァルタの人間と直接対面するのは、これが初めてだった。


漕ぎ手たちは、十六夜を見て、軽く頭を下げた。十六夜も、頭を下げて返した。


十六夜は、捕虜の隣に立った。


「ここまでです」


そう言って、十六夜は、合意の動作をした。


捕虜は、頷いた。それから、両手を軽く上下に振る、あの動作をした。先日、初めて見せてくれた動作だ。


十六夜は、同じ動作を返した。


それから、十六夜は、もう一つ伝えたいことがあった。だが、片言の語彙では、十分に表現できない感情だった。仕方なく、もう一度、両手を軽く振る動作をした。今日見せてもらった動作を、もう一度返すことで、ありがとう、という気持ちを込めた。


捕虜は、それを見て、少し笑った。安堵に近い笑顔だった。


「気をつけて」十六夜は日本語で言った。通じない。だが、言った。


────


捕虜が、ボートに乗った。


ボートが、艦隊に向かって進んでいく。


十六夜は、その後ろ姿を、ずっと見ていた。


ボートが小さくなっていく。捕虜の背中が、だんだん遠くなる。


あの朝から今日まで、捕虜はずっと、こちら側の世界にいた。隔離区画という、限られた空間の中で、こちらとの接触を担ってきた。今、その捕虜が、自分の世界に帰っていく。


見送る、ということが、こんなに胸に来るものだとは、十六夜は思っていなかった。


艦隊に近づくと、旗艦の甲板にいた人物たちが、動いた。若い女性——アルセナと思われる人物——が、前に出た。


ボートが、旗艦の側に着いた。


捕虜が、艦に上がった。


アルセナが、捕虜に向かって、何かを言った。


捕虜が、答えた。


二人の間で、短いやり取りがあった。それから、アルセナが、両手を前に出して、捕虜の両肩に、そっと置いた。


十六夜には、その動作の意味が分からなかった。だが、温かいものに見えた。


双眼鏡の中で、その光景は、ゆっくりと進んでいた。アルセナの表情は、遠くからでもはっきり見えるほど、柔らかいものに変わっていた。捕虜の肩を抱く手の動きには、ためらいがなかった。


十六夜は、双眼鏡を持つ手を、少し下げた。直接見るより、少し距離を置いて見守りたい気持ちがあった。


隣にいた護衛の担当者が、十六夜に声をかけた。「大丈夫ですか」


「大丈夫です」十六夜は答えた。「少し、感じ入ってしまって」


「分かります。私も、同じ気持ちです」


二人は、しばらく、艦隊の方を見ていた。


ヴァルタ連合 外交補佐官レイス ダーウィン基地内 同日朝


レイスは、捕虜を見送った後、面会室に戻った。


誰もいない面会室は、これまでとは違う静けさがあった。捕虜がいない面会室を見るのは、初めてだった。


通信担当が言った。「レイス様、一人で大丈夫ですか」


「大丈夫だ」レイスは答えた。「数日間だけのことだ」


そう言いながらも、レイスは少し、自分の言葉に確信が持てなかった。捕虜がいることで、これまでの接触は成り立ってきた。捕虜がいない数日間、自分一人で、向こうの担当者との接触を続けられるのか。


「今日の面会は、どうしますか」通信担当が聞いた。


「あるはずだ。向こうも、捕虜が戻ってくるまでの間、接触を止めるつもりはないだろう」


レイスは、窓の外を見た。巡視船は、もう海の上だ。捕虜は、今、艦隊に向かっている。


「行ってこい」


レイスは、小声で言った。誰にも聞こえないように。


それは、出港のときにアルセナ様も言っていた言葉だと、後で聞いて知った。同じ言葉が、別の場所で、同じ気持ちを込めて使われていた。それも、何かの繋がりのように、レイスには感じられた。


────


ヴァルタ連合 派遣艦隊旗艦「エイカ」 甲板


アルセナは、捕虜を、近くで見た。


報告書では、何度も読んできた存在だった。今、実際に、目の前にいる。


捕虜の顔を、こんなに近くで見るのは初めてだった。表情があり、息をしていて、確かに生きている人間が、ここにいる。報告書の文字の向こうにいた存在が、実体を持って目の前に立っている。


「よく、戻ってきた」


アルセナは言った。


その一言に、これまでの長い時間の全部を込めたつもりだった。あの朝から今日までの間、この者がどんな思いで過ごしてきたか、アルセナには全部は分からない。だが、想像できる範囲で、ねぎらいたかった。


捕虜は、深く頭を下げた。それから、何かを言った。アルセナには、その言葉の意味が、半分くらい分かった。これまでの報告書で、何度も出てきた語だった。


合意。継続。


捕虜は、自分の役目を果たした、という報告をしているように見えた。誇らしさと、安堵が、その言葉の調子に混ざっていた。


「お前が、ここまで繋いだ」


アルセナは言った。


言葉が完全に通じているかどうかは、分からない。だが、声の調子と、表情で、伝わるものがあると思った。


捕虜は、もう一度、深く頭を下げた。それから、ゆっくりと顔を上げた。その目には、確かな光があった。


ドラフォが、後ろから来た。


「無事だったか」ドラフォが言った。


捕虜は、ドラフォにも、頭を下げた。


ドラフォは、それ以上は何も言わなかった。だが、その表情には、安堵に近いものがあった。


アルセナは、その表情を見て、少し意外に思った。合理性を基準に動く指揮官だと、これまで何度も感じてきた。だが、今の表情には、合理性だけでは説明できない、何かがあった。


同じ艦隊から出た者として、ドラフォにも、捕虜に対する個人的な思いがあったのかもしれない。


「指揮官」アルセナは小声で言った。


「何だ」


「今日のことを、嬉しく思っているように見える」


ドラフォは、少し間を置いた。「合理的な結果に、安堵している。それだけだ」


アルセナは、それ以上は追及しなかった。ドラフォなりの言い方を、尊重した。


甲板の向こうで、捕虜が仲間たちに囲まれている様子が見えた。ドラフォも、その方向を見ていた。


「指揮官」アルセナはもう一度言った。


「何だ」


「向こうの文明との関係が、これからどうなるか、まだ分からない。だが、今日のような瞬間が、もっと増えればいいと思う」


ドラフォは、少し間を置いた。「それは、外交代表としての発言か」


「個人としての発言だ」


ドラフォは、それ以上は答えなかった。だが、否定もしなかった。


────


捕虜は、甲板から、艦隊の中を見回した。


これまで、信号でしかやり取りできなかった仲間たちが、甲板の周りに集まっていた。誰かが、捕虜の名前を呼んだ。


捕虜が、その声に応えた。


何人かが、捕虜に近づいてきた。同じ艦に乗っていた仲間たちだろう。一人が、捕虜の手を強く握った。別の一人は、捕虜の背中を叩いた。


捕虜の表情が、これまでで一番、緩んでいた。


アルセナは、その様子を、少し距離を置いて見ていた。これは、自分が立ち入るべき場面ではない。仲間同士の再会には、外交代表が口を挟む必要はない。


それでも、見ていたいと思った。捕虜が、これまでの孤独な任務の中で、ずっと待ち望んでいた光景が、今、目の前で実現している。


アルセナ自身は、こういう再会の光景を、これまでの人生でほとんど経験してこなかった。捨て駒として扱われてきた身には、誰かに強く必要とされる経験が、少なかった。


羨ましい、という感情が、わずかに浮かんだ。だが、それを否定するのではなく、そのまま受け止めた。


十六夜は、巡視船から、その光景を、双眼鏡で見ていた。


詳しい言葉は分からない。だが、再会の喜びは、言葉がなくても伝わってきた。


何人もの人物が、捕虜を囲んでいる。あの朝から、捕虜が会いたいと思っていたであろう人々が、今、目の前にいる。


十六夜は、双眼鏡を、もう少しだけ向けてみた。捕虜の表情を、できるだけ細かく見ておきたかった。今日という日を、できるだけ正確に覚えておきたかった。


捕虜の頬に、光るものが見えた。涙かもしれない。距離があって、確証は持てない。だが、そう見えた。


泣くこと。それも、これまでの面会では、一度も見たことのない反応だった。


────


同日 午後 ダーウィン港に向かう巡視船


十六夜は、帰りの船の甲板に立っていた。


艦隊が、後ろに遠ざかっていく。


船長が、近くに来た。「どうでしたか」


十六夜は少し考えた。「上手くいったと思います。捕虜が、仲間たちに迎えられているところを見ました」


「それは、何より良かったですね」


「はい」


船長は、少し間を置いて言った。「あなたは、この任務に長く関わっているんですか」


「あの朝からです」十六夜は答えた。


「それなら、今日は、特別な一日でしたね」


「そう思います。これまでの全部が、今日に繋がっていました」


十六夜は、もう一度、後ろを振り返った。艦隊は、もう小さくなっていた。だが、その小さな点の中に、今、再会の喜びがあるはずだった。


海風が、少し冷たくなってきた。日が傾いている。


往復だけで、一日のほとんどを使った。それでも、今日という日が持つ意味の大きさを思えば、その時間は短く感じられた。


数日後、捕虜は、この海を渡って、戻ってくる。それまでの数日間、ダーウィンでは、レイスとの接触が続く。捕虜のいない面会が、どうなるか、まだ分からない。


ただ、今日という日が、無事に終わったことだけは確かだった。


────


同日 ダーウィン基地 言語解析室 夕方


十六夜は、戻ってきた巡視船から、報告書を書いていた。


「捕虜は無事に艦隊に到着。アルセナと思われる人物、ドラフォと思われる人物と接触。歓迎を示す動作が確認された。仲間との再会も確認された」


それだけの文字数では、今日見た光景を、十分に伝えられないと感じた。だが、報告書には、事実を、簡潔に書く必要がある。


感情を交えずに、事実だけを並べる。それが、これまで積み上げてきたやり方だった。今日も、そのやり方を守った。


ただ、書き終えた後、十六夜はしばらく、画面を見つめていた。報告書には書かなかった部分——捕虜の表情の変化、仲間に囲まれたときの緩んだ顔、アルセナの柔らかい眼差し——それらは、十六夜自身の記憶の中に、残った。


報告書にならない記録も、ある。それでいいと、十六夜は思った。


十六夜は、報告書を送信した。


────


同日 官邸地下 夕方


「最初の一回が、成功しました」


藤堂が報告した。「捕虜は、無事に艦隊に到着しました。向こうの外交代表、艦隊指揮官との接触も、確認されました。仲間との再会も確認されています」


黒崎は、その報告を聞いて、しばらく何も言わなかった。


室内に、安堵が広がった。


あの朝から数えて、この部屋で何度も緊張と安堵を経験してきた。今日の安堵は、これまでとは少し違う種類だった。国家間の合意や艦隊の動きについての安堵ではなく、一人の人間が無事に目的地に着いたという、もっと個人的な安堵だった。


「これで、往来の制度を、正式に検討できるな」黒崎が言った。


白瀬が言った。「捕虜は、数日間、艦隊に留まる予定です。その後、再び巡視船で、ダーウィンに戻ってきます。今回の往来が、最後まで成功すれば、制度化に進めます」


「捕虜が戻ってくるまでが、本当の最初の一回だな」


「そうです。まだ終わっていません」


相馬が言った。「捕虜が艦隊に留まる数日間、向こうの内部での扱いについても、気になる点があります。歓迎されているのか、それとも別の意図があるのか」


「断定はできないな」


「はい。今日の様子からは、歓迎されているように見えますが、その後の数日間で、何が起きるかは分かりません」


白瀬が言った。「過度に心配する必要はないと思います。これまでの積み重ねから、向こうとの信頼関係は、一定の段階まで来ています。ただし、油断せず、戻ってくるまで注視を続けます」


黒崎は頷いた。「急ぐな。だが止まるな」


────


同日 深夜 官邸廊下


白瀬はメモ帳を出した。


「往来」


今夜の言葉を書いた。


これまでの言葉が並んでいる。「確認できない」から「最初の一回」まで来た。


そして今夜。「往来」。


往来は、まだ半分しか終わっていない。捕虜は、艦隊にいる。戻ってくるまでが、本当の往来だ。


だが、今日、確かに一つの一線を越えた。言葉だけのやり取りから、実際に人が動く段階に入った。


その一線を、無事に越えられた。


白瀬は、十六夜からの報告書を、もう一度読み返した。簡潔な文章だった。だが、行間に、もっと多くのことがあると、白瀬には感じられた。


捕虜が、仲間に迎えられた。アルセナという人物が、温かい態度を示した。ドラフォという指揮官も、安堵していた。


報告書に書かれていない部分を、白瀬は想像で埋めた。想像が正しいかどうかは分からない。だが、今日という日が、良い一日だったことは、確かだと思えた。


廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。


その音の下で、今夜は誰かが、艦隊の中で、仲間たちと過ごしている。


白瀬はメモ帳を閉じた。


数日後、また新しい言葉が生まれるだろう。捕虜が戻ってくる日に、何を書くことになるか、今はまだ分からない。


ただ、今夜は、安心して眠れそうだった。あの朝から、こんな夜は、そう多くなかった。


廊下を歩きながら、白瀬は窓の外を見た。星が出ている。あの星のどこかで、今、再会の夜が続いている。

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