最初の一回
「往来の頻度について、向こうから返答がありました」
藤堂が報告した。
黒崎が顔を上げた。「どういう内容か」
「最初は一回、試験的に行いたい、という内容です。本格的な制度ではなく、まず一度、実際にやってみる」
試験的に一回。
黒崎は、その言葉を繰り返した。一回。これまでの合意や接触は、何度も繰り返しながら積み上げてきた。今回も、その積み重ねの延長にある。
ただし、これまでとは違う点があった。これまでの積み上げは、すべて言葉と動作のやり取りだった。今回は、実際に人が動く。捕虜という存在が、物理的に二つの場所を移動する。
その一線を越えることに、黒崎は慎重さを感じていた。
白瀬が言った。「妥当な提案だと思います。最初から完全な制度を作るより、一度試してから調整する方が、リスクが低い」
「いつ行うか」
「向こうの提案では、できるだけ早く、とのことです。具体的な日程は、こちらの準備が整ってから決めます」
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「移動の手段は」相馬が聞いた。
藤堂が答えた。「向こうの帆船を使う案と、こちらの船を使う案、両方が出ています。向こうは、こちらの船で構わない、と言っています」
「向こうから、譲歩があったということか」
「譲歩というより、向こうの帆船は艦隊と直接繋がっています。一度の往来のために艦隊から船を出すより、こちらの船を使う方が、向こうにとっても都合がいいのだと思います」
吾妻が言った。「こちらの船を使うなら、安全管理はこちらの責任になります。準備を急ぎます」
「船の種類は」相馬が聞いた。
「巡視船を使う予定です」吾妻が答えた。「軍艦ではなく、巡視船であれば、相手を刺激しません。ただし、安全性は十分に確保できます」
「速度や航続距離は十分か」
「十分です。これまでの観測データから、艦隊までの距離や海況も把握しています。問題はないと判断しています」
「向こうには、その船についての説明が必要だな」
白瀬が言った。「面会で、船の絵を見せます。どういう船か、事前に伝えておけば、当日の混乱を避けられます」
黒崎は頷いた。「最初の一回だ。慎重に進めろ。急ぐな。だが止まるな」
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同日 ダーウィン基地 言語解析室 午後
十六夜は、今日の面会で、最初の一回の日程を確認する。
官邸からの依頼には、もう一つあった。巡視船の絵を見せて、移動手段を説明すること。
十六夜は、巡視船の絵を準備した。軍艦とは違う、比較的小さな船の絵だ。武装がないことを示すために、甲板に何も描かなかった。
それから、絵を準備した。日数を示す印を並べた絵だ。三日後、五日後、七日後。いくつかの候補を示して、捕虜とレイスがどれを選ぶかを見る。
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面会室で、絵を出した。
捕虜は見た。それから、三日後を示す印を指した。
「早い方を選びました」記録者が言った。
レイスも、同じ印を指した。
二人とも、早い日程を望んでいる。
十六夜は、巡視船の絵も見せた。
レイスは絵をじっと見て、それから頷いた。捕虜も、興味深そうに絵を見ていた。武装がないことを確認したのか、特に懸念を示す様子はなかった。
レイスは、絵の細部を指して、何か質問するような動作をした。船の大きさについて、確認したいようだった。十六夜は、両手で大体の大きさを示した。レイスは頷いた。
小さな確認のやり取りが、いくつも積み重なっていく。これも、あの朝からのやり方と同じだった。
十六夜は、その選択を記録した。三日後。準備を急ぐ必要がある。
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捕虜は、それから、新しい動作をした。
自分の胸に手を当てて、それから、艦隊の方向を示す動作をした。短い音節も加えた。
「家族、あるいは仲間に会えることへの、期待かもしれません」十六夜は言った。
これまでの面会で、捕虜の個人的な背景について、深く触れることはなかった。今日初めて、艦隊に誰かがいることを、捕虜が示した。
十六夜は、その動作の温度を感じ取った。これまでの面会で見た動作は、ほとんどが情報の伝達だった。今日のこの動作には、それとは違う種類の感情が乗っていた。
会いたい人がいる。
それだけのことが、十六夜には、これまでの面会の中で最も人間らしい瞬間に感じられた。
記録者が、その様子を見て、少し声を落として言った。「報告書には、どう書きますか」
十六夜は少し考えた。「事実だけを、そのまま書きます。捕虜が艦隊の方向を示し、感情的な反応を見せた。それ以上の解釈は、加えません」
「解釈を加えたい気持ちは、ありませんか」
「あります」十六夜は認めた。「でも、加えません。それが、私の役目です」
十六夜は、頷いた。それ以上は、聞かなかった。聞く必要があれば、捕虜が自分から教えてくれるはずだ。
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ヴァルタ連合 外交補佐官レイス ダーウィン基地内 同日午後
面会の後、レイスは部屋に戻った。
三日後。早い日程が選ばれたことに、レイス自身も安心していた。
通信担当に言った。「アルセナ様に、三日後と伝えてくれ。それと、捕虜が艦隊への思いを示したことも、報告に含めてくれ」
「個人的な内容も、報告に含めますか」
「含める」レイスは言った。「捕虜の気持ちは、今後の制度を考える上で、無視できない要素だ。アルセナ様も、それを知りたいはずだ」
通信担当は頷いて、報告の準備を始めた。
レイスは窓の外を見た。三日後、自分が見送る形になる。捕虜が、初めて艦隊に戻る。その光景を、想像してみた。
自分はダーウィンに残る。捕虜だけが、一度艦隊に戻る。その間、レイスは一人で、向こうの担当者たちとの接触を続けることになる。
少し心強さが減るかもしれない。これまで、捕虜と一緒に面会に臨んできた。三日後の数日間は、その支えが一時的になくなる。
だが、それも必要な過程だ。捕虜が艦隊に戻ることが、今後の関係にとって大切な意味を持つ。レイス自身の心強さより、その意味の方が重い。
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面会の後、十六夜は少しの間、面会室に残っていた。
今日の面会で確認したことを、もう一度ノートに整理する。三日後の日程。巡視船についての説明。捕虜が示した、艦隊への思い。
誰が同行するのか、まだ決まっていない。もし自分が選ばれたら、捕虜と一緒に、その場に立ち会うことになる。
想像してみた。あの朝から、ずっと面会室の中で接してきた捕虜が、艦隊に戻る瞬間。そこには、捕虜にとっての仲間や、もしかしたら家族がいるかもしれない。
その瞬間を、近くで見られるなら、見てみたい。十六夜は、そう思った。
それは、言語解析の仕事としての興味ではなかった。もっと個人的な、人としての興味だった。
あの朝から積み上げてきたものの先に、何があるのか。それを、報告書の中の文字としてではなく、自分の目で見たい。
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面会後、廊下に出た。
赤城が待っていた。
「日程は決まったか」
「三日後です。捕虜もレイスも、早い方を望みました」
「準備は間に合うか」
「官邸と相談しながら進めます。これまでの蓄積があるので、ゼロからの準備ではありません」
赤城は少し間を置いた。「捕虜が、艦隊に誰かいることを示したんだったな」
「はい。それ以上は聞きませんでした」
「それでいい」赤城は言った。「全部を聞く必要はない」
「気になりますか」十六夜は聞いた。
「気になる。だが、聞かないという判断も、お前なりの誠実さだと思う」
十六夜は少し考えた。「あの朝からの面会で、その境界を何度も考えてきました。今日も、その一つです」
「これからも、その感覚を大事にしろ」
十六夜は少し間を置いてから、言った。「赤城さん、一つお願いがあります」
「何だ」
「三日後、同行する人選に、私を入れてもらえませんか」
赤城は少し驚いた。「危険があるかもしれないぞ」
「分かっています。それでも、あの朝から積み上げてきたものの先を、自分の目で見たいんです」
赤城は少し考えた。「上に伝えておく。決めるのは、私じゃない」
「分かっています。それでも、伝えてください」
赤城は頷いた。「分かった」
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同日 官邸地下 夕方
「最初の一回の日程が決まりました」
藤堂が報告した。「三日後です。双方とも、早い日程を望んでいます」
室内に、緊張感のある静けさが流れた。これまでの危機への対応とは違う、準備のための緊張だった。
「準備は」黒崎が聞いた。
吾妻が答えた。「移動手段の確保、安全管理の手順、本人確認の方法。三日で整えます」
「間に合うか」
「間に合わせます。これまでの蓄積があります」
「具体的な手順を聞かせてくれ」
吾妻が説明を始めた。「まず、巡視船をダーウィン沖から出発させ、艦隊の近くまで進みます。途中の海域は、これまでの観測データで安全が確認されています。艦隊との合流地点では、向こうの帆船が一隻、誘導のために出てくる予定です」
「向こうの船と、こちらの船が、並んで進む形か」
「そうです。最初の接触は、衛星から見守ります。何か異変があれば、即座に対応します」
「乗組員の人選は」
「言語解析チームから一名、外交担当一名、警備担当数名を予定しています。捕虜本人を除いて、五名程度の規模です」
「最小限の規模だな」
「最初の一回ですから、最小限が適切です。次の機会があれば、規模を調整します」
白瀬が言った。「もう一点。最初の一回がどうなるかで、今後の制度の形が大きく変わります。慎重に、かつ、確実に進める必要があります」
相馬が言った。「報道や対外的な扱いについても、方針を決めておく必要があります。最初の一回が成功すれば、いずれ公表する時期が来ます」
「今は公表しないということで、変わりはないな」黒崎が確認した。
「変わりません。ただ、成功した場合の公表シナリオは、準備しておくべきです」
吾妻が言った。「もう一つ、医療面の準備も必要です。捕虜が艦隊に戻った際、向こうの医療体制で何か問題があれば、対応できる準備をしておくべきです」
「向こうの医療技術については、まだ分かっていないことが多いな」
「はい。今回の往来が、その情報を得る機会にもなります」
黒崎は頷いた。「総理にも報告する。これは、人類にとって最初の一歩でもある」
藤堂が続けた。「もう一点、現場から要望が来ています。言語解析チームの十六夜が、同行を希望しています」
「危険を理解しているか」
「理解しています。あの朝からこの任務に関わってきた人物です。捕虜との関係も深い」
白瀬が言った。「十六夜の同行は、捕虜にとっても安心材料になると思います。見知った相手が同行することで、緊張が和らぎます」
黒崎は少し考えた。「許可する。ただし、安全管理は最優先だ」
「了解です」
相馬が言った。「十六夜には、現地で何かあった場合の対応手順も、事前に教えておく必要があります」
「準備しろ」
「了解です」
「急ぐな。だが止まるな」
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ヴァルタ連合 派遣艦隊旗艦「エイカ」 艦橋 同日夕方
アルセナは、三日後という日程を聞いていた。
短い期間だ。だが、これまでの積み上げを考えれば、十分な準備期間でもある。
レイスからの報告には、もう一つ含まれていた。向こうの言語解析担当——十六夜という名前だった——が、同行を希望しているという内容だ。
アルセナは、その名前を見て、少し感慨を覚えた。あの朝から、捕虜との接触を支えてきた人物の名前を、今初めて知った。
「殿下」レナが言った。「捕虜が、初めて艦隊に戻ってきます」
「そうだな」
アルセナは、少し緊張していた。捕虜が艦隊に戻ってきたとき、誰が出迎えるべきか。ドラフォか、アルセナか、両方か。
「私が出迎える」アルセナは言った。「外交代表として、それが私の役目だ」
「ドラフォ指揮官は、どうしますか」
「指揮官にも、出迎えに来てもらいたい。両方の立場から、迎えるべきだ」
「捕虜の家族や仲間も、出迎えに来るでしょうか」
アルセナは少し考えた。「分からない。だが、艦隊の中にいる者なら、来る可能性はある」
「殿下は、捕虜にとって誰が艦隊にいるか、ご存知ですか」
「いや、知らない」アルセナは答えた。「捨て駒として送られた身分の低い者の身の上を、いちいち把握する余裕は、出港の時にはなかった」
「今は、知りたいと思いますか」
アルセナは少し間を置いた。「思う。捨て駒同士、お互いの事情を知らないまま、ここまで来た。それも、変わるべきかもしれない」
「捨て駒、という言葉を、まだ使われるんですね」
アルセナは少し笑った。「使い慣れた言葉だ。今は、もう少し違う意味で使っている気がする。捨てられた者同士の連帯、というような意味だ」
「連帯、ですか」
「あの者と直接話したことはない。だが、信号を通じて、同じような立場で送り出された者だと感じている。今度会えたら、聞いてみたい。どういう経緯で、この任務に選ばれたのか」
レナは頷いた。「ドラフォ指揮官に伝えます」
アルセナは窓の外を見た。三日後、初めて、向こうの技術で作られた船が、艦隊の近くに来る。
それも、初めての出来事だ。
向こうの船を、間近で見ることになる。これまでは、衛星データや報告書の中の情報としてしか知らなかった、向こうの技術が、実際に艦隊の前に現れる。
船の形、大きさ、動かし方。全部が、これまで想像してきたものと、どれくらい違うのか。
アルセナは、その光景を想像してみた。想像しきれない部分が、まだ多くあった。
それでいい、と思った。想像しきれないからこそ、実際に見る価値がある。
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同日 深夜 官邸廊下
白瀬はメモ帳を出した。
「最初の一回」
今夜の言葉を書いた。
これまでの言葉が並んでいる。「確認できない」から「提案」まで来た。
そして今夜。「最初の一回」。
白瀬は、今日決まったことを、もう一度頭の中で並べた。日程。移動手段。同行者。十六夜の同行希望も、決まった。
一つ一つは小さな決定だ。だが、その積み重ねが、三日後の出来事を形作る。
最初の一回が、これから三日後に来る。
これまでの全部が、言葉と動作のやり取りだった。今度は、実際に人が動く。物理的に、二つの場所の間を、誰かが移動する。
言葉ではなく、行動の段階に入る。
あの朝、世界が変わったときも、最初は言葉にできない混乱だった。それが、少しずつ言葉になった。確認できないことが、確認できることに変わった。
言葉になったものが、今度は行動になる。確認したことを、実際にやってみる。
言葉の段階と、行動の段階。どちらも大事だ。だが、行動の段階には、言葉にはない種類の重さがある。失敗したときの結果が、もっと直接的だ。
それは、これまでとは違う種類の重みを持っている。言葉が間違っても、訂正できる。だが、実際の移動には、もっと具体的なリスクがある。
慎重に進めなければならない。
白瀬は、今日報告に上がった、捕虜が艦隊への思いを示した場面を思い出した。会いたい人がいる。そのことが、今回の往来に、また別の意味を加えている。
制度として進めることと、一人の人間の気持ちが満たされること。両方が、同じ出来事の中にある。
それを忘れずに、三日後を迎えたい。
廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。
その音の下で、三日後の準備が、今夜も進んでいる。
白瀬はメモ帳を閉じた。三日後、また新しい言葉を書くことになるだろう。
窓の外を見た。夜空に星が見える。三日後、この星空の下で、向こうの船とこちらの船が、初めて並んで進む。
それがどんな光景になるのか、白瀬には想像できなかった。だが、想像できないことを、これまでも何度も乗り越えてきた。
三日後も、きっと乗り越えられる。
白瀬は廊下を歩き始めた。明日も、準備が続く。




