新しい地図
西暦××××年××月××日 ダーウィン基地 分析室 午前8時
衛星の観測データが積み上がっていた。
日本が打ち上げた小型衛星、オーストラリア側の観測システム、ひまわりの広域データ。それらを重ねて、少しずつ地図が作られていた。
完全ではない。穴だらけだ。確認できている範囲は、この惑星全体から見ればごく一部に過ぎない。
だが、あの朝以来初めて、「何もない空白」だった外側に、輪郭が生まれ始めていた。
朝の光の中で、技術員たちが画面を見ていた。誰も声を上げない。誰も急がない。ただ、データと向き合っている。
「現時点で確認できていることを整理します」
技術員が画面を操作した。
「日本列島の位置。確認済みです。オーストラリア大陸の位置。確認済みです。両者の相対距離。推定で約三千キロメートルから四千キロメートル。ただし精度は低い」
「地球上の日豪間の距離は約七千キロメートルだったな」
「はい。この惑星では、日本の北にオーストラリアがあり、かつ距離が地球より近い可能性があります。ただし測位の精度が低いため、確定はできていません」
「北西の陸地は」
「衛星データと少佐の証言の両方から、北西方向に大きな陸地がある可能性が高まっています。ただし形状・大きさ・詳細な位置は不明です。少佐の証言では"日本やオーストラリアより、ずっと大きい"とのことでした」
「大きな陸地から、反応が動いている」
「はい。北西の反応は継続しています。移動パターンから、複数である可能性が高い。ただし規模・速度の精度はまだ低い」
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「この惑星の地図を作るために、何が必要か」
十六夜が口を開いた。
「衛星です。複数の衛星を、この惑星の全域をカバーできるように配置する必要があります。ただし現実的には不可能に近い。この惑星の表面積は地球の四倍以上です。地球の測位衛星システムは三十機以上の衛星で構成されていました。同等のシステムをこの惑星に構築するには、百機以上の衛星が必要になります」
「百機は打ち上げられない」
「打ち上げられません。ただし、優先する方向に絞れば、少ない衛星でも意味はあります。北西方向を重点的に見られるように配置するだけでも、今よりはるかに多くの情報が得られます」
「次の打ち上げはいつだ」
赤城が答えた。「種子島での準備が進んでいます。最短で六週間後。燃料の確保がボトルネックです。オーストラリアからのLNG供給が始まれば、もう少し早められる可能性があります」
「LNG供給の交渉は」
「進んでいます。ただし、取引の枠組みがまだ完全に固まっていません。通貨の問題が残っています」
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「通貨の問題を整理します」後藤が言った。
この日の会議には、外務省と経産省の担当者も加わっていた。ダーウィンと官邸をつなぐ回線が開かれている。
「円はこの惑星では対外的な価値を持ちません。オーストラリアドルも同様です。どちらも、地球上の経済システムを前提にした通貨です。この惑星での取引には、別の基準が必要です」
「何を基準にする」
「現時点での提案は三つです。一、物々交換。日本の技術・サービスとオーストラリアの資源・食料を直接交換する。二、エネルギー本位制。LNGや石炭のカロリー量を基準にした単位を新たに設定する。三、労働・技術の換算。衛星打ち上げ一回、医療サービス提供、製造技術移転など、人間の労働と技術を基準にする」
「どれが現実的だ」
「短期的には物々交換が最もシンプルです。中期的にはエネルギー本位制が安定します。長期的には三つを組み合わせた独自の枠組みが必要になります。ただし今日必要なのは、LNGを日本に届けることです。最初の取引は物々交換で行います」
「日本が提供するものは」
「衛星打ち上げ技術の共同利用。医療チームのダーウィン常駐。製造技術の移転。この三点を最初の交換条件として提示します」
「オーストラリア側の反応は」
「概ね同意しています。細部の交渉が残っています。今週中に合意できる見通しです」
「急がせろ。燃料が先だ」
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同日 種子島 宇宙センター
種子島では、次の打ち上げの準備が静かに進んでいた。
ロケットは格納庫にある。観測衛星と測位衛星を組み合わせた複合衛星。この惑星専用に設計し直したわけではない。地球用の設計を、この惑星の条件に合わせて調整した。完全ではないが、何もないよりはいい。
格納庫の中には、作業服を着た技術者たちがいた。声は少ない。それぞれが自分の作業に集中している。問いを立てる時間も、答えを探す時間もない。今日やるべきことを、今日やる。それだけだ。
担当者が言った。「北西方向への軌道投入を優先します。少佐の証言と衛星データが一致した方向です。そこを重点的に見られるようにします」
「燃料の現状は」
「現有備蓄で打ち上げは可能です。ただしギリギリです。LNGが届けば、次の打ち上げの余裕が生まれます」
「LNGが届く前に打ち上げるか」
担当者は少し考えた。「打ち上げます。今の北西の状況を見れば、待っている余裕はないと判断します。燃料は使いますが、情報が先です。情報なしでは、どんな準備も意味を持ちません」
「了解だ。準備を続けろ」
担当者は作業に戻った。
情報が先だ、という判断は簡単ではない。燃料は有限だ。打ち上げが失敗すれば、燃料だけが消える。それでも、情報なしには何も判断できない。
判断できなければ、動けない。動けなければ、状況に飲み込まれる。
それが今の理解だった。
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同日 ダーウィン基地 捕虜の隔離区画
言語解析チームが作業を続けていた。
昨日の面会で録音した音声データ。少佐が出した音と、捕虜が返した音。二者の対話の構造を分析している。
「音節の対応表ができ始めています」担当者が言った。「完全ではありませんが、いくつかの音が、繰り返し対応する形で出てきています。これがもし単語の対応なら、そこから文法構造を推定できます」
「どのくらい進んでいる」
「単語レベルで十語から二十語程度の推定ができています。ただし意味の確認ができていません。こちらが推定した意味が正しいかどうかを、捕虜に確認する手段がまだありません」
「確認する方法は」
「少佐を通じるしかありません。少佐が音を出して、捕虜の反応を見る。その繰り返しで、少しずつ確認を取っていきます。時間がかかります」
「急かすな。少佐の体調を最優先にしろ」
「了解です」
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そのとき、隔離区画のセンサーが反応した。
「空気密度、微変動」
技術員が報告する。前回と同じパターンだ。
監視カメラを確認する。捕虜は椅子に座っている。動いていない。だが、その目が変わっている。
「何かを察知しているかもしれません」十六夜が言った。
「何を」
「少佐の状態を。昨日の面会で、少佐に素質があることを知った。少佐が装置に触れていることも察知している可能性があります。そして今日、少佐の体調が回復しつつあることも」
「捕虜が少佐を追跡しているということか」
「可能性として。素質のある者の状態を感じ取れるとすれば、捕虜はこちらの状況を、壁越しに把握しているかもしれません」
「完全に監視されているな」吾妻が言った。
「向こうは私たちを観察している。私たちも向こうを観察している。ただし」十六夜は続けた。「向こうが想定していなかった事態が昨日起きた。その事実は変わりません。向こうの計算に変数が加わっています」
「変数が加われば、計算が変わる」
「はい。向こうが次にどう動くかが変わるかもしれません。その変化を、こちらが先に把握できれば」
「有利になる」
「可能性として」
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同日 官邸地下
「新しい地図の進捗を整理します」白瀬が言った。
「衛星データと少佐の証言を統合した暫定地図が作成されています。日本とオーストラリアの位置は確定。相対距離は推定。北西に大きな陸地がある可能性が高い。その陸地から複数の反応が移動中。方向はこちらへ向かっている可能性がある。いつ来るかは不明。来るかどうかも不明」
「種子島の打ち上げは」
「六週間後を目標に準備中。燃料をギリギリ使って打ち上げます。LNG取引の合意を急いでいます」
「通貨問題は」
「物々交換での最初の取引合意が今週中に出る見通しです。日本の技術・医療とオーストラリアのLNG・食料を交換します」
「集団的自衛権は」
「法制局が検討を継続しています。北西の反応がオーストラリアへの武力攻撃に発展した場合の要件整理が進んでいます。結論はまだ出ていません」
「言語解析は」
「単語レベルで少し進んでいます。少佐の体調回復を待って、次の面会を設定します」
「捕虜が少佐を追跡している可能性については」
「監視を強化します。ただし」白瀬は続けた。「捕虜が少佐を追跡できるとすれば、逆に言えば、少佐を通じて捕虜に情報を送ることもできる可能性があります。使えるかもしれません」
「使う、とはどういうことだ」
「向こうが計算に入れていなかった事態が起きた。その事態を、こちらがコントロールできれば、向こうの計算をこちらが変えられるかもしれません。少佐が装置に触れるタイミングと内容を、意図的に設計する。向こうに伝えたいことを、素質のある者を通じて送る」
室内が静まった。
「……攻撃的な情報戦だな」黒崎が言った。
「はい。ただし現時点では提案の段階です。向こうの言語が分からない状態では、何を送っても意味が伝わらない。言語解析が進んでから検討する話です」
「今は言語解析を急げ」
「了解です」
「急ぐな。だが止まるな」
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同日 夜 ダーウィン マクブライド少佐
少佐は基地の外に出た。
夜のダーウィン。湿度が高い。虫の声がする。南半球の夜空とは少し違う星の配置。この惑星の夜空だ。
少佐は北西の方向を見た。
地図が見えたとき、その方向に大きな陸地があった。そこから何かが動いていた。
来るかどうかも分からない。いつ来るかも分からない。
ただ、昨日、捕虜の男と音を交わした。言葉にはなっていない。意味は分からなかった。でも、返ってきた。
向こうに、人がいる。
それが分かった。向こうに人がいて、何かを考えていて、何かのために動いている。その「何か」が、まだ分からない。
少佐は北西の空を見続けた。
星が出ている。同じ宇宙の星だ。あの朝以来、この惑星で見上げてきた星と同じ星だ。
「何を考えているんだ」
誰にも聞こえない声で言った。
星は答えない。北西の空も、答えない。
だが、向こうにも、誰かが空を見上げているかもしれない。同じ星を見ながら、同じ問いを立てているかもしれない。
そう思うと、怖さと、奇妙な近さが、同時にあった。
どちらが正しいのかも分からない。向こうが敵なのか、ただ移動しているだけなのか。話しかけてくることを、どう解釈すればいいのか。
少佐は、分からないまま、空を見続けた。
分からなくていい。今は分からなくていい。
分からないことを、分からないまま抱えて立っている。それが今できることだ。
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同日 深夜 官邸廊下
白瀬は廊下でメモ帳を出した。
あの朝から何度も書いてきた三つの言葉。「確認できない」「理由がない」「前提」。
そして、ダーウィンから帰ってきた後に書いた言葉。「確認できた」。
今日、新しい言葉を書いた。
「地図」
この惑星の地図が、少しずつ作られ始めている。穴だらけだ。不正確だ。信頼できる部分は少ない。
だが、あの朝には何もなかった。「外側」という言葉すら使えなかった。
今日、日本の北にオーストラリアがある。北西に大きな陸地がある。そこから何かが動いている。
地図が生まれていた。
地図があれば、次が立てられる。次が立てられれば、動ける。
白瀬はメモ帳を閉じた。
廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。
その音が今夜は、少しだけ違って聞こえた。
◆測位衛星の必要数
地球のGPSシステムは三十機以上の衛星で構成されている。この惑星は地球の四倍以上の表面積を持つため、同等のシステムには百機以上が必要になる計算だ。現実的には不可能に近い。優先する方向に絞った部分的なカバーしかできない。
◆「エネルギー本位制」
金本位制が金の価値を基準に通貨を発行したように、エネルギーのカロリー量を基準に価値を測る考え方。この惑星では、エネルギーが最も普遍的な価値の基準になりうる。長期的な取引の枠組みとして提案された。




