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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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名前

西暦××××年××月××日 ダーウィン基地 言語解析室 午前4時


AIが結果を出した。


昨日の面会で捕虜が出した固有名詞の候補。音節の構造分析。既知の語彙との照合。語根の分析。


結果:人名の可能性が最も高い。


場所の名前ではない。集団の名前でもない。音節の構造が、これまで確認してきた語の中で「私」に相当する語族と近い位置にある。自分を指す語族と近い位置にある固有名詞は、人名である可能性が高い。


「人の名前か」


十六夜はノートに書いた。


捕虜が、人の名前を出してきた。


誰の名前か。


可能性は三つある。


一つ目:捕虜自身の名前。これまでの面会で捕虜は「私」に相当する自己指示を使ってきた。名前を名乗る段階に来た可能性がある。


二つ目:次の段階で来る人物の名前。向こうが次の接触担当者の名前を先に伝えている可能性がある。


三つ目:別の誰かの名前。捕虜が言及する必要がある第三者。艦隊の誰か、本国の誰か。


今日の面会で確認できる可能性がある。


三つの可能性の中で、一番重要なのは一つ目だ。捕虜自身の名前。


あの朝から今日まで、ずっと「捕虜」と呼んできた。言語解析の対象として扱ってきた。向こうも同じだ。こちらを「何者か」として扱ってきた。


だが今日、名前が通じれば、それが変わる。


名前を持つ者同士として接する段階に入る。それは、言語解析とは別の段階だ。


十六夜は一度ノートを閉じた。今日の面会の準備をする前に、少し考えた。


これまでの面会は全て、言語を解析するための面会だった。向こうが何を言っているかを理解するための面会だった。今日はそれが終わる可能性がある。名前が通じれば、言語解析の段階が一つ区切りを迎える。


そして別の段階が始まる。


────


赤城が来た。今日はコーヒーを持ってきた。二つ。いつも通りだ。


「昨夜の解析結果は」


「人名の可能性が高いです。誰の名前かがまだ分かりません。今日の面会で確認します」


「どうやって確認するか」


「捕虜に、その語と自分を指す動作を組み合わせてもらえるかどうかを試みます。捕虜が自分を指しながらその語を出せば、自分の名前です。指さない場合は、別の誰かの名前の可能性があります」


「なるほど」赤城はコーヒーを一口飲んだ。「向こうの名前が分かれば、何かが変わるか」


十六夜は少し考えた。「変わります。名前で呼べるようになります。捕虜、という呼び方から、名前のある人間として接することができる。それは、言語解析の段階から外交の段階への切り替わりかもしれません」


赤城は少し間を置いた。「ずっと捕虜と呼んできたな」


「はい。あの朝から今日まで、ずっと捕虜でした。今日、名前が分かるかもしれません」


「名前が分かることで、向こうはどう変わるか」


「向こうも変わると思います。名前で呼ばれることと、捕虜と呼ばれることは、相手にとって違う意味を持つはずです。名前で呼ばれると、人として扱われていることが伝わる。向こうもそれを感じるはずです」


「言語が違っても、その感覚は共有できるか」


「できると思います。名前を持つということ、名前で呼ばれるということは、どの文明でも意味のあることだと思います。普遍的な感覚かもしれない」


「普遍的」赤城は繰り返した。「それが外交の基盤になるか」


「なると思います。言語が違っても、名前が通じれば、人として認め合っている、ということになる。それが最初の合意より大きいかもしれません」


────


同日 午前10時 官邸地下 危機管理センター


「昨夜の解析結果です」


藤堂が報告した。「昨日の面会で捕虜が出した語は、人名の可能性が最も高いと判定されました。自分を指す語族と音節構造が近い位置にあることが根拠です」


「今日の面会で確認できるか」


「確認の試みをします。捕虜が自分を指しながらその語を出せば、自分の名前と確認できます」


黒崎は少し間を置いた。「名前が分かれば、今後の呼び方が変わる」


「はい。捕虜から名前のある人間へ。その切り替わりが今日できるかもしれません」


「言語解析の段階から外交の段階への移行だ」白瀬が言った。「名前が通じれば、次に何を伝えるかという問いが来ます。向こうが次の段階を求めているとすれば、こちらも次の段階の準備が必要です」


「今日の面会の結果を待ってから判断する」


「了解です」


「急ぐな。だが止まるな」


────


同日 午前10時 官邸地下 危機管理センター


「昨夜の解析結果です」


藤堂が報告した。「昨日の面会で捕虜が出した語は、人名の可能性が最も高いと判定されました。自分を指す語族と音節構造が近い位置にあることが根拠です」


「今日の面会で確認できるか」


「確認の試みをします。捕虜が自分を指しながらその語を出せば、自分の名前と確認できます」


黒崎は少し間を置いた。「名前が分かれば、今後の呼び方が変わる」


「はい。捕虜から名前のある人間へ。その切り替わりが今日できるかもしれません」


「言語解析の段階から外交の段階への移行だ」白瀬が言った。「名前が通じれば、次に何を伝えるかという問いが来ます」


「今日の面会の結果を待ってから判断する」


「急ぐな。だが止まるな」


────


同日 午前11時 官邸廊下


白瀬は午前の会議が終わった後、廊下を歩いた。


今日の面会で名前が確認できれば、一つの段階が終わる。


あの朝から今日まで、言語解析の段階だった。向こうが何を言っているかを理解しようとしてきた。理解することで、合意が成立した。艦隊が止まった。そして今日、名前が分かる可能性がある。


名前が分かれば、外交の段階に入る。外交の段階では、言語解析とは別の種類の言葉が必要になる。何を伝えるか。何を求めるか。何を約束するか。


それは白瀬の仕事の次の段階でもある。


────


同日 午後 ダーウィン基地 隔離区画 面会室


今日の捕虜は、昨日と同じ穏やかさを持っていた。


終わった静けさ、ではなく、始まる静けさだ。次が始まろうとしている。その前の静けさだ。


十六夜が椅子に座りながら、今日は少し違う気持ちで捕虜を見た。


あの朝から今日まで、捕虜は「捕虜」だった。言語を持つ知性として接してきた。向こうが何を言っているかを解析する対象として接してきた。


今日から、名前で呼べるかもしれない。


名前で呼ぶとき、相手への接し方が変わる。意識するかどうかに関係なく、変わる。


十六夜が椅子に座ると、捕虜は最初の音を出した。十六夜は返した。


それから、昨日出てきた固有名詞の可能性がある語を、こちらから出した。


捕虜は聞いた。


頷いた。その語を認識した、という確認だ。


それから十六夜は、自分を指さした。


そして、自分の名前に相当する音を出した。「十六夜」ではなく、音として近い音節を出した。自分が名前を持っていることを示す試みだ。


捕虜は見ていた。


それから、捕虜は自分を指した。


そして、昨日の固有名詞の可能性がある語を出した。


「……自分を指しました」記録者が声を上げた。「昨日の語と一緒に」


自分を指して、その語を出した。


捕虜の名前だ。


面会室が静かになった。記録者も十六夜も、少しの間動かなかった。


捕虜は自分を指して、名前を出した。それだけだ。それだけだが、今日の面会で最も重要な瞬間がそれだった。


あの朝以来、ずっと「捕虜」だった存在が、今日名前を持った。正確には、ずっと名前を持っていた。今日こちらがその名前を知った。


────


十六夜はその語を繰り返した。


捕虜の名前と思われる語を、こちらから出した。音節は昨日確認した通りだ。正確かどうか分からない。だが、できる限り近い音で出した。


捕虜は聞いた。


頷いた。


それから、わずかに表情が変わった。


これまでの面会で何度か表情の変化を確認してきた。安堵。落ち着き。確認が終わった表情。今日の表情は、それらとは少し違う。


何と言えばいいか、十六夜には正確な言葉が見つからなかった。


強いて言えば、聞こえた、という表情だ。


自分の名前が、向こうの言語の形で出てきた。それが聞こえた。そういう表情だった。


「表情が変わりました」記録者が小声で言った。「これまでと種類が違います」


十六夜は捕虜を見た。


捕虜も十六夜を見ていた。


これまでの面会で、捕虜はいつもこちらを見ていた。言語を解析しようとする目で。情報を届けようとする目で。合意を成立させようとする目で。


今日は違う。


今日の目は、名前を呼ばれた人間の目だ。


十六夜には、そう見えた。正確かどうかは分からない。だが、そう見えた。


面会室に、少しの間、静けさがあった。


────


面会の後半で、十六夜は逆の試みをした。


こちらの名前を向こうの言語に近い形で出した。自分を指して、その音を出した。


捕虜は聞いた。


少し間を置いた後、捕虜がこちらの音を繰り返した。完全に正確ではない。だが、近い音だ。


捕虜がこちらの名前を繰り返した。


十六夜は頷いた。それが自分の名前だ、という確認だ。捕虜が自分の名前を繰り返したとき、十六夜が頷く。捕虜がこちらの名前を繰り返したとき、十六夜がまた頷く。互いの名前の確認が、頷きの交換で成立している。


頷きが名前の確認に使われている。合意の確認に使っていた頷きが、今日は名前の確認に使われた。同じ動作が、文脈によって意味を広げている。


それから、もう一度自分を指して、自分の名前と思われる語を出した。


「お互いの名前が出ました」記録者が言った。


互いが名前を出した。


言語が通じない状態でも、名前という概念は共有できる。名前とは、その人だけを指す語だ。言語が違っても、名前が名前だということは伝わる。


「今日、名前が通じました」


十六夜は小声で言った。


これまでの面会で何度か「面白いですね」と言ってきた。今日は違う言葉が出た。「名前が通じました」。


面白い、という感覚より、もう少し重い感覚だった。言語解析として面白い、ではなく、人と人として何かが通じた、という感覚だ。


捕虜はそれを聞いていたかもしれない。日本語だから意味は通じない。だが、十六夜が何かを言ったことは分かる。


捕虜は少し頷いた。


意味が通じたわけではないが、何かが通じた。そういう頷きだった。


今日の面会は、ここで終わりにしてよかった。続けることも出来た。だが今日は、ここで終わりにしてよかった。


十六夜は最初の音を出した。面会の終わりを示す音だ。捕虜が返した。


面会が終わった。


────


面会後、廊下に出た。


赤城が待っていた。


「名前が分かったか」


「分かりました。捕虜が自分を指して、昨日の語を出しました。捕虜の名前です。こちらからその語を繰り返したら、捕虜が頷いて、表情が変わりました」


「表情が変わった」


「自分の名前が向こうの言語で呼ばれた、という表情に見えました。正確には分かりません。ただ、これまでの面会で見た表情とは違いました」


「捕虜の名前は」


十六夜は手帳を出した。「音節を記録しました。AIでカタカナに変換した結果では、おおよそ」


名前を言った。


赤城は聞いた。「……その名前で呼ぶことになるか」


「そうなると思います。捕虜、という呼び方から切り替わる段階です」


「何か変わるか」赤城は言った。「名前で呼ぶことで」


「変わると思います」十六夜は答えた。「捕虜という言葉は、立場を示す言葉です。名前は、その人を示す言葉です。違います」


赤城は少し間を置いた。「向こうはどう思っているだろうな。あの朝からずっと、捕虜として扱われてきた。今日名前で呼ばれた」


「向こうがどう思っているかは分かりません。ただし、表情が変わりました。名前を呼ばれたときの表情は、これまでの面会で見たことのない種類の表情でした」


「それが答えかもしれない」


「そうかもしれません」


赤城はしばらく黙った。廊下が静かだった。


「あの朝から今日まで、色々なことがあったな」


「はい」


「今日で一区切りだ」


「そうだと思います」十六夜は言った。「言語解析の段階が一つ終わりました。次の段階がどうなるかは、まだ分かりません。ただ、今日で一区切りです」


「お前は今日、何が一番印象に残ったか」


十六夜は少し考えた。「名前を呼んだときの捕虜の表情です。聞こえた、という表情でした。自分の名前が向こうの言語で出てきたとき、その人の何かが動く。言語が違っても、それは変わらないんだと思いました」


赤城は頷いた。「そうだな」


「あの朝から今日まで、ずっと言語の分析をしてきました。音節を切り出して、語根を確認して、文の構造を推定して。今日初めて、言語ではなく人に触れた気がしました」


赤城はまた頷いた。今日の赤城は、いつもより少し多く頷いた。


────


同日 官邸地下 夕方


「捕虜の名前が判明しました」


藤堂が報告した。「今日の面会で、捕虜が自分を指して固有名詞を出しました。こちらからその語を繰り返したところ、頷きと表情の変化が確認されました」


「名前が分かった」黒崎が言った。


「はい」


「その名前で、今後呼ぶことになるか」


「文書上の呼称をどうするかは、判断が必要です。ただし、面会の場では名前で呼ぶことが自然な段階に入りました」


「名前が分かることで、何が変わるか」


白瀬が答えた。「立場ではなく、人として接する段階になります。捕虜という立場から、名前のある人間として。これは言語解析の段階から外交の段階への移行を示しています」


「外交の段階」


「向こうの文明と、具体的な交渉を始める段階です。名前のある人間同士として話す段階です。捕虜という関係から、交渉相手という関係への移行です」


室内が静かになった。


あの朝以来、この部屋でどれだけの言葉が交わされたか。「確認できない」から始まって、今日「名前で呼ぶ」まで来た。


最初と最後では、言葉の種類が違う。最初は「何が起きているか分からない」という言葉だった。今日は「どう進めるか」という言葉だ。


「了解だ」黒崎は言った。「今後の面会は、外交の場として進める。名前で呼ぶ」


「合わせて一点」相馬が言った。「今後は言語解析チームだけでなく、外交の専門家の関与が必要になります。片言での交渉が進むにつれて、言葉の選び方が重要になります。何を伝えて、何を伝えないか。そこに専門的な判断が必要です」


「手配しろ」


「了解です」


藤堂が続けた。「もう一点です。向こうが次の接触を求めているとすれば、その形について事前に検討が必要です。別の帆船が来るのか。あるいはこちらから出向くのか。どういう形の接触を想定するか、今のうちに議論しておく必要があります」


「検討しろ」黒崎は言った。「今日の面会の段階でできることと、次の段階でやることを分けて整理しろ。今日が外交の段階の最初の日だ。急ぐな。だが止まるな」


────


ヴァルタ連合 派遣艦隊旗艦「エイカ」 艦橋 同日夕方


アルセナは窓の外を見ていた。


止まっている海だ。艦隊が止まっている。波だけが動いている。


「捕虜から信号が来ました」レナが言った。「昨日と同じ密度です。落ち着いています」


「内容は」


「解読できていません。ただし、信号のパターンが変わりました。これまでの個人信号とは少し違います。より、整っています」


「整っている、とは」


「急ぎや焦りがありません。落ち着いた信号です。何かが伝わった後の信号に見えます」


アルセナは少し間を置いた。


何かが伝わった。


向こうが、捕虜に何かを伝えた。あるいは、捕虜が向こうに何かを伝えた。その後の、落ち着いた信号だ。


「名前を伝えたのかもしれない」アルセナは言った。


「名前、ですか」


「捕虜が名前を名乗った可能性がある。名前が通じれば、次の段階に入る。その前後の信号かもしれない」


レナは少し間を置いた。「捕虜の名前を、向こうが呼べるようになった」


「そうなれば、捕虜という立場から変わる。向こうにとっても、こちらにとっても」


アルセナは窓の外を見た。止まっている艦隊。動かない海面。波だけが静かにある。


捕虜が名前を名乗った可能性がある。名乗ったとすれば、向こうの文明も次の段階に進む準備ができていると判断したことになる。


捨て駒として送り出されてきた。合意を成立させることが最初の目的だった。それが終わった。今日から、別の目的が始まる。


「レナ」


「はい」


「向こうが次の接触をしてくるとすれば、艦隊から誰かが来る可能性がある。準備が必要だ」


「どういう準備ですか」


「自分が外交担当として動ける状態にしておく。向こうから誰かが来たとき、こちらが受け取れるように」


レナは少し間を置いた。「殿下が直接、向こうと会うことになりますか」


「そうなるかもしれない。そのための準備だ」


レナは何も言わなかった。しばらくして、小さく頷いた。


アルセナは窓の外を見た。夜だ。星が出ている。


向こうと直接会う段階が来るかもしれない。言語が片言しか通じない段階で、どこまで話ができるか。


でも話す。話せる範囲で話す。それがここに来た理由だ。


────


同日 深夜 官邸廊下


白瀬はメモ帳を出した。


「名前」


今夜の言葉を書いた。


これまでの言葉が並んでいる。「確認できない」「理由がない」「前提」「確認できた」「話す」「地図」「見えた」「聞こえている」「届いた」「同じ問い」「答えの形」「北西」「速度」「取り決め」「艦隊と合意」「最初の言葉」「合意」「速度が止まる」「速度と問い」「合意」「合意」「止まった日」。


そして今夜。「名前」。


あの朝から今夜まで、ずっと「捕虜」と呼んできた。名前を知らなかった。名前を知る必要がなかった。言語が通じない段階では、名前よりも概念の共有が先だった。


今夜から、名前がある。


名前があることで、何かが変わる。


何が変わるかは、今夜の段階ではまだ全部は分からない。ただ、名前が通じた、という事実が今夜加わった。


メモ帳の言葉を見た。「確認できない」から始まった言葉の列が、今夜「名前」まで来た。


最初の言葉は否定形だった。「確認できない」。何も分からないという言葉から始まった。


今夜の「名前」は、肯定形だ。名前が通じた。名前がある。それは確認できた、ということだ。


あの朝から今夜まで、否定から肯定に向かってきた。全部が確認できたわけではない。まだ分からないことが多い。だが方向は、確認できた、という方向だ。


廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。


その音の下で、今夜も解析が続いている。


そして今夜から、名前で呼べる。


白瀬はメモ帳を閉じた。今夜はここまでだ。明日、また次の言葉を書く。


次の言葉が何になるかは、まだ分からない。向こうが次の接触をしてくるかもしれない。別の帆船が来るかもしれない。艦隊から何かが来るかもしれない。


分からない。だが、次が来る。


あの朝から今夜まで、次が来るたびに言葉を書いてきた。これからも書く。


廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。


その音の下で、今夜も次が準備されている。

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