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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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帆船が来た

西暦××××年××月××日 ダーウィン基地 衛星データ監視室 午前8時


「信号が来ています」


担当者が言った。「北西の方向から。艦隊の位置ではありません。艦隊より手前です」


十六夜は言語解析室から無線でその報告を聞いた。


「手前、とは」


「艦隊と日本の間の方向です。艦隊は止まっています。その手前に、別の信号源があります。動いています」


「動いている」


「はい。艦隊より小さい信号です。速度は遅い。方向は、こちらに向かっています」


こちらに向かっている。


十六夜は少し間を置いた。


あの朝以来、北西の方向から来るものを観測し続けてきた。最初は帆船だった。次に艦隊だった。艦隊が止まった。そして今日、また新しいものが来ている。


北西の方向から来るものが、またこちらを向いた。


「帆船の可能性がありますか」


「帆船の場合、信号のパターンが一致します。艦隊から切り離された、小さい船の可能性があります」


「艦隊との距離は」


「出発してから半日から一日分の距離です。昨夜か今朝の早い時間に出港した可能性があります」


昨夜。捕虜が名前を通じさせた日の夜。艦隊が止まった翌日。名前が分かった翌日。


その夜に、帆船が出た。


名前が通じた翌夜に帆船を出した。偶然ではない可能性がある。名前が通じたことで、次の段階に進む準備が整ったと判断した可能性がある。


向こうは一つ一つ確認しながら進んでいる。こちらと同じやり方で。


「分かりました。引き続き観測を続けます」


十六夜は無線を切った。窓の外を見た。ダーウィンの朝だ。空が明るい。


あの朝から今日まで、北西の方向から何かが来るたびに、状況が変わってきた。今日また来た。今日もまた、状況が変わる。


────


赤城が来た。コーヒーを持ってきた。今日は二つだった。


「見たか」


「見ていました。艦隊の手前から何かが来ています。帆船の可能性があります」


「艦隊が止まって、帆船を出した、ということか」


「可能性として。向こうが次の接触をしようとしているなら、艦隊から小さい船を出す方法が自然です。艦隊全体を動かすより、帆船一隻を出す方が、こちらへの脅威が低い。向こうもそれを計算している可能性があります」


「いつ着くか」


「速度から計算すると、三日から五日後です。天候次第で変わります」


「前の帆船より速いか遅いか」


「同程度の速度です。風頼りの帆船であれば、速度はそう変わりません」


「前の帆船と同じ種類の船か」


「信号のパターンから判断すると、近い規模の船です。艦隊の中の小型帆船と思われます」


前の帆船のことを、十六夜は少し思い出した。あの朝に現れた帆船。損傷して拿捕された帆船。その乗組員が今も面会室にいる。


今日来ている帆船は、その続きだ。一隻目が作った繋がりが、二隻目を呼んだ。


「官邸に上げるか」


「上げます。"艦隊の手前に別の信号源が確認された。艦隊より小さく、こちらに向かって移動中。帆船の可能性がある"。それだけです」


────


同日 官邸地下 危機管理センター 午前9時


「北西方向、艦隊の手前に新しい信号源が確認されました」


藤堂が報告した。「艦隊より規模が小さく、こちらに向かって移動中です。帆船の可能性があります」


室内が静かになった。


「帆船が来る」黒崎が言った。


「可能性として。艦隊が止まった後、小さい船を出してきたとすれば、次の接触のための船です」


「前の帆船と同じ役割か」


「接触を目的とした船の可能性があります。ただし、前の帆船が損傷してこちらに拿捕された経緯があります。今回は別の形での接触を試みる可能性があります」


「別の形とは」


「前回は装置を持ち込んできました。今回はより直接的な接触、外交担当者が乗っている可能性があります。艦隊の名前が通じ、合意が成立した段階で来る帆船であれば、単なる接触船ではなく外交船の可能性があります」


白瀬が言った。「受け入れの準備が必要です。外交船が来た場合、どこで、どういう形で接触するかを今から決めておく必要があります」


「整理しろ」黒崎は言った。「帆船が到着するまでの間に、受け入れの方針を決める。急ぐな。だが止まるな」


────


同日 午前10時 官邸廊下


白瀬は会議を終えた後、廊下を歩いた。


帆船が来る。


あの朝、最初の帆船が来たとき、何も分からなかった。どこから来たか。何のために来たか。どういう文明が送り出したか。全部が不明だった。


今日来ている帆船は、違う。どこから来たかが分かっている。なぜ来たかが分かっている。合意が成立した後に来る、次の接触のための帆船だ。


同じ「帆船が来た」でも、準備できることが全く違う。


準備できる、ということは、これまで積み上げてきたものが今日活きている、ということだ。あの朝から今日まで積み上げてきた全部が、今日の準備の基盤になっている。


帆船が着くまでの数日、何をするか。


言語の準備:捕虜との面会を続ける。帆船に乗っている人物の名前を確認する。直接接触したときに使える語を増やす。


外交の準備:向こうとどういう形で接触するかの方針を決める。何を伝えて、何を聞くか。最初の直接接触で何を優先するか。


受け入れの準備:どこで接触するか。ダーウィン沖か、港か。どういう手順で誘導するか。


全部が並行して進む。


白瀬は廊下を歩きながら、それらを整理した。あの朝から今日まで、一つずつ確認してきた。これからも、一つずつやる。


────


ヴァルタ連合 派遣艦隊旗艦「エイカ」 艦橋 同日朝


アルセナは艦橋から出港していく船を見ていた。


小さい帆船だ。艦隊の中では最も小さい部類に入る。帆が張られて、ゆっくりと動き始めた。


「出ましたね」レナが言った。


「出た」


帆船が向こうに向かう。向こうとの合意が成立した。艦隊が止まった。次の段階として、直接接触のための帆船を出した。


その帆船に、アルセナは乗っていない。


「私が乗るべきだったかもしれない」アルセナは言った。


「外交担当として」


「そうだ。向こうとの交渉は外交担当の仕事だ。捕虜を通じた段階が終わって、直接の交渉の段階に入るなら、私が出るべきだ」


「ドラフォ指揮官が許可しませんでした」


「分かっている」


ドラフォは外交担当を帆船に乗せることを許可しなかった。理由は単純だ。前の帆船の乗組員が拿捕された。同じことが起きれば、外交担当まで捕まる。艦隊の合意権限を持つ者が捕まれば、交渉が止まる。


だからアルセナはここにいる。旗艦の艦橋から、出港する帆船を見ている。


見ているしかない。


外交担当として、交渉の最前線にいるべき人間が、艦橋から見送っている。それがアルセナの立場の矛盾だった。艦隊を動かす権限はない。帆船に乗る権限もない。あるのは外交担当という肩書だけだ。


だが今日の段階では、その肩書が最大限に機能した、とも言える。捕虜を通じた合意は、外交担当の仕事だった。言語が通じない状態で合意を成立させた。艦隊を止めた。次の帆船を呼んだ。その全部が、外交担当の仕事の結果だ。


次は帆船が向こうと接触する。その結果を見てから、アルセナが動く番になるかもしれない。


動く番が来たとき、アルセナは何を持って向こうと会うか。


言語は片言だ。通訳はいない。だが、あの朝から今日まで積み上げてきた合意がある。艦隊が止まったという事実がある。捕虜の名前を知っているという事実がある。


それだけで、何かが始まる。


何かが始まれば、次が来る。


「誰が乗っているか」


「外交補佐官一名と、通信担当二名です。合意が成立した後の最初の接触なので、戦闘員は乗せていません」


「それは正しい判断だ」アルセナは言った。「向こうが友好的であることが確認されている。戦闘員を乗せると、向こうに脅威として受け取られる可能性がある」


「捕虜の件は、向こうに伝わっているでしょうか」レナが言った。


「捕虜の信号で伝わっているはずだ。生きていることは伝わっている。面会が続いていることも伝わっているかもしれない」


「帆船が着いたとき、向こうは捕虜の返還を求めるでしょうか」


アルセナは少し間を置いた。「求めるかもしれない。求めないかもしれない。捕虜が向こうとこちらの橋渡しとして機能している今の状態を、向こうが有用と判断すれば、すぐには求めないかもしれない」


「捕虜はどうしたいと思っているでしょうか」


「分からない」アルセナは答えた。「だが、あの者が計算に入れて捕まってきたなら、今の状態が計画通りなのかもしれない。今の状態が、あの者が望んでいた状態かもしれない」


帆船がゆっくり遠ざかっていく。


アルセナは手すりに両手をかけて、その帆船の行方を目で追った。


次の段階が、今始まった。


帆船が向こうに着けば、直接の接触が始まる。外交補佐官が向こうと顔を合わせる。言語が片言しか通じない段階での顔合わせだ。何が伝わるかは分からない。だが、顔を合わせることで変わるものがある。


アルセナはそれを、捕虜との間接的なやり取りから感じていた。言語が通じなくても、相手が人間であることは分かる。人間であれば、話せる可能性がある。話せれば、分かり合える可能性がある。


帆船が水平線に近づいていく。


「行ってこい」


アルセナは小声で言った。誰にでもなく、帆船に向けて。


────


同日 午前11時 ダーウィン基地 言語解析室


今日の面会の準備をしながら、十六夜は帆船についての整理を頭の中でした。


来ている帆船の速度から、到着は三日から五日後だ。その間に面会が三日から四日ある。面会のたびに情報が来る可能性がある。帆船に乗っている人物についての情報。向こうが次の接触でどういう形を想定しているかについての情報。


今日の面会では、帆船について捕虜がどこまで教えてくれるかを見る。昨日出てきた名前の人物について、他の情報が来る可能性もある。立場。役割。目的。


言語が片言の段階でどこまで引き出せるか。今日も試みる。


────


同日 午後 ダーウィン基地 隔離区画 面会室


今日の面会で、捕虜に帆船が来ることを伝えた。


今日の面会には、これまでとは違う空気があった。言語解析の段階から外交の段階への切り替わりが、面会室にも漂っていた。


帆船の絵を出した。複数ではなく、一隻。北西の方向から来る矢印と組み合わせた絵だ。


捕虜は見た。


頷いた。


知っていた。


今日の頷きは、これまでの頷きと少し違う感触があった。確認の頷きではなく、同意の頷きに近い。知っている、そして伝えようとしている、という頷きだ。


「やはり知っていました」記録者が言った。


捕虜は自分を指した。艦隊の語を出した。帆船の語を出した。


「艦隊から帆船が出たことを伝えている」十六夜は解釈した。


艦隊から帆船が出た。それを捕虜が伝えている。捕虜は昨夜の信号で帆船の出港を知ったのだろう。知って、今日の面会で伝えてきた。


情報の流れが、また双方向になっている。こちらが帆船の絵を出して、捕虜が確認した。それだけでなく、捕虜から追加の情報が来た。


それから捕虜は、名前を一つ出した。


昨日確認した捕虜自身の名前ではない。別の名前だ。新しい固有名詞だ。


「別の名前です」記録者が言った。


別の名前。帆船に乗っている誰かの名前を伝えている可能性がある。


十六夜はその語を繰り返した。捕虜が頷いた。受け取った、という確認だ。


昨日、名前を交換した。今日、別の名前が来た。向こうは名前から始めることを学んだ。そのやり方を今日また使ってきた。


「記録しました」記録者が言った。今夜解析する。


十六夜は捕虜を見た。


捕虜も十六夜を見ていた。


別の名前を伝えた。受け取った。それで今日は終わりだ。次の面会では、帆船が近づいていることを伝える。さらにその次では、帆船が着くかもしれない。


面会室での時間が、どこかで終わる日が来る。捕虜が面会室から出る日が来るかもしれない。それがいつになるかは分からない。


今日はまだ、面会室の時間だ。


「また明日」十六夜は日本語で言った。捕虜は何かを返した。意味は分からない。だが何かを返した。


────


面会後、廊下に出た。


赤城が待っていた。


「帆船の件を捕虜は知っていたか」


「知っていました。そして、別の名前を出しました。帆船に乗っている人物の名前の可能性があります」


「向こうが名前を先に教えてきた」


「はい。昨日こちらが捕虜の名前を確認した流れで、今日は帆船に乗っている人物の名前を先に伝えてきた。向こうも、名前から始める形を理解しています」


「そのやり方を、こちらから教えた」


「昨日の面会で名前を交換したことで、向こうがそのやり方を学んだ可能性があります。名前から始める。それがこちらの流儀だと判断したかもしれません」


赤城は少し間を置いた。「帆船に乗っている人物は誰だと思うか」


「今の段階では分かりません。ただし、艦隊が合意した後に外交のために出す帆船であれば、外交担当の可能性があります。向こうにも外交と軍事が分かれているとすれば、今来るのは外交の担当者です」


「外交担当」赤城は繰り返した。「捕虜と同じ立場ではなく、上の立場の人間か」


「名前の音節の構造が、捕虜の名前より一音節長いことが今夜の解析で分かりました。向こうの文明で、名前の長さが立場を示す場合、より長い名前は高い立場の可能性があります。ただし確定ではありません」


「捕虜より上の立場の人間が来る」


「可能性として。来る人物がどういう立場かによって、向こうがこちらをどう扱おうとしているかが分かります。上の立場の人間を送ってきたとすれば、向こうもこちらを正式な交渉相手として扱おうとしているということです」


「外交担当が来るとすれば、片言でどこまで話ができるか」


「単純な概念のやり取りまでです。ただし」白瀬が続けた。「帆船が着いたとき、言語よりも先に伝わるものがあります。どういう態度で迎えるか。どういう場所で会うか。友好的かどうかは、言語よりも行動と状況から伝わります」


「行動で示す、ということか」


「はい。武装せずに出迎える。穏やかな場所で会う。それだけで、言語なしに友好の意思が伝わります。向こうも同じことを考えているはずです。戦闘員を乗せずに来る、ということが、すでにそのメッセージです」


「了解だ。帆船を迎える手順は、そういう方針で整理しろ」


「外交担当が来るとすれば、片言でどこまで話ができるか」


「今の段階での片言では、単純な概念のやり取りまでです。複雑な交渉は難しい。ただし、来ることに意味があります。顔を合わせることに意味がある」


「顔を合わせること」


「今まで捕虜を通じた間接的な接触でした。直接会えば、別の段階に入ります。言語が片言でも、顔を合わせれば伝わるものが増えます。表情。態度。立場。それらは言語なしで伝わる部分があります」


赤城は少し間を置いた。「お前は会うのが楽しみか」


十六夜は少し考えた。「楽しみ、かどうかは分かりません。でも、会いたいとは思います。あの朝からずっと、言語を通じて接してきた相手と、直接会いたい」


「言語を通じて接してきた相手と、直接会いたい」赤城は繰り返した。「言語解析の仕事が、そこまで来たか」


「来たと思います。あの朝、最初に音節の切り出しをしたとき、ここまで来るとは思っていませんでした」


「来てよかったか」


「来てよかったです」


廊下が静かだった。どこかで空調の音がする。蛍光灯の音がする。ダーウィンの音だ。あの朝から今夜まで、この音の下で全部が進んできた。


────


同日 ダーウィン基地 言語解析室 夕方


十六夜は今日の面会で出てきた新しい固有名詞をAIに照合させていた。


帆船に乗っている人物の名前と思われる語。昨日の捕虜の名前と同様に、人名の可能性が高い構造だ。


音節を分解した。語根を確認した。既知の語彙との距離を測定した。


結果:昨日確認した捕虜の名前と同じ語族の音節構造を持つ。同じ語族、ということは、同じ文明の人間の名前の可能性がある。当たり前のことかもしれないが、確認できた。


名前の長さも近い。昨日の名前より一音節長い。より丁寧な、あるいは格式のある名前の可能性がある。


外交補佐官の名前であれば、捕虜より高い立場の人間の名前かもしれない。


報告書を書いた。今夜の面会前に官邸に上げる。


────


同日 官邸地下 夕方


「今日の面会の結果です」


藤堂が報告した。「帆船が来ることを捕虜はすでに知っていました。また、帆船に乗っている人物の名前と思われる固有名詞が新たに確認されました」


「向こうが名前を先に教えてきた」黒崎が言った。


「はい。昨日こちらが名前を確認したことで、向こうも名前から始めるやり方を採用したと考えられます」


「帆船に乗っているのは誰か」


「まだ確認できていません。外交担当の可能性があります。今夜、新しい固有名詞の解析を進めます」


「帆船の到着はいつか」


「現在の速度から推定すると、三日から五日後です。天候次第で変わります」


「受け入れの準備はどこまで進んでいるか」


相馬が答えた。「ダーウィン沖での接触を想定しています。艦艇を出して誘導する方法と、帆船が自発的に接岸する方法の二案を検討しています。帆船の乗組員が外交担当であれば、前者の方が友好的な印象を与えます」


「両案を整理しておけ。帆船の中身が分かってから判断する」


「了解です」


「帆船に乗っている人物の名前が今夜解析できるか」


「できます。今夜の解析で、昨日の捕虜の名前との比較もします。名前の構造が分かれば、立場の推定ができるかもしれません」


「立場の推定とは」


「向こうの文明で名前の長さが立場を示す可能性があります。今夜の解析で確認します」


「もう一点」吾妻が言った。「帆船が来た場合、防衛省として対応の準備が必要です。友好的に来るとしても、艦艇を出す場合は装備と手順を整えておく必要があります」


「準備しろ。ただし相手を刺激しない形で」黒崎は言った。「向こうは戦闘員を乗せていない可能性が高い。こちらも戦闘態勢ではなく、誘導と受け入れの形で動く」


「了解です」


「急ぐな。だが止まるな」


────


ヴァルタ連合 派遣艦隊旗艦「エイカ」 艦橋 同日夜


アルセナは夜の海を見ていた。


出港した帆船の灯りは、もう見えない。遠くなった。向こうに向かっている。


「捕虜から信号が来ました」レナが言った。「名前を伝えた後の信号です。落ち着いています」


「帆船に乗っている人物の名前を伝えたんだろう」


「そう思います」


アルセナは少し間を置いた。「向こうは名前を受け取れたか」


「受け取れたと思います。捕虜の信号が落ち着いているということは、伝わった後の信号です」


名前が伝わった。


帆船に乗っている外交補佐官の名前が、向こうに伝わった。向こうが受け取った。


接触の前に、名前が通じている。


それは、あの朝以来続いてきたやり取りの延長だ。言語が通じなくても、名前から始める。名前があれば、人として接することができる。


「向こうはよく分かっている」アルセナは言った。


「何がですか」


「人と接するやり方を」


レナは少し間を置いた。「捕虜があの朝から学んできたということでしょうか」


「そうかもしれない。あるいは、最初からそのつもりで来た。捕まることを計算に入れて来た。捕まってから言語を教えて、名前を交換して、次の接触の準備をする。全部計画の中にあったかもしれない」


「計画していたとすれば、今来ている帆船も計画通りですね」


「そうだ。計画通りなら、次も計画がある。次の帆船が向こうと会う。その後にまた次が来る。段階が続く」


アルセナは海を見た。真っ暗な夜の海だ。帆船の灯りはもう見えない。


「私はいつ動けるか」アルセナは独り言のように言った。


レナは答えなかった。答えられない問いだからだ。


いつ動けるかは、ドラフォが決める。本国の方針が決める。向こうの出方が決める。アルセナが決めることではない。


だが、動く準備はしておく。


レナが言った。「殿下は、向こうの帆船に何を期待していますか」


アルセナは少し考えた。「期待、という言葉が正しいかどうか分からない。ただ、向こうが来ることで、段階が進む。段階が進めば、私が動ける可能性が出てくる」


「それが期待ということではないですか」


「そうかもしれない」アルセナは認めた。「あの朝からずっと、動けない状態が続いてきた。艦隊の方針に従って来て、捕虜を通じた接触を待って、合意を成立させた。次は帆船が行く。その次に、私が動ける番が来るかもしれない」


帆船の灯りは見えない。だがどこかの海に、帆船がある。向こうに向かっている。


「来てくれ」アルセナは小声で言った。


────


同日 深夜 官邸廊下


白瀬はメモ帳を出した。


「帆船が来た」


今夜の言葉を書いた。


これまでの言葉が並んでいる。「確認できない」「理由がない」「前提」「確認できた」「話す」「地図」「見えた」「聞こえている」「届いた」「同じ問い」「答えの形」「北西」「速度」「取り決め」「艦隊と合意」「最初の言葉」「合意」「速度が止まる」「速度と問い」「合意」「合意」「止まった日」「名前」。


そして今夜。「帆船が来た」。


あの朝、最初に帆船が来た。その帆船は損傷して、乗組員が捕まった。


今日、二隻目の帆船が来た。今度は損傷していない。向こうが意図して送り出した帆船だ。


一隻目と二隻目では、状況が全部違う。一隻目は偶発的な接触だった。二隻目は合意の上での接触だ。


同じ「帆船が来た」でも、意味が違う。


今夜のメモ帳の言葉は、あの朝の帆船とは別の帆船の話だ。


メモ帳の最初の言葉は「確認できない」だった。あの朝、最初の帆船が来たとき、何も確認できなかった。今夜の帆船は、確認できることが多い。どこから来たか。なぜ来たか。誰が乗っているかの手がかりもある。


あの朝から今夜まで積み上げてきたものが、今夜の「確認できること」になっている。


積み上げることで、分かることが増える。分かることが増えれば、次の準備ができる。


白瀬はメモ帳を閉じた。


帆船の到着まで、あと数日だ。その数日で、受け入れの準備を整える。言語の準備も、外交の準備も、防衛の準備も。


廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。


その音の下で、今夜も北西の海に、向こうの帆船が動いている。


ダーウィンに向かって。


あの朝、最初の帆船がダーウィン沖に現れた。そこから全部が始まった。今夜、二隻目の帆船が同じ方向から来ている。


始まりと今が、一本の線で繋がっている。


白瀬はその線を、今夜のメモ帳の言葉と一緒に頭に入れた。「確認できない」から「帆船が来た」まで来た線だ。


その線の先が、数日後にまた動く。

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