見えたもの
西暦××××年××月××日 ダーウィン基地 分析室 午前9時
準備は昨日のうちに終わっていた。
装置はテーブルの上に置かれている。密閉容器から出してある。遠隔操作で蓋を開けた。直接触れていない。
医療チームが待機している。前回の症状、頭痛と視覚障害。それ以上の症状が出た場合の対処手順を確認した。中止の判断基準も決めた。少佐が「止める」と言えば、すぐに止める。
マクブライド少佐は椅子に座っていた。
「準備はいいですか」十六夜が通訳を介して聞いた。
「はい」
「無理をしないでください。何か異常を感じたらすぐに言ってください」
「分かっています」
少佐はテーブルの装置を見た。前回触れたとき、何かが見えた。何が見えたのか、説明できなかった。今日は説明できるかもしれない。あるいは、また説明できないかもしれない。
説明できなくてもいい。今日は、受け取ったものを覚えているうちに言葉にする。それが今日の目的だ。
「触れます」
少佐が手を伸ばした。
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指先が装置に触れた瞬間。
少佐の表情が変わった。
痛みではない。驚きでもない。何かを受け取っている顔だ。
三秒。五秒。八秒。
「……止めます」
少佐が手を引いた。
医療チームが近づく。「状態は」「頭痛があります。前回と同じです。視覚は……少し歪んでいます」「横になってください」「少し待ってください。今、覚えているうちに話します」
十六夜はメモ帳を構えた。
「話せますか」
「はい。今なら話せます。少し経つと、薄れていく気がします」
「聞きます」
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少佐は少し間を置いた。
「地図が見えました」
「地図」
「この惑星の地図です。全体ではありません。一部です。ただし、はっきり見えました。海がある。陸がある。日本列島の形は分かりました。オーストラリアの形も、おそらく分かりました。それと」
「それと」
「北西の方向に、何かがあります。陸地です。大きい。日本やオーストラリアより、ずっと大きい。そこから、こちらへ向かって、何かが動いています。はっきりとは見えませんでした。ただ、動いているということは分かりました」
「距離は分かりますか」
「分かりません。地図の縮尺が分からないので、距離が計算できませんでした」
「他には何か見えましたか」
少佐はしばらく考えた。「言葉が聞こえました」
「言葉?」
「音です。意味は分かりません。ただし繰り返しがありました。同じ音が、何度も出てきました。捕虜の男が話す言葉と、似ている気がします」
十六夜はメモを取りながら、赤城を見た。赤城は小さく頷いた。
「その音を、今ここで再現できますか」
「やってみます」
少佐が音を出した。低い音列。抑揚が強い。捕虜の言語に似ている。完全に同じではないが、構造が近い。
十六夜はそれを録音しながら、言語分析の資料と照合した。
「……一致する音節があります」
「装置が言語を送っていた、ということか」赤城が言った。
「可能性として。ただし」十六夜は続けた。「装置が送っていたのか、それとも少佐が受け取れたのは、少佐自身の中にある何かが反応したのか、まだ区別できていません」
「どういう意味だ」
「素質がある者が装置に触れたとき、装置が何かを送るのか。それとも、素質がある者が装置に触れたとき、その者自身が何かを受け取る能力を持っているのか。外から来るのか、内側から出てくるのか。どちらかは、今の段階では分かりません」
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少佐は横になりながら、天井を見ていた。
頭痛は少しずつ和らいでいる。視覚の歪みも戻ってきている。
「十六夜さん」
「はい」
「地図が見えたとき、不思議な感覚がありました」
「どんな感覚ですか」
「知っている感じがしました。初めて見る地図なのに、知っている気がした。どこに何があるか、説明はできないんですが、なんとなく分かる気がしました」
十六夜は少し間を置いた。「それは、装置が教えてくれたのか、それとも少佐がもともと知っていたのか、分かりますか」
「分かりません。ただ」少佐は続けた。「捕虜の男に会わせてもらえますか」
「理由を聞かせてください」
「言葉は通じないと思います。でも、さっき聞こえた音が、もしあの男の言葉と同じなら、何か通じるかもしれない。試してみたいです」
十六夜は赤城を見た。赤城は少し考えてから言った。「官邸に上げる。判断は上がやる」
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同日 官邸地下
「マクブライド少佐の試験結果が届きました」藤堂が言った。「地図が見えた。北西に大きな陸地がある。そこから何かが動いている。言語に似た音が聞こえた。以上です」
「地図が見えた」黒崎が言った。
「はい。ただし縮尺が分からないため、距離は計算できていません。この惑星の地形の一部が、素質のある者を通じて把握できる可能性が出てきました」
「衛星の代わりになるか」
「代わりにはなりません。精度が低すぎます。ただし、衛星が見えていない部分を補完できる可能性はあります」
「それと」藤堂は続けた。「少佐が捕虜との面会を希望しています。言語に似た音が聞こえた。何か通じるかもしれないという理由です」
室内が静まった。
「リスクは」吾妻が聞く。
「捕虜が何をするか分かりません。前回、監視カメラをブラックアウトさせました。面会中に何かが起きる可能性があります。ただし」白瀬が言った。「捕虜と話せれば、向こうの意図が分かる可能性があります。北西の反応が何なのかも、分かるかもしれません」
「リスクと利益を天秤にかけるか」
「はい。現時点では、利益の方が大きいと判断します。ただし条件を付けます。武装した警備員を複数配置する。少佐には事前に中止の権限を与える。監視は多重化する。一定の異常が検知されれば即座に中断する」
黒崎は少し間を置いた。「やれ。ただし安全を最優先にしろ」
「了解です」
「地図が見えた、という情報は重要だ。衛星の観測データと照合しろ。少佐が見た北西の陸地と、衛星が捉えている反応の位置が一致するかどうかを確認しろ」
「了解です」
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同日 午後 ダーウィン基地 隔離区画
面会は簡素な形で行われた。
部屋の中央にテーブル。テーブルを挟んで、マクブライド少佐と捕虜の男。両側に武装した警備員。壁際に十六夜と赤城。監視カメラは多重化されている。
少佐と捕虜は、しばらく互いを見た。
捕虜の目が変わった。
いつもの「計算している目」ではない。何かを認識している目だ。
少佐が口を開いた。今朝、装置から聞こえた音を、そのまま再現した。
捕虜が動いた。
わずかに前のめりになった。その動きが、部屋の全員に伝わった。
「……反応した」十六夜が小さく言った。
捕虜が何かを言った。低い音列。少佐が聞いた。少佐も何かを言った。捕虜がまた答えた。
「通じているのか」赤城が言った。
「分かりません。ただし」十六夜は録音しながら言った。「少佐が出している音と、捕虜が返している音に、構造的な対応があります。会話の形になっています」
「意味は」
「分かりません。まだ。でも」十六夜は画面を見た。「向こうが初めて、"話そう"としています」
捕虜はこれまで、観察していた。計算していた。待っていた。
今日初めて、話していた。
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面会は三十分で終わった。
少佐が部屋を出た。疲労が顔に出ている。頭痛がまだ残っているようだ。
「話せましたか」十六夜が聞いた。
「話せたかどうか分かりません。音を出したら、向こうも音を返してきた。それだけです。意味は分かりませんでした」
「でも、返ってきた」
「ええ。返ってきました」
少佐はしばらく考えた。「一つだけ、感じたことがあります」
「何ですか」
「あの男は、私が装置に触れたことを知っていました。言葉にはなりませんでしたが、分かりました。そして」少佐は続けた。「驚いていました。こちらに素質のある者がいることを、知らなかったようでした」
十六夜は少し間を置いた。「捕虜は、こちらに素質のある者がいることを計算に入れていなかった」
「そう感じました」
「……面白いですね」
赤城が隣で言った。「今日は本当に面白いことが多いな」
「ええ。向こうが想定していなかった事態が起きています。捕虜はずっと観察して、計算して、待っていた。だが今日、計算に入っていなかったことが起きた。その表情が、初めて崩れました」
「それはこちらに有利か」
「分かりません。ただし」十六夜は続けた。「向こうの計算が崩れたということは、向こうが次の手を考え直す必要があるということです。そのための時間が、こちらに生まれたかもしれません」
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同日 「しょうなん」 分析室
衛星データと少佐の証言の照合が始まっていた。
「少佐が見た地図の北西に大きな陸地がある、という証言と、衛星の観測データを照合します」
技術員が画面を操作した。
衛星データ。北西方向の反応。位置の推定。
少佐の証言から描いた概略図。
「……重なります」技術員が言った。「完全ではありませんが、方向が一致しています。少佐が見た北西の陸地の位置と、衛星が捉えている反応の方向が、同じ方向を指しています」
「精度は」
「低いです。ただし偶然の一致とは言えない程度には重なっています」
吉田二佐は画面を見た。
衛星と、素質のある者の証言。二つの異なる方法が、同じ方向を指している。一つなら誤差かもしれない。二つが一致すれば、偶然の確率が下がる。
「報告しろ」
「了解です」
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同日 官邸地下 夜
「衛星データと少佐の証言が、同じ方向を指しています」藤堂が言った。「方向の精度はまだ低いですが、独立した二つの観測が一致しています」
「独立した二つが一致した」黒崎が言った。
「はい。一つなら誤差かもしれない。二つが一致すれば、偶然の確率が下がります」
「北西に大きな陸地がある。そこから何かが動いている」
「可能性として、より高まりました」
「捕虜が驚いた、という報告も来ている」
「はい。こちらに素質のある者がいることを、捕虜は計算に入れていなかった可能性があります。捕虜の想定が崩れたとすれば、向こうの計画に変化が生じるかもしれません」
「それがこちらに有利かどうかは分からない」
「分かりません。ただし」白瀬が言った。「向こうが計画を変えれば、北西の反応の動きが変わるかもしれません。その変化を衛星で捉えられれば、新しい情報が得られます。観測を続けることが重要です」
「継続しろ」
「それと」藤堂が続けた。「少佐の証言から、言語の解析が少し進みました。音節の対応が取れ始めています。完全な翻訳にはまだ時間がかかりますが、方向性が見えてきました」
「どのくらい時間がかかる」
「数週間から数ヶ月です。ただし」十六夜が割り込んだ。「少佐がもう一度装置に触れれば、もっと早く進む可能性があります」
「少佐の状態は」
「頭痛は続いていますが、回復傾向にあります。本人は協力の意思を示しています。ただし、医療チームが明日以降の試験には慎重な姿勢を示しています。連続して触れることのリスクが未知数です」
「医療チームの判断を優先しろ」黒崎は言った。「少佐を急かすな」
「了解です」
「急ぐな。だが止まるな」
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同日 深夜 ダーウィン 十六夜さくら
分析室に明かりがついていた。
今日一日で、複数の新しい情報が出た。
地図が見えた。北西に大きな陸地がある。言語に似た音が聞こえた。捕虜が話した。捕虜が驚いた。衛星と証言が同じ方向を指した。
それぞれは断片だ。だが断片が増えれば、全体の輪郭が見えてくる。
十六夜は録音データを聞き返していた。少佐が出した音。捕虜が返した音。二者の音が交互に続く。
意味は分からない。だが、会話の形はある。問いと答えの構造がある。
「……何を話していたんですか」
誰にも聞こえない声で言った。
窓の外に、ダーウィンの夜景が見えた。星が出ていた。
同じ宇宙の、別の惑星の夜空に、見慣れた星座が光っていた。
北西の方向に、大きな陸地がある。そこから何かが動いている。
来るかどうかも、まだ分からない。
だが今日、「向こう」との距離が、少し縮まった気がした。
距離が縮まることは、怖いことでもある。だが、縮まらなければ、何も分からない。
「面白いですね」
今夜も、その言葉が出た。




