取引
西暦××××年××月××日 ダーウィン港 午前7時
LNGタンカーが桟橋に着いた。
船体は大きい。白く塗られた球形のタンクが甲板上に並んでいる。満載状態だ。港の作業員が係留索を受け取る。クレーンが動き始める。
「あさひ」の当直士官が双眼鏡でタンカーを見ていた。「でかいですね」
川上は頷いた。「あれが動けば、話が変わる」
タンカーは日本向けだ。ダーウィン近郊の液化天然ガス施設から積み込んだLNGを、日本に届ける。あの朝以降初めての、外国からの資源輸送だ。
対価は何か。種子島の衛星打ち上げ施設の共同利用権。ダーウィンに常駐する日本の医療チーム。製造技術の移転。書類の上では「相互協力協定」と書かれている。実態は物々交換だ。
「物々交換で国が動く時代になったな」川上は言った。
「地球ではそんな時代はとっくに終わっていましたが」当直士官が言った。
「ここは地球じゃない」
「そうですね」
当直士官は双眼鏡を下ろした。タンカーの係留作業を遠目に見ていた。大きな船だ。あの船に積まれているものが、日本の工場を動かし、病院を動かし、家庭の灯りを維持する。
そういうことを考えたことは、これまでなかった。LNGは来るものだった。タンカーは届くものだった。それが前提だった。
今は前提が違う。届くことが、当然ではなくなった。当然ではないから、届いたとき、その重さが分かる。
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タンカーへの積み込みが完了するまで、数時間かかる。
川上は艦橋を離れて、岸壁を歩いた。
ダーウィンの朝は早い。港の周辺ではすでに作業員が動いている。フォークリフトが走る。コンテナが積み上がる。声が飛ぶ。オーストラリア人の声と、日本人の声が混じっている。
医療チームはすでに常駐している。ダーウィン基地の一角に、日本の医療スタッフが入っている。言葉の問題は通訳が解決している。技術の問題は、技術が解決している。人が動けば、国が動く。書類より先に、現場が動いていた。
あの朝から今日まで、この惑星で確認できた相手はオーストラリアだけだった。その相手と今、物資を動かしている。タンカーが港を出る。それだけのことが、今日は違う意味を持っていた。
「川上艦長」
後ろから声がかかった。振り向くと、ワラマンガ艦長だった。
修理が完了したワラマンガは、昨日から動けるようになっている。右舷の損傷は修復された。速度は戻った。
「おはようございます」
「今日、タンカーが出る」艦長は言った。「日本に届けば、最初の取引が成立する」
「そうです」
「うまくいくといいな」
「うまくいくと思います」川上は言った。「あなた方が正直に話してくれているから」
「日本も正直だ」艦長は続けた。「正直すぎて、時々遅い」
川上は少し笑った。「それは認めます」
艦長も笑った。「だが、遅くても来る。それが大事だ」
二人はしばらく、港の作業を見ていた。
フォークリフトが動いている。クレーンが動いている。人が動いている。書類が動く前に、現場が動いている。それが今日の姿だった。
「あの朝からこっち、早かったですね」川上は言った。
「そうか?」
「こちらの感覚では、あっという間でした。帆船と会って、捕虜を確保して、ダーウィンに来て、取引の話になって。気づけばタンカーが出ていく」
「速く動かないと、止まる」艦長は言った。「止まれば、分からないままになる。分からないままでは、どこにも行けない」
「それがオーストラリアの考え方ですか」
「そうだと思う。少なくとも、私はそう思っている」
川上は頷いた。それが日本との違いだと、この数週間で理解していた。日本は止まって考える。オーストラリアは動きながら考える。どちらが正しいかは分からない。ただ、今この状況では、動くことが必要だった。
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同日 ダーウィン基地 分析室
言語解析の作業が続いていた。
昨日の面会で録音した音声データ。マクブライド少佐が出した音と、捕虜が返した音。その対応を、一つ一つ地道に分析している。
「二十三の音節対応が確認できました」担当者が言った。「まだ意味の確認ができていないものが多いですが、少なくとも音の対応関係はある程度見えてきています」
「二十三で何が言えますか」
「まだ文章は作れません。単語の断片に近い。ただし」担当者は画面を操作した。「繰り返し出てくる音の組み合わせが三つあります。捕虜が何度も使っている音の組み合わせです。この三つが、何か重要なことを指している可能性があります」
「三つとは」
「一つ目は、こちらが"日本"や"オーストラリア"を示したときに捕虜が返す音です。おそらく固有名詞か、場所を示す概念に対応しています。二つ目は、捕虜が自分自身を指すときに使う音と思われる組み合わせです。三つ目は」
担当者は少し間を置いた。「捕虜が繰り返し、何かを確認するように使っている音です。この三つ目の音を出すとき、捕虜の様子が変わります。表情が変わる。前のめりになる。これが何を指しているのか、まだ分かりません」
「重要な何かを指している」
「そう思います。ただし推測です」
室内に、短い沈黙が落ちた。捕虜が繰り返し使う音。前のめりになるときの音。何を伝えようとしているのか。言葉が通じないまま、その問いだけが残った。
十六夜さくらが言った。「少佐に聞いてみます。装置に触れたとき、同じ音が聞こえたかどうか」
「少佐の体調は」
「昨日より回復しています。医療チームが確認しました」
「了解です。慎重に進めてください」
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同日 マクブライド少佐 居室
十六夜は少佐の部屋を訪ねた。
少佐はテーブルに座っていた。コーヒーを飲んでいる。窓の外にダーウィンの空が見える。青い。
「お邪魔します」
「どうぞ」少佐は言った。「コーヒーは?」
「結構です。一つ聞かせてください」
少佐は頷いた。
「装置に触れたとき、複数回聞こえた音があったと言っていましたね。その中に、捕虜が繰り返し使っている音があるかどうか確認したいんです」
十六夜は録音データを再生した。捕虜が繰り返し使っている三つ目の音の組み合わせ。
少佐は目を閉じた。しばらく聞いていた。
「……聞こえた気がします」
「気がする、というのは」
「はっきりとは言えません。でも、似た音が装置から来ていた気がします。装置に触れたとき、最初に聞こえた音に似ています」
「最初に聞こえた音ですか」
「はい。最初に触れた瞬間、何かが来ました。それから地図が見えて、音が続いた。最初の音が一番はっきりしていました。今、この録音を聞いて、その最初の音を思い出しました」
十六夜はメモを取った。「ありがとうございます。もう一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「その最初の音を聞いたとき、どんな感覚がありましたか。音以外に、何か感じましたか」
少佐はしばらく考えた。「……問われた、という感じがしました」
「問われた?」
「何かを聞かれた。言葉は分からなかった。でも、何かを確認されている、という感覚がありました」
十六夜は少し間を置いた。「何を確認されていたと思いますか」
「分かりません。ただ」少佐は続けた。「正直に言うと、あの感覚が今でも残っています。問われた、という感覚が消えていない。何に答えればいいのかも、まだ分からないんですが」
「答えなくていいと思います」十六夜は言った。「今は」
「そうですか」
「今は、問われた、という事実が分かっただけで十分です。何を問われたかは、もう少し先で分かるかもしれない」
少佐は頷いた。「……十六夜さんは、怖くないんですか」
十六夜は少し間を置いた。「怖いですよ。でも面白い」
「その二つ、同時にあるんですね」
「あります。怖いから面白いのかもしれない。分からないから面白いのかもしれない。どちらにせよ、今ここで起きていることは、人類が初めて経験することだと思います。それが怖さより大きい」
少佐は窓の外を見た。「私も、そう思いたいです」
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同日 分析室 十六夜さくら
「面白いですね」
十六夜は独り言を言った。
赤城蓮人が入ってきた。「また一人で話しているのか」
「少佐が言ったことが面白いんです」
「何が」
「装置が少佐に問いかけていた可能性があります。少佐が装置から情報を受け取っただけでなく、装置が少佐に何かを聞いていた」
「双方向だったということか」
「そうです。こちらが装置から情報を取り出したのではなく、装置もこちらから情報を取り出していた可能性があります。少佐が装置に触れた瞬間、向こうは少佐が素質のある者かどうかを確認したのかもしれない。そして、そうだと分かった瞬間に、地図と音を送ってきた」
「……スキャンされたということか」
「可能性として。だとすれば」十六夜は続けた。「装置は受動的な道具ではなく、能動的に動くものです。触れた者を評価して、素質があれば情報を送り、素質がなければ何もしない。あるいは症状だけが出る」
「症状が出た者と出なかった者の違いが、そこにあるということか」
「可能性として。素質がある者には情報を送り、素質がない者には何もしない。でも触れたことで、向こうには全員の情報が送られているかもしれません」
赤城は少し間を置いた。「官邸に上げる」
「はい。ただし言葉は慎重に」
「どう言う」
「"装置が触れた者を評価している可能性がある。素質のある者には情報を送り、全員の情報を向こうに送信している可能性がある"。それだけです」
「……思ったより深刻だな」
「ええ」十六夜は言った。「向こうはこちらのことを、私たちが思っている以上に知っているかもしれません。ただし」
「ただし」
「向こうが全部分かっているとしても、捕虜はまだここにいる。全部分かっていて、それでも話しかけてこなかった。今日初めて、話しかけてきた。そのタイミングが、何かを意味しているかもしれません」
「何を意味していると思う」
十六夜はしばらく考えた。「向こうが、話す準備ができた、ということかもしれません」
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同日 午後 隔離区画
捕虜は今日も静かに座っていた。
言語解析チームが第二回の面会を設定した。今日は少佐ではなく、言語解析の担当者が直接試みる。少佐から教わった音の組み合わせを使って、意思疎通を試みる実験だ。
担当者が音を出した。捕虜が聞いた。
一拍。
捕虜が何かを言った。短い音の組み合わせ。担当者が録音しながら聞いた。
「……返ってきました」
「意味は」
「まだ分かりません。ただ、返ってきた」
試験が続く。担当者が音を出す。捕虜が返す。そのやり取りが少しずつ積み上がっていく。
そのとき、捕虜が自分から音を出した。
これまでとは違う。こちらから問いかけたのではなく、捕虜が自発的に何かを言った。
「……自発的に話しかけてきた」担当者が小声で言った。
音を録音した。解析する。繰り返し出てくる三つ目の音の組み合わせが、また出てきた。
捕虜は、これを何度も使っている。重要な何かだ。
「何を言いたいんですか」
通じない。言葉は通じない。
だが捕虜は、話そうとしている。あの朝以来、初めて、こちらに向かって話しかけてきた。
担当者は録音を続けながら、手を小さく挙げた。
来た。
「了解。録音継続。表情の記録も」
捕虜の顔が、この面会の間、はっきりと変わっていた。これまでの観察する顔ではない。伝えようとしている顔だ。言葉が通じないことを分かっていながら、それでも話しかけている。
その姿が、担当者の目に焼き付いた。
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同日 官邸地下
「本日の報告を整理します」藤堂が言った。「一、LNGタンカーがダーウィンを出港しました。日本への最初の資源輸送です。到着まで数日かかります。二、言語解析が進んでいます。捕虜が繰り返し使う音の組み合わせが三つ特定されました。三、装置が触れた者を評価している可能性が出てきました。素質のある者には情報を送り、全員の情報を向こうに送信している可能性があります。四、捕虜が自発的に話しかけてきました。初めてです」
「捕虜が自発的に」黒崎が言った。
「はい。これまでは観察していました。今日初めて、こちらに向かって話しかけてきました」
「何かが変わったということか」
「捕虜が変わったか、状況が変わったか、どちらかです。ただし」白瀬が言った。「装置がこちらの情報を収集していた可能性と合わせて考えると、向こうは今、こちらについて十分な情報を得たと判断したかもしれません。十分な情報が集まったから、今度は話す段階に入った」
「向こうのペースで動いている、ということか」
「可能性として。ただし」十六夜が言った。「今日、捕虜は繰り返し同じ音を使いました。これが何かの名前か、あるいは状況の説明か、まだ分かりません。ただし重要な何かを伝えようとしているのは確かです」
黒崎は少し間を置いた。「言語解析を急がせろ。捕虜が話したがっているなら、話せる状態にしなければならない。話せない状態が続けば、向こうのペースが加速するだけだ」
「了解です」
「タンカーが着いたら報告しろ。取引が成立したとき、次の段階に進む」
「急ぐな。だが止まるな」
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同日 夜 ダーウィン港
タンカーはすでに港を出ていた。
灯りが遠ざかる。波を切って進む。積んでいるのはLNGだ。日本の工場を動かし、病院を動かし、家庭の電気を維持するためのエネルギーだ。
川上は岸壁からそれを見ていた。
遠ざかる灯りを見ながら、あの朝からのことを思った。
あの朝、外側との通信が全部消えた。ロシアが来なかった。韓国が来なかった。中国が来なかった。外縁の向こうには何もないと思っていた。だが外縁の向こうには、世界があった。オーストラリアがあった。LNGがあった。帆船が来た。捕虜がいる。
そして今、捕虜が話しかけてきた。
向こうは何を伝えたいのか。何を探しているのか。なぜ、今のタイミングで話し始めたのか。
分からないことが、また増えた。
だが、タンカーは動いている。取引は成立しようとしている。その事実だけは確かだ。
「川上さん」
声がした。マクブライド少佐だった。
「夜風に当たりに来ました」少佐は言った。
「そうですか」
二人はしばらく、遠ざかるタンカーの灯りを見た。
「あれが日本に着けば」少佐が言った。「また一つ、動きますね」
「そうです」
「捕虜が今日、話しかけてきたそうですね」
「聞きましたか」
「ええ。十六夜さんから。彼女は"面白いですね"と言っていました」
川上は少し笑った。「いつもそう言いますね」
「良い言葉だと思います」少佐は言った。「怖いことを、面白いと言える。それはある種の勇気です」
川上は少し間を置いた。「少佐は怖いですか、今」
「怖いです」少佐は即答した。「捕虜の目が変わったとき、怖かった。装置に触れたとき、怖かった。あの音が聞こえたとき、怖かった。今も怖いです」
「だが、来てくれた。協力してくれている」
「ええ。怖いけど、面白い。十六夜さんと同じです」
夜の港は静かだった。虫の声がする。波の音がする。タンカーの灯りはもう遠い。
「向こうが話したがっているなら」川上は言った。「聞かなければならないですね」
「そうですね」少佐は言った。「何を言いたいのか、まだ分からない。でも、聞かなければ、分からないままです」
「分からないままにしておく選択は」
「ないと思います。向こうがすでに動いている以上、こちらが聞かないという選択肢は実質的にない」
川上は頷いた。
遠くでタンカーの灯りが消えた。暗い海に溶けた。
行ってしまった。戻ってくるのは、数日後だ。
日本の誰かが、あの燃料で電気をつける。その誰かは、この港で何が起きたかを知らない。知らなくていい。知らなくても、灯りはつく。
灯りがつくことが大事だ。今日はそれだけでいい。
◆LNGタンカー
液化天然ガスを輸送する専用船。天然ガスをマイナス162度に冷却・液化することで体積を約600分の1に圧縮し、大量輸送を可能にする。今回オーストラリアから日本へ向かうタンカーは、あの朝以来初めての国際資源輸送となる。




